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まだDVDが無く、ビデオだった時代に「1999年の夏休み」を繰り返し見た覚えがある。いつだったのか定かでは無いがおそらく映画自体の公開から10年後くらいだった気がする。
あれほど短期間に繰り返し見た映画は無い。
それを思い出したのは、22/7のMVを観た時だった。
仕事をしていてたまたま有線で流れた「理解者」を聴いて動画サイトでMVを観たのである。これはどこかで感じた感覚だ、と思うのと同時に「1999年の夏休み」が頭に浮かんだ。
もちろん違いは大きい。
「22/7」はコマーシャルな世界の音楽作品であり、、「1999」は特殊な映画作品である。そういう意味では極端に遠いが、バーチャルという点では近い。
「1999」を中毒のように見ていた時に、なぜなのだろうと不思議に思った。単純に女優が少年役をやっていると言うだけではない何かがあった。ネットも無い時代にどうやって調べたかわからないが、その原因らしきことを突き止めた。
深津絵里演じる役以外の人物の台詞は役者ではなく声優が当てていたのである。
私はなるほどと思い、合点がいった。
この映画の心地よさの理由は、バーチャルな存在なのだと。
俳優の性別を換え、少年の声を出させるために声優を使う。実際の人間を使った究極のバーチャルな映画なのである。
一方22/7はアニメーションで少女を作り、声優に歌わせる。ダンスの部分はモーションキャプチャーでつくるため、ダンスのアニメの少女は人間のように踊るのである。
一方は映画の物語で一方は歌のMVだが、その心地よさは限りなく近く麻薬的快楽を与えてくれる。
その快楽は、存在を離れる心地よさである。
アイドルというモノは結局のところそこに尽きるものだと思う。その人であってその人で無いことが重要であり、アイドルにアイデンティティは無用なのである。存在してはならない存在が理想なのである。
実際のアイドルや、アイドルグループは見ているものが補完して初めて存在が可能になる。
秋元康が「22/7」で考えていることは、なんとなくわかる。
本人は口が裂けても言わないだろうが、彼が22/7をやるということは、AKBをはじめとした実在する人間が演じるアイドルの不完全さを認めることに他ならない。
純粋に歌だけを歌い、人間としての生活やアイデンティティが無用な、存在しない存在こそが真に求められるアイドルではないかというテーゼである。
「1999」の快楽を歌の世界で体験しようとすれば22/7のようなやり方しかない気がする。
「1999」はメタレベルの少年(少女性と不可分である)を作り出し、22/7は限りなく人工的で普遍なアイドルを作り出しているのではないか。
ただ、これも共通するだろうがいずれも主流にはなれないだろう、「まだ」という条件付だが。
もう少しの間、原始的な欲望を消費することを人はやめないだろうし、それを商売にしている者は抵抗するだろう。が、いずれは駆逐されるだろう。
その時にはもっと完全にバーチャルな世界が地上を覆っているはずだ。
その時まで生きられるとは思わないが、その時代には「アイドル」はどういうものなのかが理解される気がする。
またその時が、ようやく「アイドル」が地上の束縛から放たれて自由になる時なのだろう。
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