坂本龍馬

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京都での龍馬

今年のお正月休みは、龍馬伝のDVD観賞でヒマを潰してました。
 
休みが長いのもいいよねぇ。のーんびり出来て。
 
さて、京都旅行でUPしていなかった写真を交えての解説を少々。
 
 
 
 
龍馬は、京都に来た時には、伏見の寺田屋を定宿にしていたそうです。
 
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 今は、史跡として寺田屋の中を見学する
 こともできます。
 
 
 
 
 
 
 
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ここ寺田屋の女将さんである、お登勢さんと知りあう事に。
 
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 お登勢さんは、幕末の志士
 たちを応援したようです。
 特に龍馬を自分の息子の
 ように可愛がったみたいです。
 龍馬もお登勢さんを「おかあ」
 と呼んで慕っていたそうです。
 
 一方のお龍さんは、町医者の 楢崎将作の娘として生まれ、
 裕福な生活をしていたものの
 若い志士に援助をしていた父
 が、獄舎に送られたため一家
 を支えるために働いていた時
 に龍馬と知り合い、寺田屋に
 預けられる事になるのです。
 
寺田屋事件
 
慶応二年(1866年)1月22日、長く対立関係にあった薩摩藩と長州藩の和解が
成立しました。あわせて両藩は、軍事同盟を確約するのです。
世に言う「薩長同盟」の締結です。この両藩の間を取り持ったのが坂本龍馬です。
決着を確認したあとに龍馬が、寺田屋に入ったのは翌1月23日です。数日前から
寺田屋周辺では、伏見奉行所が厳戒態勢を敷いていたようです。この時、すでに
幕府は、龍馬が薩長の周旋活動を行っていることをすでに把握しており、入京して
いることも掴んでおり、幕命を受けて奉行所は必至で捜索活動を行っていました。
歴史的和解の成立を待っていた、三吉慎蔵(長州藩で龍馬の護衛)とともに祝杯を
交わしていた24日未明、お龍が入浴中に人の気配に気づき窓の外を覗くと伏見
奉行所の捕り方でいっぱいであった。驚いたお龍は、裸のまま二階の龍馬に急を
告げたとのことです。
 
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こんな姿だったか? どうかは。。。。
 
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この階段を駆け上がり、龍馬に捕り方に囲まれていることを告げたそうです。
龍馬は、高杉晋作からの上海みやげのピストルを構え、三吉は得意の槍を構えて
応戦したようです。
龍馬が1発目、2発目を発射した弾は、2人に命中したそうです。3発目は外れて
4発目を発射しようとした時に障子の蔭から捕り方の刃が龍馬の手を襲ったそうで
す。確実に命中させるため左手も銃に添えていたらしい。そのため両手指を負傷し
たそうです。
 
寺田屋の弾痕と刃痕
 
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全弾を撃ち尽くした龍馬は、再び弾丸を装填しようとしたが、手指の傷は深く取り
外した弾倉を落とし見失ってしまった。ついに銃を遺棄し逃走を決意した。槍で
応戦していた三吉も同意、階下へ出て屋外へ向かった。寺田屋の背後に連なって
いた家々の雨戸などを打ち破り室内を抜けて表通りに出たのです。
 
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この龍馬通り商店街を駆け抜けて西岸寺から大手筋に出て東に向かい濠川沿いの
材木小屋に身を潜めるのです。
 
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三吉に薩摩藩邸への通報を頼み、一方でお龍も薩摩藩邸へ駆け込み襲撃に合った
ことを通報していました。
薩長の和解となった直後の最大の功労者の一大事に藩邸内は騒然となり、ただち
に救援勢が派遣されて無事に龍馬は、伏見薩摩藩邸に収容されました。
その後、手指の傷の治療のため龍馬は、鹿児島の霧島温泉に向かうのです。この
時にお龍も同行したため日本初のホネームーンとなったのです。日本人の新婚旅
行の始まりですね。
 
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近江屋襲撃
 
慶応三年(1867年)11月15日夜、龍馬は河原町通りの醤油商・近江屋新助方の
二階座敷で、陸援隊長の中岡慎太郎と面談中だった。数日前より風邪気味だった
龍馬は、14日に潜んでいた土蔵から母屋の二階に移っていた。午後6時頃に
中岡慎太郎の訪問を受け、7時頃に懇意にしていた「菊屋」と言う本屋の息子・峰吉
と、やや遅れて土佐藩下横目の岡本健三郎が訪れた。
午後8時頃、空腹を覚えた龍馬が下僕の藤吉に軍鶏肉を買って来るように命じると
峰吉が引き受け、それを機に岡本も席を立った。
近くの鶏肉屋で2・30分ほど待たされた峰吉が、近江屋に戻ったのは、9時すぎ
だったそうです。
このわずかな時間に事件は、起こっています。
ふたりの武士が、来客を装って龍馬と中岡の居る部屋に入り、突然ひとりが龍馬の
前頭部に斬りつけ、ひとりが中岡の後頭部に斬りつけた。
無腰だった龍馬は、床の間の刀掛けの太刀に手を伸ばしたが、右肩先から袈裟
がけに二の太刀を浴びさせられ、刀を持って立ちあがったところを再び斬りつけられ
てしまう。
一方、中岡は帯びていた小刀で応戦したが、乱戦中に両手足を斬られ、意識を失っ
てしまう。
龍馬は、ほぼ即死であり、中岡は17日に息引き取った。
 
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17日の夜に龍馬、中岡、藤吉の3人の遺体は霊山の中腹に埋葬されました。
龍馬には全身34か所、中岡には28か所、藤吉には7か所の刃傷があったと
記録されてます。
 
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幕末の京都の事なら京都霊山歴史館で詳しく説明を聞けますよ。
 

龍馬伝〜ベストシーン

昨日と今日、龍馬伝の総集編がありました。
 
久しぶりに見た龍馬さん。
 
感動もんでしたわ。
 
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視聴者の皆さんの投票でベストシーンとなった
 
シーンを一挙に放送する総集編でした。
 
 
個人的には、
 
☆近藤長次郎との最後の別れ
☆薩長同盟の締結
☆清風亭での後藤象二郎との会談
☆新政府重役の書面を前に亡くなって行った同志との杯
 
そしてこのシーン
 
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真木ようこさんキレイやなぁ〜。
 
あか〜ん! こんなシーンを選んでしもうた。。。
 
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今の世の中、今一度
 
 
洗濯せなアカンでぇ〜
 
 
龍馬さん!
 
今、北九州市門司の海峡ドラマシップでNHK大河ドラマ 「 龍馬伝 」の
 
全国巡回展を開催してますのでお近くの方は、見に行って下さいな。
 
あくまでも お近くの方ね。 新幹線で来るほどの事ではありませんので。。。
 
 ☆ 主  催 : NHK
 ☆ 入場料 : 無料
 ☆ 期  間 : 11月27日(土)〜12月 5日(日)
 
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残念ながら撮影禁止
 
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展示品は、ドラマの中で福山さんが着た龍馬の羽織袴やお乙ねぇーやんの
着物やピストル・太刀も展示されてます。 その他に龍馬に関する説明文や
出演者のサイン等々。
 
まぁ、ちょっとした暇つぶしにはいいかなぁ。
 
館内は、撮影禁止だったので龍馬グッズでもご覧になって下さいな。
 
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お龍からの冷たい視線を感じながら
 
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購入してまいりました。 全てお土産として横須賀に持って行こうと思います。
特に軍鶏鍋風ドロップを業務命令で皆に食べさせようと思っておりやす。
パワハラで訴えられるかもね (o_ _)ノ彡バンバン
 
小チビ龍馬っす。
 
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龍馬旅立ちまで あと1日
 
 
 
龍馬が、暗殺されるキッカケとなった大政奉還ですが、今も残る新政府綱領八策
 
の○○○は一体、誰の事なのか? 又、龍馬は誰の名前を書きたかったのか?
 
 
龍馬の書いた新政府綱領八策
 
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薩長にして見れば、徳川幕府側の人間は全て新政府から排除すべしとの見解で
 
一致していたはず。 又、幕府側としては、実権は徳川家が握るべきとの思惑も
 
あったため、この○○○の名前が話題になったのも当然の事でしょう。
 
 
何れにしても大政奉還を成し遂げた後、すぐに京を離れていれば・・・・・・・・・・・。
 
 
 
龍馬暗殺から2ヶ月後に
明治政府は誕生しました。
 

龍馬伝〜龍の魂

龍馬伝は今週が、最終回になります。
 
慶応3年11月15日午後8時頃に龍馬は、中岡 慎太郎と共に京都近江屋で
 
刺客によって暗殺される事になります。 龍馬伝での刺客は、京都見回り組説を
 
採用したようですが、今も謎とされています。 しかし色々な研究から現在では、
 
京都見回り組説が、一番有力視されているそうです。
 
 
【 京都近江屋事件経緯 】
龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、慶応3年11月3日近江屋(醤油屋)に移った。
11月13日、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので河原町三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は間近の近江屋に留まった。
 
現在の京都近江屋跡地
 
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11月15日、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後ろから斬られた(1日後に死亡)。大きな物音に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られ、とどめを刺されて絶命した。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。
 
暗殺現場となった近江屋
 
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凶行時、騒動に気付いた近江屋家人の井口新助が土佐藩邸へ知らせに駆け込んだ。下横目嶋田庄作が近江屋の門口で刺客が出て来るのを抜刀して待ち構えていた所へ、龍馬の遣いで軍鶏を買いに出ていた菊屋峰吉が戻り、嶋田と共に部屋を確認したところ刺客は既に去った後で、陸援隊の詰所である白川屋敷へ峰吉が知らせに走った。 土佐藩邸から河村盈進と同時に、曽和慎八郎が駆けつけ、続いて谷干城毛利恭介、薩摩藩の吉井幸輔陸援隊士の田中光顕海援隊隊士の白峰駿馬らが現場に駆け付けた。
なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であった。
 
暗殺の時についた血痕
 
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【 実行犯は誰か 】
当初、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたことなどから、新撰組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされた。しかし、刺客が「こなくそ」と言ったという話は谷干城の証言以外には無い。明治になるまで新選組の仕業とされていたことや、池田屋事件などもあり、戊辰戦争においては新選組に対して徹底した粛清が行われている。特に谷干城は頑なに新選組犯行説を信じており、近藤勇への厳罰を強く主張した。
この事件に関しては見廻組実行説が学説として最も有力であるが、薩摩藩陰謀説をはじめとする数々の陰謀説が唱えられたり、小説などでの創作(浅田次郎の『壬生義士伝』など)もさかんに行われているが、それらを裏付ける史料の存在は確認されていない。
また、現在においても坂本龍馬の知名度は中岡慎太郎に比べて圧倒的に高いが、刺客の狙いが実は中岡慎太郎であったという文脈で議論される事がある。しかし、当時の風聞伝聞の類においても坂本龍馬の名前でしか話題にない。
 
【 京都見回り組説 】
見回り組の佐々木只三郎らが実行犯とする説。裏付け証言の存在する唯一の説であり、通説となっている。これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。
1870(明治3)年、見廻組隊士だった今井信郎箱館戦争で降伏し、囚われていたところ、新選組隊士であった大石鍬次郎横倉甚五郎らの犯人は見廻組であるという供述により、今井も近江屋事件について取調べを受けた際、坂本・中岡暗殺に関与したと自白し、裁判により禁固刑となった。今井は刑に服しており、事実上、近江屋事件は解決していると言える。
 
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今井は明治後期以降にも証言を行った他、大正時代には同じく元見廻組隊士の渡辺篤が証言を行っている。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、供述による斬った箇所と実際の傷の箇所の相違、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)がある
誰が見廻組へ指図をしたかについても論じられるが、当時の政局は大政奉還に反対する佐幕派の譜代諸侯も多く、京都守護職の任に就いていた会津藩内においても松平容保候をはじめとする大政奉還賛成派と反対派がいた為、見廻組が京都守護職の傘下であっても、必ずしも会津藩から指図が下りたとは限らない。勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。 また、佐々木只三郎の一存で見廻組を動かした可能性もある。
 
【 新選組犯行説 】
龍馬暗殺当時の現場に残された鞘などの物証や、3日後に暗殺された伊東甲子太郎の同志(御陵衛士)らの証言から新選組の原田左之助によるものと信じられていたが、刀傷は左利きによるものであると言う説もある。これを採用するなら左利きで、北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると、斎藤一という説もある(ただし、実際に斎藤が後世の小説のように左利きであったという史料は確認されていない)。
事件後、11月26日に幕府から取調べを受けた新選組局長の近藤勇は関与を否定した。
現在では、新選組犯行説を支持する研究者はほとんどいない。
 
紀州藩士報復説 】
海援隊隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光)は、いろは丸事件をめぐる紀州藩士の恨みによる犯行であると考えていた。そのため、紀州藩公用人の三浦休太郎(三浦安)が海援隊隊士らに襲撃される天満屋事件が発生した。
 
【 薩摩藩陰謀説 】
西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩側による陰謀だとする説。
松平春嶽や勝海舟から影響を受けた龍馬は諸侯会議による新政府の設立を説いており、大政奉還を受け入れた徳川慶喜をそこに含めることを想定していた。そのため、武力倒幕と旧権力の排除を目指していた西郷隆盛と、慶喜の処遇をめぐる意見の相違が生じた。西郷、大久保らは新政府のあり方について意見の異なる龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らすなど暗殺に関与したとする説もあるが、龍馬自身が幕府大目付である永井尚志と談合するなど、憚りのない行動を周囲に警告されており、密告が無くとも容易に龍馬の所在は突き止められたと考えられる。 尚、薩摩藩家老である小松清廉も大政奉還を慶喜に迫っている。
この武力倒幕派による暗殺説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中たちの証言(現場に駆け付けた海援隊士中島信行が女中に聞いたという話。ただし、当時中島はいろは丸の件で長崎におり、現場に駆け付けるのは不可能だったと一蹴されている)などの資料が影響を与えている。しかし、中岡慎太郎も武力倒幕派であり、様々な矛盾が生じる説で、大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあると指摘する者もいる。
 
 
現在龍馬暗殺に関しては黒幕と実行犯がいる事が想像されています。今後何らかの発見があり、謎が解明される可能性もありますが、龍馬暗殺の犯人がハッキリと断定される事はないような気もしますね。

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