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僕は戦後まもなく家の三方を山で囲まれたこの山間の家で1月4日に生まれた所謂、団塊の世代だ。 子供の頃の遊び場所は、周囲の山と裏の川だった。 今でも家の庭に鹿や猿がやってくる。竹薮の竹の子も猪が掘っている。 田圃の畦や畑には、それらの侵入を防ぐ為のネットや、電気柵が設けられている。 団塊の世代なのでこの田舎でも、物心着いた頃にはビートルズが流行っていた。 例にもれずプレスリーや西部劇、アメリカ文化にどっぷりと浸かって、アメリカに憧れて育った。 今から35年位前に仕事でアメリカに行く機会が有った。 テレビや映画で見たアメリカの光景は其処には無かった。それ以来アメリカは僕にとって憧れの国では無くなった。 暫くして、日本で放映されていたテレビ映画はアメリカ文化を日本に定着、浸透させる為に、GHQが只同然の著作権料でテレビ局に放映させていた事を知った。 誕生日の今日、朝のテレビを見ていた。 アメリカ経済が崩壊したら、テレビのコメンテーター達は一斉にアメリカの自由主義経済の批判を始めていた。 あるコメンテーターは、そのGHQの文化浸透政策についても述べていた。 多分今までは、テレビではそのような発言はタブーだったのだろう? そして、僕が読んでいる政府広報誌と思われるような新聞までもが、アメリカの影の銀行の終焉記事を一面に書いている。 僕は中学生の頃から学校から帰ると、新聞の一面から社会面まで全てをよく読んだ。 学校では当時の人文地理、経済を教える先生達に、僕の質問は恐れられた。 また質問をして先生達を困らせるのも、当時は僕の楽しみの一つだった。 同じ中学校の養護教員をしていた母親に、担任は僕には質問をさせないで欲しいと冗談で言っていたようだ。 当時は新聞に書かれている事を100%信じていたが、社会に出てから新聞やテレビの報道には報道する側の論理があることを知り、全てを鵜呑みに信じる事はなくなった。 それ以来、自分の判断尺度を少しでも持つ為に、少しでも物事の真実を知りたいので、色んな本を読むようにもなった。 これは僕だけかも知れないが、アメリカ型経済の崩壊は、我々団塊の世代の価値観の崩壊にも繋がるような気がする。 誕生日の今日、テレビを見ながらふとそう思った。 キチジョウソウ 昨年11月、実家に帰省した時に「お兄さん、家の裏に吉祥草(キチジョウソウ)が沢山自生していたので植え直したの」と弟の嫁さんが教えてくれた。何時の間にか吉祥草が生えていたようだ。 家の裏の花壇にこの吉祥草が繁殖していて、終りに近かったが小さな花を付けていた。 この吉祥草が咲くと、その家に吉祥を呼ぶと云われている。 僕には12月上旬に男の子の初孫が生まれて、小さな吉事があった。
吉祥草はやはり吉事を呼ぶ。 |
南紀白浜
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十九淵(つづらふち) 子供の頃、夏になると僕はこの淵で鮎を捕ったり、鰻、なまずを追いかけて遊んでいた。 僕が子供の頃はこの地域の子供達だけがこの淵で泳いでいた。 最深部でも2M位で今見るとなんて事のない淵だが、子供の頃はここが深く感じた。 そして、3Mの高さにある道路から頭から飛び込めると、年上のガキ大将から一人前と認められた。 最近は、僕が通っていた小学校の遊泳指定地となっているらしく、夏の間はこの小さな淵に子供達の嬌声が聞こえる。そしてこの淵は僕達の時代より、いまの方が賑わっている。 この淵は、地元では十九淵(つづらふち)と呼ばれ、この界隈の地名にもなっている。 淵は太平洋に注ぐ「高瀬川」と呼ばれる川にあり、河口からほぼ3KM上流に位置する。 僕の子供達も小さい頃、夏休みは一ヶ月間実家に帰省させていたので、田舎の子供達と仲良くこの淵で泳いだり、親父が用意したゴムボートで遊んでいた。 淵の傍に立てられた親父が揮毫した碑 川の水はまだ透明で澄み切っているが、水質が悪化したのか下流には葦が茂るようになり、鮎の遡上、鰻が極端に少なくなった。それと水量が極端に少なくなっている。これも鮎の遡上に影響している。 水量が減ったのはこの川の上流の山林の杉檜が大きくなって、手入れもされずに放置されて保水力を無くしていることが原因だと思う。これは紀伊半島の山、全国の山に共通している。 それと河川のコンクリートの護岸工事で、川を真っ直ぐに海まで水を流しているのも大きな要因の一つ。特にこの10年くらいで急速に川が死んできた。 しかし、この淵から上流では夏になると今もホタルが乱舞して、他所からの観光客を喜ばせている。 子供頃、夏は蚊帳を吊って窓を開放して寝ていた。その蚊帳には家の中に迷い込んだホタルがよくとまっていた。 僕が今、奥多摩や尾瀬等の山に行った時に沢の水に興味があるのは、この川で育ったせいだと思っている。
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臨済宗 東福寺派 南昌山 草堂禅寺 正式な名前は長いが、子供の頃から草堂寺と呼んでいた。 このお寺には円山応挙とその弟子、長沢芦雪の襖絵、掛け軸が沢山所蔵されている。 このお寺の裏手から熊野古道・大辺路ルートの富田坂が始まっている。 熊野古道は田辺市から始まり山の中を通る中辺路ルートと、このお寺の裏から始まる海沿いの大辺路ルートの二つのルートがある。 通常、熊野古道と云うと中辺路ルートのことを言っている場合が多い。 大辺路ルートのお寺には応挙、芦雪の絵で有名なお寺、無量寺が串本にもある。 小さい頃このお寺に来ると大きな建物だと子供心に思っていた。 大人になってから大きなお寺を見慣れたせいか、最近このお寺を訪れると随分と小さなお寺だったのだと思う。 しかし、お寺の石垣はお城と同じような石積みがされており、江戸中期の古刹だった事を思わせる。 このお寺を三年ぶりに訪れ、母の13回忌の法要を行った。 法要を行う本堂に入った。本堂の襖絵が子供頃に見た懐かしい襖絵になっていた。 法要が終り、10年位前にこの寺の住職になった若い和尚に「懐かしい襖になっていますね。これは子供の頃はオリジナルの襖絵でした」と云った。 今、オリジナルの絵は和歌山県立博物館に、全て貸し出されている。 僕の親父が檀家の世話役をしていた頃には、ボストン美術館にも貸し出された事がある。 和尚は「年配の檀家の方は、皆さんこの襖絵を見て懐かしがってくれます」と言って、コピーの襖絵の嵌められている部屋を案内してくれた。 そして自由に撮影させてくれたが、親戚の叔父さんたちを待たせてあったので撮影は急いだ。 奥の部屋には法要で本堂を広くする為に外した襖絵が、沢山立てかけてあった。 襖絵は子供の頃に見た襖絵よりも、気のせいだと思うが随分と色が褪せている気がした。 先日記事にした奈良県の玉置神社にも、狩野派の絵師が杉の1枚板に描いた、極彩色の牡丹の花の絵を通された囲炉裏の傍で見た。その襖絵も今は拝観料が必要となったらしい。 子供の頃は法要があると、お寺の広い本堂が珍しくてこの襖絵の本堂で走り回っていた記憶がある。
今考えると、応挙、芦雪の襖絵の本堂の、随分と贅沢な環境で法要をしてくれていたお寺だったのだと思った。 |
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昔の熊野詣はご存知のように熊野古道を辿って、本宮大社、那智大社、速玉神社の三山に詣でる行事だったようだ。今回はその一つ熊野大社に参拝した。正確には友人が本宮大社の宮司に所用が有った。 写真右側に写っている人物が友人の友人(N氏)で、今回玉置神社を案内してくれた。 彼らは参道を歩かないで、脇道からいきなり社務所横の駐車場まで車を乗り付けた。 本宮大社の社の屋根は杮葺きで奥ゆかしい神社だった。 本宮大社 左側の社が本殿 友人が社務所の宮司に会いに行ったので、その間に参拝する事にした。 僕は一枚目の写真の門を潜って、本殿の写真を撮影していた。 N氏が近寄ってきて「BARONさん此処は撮影禁止のようですよ」と教えてくれた。 近くで観光客に説明をしていた神職に「此処は撮影禁止ですか?」と僕は訪ねた。 「一応撮影禁止と看板を出していますが撮影は大丈夫です。但し撮影許可は出来ません。撮影許可を出すと、堂々と三脚を立てて他の参拝者に〈其処は邪魔だからどけ〉という非常識なカメラマンがいらっしゃいますので」と云われた。 僕は「他の参拝者の邪魔にならないように撮影して下さい」と言われていると解釈した。 参拝を終えた頃にまた雨が降り出した。 旧本宮大社の大鳥居 玉置神社に向かう車の中で、友人にその撮影禁止の神職との会話の話をした。 友人は、本宮大社の外にある社で、祈祷中の写真を撮ったら、直ぐに神社の階段で転び、その夜に金縛りにあった。神罰があったのかと思い翌朝、一万円のお賽銭を持って本宮神社まで謝りに来た。 神社のご神体を写すと神罰が当り、ろくな事は無いと真面目な顔をして話していた。 旧本宮大社跡 10月にこの場所で世界合気道大会が開催されたようだ。 この本宮神社を参拝した翌日、また友人に会った。 僕と友人は前日、田辺市まで帰り、仕事があるN氏を車から降ろして二人で食事に行った。 夜、N氏から友人に「車の中に財布が落ちていないかどうか確認してくれ」と電話が有ったようだ。 財布は車の中ではなくて警察に拾得物として届いていたらしい。 届けた人は名も告げずに立ち去ったようだ。 N氏は「本宮大社に参拝したご利益が有った」と喜んで、「日曜日にもう一度お礼に行きたいので車を出して」と頼まれた。と友人が話した。 「昨日は本宮大社と玉置神社に参拝しているので、どちらの神社のご利益か判らないから、二つの神社に参拝してきたら」と言っておいた。 多分、今日はまた「神罰」と「ご利益」の有った二人が、二つの神社の参拝を理由に温泉を楽しむ予定になっているはず。
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十津川村の温泉「昴の里」を出て、奈良県から隣接する和歌山県に戻る。 熊野街道を熊野川沿いに沿って本宮大社を目指す。 熊野街道はほぼ熊野古道・中辺路ルートに沿って作られており、主に富田川沿いの渓谷を走っている。 そして、本宮の近くには湯の峰温泉などの集落が所々に広がっている。 和歌山県に戻った頃にはもう雨が上がっていた。 二枚目の写真を撮ったら、直ぐに本宮大社に到着した。 本宮大社には、玉置神社に行く前に参拝していたので、参道近くの珈琲ショップで一休みをした。 本宮大社の跡地を見学して帰路についた。 途中で沸き立つ霧が夕日の染まって奇麗な場所で車を止めてもらった。 ガイドをしてくれた友人の友人が、世界遺産・熊野古道の高原(地名)の朝靄の景色が奇麗なので、民宿に泊まると良い。と教えてくれた。 数週間前にテレビ番組でその朝靄の景色が紹介されていた。 僕の親父が生きている頃、その近くに住む親父の友人に、鮎を掬う為のオーダーメイドのタモを5本編んでもらった事がある。 その場所にはタレントのイーデス・ハンソンの瀟洒な家があった。 今回は生憎の雨で熊野古道は歩けなかったが、次回は天気の良い日に熊野古道を歩こうと思っている。 紀伊半島は海があって直ぐに山になり平野が殆ど無いと云っても過言ではない。熊野街道、熊野古道ともにこのような景色が続く山間の道である。 途中から田辺市街へと向かい、友人と寿司屋で食事をして古い城下町のスナックを2軒はしご、久しぶりに痛飲をした。
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