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歴史と文学

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オカルトというもの

オカルトと対立するものは科学だと思っている人がほとんどだと思うが、私は余りそう考えたことは無い。
何をオカルトとするか科学とするかも余り定かではないし、誰かがその線引きの基準を作ったと言う話も耳にした事は無い。
正直言って私からすると、どちらもあまり変わらない所に位置するモノである。

だから、オカルトが科学風に装うことも、科学者風のライターがオカルトを暴くのもあまり興味も無いし、意味も感じない。どちらもオカルトや科学そのものより、出来が悪いからである。
オカルトは好きだが、その真偽をより分けたいといういう立場の人もおり、それをブランド物の真偽に例えたりしている文を見かけたことがあるが、ブランド物自体がある意味オカルトであるから例えが間違っている(笑)。

科学とオカルトが私にとってなぜ同じ位置にあるかというと、その楽しみ方に大差が無いからである。
そしてどちらも大まかにしか知らないからである。
いずれの専門家でもないのだから、話を聞いたり、入門書を読んだりする分にはどちらも楽しむという意味では同じなのである。
だから、地球が球体であろうがお盆型であろうが、かまわないのである。宇宙は偶然出来ても、万物の創造者の作物でもいいのである。

どちらかでなければならない必然性が自分の関わる実利の世界にはない。
だから、肯定も否定もする必要が無い。関心はあるし、興味もある。
これはこういうものだ、と規定するのは、そうせざるを得ない人の仕事である。
それで食っているとか、そのことをライフワークにしている人は、仕方ないが、私はそのどちらでもない。

ただ単にエンターテイメントだとも思っていない。そういう言い方は物事をどこかにしまいこんでそれを解決済みにしたい欲求のある人たちのすることで、私はそういう立場をとらない。
より深く探求して、そこに何かがあるという情熱を傾けているジャンルを応援しているのである。
だから、どちらかを否定する立場の本は余り読まない。正直、今まで読んだもので、それらのものは出来が悪いし、非常に粗悪で、タイトルで金を稼ごうと言う意図がミエミエなのである。

オカルトの楽しい所はその独自の世界観や理屈で、それがオリジナルであればあるほど面白いし、そこにたどり着く歴史的過程も楽しい。
ほんの数百年前まではオカルトと科学は未分化で、現代の視点からすれば、混在している。
そこから科学とオカルトが分化していく過程は、非常に興味深いし、それは20世紀初頭でもまだ未分化であったり、新たな発見が無いときに今はオカルトになっているものに本気で取り組んできた人々の情熱にも惹かれる。

現代人は、そこであたかも自分がそれを発見したかのごとくその結果を知識のみで処理するが、それを実際に行動で証明したり、発見すると言うのは、何かしらそこに惹かれるものが無いと出来ないことである。
人がそれを神話の中の話だと割り切っても、そうでないと行動する情熱を持つのは、理屈では処理できない何かがその人にはあるのだろう。
そこに惹かれる。

たとえば幽霊を心理的な現象だという理屈にしても、私にとっては心理学自体がオカルト要素が満載であるから、オカルトをオカルトで検証すると言う自家撞着のようなものにしか見えないのである。
検証済みとされて、理論が出来てもそれで将来を予見できないのなら、その時点ではオカルトとかわらないものだと私は思っている。

特に自然にかかわることは、いまだに検証すら済まない現象も多い。天変地異など、今だに予測が出来ないことが多いので、一見科学とみなされてはいても、それは単に科学的アプローチを試みているだけで、実証されてはいない以上、オカルトとどこが違うのか一般人にはわからない。

私に言わせれば、それは科学的だと言い張っているようにしか見えないのである。
身近な医学について言うのなら、これはもう、誰がどのような治療で納得いくかというだけの話で、最終的にはある程度の年月で人は死ぬのだからしょうがないのである。
絶対死なない治療があるといえばこれはもうオカルトであるし、だからと言って人はいずれ死ぬのだから仕方ないというのが、科学的立場であると言うのなら、医学などあって無きがごときものである。

この病気を必ず治療する方法があるはずだという専門家が医学を進歩させてきたのだから、そこに多少雑多なものが混じるのはやむをえないことである。
それをあげつらうのは簡単だが、先ほど言ったように1000人がそれは無理だと言っても、いや、これが問題を解決する唯一の方法だと情熱を傾けることがあって、物事は前に進んで行くのである。

詭弁を用いるのはそのラベルが、オカルトであろうが科学であろうがあまり面白いものではない。
養毛剤のたとえでは無いが、この養毛剤は利かないと苦情を言われて、作った者が、使わなければもっと脱毛が進んでいたというような詭弁は、軽蔑する。
使わないで信用できないと言われても、そんな詭弁で信用を得る方が、問題だとして、それならいっそ信じてもらわないでいい、という立場の方が読んでいて面白い。
そういうわけで、オカルトと一口に言っても、何をオカルトというかでだいぶん見方が変わると思う。

僕自身は、何かを個別に好むわけではなく、これまで見たことの無い関心を惹く謎があれば、それがオカルト的なものであり、もしかしたら、所によってはそれはオカルトではなく、科学と言われるものかもしれない。
だから、オカルトを科学的に解明するということはある種の矛盾を生じることになる。

オカルトというものはスタンダードで古風なもの、現代の現象を独自の視点で検証するものなど、科学同様多岐にわたっているので、これからもかなりの興味や関心を抱けるものが出てくるものと期待している。
少なくとも、世の中に不可解なことがある限り、オカルトはなくなることは無いだろうし、そうしたことに独自の解釈を持つ人物も生まれてくるだろう。
それもまたオカルトの楽しみの一つである。

読書の効用3

今の日常はネットの表現やメディアの表現方法が知識であり、理論になりつつある。
方法の多様性を大衆自らが放棄し始めているから、これも一種のファッショなのではないかと言う気がする。
映像が情報の一角を担うようになっても、活字や読書をいう方法は重要な方法のひとつだったが、もはやネットの社会では今できた言語を今知ることが知識であり、それがすべての意思を決定するようになってきている。

かつてヒトラーは大衆は愚かだから、同じこと何度も繰り返さないといけないとその苦労を嘆いているが、今は発言をあっという間に拡散することができてヒトラーほどアジテイターであれば、以前よりもっと迅速に大衆を洗脳できるようになっているのである。
だが、皮肉なことにアジる言葉を持てないことが独裁者の登場を阻んでいる(笑)。

立ち止まり、冷静に状況を判断するには、アナログ的な思考が必要である。
すべてが良い事も無ければ悪いことも無いという前提を手に入れないと、むざむざ匿名の他人の言葉に振り回されて疲れ果てて命を失うことにもなりかねない。
昔の過労死はやや仕事への現実逃避に近いものがあったから、働き盛りの男に多かったが、今は社会に出たての若者に多いのはそのせいだろう。

私など若い頃からどんな失敗をしたところで命までとられるわけじゃなし、悪くてもクビになるくらいで、そうなったらなったで無職でいる言い訳になるなと、どう転んでも悪くは考えなかった。
親孝行などは考えなかったし、万が一罪に問われることはあっても人を傷つけたり殺めたりしなければ親不孝にはなるまいと考えていた。
幸い、今日までそういうことも無かったので、運が良かったと思っている。

読書はこういうようにろくでもない思考を生み出すかもしれないが、別の側面から見れば、これは一種のバランスの問題で、人間はそんなに誰も彼もが立派になれるわけでもないのだから、わが身を省みてどれほどのものかを考える契機にもなる。
こういう人間にはなれないが、こういう人間にはなるまいという比較対象はある程度できるのである。よく、お釈迦様でも孔子でもという言葉があるが、立派なようで立派ではないところもあるのが偉人であって、偉人はよくよくろくでなしというものを知り尽くしているから偉人なのである。

そういうことはやはり読書をしないとわからないことで、若い時分の脳細胞で無いと吸収しにくいのである。
年をとると正しいのは自分だけになるし、なんでもわかったような気になるし、そう思い込んで人の話は耳に入らなくなる。
死に近づくとそれで支障は無いからいいのだが、若い頃にそうなってしまうとなかなか楽しくは生きていけないだろう。しかし、私より若い人でそういう人間を幾人も見ている。新しい道具を手に入れて早く老化するとは皮肉なものである。

なので、悪いことは言わないから本を少しばかり読んだほうがいい。ただし、啓発本は本のうちには入らないし、思想や宗教や哲学の入門書もいくら読んでも読書とは言わない。もちろんhow to本も同様だ。
これらは書いている人間(大体テレビでよく知られている大学の先生)が金儲けのために書いているので、買うのは著者に寄付をしているようなものである。
別に寄付をするなとはいわないが、もう読んでいる人より書いている人の方がはるかに金持ちなので寄付の必要は無い。
あとは資源の無駄遣いになるので、できるだけ読まないほうが環境に優しい(笑)。

読書は本を選ぶところから既に始まっている。そこで立ち止まって読む本を吟味できないという状態になっていたら、その人はもう由々しき状態に陥っている。読書をするのに急いでする必要はない。
難しいと思う本を読む必要も無い。アンデルセンやグリムや日本の昔話でもいいのである。

ちなみに僕は新潮文庫のオスカーワイルドの童話集の「幸福な王子」がとても好きだし、もしも10冊しか本を持てなかったら間違いなく選ぶ本である。
誰に勧められたわけでもなく、青年時に本屋で手にとって選んだ本である。あの時「幸福な王子」に出会って今でも良かったと思っているし、これを読まずに送る人生と読まないで送る人生は違うと言える。
読書はそれくらい大きな影響力を持っている。

読書の効用2

無感情な小説は無いし、逆に感情によって小説は成り立っていると言っていい。情操というものを言葉から得たことで不自由なことは、そこで情操を得なかった人間に対して冷酷にならざるを得ない事である。
これは逆の効用だが、人が言うことは流して聞くようにしないと、いちいち立ち止まらないといけなくなると言うことである。

ものの言い方というものがあるが、これが妥当であれば人はそれほど感情的にならずに済む。しかし、人並み以上にそれに鋭敏だと、面倒くさいだけになる。
若い頃にはそういうことを言うなと口にした人間に注意したが、今はもう放っておくことにしている。きりが無いからである。

それからよく思うことだが、価値観や常識と言うものが相対的なものであるということが、私の日常世界ではあまり認識されていない。
私はこれは一種のファッショだと思うが、皆そうは思っていない。
これは若い頃の読書の弊害と言ってしまうべきか否かを悩むところだが、多くの情報に接しても、それが断片的であればあるほど、イメージの世界は分断されるし構築は難しくなる。
連続性が当たり前だった時代には、連続性を分断し、新しい見方をすることもできたが、逆は難しいと言うことを知った。

アナログ的な表現は、いつそれが判断されるかを定めない。
ある時代にはそれは非常識である時代には常識であり、ある時にはネガティブなもので、ある時にはポジティブなものである。
ネットの情報は常に分断されたものであるから、いくら読んでも読書ではない。
一口に言うと、シュプレヒコールや広告のコピーのようなもので、断片が繰り返されるだけであるから、それを読んでいることを読書とは言わない。

ネットの活字は常にカタログやマニュアルであり、それ以上のものではない。ただ、今はそれ以上のものとして扱われているし、かつて書物と呼ばれたものはそれ以下の扱いしか現実には受けていない。明治の文明開化時にも似たような状況はあったが、現代はそれに輪をかけたようになっている。
文学は死んだと言った評論家が数十年前にいたが、今は文学の痕跡すらない。
理由は単純で、あまり実利的ではないからだ。

似ているものは昔からあったが、それはニュースとそれに関する映像である。
テレビのニュースは、今のネットの情報に近い発信の仕方をしていた。それが、今は表現の形式のほとんどになったと言うことである。ついでに言えば、ワイドショーの評論家が言っていたことをネットで匿名で言うようになったのが現代である。
昔のワイドショーは発信が一方通行だったから今のネットの掲示板の匿名の連中と大して変わらない発言をしていた。いや、むしろ録画もされないし、したところで何もできないのだから、今以上かもしれない。

当時は、政治家を非難するのでさえ新聞記者になるか中の人にでもならない限り不可能だったのである。
当時でさえ、発言者もそれを批判する連中も教養が無い、厚顔無恥と馬鹿にされていたのに、今は誰もがその真似をするようになってしまった。
簡単に口にできないことを考えるというプロセスがなくなって、実証するということも無くなった。

理論武装と言うのは、理論が無ければできないものであり、最低限の知識は必要だである。
また、それを使う方法は読書とそれによる思考で培ってきたが、今はそれをするものはほとんどいないし、言った者勝ちのような世界であるから、これからはそういう方法は失われていくに違いない。
残念なことだと思う。

読書の効用1

最近は、すっかり電子図書になじんでしまってなかなか本屋にいくこともなくなってしまった。
しかし、考えてみればそれ以前から本屋に言って買う本はだいぶ限られていて、以前のように本屋で何か面白い本は無いかと延々とうろつくことは無くなった。
今の感覚でいうとネットサーフィンをするように本から本へと動いていて、その中で何冊かを購入していた気がする。
もともと予め何かを決めて買い物をするということが余り無いが、本はその中でも顕著だった。

若い時分には、一日中古本屋を渡り歩いて本を買っていた時期もあった。
なので、おそらくは同年代の人間の中でも結構本を読んだ方ではないかと思う。
高校生くらいまでは、手当たり次第に小説を読んでいて音楽を聴くような感じだったが、そのうち徐々に評論や哲学や社会学の本に手を出すようになった。
今思うと、小説を読む効用は若い時分にしかないのではないかと今思っている。特に文学、もしくは文学的なテーマを扱っている小説はそうではないだろうか。

逆を言えば、そういった類の小説を面白いと思えるのは、若いということである。最近はミステリすら読むのが難しく、飛び飛びにしか読めない。
気力の衰えを感じるのはこういうところである。
読書のいいところはこうしてなかなか読めなくなるとわかってくる。今でも昔読んだ作品の印象は残っているし、作家そのもののイメージもハッキリしている。作家の名前を挙げてもらえば、その作家はこれが良かったあれが良かったと言える。
これは、読んでイメージができているからである。先ほども書いたが、音楽のように読んでいたので、印象が残っていて、いわゆる共感覚のように多重的に体にしみこんでいるのである。

それが薄れたのはやはり20才前後のような気がする。
最後まで読んでいたのは村上春樹くらいだが、彼の作品でも20才を超えてからは徐々に印象が薄れていて、30才前後に読んだ作品ぐらいからのものは、読んで話も覚えているが記憶にあるだけで、印象や感覚に残るものが無い。
おそらく僕は文章を読むときにあるいはそれによって想起されるイメージについて言えば20代半ばあたりで何かを失っており、そこまで読んだ作品によってしか、文章や言葉を大きくイメージはできないと言うことだろう。

文字にするのは難しい感覚だが、連続的に世界を感じにくくなっていると言ってもいい。情報的連続性は検索的あるいは統計的な連続であってそれはあるが、イメージの連続性は失われたと言ってもいい。
年をとると聴こえない音があるのと同じようなものかもしれない。
端的にいうと、あまり言いたくないが、さほど感動をしなくなると言うことである。感動は整理されない感情が無いと起こらない代物で、個人的な経験や体験では分別できない要素が無いと沸き起こらないものである。

心の問題ではなく単にそういったことである。
涙もろくなることと感動することは似ているが同じではない。年をとると涙もろくなるが、感動はしにくくなるのである。涙もろくとも人生が変わるほどのインパクトは無い、と言うことである。
読書を若い頃にしていて良かったと思うのは、そこにある創作物が整理されない形でダイレクトにイメージできたということで、その頃に尋常で無い量を読んでいたことで、それを再現できる喜びがあるということである。

ノルウェイの森をいとこが読んでくれたので、読んだが、冒頭で飛行機の中で泣くんで笑ってしまって、

後は半ば村上の自家撞着ぶりを読みながら、つくづく幸せな男だと思った。

一種のマンネリズムを獲得すれば、寅さんのようになれるので、そうなったんだなと思った。

手が見えれば後は種のわかった手品を見るようなもので、その手際を楽しむことは出来ても別に何がある

わけでもない。同業者ならいざ知らず、こっちはそれに付き合う必要は無いんで読まなくなった。

やはりまともに金を払うなら、種のわからない手品の方がいい。

大昔のものであれば、いくらわかろうにも時代が違うからわからない。永遠に種はわからずじまいだから

いいのである。

文語体を読みなれると現代文は子供の作文にしか見えなくなるので、一時期困った。

現代文に戻るのには1年以上かかった。今はいくらか楽しく読めるようになったが、それでも現代文が美

しいとはとても思えない。

人間は、時代に縛られていていくら想像したところで想像に過ぎないのだから、、わかったようなことを

言っても、それはタダの知ったかぶりである。

作家というのは、それがいかに知ったかぶりではないかを競う芸である。

だから恋愛小説を書けば、その出典がわからないようにどう書けるかが問題なのであって、それが駄目な

ら、昔のもっとましな何かの偽物を読んだほうが良い。

僕は少しばかりもう古びているので、今の人が書いた男か女かどっちか死ぬ悲恋はとても読めない。

ちっとも悲恋ではないからである。

終わらない恋は恋ではないから、途中でばっさり終わった方が幸福である。

こいつと一生連れ添っていこうというのは、恋ではない。

恋ではないものを恋だと錯覚するのは悲恋だし、好きなのに「きもい」なんていわれてふられる方が悲恋

である。そういう話のほうが面白い。

そう考えてしまうと、あるいはそうとしか感じられないので、もう恋愛小説は笑ってしまうので読めない

のである。若い人が読んで感動するのは、ただ、恋愛の体験が少ないからというだけのことで、自分の代

わりはいくらでもいるということと、運命など無いということがハッキリすれば、恋愛小説など資源の無

駄遣いにしか見えないだろう。

冒険活劇や時代劇は、現実逃避だから、逃避する必要が無い人間にとっては無用。

人情ものは嘘が上手ければ読めるが、いい加減年を取ると騙されにくくなるので難しい。パターンがある

のでそれがわかるとゴミ箱行きである。

なんといっても文学作品や評論は、青少年時代に読むに限る。

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