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山麓からリフトに乗り、長者ヶ平からは徒歩、筒井門・太鼓門をくぐり抜け、 ようやくたどり着いた山頂の本丸。 その向こうにやっと天守閣が〜!! その天守閣、でもなんだか天守台の大きさを考えると、ずんぐりむっくりした感じ。 築城当時は五層天守だったらしいが、加藤氏・蒲生氏に続いて城主になった 松平氏が1639年に何を思ったか三層天守に改築したらしい? 理由は地盤の弱さとも幕府への遠慮とも言われているけど、 地盤が弱いのは築城当初からわかっていたはずだし、 ましてや幕府への遠慮ともなると、築城者の外様だった加藤氏が五層天守なんか造るはずもない。 この辺も全く謎だぁ〜♪ そんな天守閣も、それが建つ天守台そのものが曲輪となっています。 日本では姫路城・和歌山城だけがもつ特殊な構造の連立式天守です。 それは大天守・小天守・櫓2棟を曲輪の角に配置し、それを多聞櫓で連結して 天守曲輪を構成しています。 ここまで攻め込まれても、防御性の高いつくりになっているようです。 さて、そんな特殊性ももつ松山城天守閣ですが、松山城そのものの経歴は紹介してなかったので・・・ 松山城は、松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、 裾野に二之丸(二之丸史跡庭園)、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城です。 加藤嘉明公が1602年から築城を開始し、わが国の築城史上、最長の歳月(四半世紀)を完成までに要した四国最大の城郭で、「現存12天守」の中では、姫路城と並ぶ連立式の天守を有しています。加藤氏は、城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生氏を経て1635年から明治維新までの235年間に渡り、親藩大名であった松平家の居城となりました。 わが国最後の完全な城郭建築と言われている大天守の最上階からは、360度眺望がひらけ、松山平野や瀬戸内海などを見渡すことができます。 日本で唯一現存している望楼型二重櫓である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸から本丸にかけてあり、また、堀之内を含む城山公園全体が国の史跡で、「日本さくら名所100選(平成元年)」や「日本の歴史公園100選(平成18年)」の指定も受けています。 〜松山市HPより〜 本壇といわれる天守曲輪に入るには、一ノ門、二ノ門、三ノ門とくぐり抜けなればならない厳重さ。 天守曲輪に入ると四方からの攻撃を受ける造りになっています。 これが連立式の大きな特徴でしょう。 とにかく攻め手側からみたら、これほどしつこい造りはないでしょう。 そして、天守閣内部に入っていきますと・・・・ |
西国の城郭
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詳細
中国・四国・九州の城郭です。訪問の機会が少ないのであまり更新はありません。
コメント(8)
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登城用のリフトを降りると、そこは長者ヶ平。 何があるのかといえば、休憩所とちょっとした広場があり、そのすみっこに 正岡子規が松山城天守閣について詠んだ一句が刻まれた石碑が・・・ 奈良とは違う意味での文化的な雰囲気が漂う感じがしますね。 そして、石碑のところからしばらく歩くと見えてきました本丸の石垣が〜!! 高さは、大阪城や伊賀上野城のそれには及びもしないけど20mくらいはあるだろうか? 石垣は藤堂高虎系の直線的なものではなく、どちらかといえば加藤清正系の曲線的な積み方。 この辺の技術は、築城者の加藤嘉明が朝鮮出兵の時に習得したのかも? そんな石垣のそばに陣取っているじ〜さん達が・・・・ スケッチしている。 良く見ると、その一直線上には新緑の中に天守閣が見える!! ガイドブックの写真なんかによくある構図みたい。 その場所から進んでいくと、いよいよ城門があって、 ここからが本丸らしい、さて、その中は・・・・ |





