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田舎の海と風景 撮影:2016年 12月3日 椿温泉にて。 早朝から釣り人が糸を垂れていた。 朝6時半に目を覚ました。二日酔いだ。友人を誘って早速、太平洋を見下ろす展望風呂に入った。朝風呂から出てベランダから心地よい潮風に吹かれながら、1枚目の太平洋の写真を撮った。 ここは白浜温泉の隣の椿温泉。同じ白浜町内にあるが泉質は異なる。今回の帰省は、昭和33年に卒業した田舎の小学校の同窓会に出席するために帰った。同窓会の会場は中学校の同級生が経営する温泉旅館で開催された。 富田川河口から太平洋と白浜半島をみる。砂州から先が太平洋。 前日夕刻、旅館の送迎バスが小学校の近くまで迎えにきてくれた。集合場所にもう半世紀も会っていなかった同級生たち、地元や関西方面から三々五々集まってきた。 半世紀も経つと顔もかなり変わっており、名前を聞かないと誰だか分からない顔が何人かいた。しかし、名前を聞くと直ぐに昔の顔が記憶の中に蘇り、直ぐに名前は「ちゃん」付けや呼び捨てで昔話に盛り上がる。 カラス岩と呼ばれている。川の守り神のように海と川の境界線に鎮座。 この会に御歳85歳になられた、当時の担任の先生が参加してくれた。田舎の小さな小学校の1クラスは、38名だった。その中で18名が参加、既に鬼籍に入っている同級生が5名もいた。 地元での開催だったが会場となった旅館に14名が宿泊、深夜に及ぶ二次会でも思い出話は尽きなかった。当時は殆ど女の子と遊んでいないので、女性たちの名前と顔を一致させるのに戸惑う。 2枚目と同じ景色を小高い山の上から。富田浜を写す。 確か、6年生の時に参加した担任に連れられて、熊野古道の大辺路ルートを、起点の富田坂から安居まで歩いた。古道の山道を歩いていて「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」の歌と同じ情景を見た。 それ以来、僕の頭に中にもこの歌が鮮明に刻み込まれており、そして、今まで山上憶良が詠んだ歌だとばかり思っていた。帰京して調べてみると、この歌の作者は釈迢空(折口伸夫)だった。僕の記憶もあてにならないが、何故その時に、この歌を覚えていたのかもまた分からない。 小さい平野。 上の写真の左端に少し写っている川が二級河川の富田川(上流に娘道成寺の清姫が生まれたとされる土地がある)。右端に写っている川が僕の実家の裏を流れる高瀬川、河口で富田川と合流しており、富田川の支流となっている。僕の実家はこの場所から3KMくらい上流にあり、写真からは見えない。 田舎在住の友人たちは変わらない景色だというが、僕が帰郷するたびに田舎の景色は少しづつ変化している。特にこの景色の中で昨年開通した、白い高速道路がこの景観を大きく変えた。
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南紀白浜
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僕の田舎では稲の刈り入れは9月上旬に終わる。この写真の田圃を見るとそろそろ刈り入れができそうな感じがするが、この田圃の稲はひこばえ(蘖、孫生え)、刈り入れが終わった稲の株から新しく出た茎に二度目のお米が実っている。 このひこばえを刈り入れ、脱穀すれば少しは収穫が出来そうだ。僕は今最初に収穫したお米を毎日美味しく頂いている。 僕が子供の頃は、ひこばえもこんなに大きくは成長しなかった。この頃の刈り入れが終わった田圃では、ゴム巻き飛行機を飛ばして遊んでいた。 そして、お正月頃には凧揚げをして遊んだ。今はもうそのような遊びをする子供たちも居なくなったが、この季節は他所の田圃に無断で入っても叱られることは無かった。 母親の法要を菩提寺で済ませ、お墓に新しい卒塔婆をたてて焼香、僕は実家での食事会を途中で抜け出した。倉庫で弟の長靴と鋸を持ち出して、3枚目の写真の竹林で孟宗竹を1本切り倒した。 それを竹薮で10節程輪切りにして持ち出し、四つ割りにして梱包した。父親が生きていた時に「竹は11月下旬の闇夜の頃に伐ると、寒竹と言って一番水分の少なく脂の乗った硬い竹になる」と教わった。 高菜 また、竹とんぼでも作ろうかと思い20年ほど前に同じ竹林で伐った竹を探したら、押入れの中から2節見つかった。2節では直ぐに足りなくなるので、今回の帰省を機に闇夜には10日程早かったがもう1本孟宗竹を調達した。 今回調達してきた竹は今、ベランダで影干しをしている。20年前に調達をした竹で竹とんぼを一つ作ると、特注で刃を硬めに打って貰ったクリ小刀を研ぎ直さなければ切れなくなる。寒竹は乾かすとそれくらい硬い竹になる。 ラッキョウの花 畑には美味しそうな高菜や里芋、ラッキョウが植えられていた。朝夕の冷え込みが厳しくなると高菜の葉っぱは濃い紫色になってくる。その紫色の葉っぱで漬物を作ると高菜独特のピリピリ感があって美味しい。 例年、僕はこの高菜を送って貰い、自分で高菜の漬物を漬けている。高菜の漬物の漬け方は母親からカミサンに、そして僕はカミサンから教えてもらった。 しかし、僕の舌は祖母と母親の漬けた高菜の味を覚えていたので、塩加減は僕流に調整してある。僕流と言うよりは東京の気候に合わせたのかも知れない。 今では弟の嫁さん達や姉よりも、僕の漬けた高菜が一番美味しく仕上がっている。姉は今流行りの減塩をしているので、僕が祖母や母の味に近い正統な高菜の漬物の後継者だと思っている。
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このところパソコンの調子が今一で皆さんへの訪問や記事のアップはご無沙汰をしている。そろそろ買い替えの時期にきているが、欲しいパソコンは少々高くて手がでない。 少しでもパソコンの購入資金を稼ごうと、アルバイトをしている今日このごろです。 丁度1週間前、朝6時30分ごろ芝浦からお台場に向かってレインボーブリッジを渡っていた。橋の中央に差し掛かった時に、車のフロントガラス越しに朝日が橋脚の真ん中から飛び出して来た。そして、羽田からは富士山が綺麗に見えていた。 先週は奥多摩の山々もブナやミズナラの黄葉を見頃を迎えていた。晴天に恵まれると分かったいたので内心はそれを見に行きたかったが、母の17回忌の法要を欠席するわけにはいかず帰省をした。 飛行機が離陸して旋回上昇する時に小さな窓から雪化粧をした富士山が見えたが、生憎僕の席は富士山の反対側で上空からの富士山は写せなかった。 富士山も写せないので小一時間居眠りをしていると、日本で1,2を争う気流の安定しない南紀白浜空港に到着をした。空港のロビーを一歩出ると南紀の空は明るく感じるが、本州の最南端に近い海辺の小高い山の上に作られた飛行場を吹き抜ける風は東京より冷たい。 菩提寺の庭の桜 因みに本州の最南端の潮岬の年間の平均気温は、温暖化が進んでいると言われている日本では珍しく、この20年で一度下がっている。上京した頃は田舎に帰ると暖かいと感じたが、何時の間にか東京の方が暖かくなっていた。 飛行場から田舎の道を車で20分も走れば実家に着く。一年中緑の照葉樹や杉檜が植林された山々に囲まれた山合に建つ、実家の庭のもみじの紅葉だけが緑の中で際立っていた。
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朝、強風が窓を叩く音で目が覚めた。カーテンを開けると外は明るく時計の針は5時を少々過ぎていた。前夜は実家には泊まらず、仕事先の社長の昨年新築したばかりの瀟洒な自宅に泊まらせて貰った。 ゲストルームの部屋のテレビを点けて見ていたが、深夜に帰宅したので外の風景が気になった。階下に下りると奥さんが朝食の準備をしていた。 僕はカメラを持って朝の散歩に出た。昨夜車を降りた時に潮の香りがしたので、海の直ぐ近くだとは思っていたが、夜中に訪問したので正確な場所が判らなかった。 家の前の砂岩を切り開いた小高い山の間の狭い道路を右に30M程歩くと、右上に道路が走っていた。その道路で大体の位置が判った。海までは100Mもない。 細い道路を降ると目に前には漁業をしていると思われる民家が一軒建っていて、その後には朝凪ぎの田辺湾が広がっていた。庭先には小さな漁船が陸揚げされて置かれていた。 民家の脇を通り抜けると、民家の裏には小さな古びた波止場があり、そこにも小さな漁船が一隻陸揚げされていた。漁船はブルーシートがかけられており、ここ暫く使われた形跡はない。 波止場の付け根には、ピンク色の浜昼顔が群生しており、朝日に輝いていた。その手前には黄色い小さな花のミヤコグサの群生地があった。 波止場の先端から見ると、この小さな入り江にはもう一軒、海から直接漁船を自宅の倉庫に引き上げている家があった。この界隈は1960年のチリ津波の被害にあっている。 海辺に咲くミヤコグサの群生 この海辺の二軒の家も多分被害に遭ったのでは?と思いながら、もと来た小路を引き返した。また、東南海地震で津波が発生したらひとたまりもないだろうとも思った。 帰りに民家の前には耕作が放棄されたと思われる畑に群生した黄色いミヤコグサに気が付いた。その畑には、最近、雑草が刈られた後があったが、ミヤコグサの群生地は刈り取らないでそのまま残されていて、二軒だけの鄙びた漁村を初夏の色に染めていた。 社長のお宅に帰り着くと、食卓には紀伊半島特有の茶粥が食卓の上っていた。僕の大好物の美味しい水茄子、キュウリの朝漬けで久し振りに南紀の朝食を味わった。 美味しい空気を吸って、高価ではないが好きな地元の料理を食べる。実家ではなかったが、久々に忘れていた故郷の朝の味覚を思い出させてもらった。 観光地、白浜温泉の直ぐ近くに、このような静かな入り江が在ったのか?と思えるような場所だった。因みに、この場所は僕の実家から車で15分くらいの所にある。
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