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1968年はモーリスブランドが出来て2年目である。
ラベルはしろの長方形のものである。以前紹介したものは、長方形だが、ラベルの色やロゴのデザインが違い、検印のようなものも無い。その代わり、サインが印刷ではなく検査者の自筆のようである。
ロゴに関してはヘッドが印刷になっていて71年製のようにインレイではない。
材に変わりは無いようだが、ロッドがないのでネックの調整は簡単にはいかないので、出来るだけ良い状態のものを買うしかない。
この固体は元起きがほとんど無いが、その代わりブリッジ下部のふくらみがある。
あとは、まだ大丈夫そうだが、ブリッジの端が少し浮いているので、そのうち修理に出すかもしれない。
入手当初はかなり汚れてはいたが、見たところひどい損傷はなく、手入れをしたらかなり綺麗になった。サドルが削られていて、1弦でびりつくところがあったので臨時でサドル下に薄い木片を作成して敷いて調整した。
12フレットで1弦側3mm弱、6弦側3mm強である。まだ多少は下げられるかもしれないが弾き語りがメインなので、そんなに下げる必要も無い。フィンガーピッキングをやるわけではないので。
音はこの時代の国産ギターの音だが、50年近く経って材が乾いて弾いているので弾いているとブルブル胴鳴りがしている。
なので、鳴りは十分である。低音もそこそこ出ており、高音もあまりシャリシャリしておらず、全体のバランスは良い。
もっと良い音が欲しければもっとお金を出すしかない。この時代のものに過度な期待はするものではない。
張る弦の種類でもだいぶ音の印象は変わるが、今はとりあえず、今はブロンズのライトゲージを張っているが、もう少し派手な響きでもいいかなと思うので、次回はフォスファーを張ってみようかと思っている。
71年製との差はそれほど無いと思う。若干、音の輪郭がハッキリしてるような印象を受けたが、おおきな違いと言うほどのものではない。
今回のものもそうだが、入手するのに数千円しかかかっていない。それで、これだけのものが手に入るとは驚きである。
状態にもよるが、いいものや調整済みでそれほどの値段なければ、新しいモノに何万か使うのであればこれでいい。
前回も今回もモーリス創業当時は量産はしていないので、どういうモノを作っていたのかという興味があるので買った。
これがヤマハとなると、同時代のものが10倍以上になるので、気軽に何本もと言うわけには行かない。
FGもレストアしながら、古いものを安く入手して使ったことがあるが、正直音のことを言えば、傾向は多少違うものの質的にはそれほど変わらない。
好みの音かどうかの差である。
驚いたのはネックの握り具合もヤマハの赤ラベルとさほど変わらない。これはヤマキも同様だったが、1970年前後の国産メーカーのネックは非常に弾き易い。
日本人の手の大きさに合わせているのがわかる。
この時期のネックの絶妙な薄さは、国産ギターの特徴と言えるかもしれない。 |
玩物喪志
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同時代のヤマハはFGの赤ラベルの時代なので、なかなかいい値段がする。それに比べると全然安い。
しかも、今回入手した固体は非常に弾きやすいコンディションで弦高も低く、傷や当たりはあるものの全体のコンディションが良い。元起きもなくネックもまっすぐでこの時代のものとしては上出来である。
外装は非常に簡素だが、それがまた良かった。マーチンのD28のコピーだが、外装では背面センターの飾りが無いところが違う。だが、このシンプルさも気に入っている。製作予算の事情だと思うが。
トップはスプルースでサイドバックはローズウッドいずれも合板で、ネックはナトー、指板とブリッジはローズウッドでという仕様らしい。
面白いのは、ロングサドルであることとネックブロックが積層になっているところ。
どうも同時期にあった田原楽器のJAMBOというモデルに似ている。もともとモーリスに田原楽器の創設者である田原良平氏も居たらしいので、その時製作したものを後で販売したのか、その製作方法を継いだ人が製作したのか分からないが、指板の終わりの部分の落としこみも似ている。
市場に出ている60年代末から70年代初頭のW-23を見ても同様の仕様であるから、おそらくこの仕様で作られたものがある程度在庫があって、数年かけて販売したのかもしれない。
全体的に丁寧なつくりで、安っぽい感じがない。むしろ貫禄を感じるほどである。
年月を経たおかげで非常に軽く、弾くと胴鳴りをしているのが分かる。
音は文字ではどうも伝えられないが、軽く引いても反応がよく、綺麗に音が伸びて高音もキンキンした感じが無い。
低音はそこそこだが、バランスがよく、全体に柔らかいトーンで鳴る。長く弾いても飽きの来ない音と言ったら良いのか。歌の伴奏にいい感じである。
他に気に入ったのは、ネックの形状が薄めに作られていて手の小さい私でもとり回しがしやすい。ネック幅は43mm弱なので、標準的だと思うが単純なカマボコ型ではない。
これまでいろんなメーカーのドレットノート型のアコーステックギターを手にしたが、これはかなりレベルの高いものであることが分かる。
よくよく考えてみれば、1971年当時の2万円といえばなかなかのものである。それを考えればこのつくりの良さも納得がいく。
46年経ってこれだけのコンディションを維持できるのだから、当時の技術者はなかなか大したものである。もちろんこの固体は運よくいい状態で保管されていたのだろうが、それにしても元が良ければこそである。
実のところ、こういうギターこそ、なかなか出会わないし、手放しがたいものである。
金額はそれほどのことは無いが、実際買おうとなるとモノがなかなか無い。
ちょっといいお金を出したものは、お金がなくなった時に売り飛ばしてしまうが、こういうモノはいくらにもならないので売る気にはならない。
そういうわけで手元に残る。
ちょうどローズサイドバックのギターを人に上げてしまったので、代わりにこれが手に入って良かった。
予想以上に良いもので満足感もかなり得られたので、しばらくはこれで楽しもうと思う。
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以前このタイトルで記事を書いて、愛好家に厳しいコメントをもらったが、ちゃんと読んでもらえばそのコメントが誤解に基づくものだとわかると思う。
ただ、昭和刀に関してそのコメントの主はあまり評価はしていないことがわかるし、斬れるかどうかわからない刀も斬れると信じていることもわかった。
実際に刀を道具として扱う人間の意見を読むと、実際のところはやはり斬ってみないとわからないものらしい。
刀は現在美術品と居合抜刀の道具としてのみ存在している。だが、その価値観は全く違う。
名刀の資格は切れて美しいものだが、美しいといわれる刀がみな切れるということはないようだ。しかし、眺めるだけの刀にしか使わない鑑賞日本刀愛好家には、斬れようが斬れまいがどうでもいいことだし、また、実際に斬ることは無い。
そしてそれは、一言でいえばもったいないからであって、それ以外に理由はない。
現実には居合抜刀に使うにしても、美術品としての登録は必要である。だから、法的には刀は美術品なのである。
ただ、刀の価値には別にもう一つあるのも現実なのである。
そして、本来は、それが刀のあるべき姿で、美術品としての価値は副次的なものだったはずである。
ある意味、庇を借りて母屋を盗られたようなものである。
僕は思うに、やはり刀は本来の機能に大きく意味があるものだと思う。その証拠に眺めるだけならなら刃を姿に支障ないように落とすかといえばしないのである。
言わずもがな思うが、やはり刀は機能が十全出ないと価値がないのである。どれくらい切れるかあるいは切れないはどうでもいいにもかかわらずである。
これほど複雑怪奇なものはない(笑)。
ある人のブログを読んでいたら、居合抜刀をやる人は、全く鑑賞知識がない人も多いということである。
やはり、斬れるか斬れないかの方が重要らしい。僕もやっていたらそうだろうと思うし、それが刀の真の価値だと思う。
僕は眺めて楽しむ人間だが、斬れるという話を聞けばその刀は欲しくなる。幸い美しい刀より斬れる方が安いものがおおい。
前回意見してくれた愛好家は、古い刀でも斬れるものはあるというが、実際に斬れるかどうか試さなければわからないし、それができない刀は斬れないものと実質同じである。たとえ言い伝えがあったにしてもそれは信仰のようなものである。
美術的に価値があるものも魅力的だが、僕はそれ以上に斬れる刀が好きである。
ただ、僕が手に入れても猫に小判なので、欲しいのはやまやまだが控えることにしている。やはり、それは斬る人の手元にあった方がいいからである。
なので、自分で勝手に面白いと思う安い刀を買って眺めているのがふさわしいと思っている。
こういうとまた怒られるかもしれないが、銘にこだわるのは女の子がブランドに夢中になるのとそう変わらないことだと思う。だれがどういおうと、実際に作った所を見たわけでもなければ、注文したわけじゃなかろう。現代刀は別として。
それ自体を楽しめないというのは、ある意味価値を他者にしか求めないのと同じである。商売として扱うにはブランドは大事だが、そうでないなら意味はない。
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せっかく昭和刀といういわば日本刀の中の鬼っ子のように扱われている存在を見つけて関心を持ったので、一振り手に入れました。
手に入れたのはオークションです。刀剣の世界では軍刀や昭和刀など価値は無いといっておきながら、平気で20万30万という値段で売るので、おいそれとは買えません。というわけで、価格的に門戸の広いオークションで入手しました。大体、どこで買っても骨董的な物は自己責任ですから。
まして、こちらは鑑定や何かを求めていないし、もっと個人的な嗜好で求めているので、オークションで十分なのです。まして、刀剣商自体が量産型の軍刀など美術的に無価値と公言しているのですから、お世話になる義理も無いわけです。
手に入れた昭和刀は軍刀の拵えでは無く、時代の拵えで、おそらく居合い抜刀に使われたらしいものでした。なので、抜き差しもしっかりしていて鯉口の閉まり具合もよかったです。減点部分があるとすれば若干表面に錆があったので、研ぎに出す必要があるということでした。このままでも良かったのですが、どうせなら綺麗にしてみたいと思ったわけです。
昭和刀、軍刀が寂しい境遇にあるのは、研ぎに関しても差別されており、門前払いを食わすところも少なくないということです。しかし、捨てる神あれば拾う神ありという言葉どうりに引き受けてもらえるところを見つけてしかも廉価で作業をしてもらえることになりました。
今回、量産型の昭和刀、軍刀を手にして感じたのは、その前に手に入れた刀と手にした喜びは変わらないということです。時代は違っても、その存在にはそれぞれの個性があり、いいものです。
数百年の間、製法や材料は違っても、それを作ろうという人間の技はありますし、美しさや造形の妙は見て取れるものです。それがわからないという方が、僕にはわかりません(笑)。
年末には、研ぎを終えて手元に来そうなので、それが今は楽しみです。
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日本刀に関していろいろと情報を探して読んでみると面白いことがわかった。
実際に切れ味の価値というものを比べることはあまり刀自体の価値にかかわらないということである。
美術品として所持保存が許可されているので、刀自体の本来の能力が問われないのはなんとなく妙なものである。
確かに時計を考えてみても精度からすればクォーツの方が正確だが、こぞって機械式を買うことを考えるとわからないでもない。
実際、昭和刀といわれるもので軍刀として量産されたものは、現在新たに登録ができないらしい。しかし、刀としての能力はかなり高いものもあるという話だ。それは当然の話で、戦時中、軍刀が生産されたとしたら、従来の製造方法ではとても量が追いつかないだろう。しかし役に立たないものを作るわけにもいかない。
軍というものは国の機関であるから、一定の基準を設けたわけだが、その試験がある限りある程度の品質は確保されるはずである。
そう考えれば、たとえ一部でも規格基準を設けて製作された軍刀が美術的には劣っても本来の刀の能力として疑問のあるものであると考えるは余り合理的でない。
戦闘機で言えば、カッコいいが飛ばないであるとか能力が低いなどというものは作らなかったのだから、軍刀にしてもものによっては、最高レベルの品質のものがあってもおかしくないだろう。
実際に現存する登録された日本刀にもそうした品質のものはあるようだが、新たに発見されたり、海外で見つけて国内に持ち込んでも新規には登録できない。
工法の文化的か否かの点を問えば、致し方ないのかもしれないが、近代的であることが、文化的に否定される世界も珍しい。
いまどき、白兵戦で刀を使う戦争もないのだから、刀本来の文化的な評価というのなら、いわゆる昭和刀といわれる軍刀も登録できるようにするべきではないか。
昭和刀がなおざりにされていることに、一部の人々は非常に悲憤慷慨しているが、僕は魂とか精神をいう気はない。ただ、日本刀は、歴史的にも非常に長くさまざまな技術の変化を見せた珍しい工業製品だということである。
道具と技術の精華として今も製作されている物としてその歴史を保存するのに、不合理な規則を設けるのは、ある意味、業界のブラックボックスをわざわざ披瀝しているようなものだろう。
日本刀が物としての価値を評価されるのであれば、作られた経緯で物を評価しないとかするとか言うのはばかばかしい。近代的な方法で量産された道具が美術的価値がないというのは、偏見以外の何者でもない。
国家が偏狭な価値観を押し付けて、それ以外は美術ではないというのは、裸体画や塑像がすべてわいせつだというのに等しい。
価値の偏狭さを是正して初めて文化であるといえると思うし、研究、鑑賞の価値のあるものだと思う。
個人の好みをあれこれいう気はないが、国家と法の規制はまた別である。少なくとも日本刀に関する国家の認識レベルは余り高いといえない。
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