西国の城郭
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詳細
中国・四国・九州の城郭です。訪問の機会が少ないのであまり更新はありません。
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松山を大いに楽しんだ翌日の5月4日。 6:30起床、普段の休みなら起きない時間ですが、 前日から構想していた超ハードなスケジュール完遂のため、 仕事に行くときと全く同じ。 朝食は1Fのレストランで! 和定食だったのですが、その御飯が何故かグリーンピース御飯? グリーンピース嫌いなんで・・・あ〜、しまった!!って感じ。 朝食後、いよいよチェックアウト。 この日は、とりあえず大洲へ、その後は・・・ 今回、大洲へ行くことを決めたのは『よみがえる日本の城』シリーズに掲載されていた 大洲城天守閣を見るため。 大洲城天守閣は、最近、木造による復元がなされたと言うことで注目はしていた城のひとつ。 これまで四国へは行く機会がないまま時が過ぎ、今回やっと機会を得ての四国訪問! これを逃すといつになるかどころか、一生ないかもと・・・ チェックアウトしてクルマを一路松山道へ〜♪ そんな運転中、ふと燃料計をみると・・・・ 針先が限りなく『E』に近い。というわけで、一旦GSに入り給油。 セルフなのでクルマから降り、給油口をあけ、そして操作盤をみると 暫定税率でガソリン価格が高騰しているのは知っていたけど・・・・ あまりの高さにレギュラー入れてしまいました(笑) しかしレガシィの水平対抗は非常に敏感!! 松山道にのると、加速時の感覚がテキメンに違ってました。 いつもより踏み込まないと、普段の加速感を得られない・・・ ふと思いました、レガシィは贅沢モノだと。 でも対面通行なのであまりスピードも出せないまま40分くらい?走ると、 いよいよ大洲市内へ。 一般道へおり、さらに市内を目指しましたが、なかなか見えず。 そして、街中に入って大きな橋を渡ったとき右手に!! 町の路地少し走り、公民館前のPへ〜♪ どんな復元がされているのか・・・それを楽しみに高台に建つ天守閣を目指して歩いたのですが・・・
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松山城・坂の上の雲ミュージアム・二之丸史跡庭園・秋山兄弟生誕地と名所旧跡をみて、 時間は15時前。 まだチェックインするには時間が早いと言うわけで、一旦、クルマをPから出して向かったのが、 松山城近くからクルマで5分くらい 南北朝〜安土桃山の間、伊予国を支配していた河野氏の居城で、 近世城郭ではなくて、中世風の城館といった感じの城跡。 だから、城跡といっても石垣はなくて、土塁と堀に囲まれた単純なモノ。 西口(搦手と推察)付近の土塁 西口から入ると、早速資料館が! 湯築城跡の模型 模型を中心に、発掘物や湯築城・河野氏の歴史が展示解説されていました。 しかし、湯築城跡が道後温泉の近くにあるということだけで訪問したものだから、 湯築城の歴史とか河野氏のこととかは全く白紙。 館内にあったパンフと簡単な資料をみると、もともとは単郭の城であったようで、 その後に外堀を土塁を築いたようで、そんなに豪勢な城では当然なかったみたいです。 城主の河野氏も足利将軍の命令でアチコチ転戦したり、 応仁の乱以後は一族間との争いが絶えなかったため、 伊予国での支配基盤も必ずしも安定しておらず、 最終的には秀吉の四国平定で滅んでしまったようです。 そんな資料館を後に、今度は土塁や堀の様子を見て行きました。 その途中にある復元武家屋敷。 屋敷内で軍議でもしてる様子を再現してるのかと思ったら、 室町時代に流行った連歌の会を再現したものらしいとの案内。 ちょっと肩透かしだったが、よく考えれば軍議というには、 服装が軽装すぎるなと。 さらに進んでいくと、土塁に非常口みたいなところが、 土塁がどういう造りになっているのか、中から見えるようにしてあって、 他の城跡とかではない施設になっていました。 さらに郭内を進むと 土坑と呼ばれるゴミ捨て穴。 こういうところから、当時の生活がわかったのかも? もう少し進むと公園や森になっていて、その中を通り抜け歩いていくと 石造湯釜 良くわかりませんが、河野氏時代からのモノらしく、近くの道後温泉とも関係ありそうです。 石造湯釜から、内堀沿いに歩くともう西口。 ヘロヘロだったので内堀内の丘陵部には登りませんでしたが、
中世風の湯築城の特徴はよく把握できたなと思い、 その場を後にその日の宿所としたワシントンプラザホテルへとクルマを向けたのでした。 |
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『坂の上の雲ミュージアム』から愛媛県庁本館前を通り、その裏手のほうへ、 さらにちょっとした坂道を登っていくと、 松山藩は親藩だったんで城門入口にかかる幕には葵の御門が入っています。 でも何故か松山藩=親藩という感じは想像もできなくて・・・ 松山藩≠親藩のイメージですねぇ〜♪ 親藩という尾張・紀伊・水戸の御三家や越前家とか・・・・そんな感じなのです、僕にとっては。 だからといって、ここまで来て入らないというのもおかしいので、入ってみることに。 中は絵図面や発掘調査に基づいた資料などから二之丸邸の間取りを再現、 その間取りの中に木を植えたり、水が流れるようにして、わかりやすいようにしてました。 その復元間取りのすみには、『林泉庭』といわれる庭園が広がっています。 そして間取りの中をさらにあるくと 井戸と言うには不自然すぎるくらい大きい。 防火用水として利用されていたらしいですが、 二之丸邸は明治になって全焼してしまったところをみると、 役には立たなかったということ? そうこうしているうちに一巡してしまいました。 どんな感じの建物が建っていたのかは想像もつきませんが、 一時は、藩主はここで松山藩の政務をいたらしいので、 見事な御殿があったのかも??? ここを見終わって14時、まだまだ見たいところが・・・・ とにかく貧乏性?なのか、その場を慌てて退散、次の場所へと・・・
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いよいよ天守閣に登閣です。 まず入口で靴を脱いでスリッパに履き替えます。 さすがに重要文化財なので、それもそうでしょう。 さらに奥へ進んでいくと、こういう場合、どこでもそうなのですが、 歴代城主の甲冑とか刀剣、絵図面、書状とか・・・ 確かに立派なものや珍しいモノが多い様ですが、 いつもながら、それらの価値というのがなかなか掴みづらく、 特に書状は、何が書いてあるのかそれだけ見ると全くわからない。 その辺のところは、解説もあって何となくわかったような・・・ そんな中で気になった展示物が これには拝領品のようで、徳川将軍家と久松(松平)氏?の家紋がデカデカと入っています。 これに日用品など入れて参勤交代で利用したのでしょうか? こういうモノを拝領されるのは、松山藩主というのは四国の要の藩として重視されたのでしょうか? そういった展示品を見つつ、さらに進んでいきます。 他の現存天守・木造復元天守になどにありがちな急階段を登っていくと 天守閣の三層目です。室内は板張りながら何故か床の間があったり、 畳を敷くことができるようにもなっています。 普通、天守閣は籠城する側としたら最期の場所になるので、 簡素な造りなのですが、幕末に建築されたそれは全く別の意図で建てられたのかも? その天守閣からの眺めは 本丸の向こうに松山市街が見渡せます。 また別のところからみると 二ノ丸史跡庭園が眼下に望めます。 といっても岐阜城天守閣からのように、 はるか彼方に城下町が広がっている感じではないです。 その街並みは、やはり四国随一の都市だと感じさせるものはありますね。 大通りには路面電車も走っていて、なんか違うところへ来たんだとも。 さてさて、天守閣にも登ったし、まだまだハシゴして見たいところもいっぱいあったので、 松山城から下城することに・・・ その下城途中にあるものを見つけました。 あ〜、これを奈良県に見習って欲しいと思いましたよ。
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