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『戦艦大和よりすごかった連合国の豪華客船』
- 今から74年前の4月7日、大日本帝国海軍が誇った戦艦大和が米軍に撃沈された。 最終的に残念な最後を迎えたのだが、戦艦大和は世界最大最強の戦艦として、日本人のレジェンドになっている。 - 一方で、貧しかった当時の日本が全力を傾けて作ったものの、大した活躍もせず沈められたことでも知られる。 「昭和の三大バカ査定」の一つと揶揄されたこともある。 - 大和が戦争中に沈めた米国の軍艦はたった1隻。 しかもそれは小型艦艇の駆逐艦で、サイズは大和の40分の1程度。 さらに、本当に大和が沈めたのかどうかも諸説あるようだ。 - 最後に沖縄に特攻出撃して米軍機に沈められるが、この戦いで沈められるまでに撃墜した米軍機は10機に満たない。 - 戦艦大和のコストパフォーマンスの悪さは、あまりに情けない。 - いかにも敗戦国という悲哀が漂うが、大和が全く活躍できなかった理由は、日本海軍自身が真珠湾攻撃の成功により、戦艦そのものを時代遅れにしてしまったからだった。 何とも皮肉である。 - ■ それでも戦艦大和は最大最強 - 戦果はどうであれ、大和がスペック上、世界最大最強であったことは確かである。 - 米国最大の戦艦の主砲の直径は40センチであったのに対し、大和の主砲の直径は46センチ。 威力も射程も大きかった。 - もちろんこのような巨大な大砲を積むのだから、船体も大きかった。 米国最大のアイオワ型戦艦が排水量5万7500トンであったのに対し、大和は7万2000トン。 - 太平洋戦争中の日本は、敗れたとはいえ確かに米国に攻撃力と大きさで勝る世界最大最強の戦艦を実際に建造していたのだ。 - もっとも、戦艦大和が最強だったのは1隻あたりの主砲の威力だけだった。 米国最大の戦艦アイオワは時速60キロだったのに対し大和は時速50キロで、スピードは劣っていた。 - さらに、数では大和と同じ戦闘力の戦艦はもう1隻の武蔵だけだったのに対し、米国最強のアイオワ型戦艦は4隻あった。 - また、アイオワ型にスピードで劣るが、ほぼ同じ40センチの主砲を9門持つ新型戦艦はアイオワ型4隻にプラスしてもう6隻あった。 - 一方で、大和と武蔵以外の日本の戦艦は大正時代にできたボロばかり。もちろんそのレベルのボロ戦艦においても米国の方が数で優勢である。 - 残念ながら数では劣勢なので、仮に航空機の時代とならず、戦艦同士で戦えたら多少は活躍できたかもしれないが、結局は負ける可能性が高いように見える。 - ■ 大和よりも巨大な豪華客船 - 以上は戦艦としての比較であるが、大和が船舶として最大であったかというと、実はそうではない。 - 米国と欧州の間では戦艦大和をしのぐサイズの大型豪華客船が就航していた。 - 戦艦大和の建造が始まったのは1937年。 当時、すでに飛行艇による大陸間航路も存在した。 しかし、旅客機が国際輸送の主役にはなっていなかった。 旅客の輸送手段の主役は客船であった。 - もちろん太平洋やインド洋でも客船が往復していたが、最も密度の高い路線は大西洋航路だった。 客船のサイズも大西洋航路がトップである。 - 1930年代末から40年代初めにかけて、大西洋航路ではクイーンメリー(英)、クイーンエリザベス(英)、ノルマンディー(仏)の3隻が世界最大の客船の座を争っていた。 - 当初、1936年に完成したクイーンメリーが最大であったが、ノルマンディーが改造により大型化し、クイーンメリーを抜いている。 - そして、1940年に完成したクイーンエリザベスがノルマンディーを抜いて世界最大の客船となった。 - これら3隻は戦艦大和をしのぐ規模を誇っていた。 - 戦艦大和の満載排水量は7万2000トンであったが、これら3隻の排水量はいずれも8万トンを超えていた(商船のサイズは普通総トンで表すが、排水量でも8万トンを超えていた)。 - これらの巨大客船は、幅でこそ戦艦大和の38メートルには若干及ばず35から36メートル程度であったが、長さは戦艦大和の263メートルに対し、310メートルから314メートルと50メートル近く長かった。 - 戦艦では水面上に出る部分が比較的少ないのに対し、客船は水面上の構造物が大きい。 並べてみれば、この3隻の巨大客船は大和よりも圧倒的に大きく見えたはずだ。 - 大和は確かに戦艦としては世界最大最強であったが、船舶としては当時も最大ではなかったのである。 - もっとも、商船の積載量や乗客はサイズが大きいほど増えるので大きいことは重要である。 - 一方、戦艦はサイズを競うものではなく、同じ戦闘力であれば小さい方が望ましい種類の船舶である。 - これら豪華客船はサイズだけでなくスピードも驚異的であった。 戦艦大和の最高速度は時速50キロ。 一方、これら3隻の場合、巡航速度が55キロ程度もあった。 - 一見、5キロしか違わないように見えるが、最高速度は短時間しか出せないのに対し、巡航速度はそのスピードで出発地から目的地まで航行する速度である。 - 戦艦大和をしのぐサイズのこれら3隻の大型客船は、戦艦大和の最高速度を超えるスピードを、大西洋横断に必要な4日の間、出し続けることができたのだ。 - 当時の軍艦では高速航行をこれほど長期間維持できなかった。 - もちろん、戦艦と豪華客船では役割が違うので、一概には比較できない。 豪華客船は戦艦大和が持つような大砲は持たないし、敵の攻撃に耐える装甲も持たない。 - しかし、どちらがすごい船に見えるかと問われると、戦艦大和よりも巨大な3隻の豪華客船の方が立派に見える。 - ■ 豪華客船は“戦果”でも大和に勝っていた - 戦艦大和よりも立派だった英仏の豪華客船。 何とこの豪華客船には軍艦を沈めた実績においても戦艦大和をしのいでいたものがあったのだ。 - 戦争前に就航したクイーンメリーとノルマンディーは、第2次世界大戦が始まるまでは客船として運航されていたが、開戦後は軍隊輸送船となった。 - クイーンエリザベスは完成が1940年であり、客船として運航されることなく軍隊輸送船となった。 - ノルマンディーは改造中に火災を起こし、消火しようとして大量の水をかけたところ、溜まった水でバランスを崩して横転し、そのまま復活せずスクラップになるという悲惨な最期を迎えた。 - 一方、一度に1万人以上を輸送できるクイーンメリーとクイーンエリザベスは、米国から欧州へ兵隊を送り込むのに活躍した。 - 1942年10月2日、クイーンメリーは大西洋上で輸送任務についていた。 まだ、ドイツの潜水艦が活発に活動している時期であり、当然のことながら軍艦が護衛していた。 - 護衛の軍艦は4000トンの英国海軍巡洋艦キュラソー。 もともと巡洋艦というタイプの軍艦は時速55キロ以上を出すことができる高速の艦艇である。 - しかし、第1次世界大戦時に建造されたキュラソーはすでにボロ軍艦になっていた。 そして、軍艦が最高速度を持続することは困難だった。 この時の大西洋横断では時速46キロを出すのがせいぜいだった。 - 一方、クイーンメリーは潜水艦に攻撃されないようなるべく高速航行していた。時速53キロで航行し、さらに潜水艦から照準を合わされないようにジグザグ航路をとっていた。 - 遅いキュラソーはジグザグ航路をとるとクイーンメリーについて行くことができないので、真っ直ぐ航行していた。 クイーンメリーのジグザグの進路とキュラソーの直線の進路は、クイーンメリーがキュラソーに突っ込む形で交わることになった。 - 8万トン対4000トン、しかも4000トンの方はボロ。 この勝負、キュラソーに全く勝ち目がなかった。 - クイーンメリーは船首が損傷したが、何事もなかったかのように高速航行を続けた。 対するキュラソーは船体を真っ二つに分断され、沈んでしまった。 - これがドイツの軍艦であれば大手柄だったのだが、残念ながらキュラソーは味方の英国海軍の軍艦だった。 - クイーンメリー号の生涯にわたる出来事で最も悲惨なものであった。 - しかし、戦艦大和はごくわずかの航空機撃墜に加え、2000トン以下の小型艦艇を沈めた実績しかないのに対し、クイーンメリーは味方とはいえ4000トンのサイズの軍艦を沈めている事実に変わりない。 - サイズやスピードだけではなく、軍艦を沈めた実績においても、戦艦大和は英国の豪華客船に負けたのである。 - ■ 戦艦大和が本当に活躍したのは戦後? - 戦前の日本の工業は急成長中であった。 零戦や戦艦大和は戦前の日本人の努力の結晶であった。 - 日本の兵器の性能は欧米の兵器に迫りつつあり、部分的にはしのいでいた。 しかし、やはり、全体的・総合的に見れば負けていた。 - また、当時の日本の工業は現在の北朝鮮に比べればマシであろうが、明らかに軍事偏重であった。 - 当時の欧米では戦艦よりも巨大で高速な客船を運航していたのに対し、戦前日本最大の客船は戦艦大和の半分のサイズもなかった。 - 欧米の豪華客船が戦艦大和よりも巨大で、スピードも速く、さらに軍艦を沈めた実績でも大和をしのいでいたというのは、ある意味で当時の日本の限界を表しているだろう。 - とはいえ、当時の日本の成長スピードが極めて速かったということも事実である。 あそこまで悲惨な敗戦を迎えたにもかかわらず、日本の造船業は戦後すぐに復活し、成長を再開した。 - 日本の造船業が世界最大の建造量を誇るようになったのは、敗戦のわずか11年後の1956年であった。 - クイーンメリーやノルマンディーを建造した英仏の造船業や、日本艦隊を圧倒した米国艦隊を生み出した米国の造船業を抜いたのだ。 - 日本の造船業界は、戦前、戦中の大和を含む軍艦の建造で、溶接、ブロック工法、効率的工数管理などを取得していった。 - 戦争にはほとんど役に立たなかった戦艦大和も、高度経済成長期に世界一となる日本の造船業の発展には多いに貢献していたのである。 - (JPPRESS) - ↑ 「戦艦大和のコストパフォーマンスの悪さは、あまりに情けない。」 あれだけ金をかけて作ったのに、敵機10機弱を撃墜しただけと言われているからね。 - 「戦艦大和が最強だったのは1隻あたりの主砲の威力だけだった。 米国最大の戦艦アイオワは時速60キロだったのに対し大和は時速50キロで、スピードは劣っていた。」 46センチ砲だけが最強だね。 - 「数では大和と同じ戦闘力の戦艦はもう1隻の武蔵だけだったのに対し、米国最強のアイオワ型戦艦は4隻あった。 また、アイオワ型にスピードで劣るが、ほぼ同じ40センチの主砲を9門持つ新型戦艦はアイオワ型4隻にプラスしてもう6隻あった。」 大和型は2隻、アイオワ型は6隻だね。 - 「米国と欧州の間では戦艦大和をしのぐサイズの大型豪華客船が就航していた。」 「並べてみれば、この3隻の巨大客船は大和よりも圧倒的に大きく見えたはずだ。」 「戦艦大和の最高速度は時速50キロ。一方、これら3隻の場合、巡航速度が55キロ程度もあった。」 大和より大きいのにスピードは大和以上なのだね。 - 「戦艦はサイズを競うものではなく、同じ戦闘力であれば小さい方が望ましい種類の船舶である。」 そういうことだね。 大きくて鈍いと標的になりやすいからね。 - 「戦艦大和をしのぐサイズのこれら3隻の大型客船は、戦艦大和の最高速度を超えるスピードを、大西洋横断に必要な4日の間、出し続けることができたのだ。 当時の軍艦では高速航行をこれほど長期間維持できなかった。」 チーターのように一瞬ではなく、4日間最高スピードを出し続けることができたのだね。 - 「日本の兵器の性能は欧米の兵器に迫りつつあり、部分的にはしのいでいた。 しかし、やはり、全体的・総合的に見れば負けていた。 また、当時の日本の工業は現在の北朝鮮に比べればマシであろうが、明らかに軍事偏重であった。」 当時も今も日本の技術は世界一と思いたい人も多いだろうけど事実は違っている。 - 劣等意識が多いと、どうしても自身の所属を優位にしたがる。 日本凄い、ゼロ戦世界一、戦艦大和世界一などと。 理屈はともかく話の結論は、自身の所属が一番ということにしたがる。 - 劣等意識が多いと、自身を優位にしようとする曇った色眼鏡で世の中を見るので、物事の本質は絶対に見ることはできない。 -
追伸:
学生衣料屋で次男の皮靴29センチを買った。 - 次男が大きいというので、一緒に学生衣料屋に変えに行った。 28センチの革靴に変えた。 - 追伸2: 庭を散策して、西のビオトープの水面の落ち葉などゴミを手で掬った。 - 追伸3: 今日、風呂に入りながら聴いたアルバムは、 「デヴィッド・ゲッタ ナッシング・バット・ザ・ビート DISC2」。 - 追伸4:
1972年米映画「ハイジャック」をまた観た。 <ロサンゼルス空港ではボーイング707ジェット機がミネアポリスに向けて飛びたとうとしていた。 この707便の機長のハンク・オハラ(チャールトン・へストン)は、病気の同僚に代わって乗り込んでいたスチュワーデスのアンジェラ・サッチャー(イヴェット・ミミュー)と恋人同士だったが、オハラは別の女性と結婚し、アンジェラもやはりこの機に乗り組んでいる副操縦士のサム・アレンから求愛されていた。 アンジェラのリードで乗客がそれぞれの席に落ちつき、青空の下で快適な旅が始まるが、それもつかの間、恐怖の底に突き落とすような事件が起こった。> 1923年生まれイリノイ州出身の俳優チャールトン・ヘストン主演のサスペンス映画だね。 1942年生まれカリフォルニア州出身の女優イベット・ミミューも出ている。 1940年生まれカリフォルニア州出身の俳優ジェームズ・ブローリンも出ている。 1926年生まれジョージア州出身の俳優クロード・エイキンスも出ている。 1925年生まれカリフォルニア州出身の女優ジーン・クレインも出ている。 監督は「キングコング」などのジョン・ギラーミン。 |
歴史
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『セディバ猿人、人類系統図の空白を埋める「ミッシングリンク」』
- 猿人に近いわれわれの祖先と初期人類の間をつなぐ新たな「ミッシングリンク」が見つかった。 この発見からは、200万年弱前まで人類が木と木の間をサルのように移動していたことが見て取れるという。 - セディバ猿人(アウストラロピテクス・セディバ、Australopithecus sediba)の骨格化石は2009年、南アフリカのマラパ(Malapa)洞窟で発見されたが、当時はそれが新種なのかそれとも既に知られている種の化石なのか分からなかった。 しかし発見から10年が経過し、研究者らは今回、この骨格化石が人類系統樹において、約320万年前に存在したアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス、Australopithecus afarensis)と、約210万〜150万年前に存在したホモ・ハビリス(Homo habilis)の間に位置することを突き止めた。 - アファール猿人で最もよく知られているのは、1974年に発見され「ルーシー(Lucy)」と名付けられた骨格だろう。 彼らは直立二足歩行をしていた。 一方、ホモ・ハビリスは、最古の石器を作ったとして知られている。 - 興味深いことに、195万〜178万年前に存在していたセディバ猿人の腕の骨はまだサルのようだった。 これは人類の祖先が地上で暮らすようになったと考えられている時期においても、長い間にわたり樹木間の移動に多くの時間を費やしていたことを示している。 また短い足骨から、長い距離を歩くことはなく、脳はルーシー同様、小さかったと考えられる。 - 一方、手は親指と他の指が対置しており、器用に道具を使うことができたが、後の人類のようにしっかりとつかむことはできなかった。 また食生活は、それまでの祖先のように植物を食べていただけではなく、もっと現代人に近いバラエティーに富んだ食事をしていたことが歯の研究から分かっている。 - セディバ猿人について研究者らは、進化の過程において「重要な変換期」にあり、サルに近い猿人類と現代人に近いホモ・ハビリスの橋渡し的な種だったとの考えを示している。 - 論文の共同執筆者の一人、米ニューハンプシャー州ダートマス大学(Dartmouth College)のジェレミー・デシルバ(Jeremy DeSilva)准教授(人類学)は、「ルーシーより100万年後の種ならば、もっと人類に近いとかつては考えられていた。 セディバ猿人の解剖学的分析では、例えば膝に関してはそう言えるが、足に関してはそうではなかった。 それどころか人類の複雑な進化の歴史における初期に、並行する別の軸で展開していた進化系統を示すものだ」と述べた。 - * 「人類の進化の過程にはまだ発見すべきことが多い」 - セディバ猿人の化石は、当時9歳だったマシュー・バーガー(Matthew Berger)君が最初に発見した。 父親のリー・バーガー(Lee Berger)氏は著名な古人類学者で、父親が発掘していた場所の近くで犬を追っていたマシュー君が化石の鎖骨につまずき、発見に至った。 以来、2体分の化石135個が見つかっており、既に3体目が発見されている可能性もある。 - 論文の導入部分を執筆した米ニューヨーク大学(New York University)人類学部人類起源センターのスコット・ウィリアムス(Scott Williams)氏は、「マラパで化石が偶然に発見され、その他同じような偶然の発見があったおかげで、人類の進化の過程にはまだ発見すべきことが多いということを再認識することができた」と話す。 - 別の研究グループは数年前、椎骨の形が異なっていることから、マラパの化石が二つの異なる種に属している可能性を指摘していた。 だが新たな分析により、うち1体が年少者で骨が十分に成長していなかったことが明らかになっている。 - 研究者らは、アファール猿人、セディバ猿人、ホモ・ハビリスは進化において密接に関係しており、これまで考えられてきた人類の系統樹を書き換えると結論付けている。 - 論文は学術誌「Paleoanthropology」の特別号に掲載された。 【翻訳編集】AFPBB News - 「テレグラフ」とは: 1855年に創刊された「デーリー・テレグラフ」は英国を代表する朝刊紙で、1994年にはそのオンライン版「テレグラフ」を立ち上げました。 「UK Consumer Website of the Year」、「Digital Publisher of the Year」、「National Newspaper of the Year」、「Columnist of the Year」など、多くの受賞歴があります。 - (The Telegraph) - ↑ 「約320万年前に存在したアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス、Australopithecus afarensis)と、約210万〜150万年前に存在したホモ・ハビリス(Homo habilis)の間に位置することを突き止めた。」 アウストラロピテクス・アファレンシス→アウストラロピテクス・セディバ→ホモ・ハビリス ということだね。 - まだまだ見つかっていない二足歩行の猿はいるね。 時代が進めばまた新たな発見があるね。 - 自然界であれば我々ホモ・サピエンスも進化して新たな種が生まれていくのだけれどね。 今の状態では突然変異の種が生まれたら奇形として抹殺されるだろうから、ホモ・サピエンスからの進化は難しいね。 - 追伸:
庭を散策して、西と東のビオトープの水面の落ち葉などゴミを網で掬った。 東のビオトープにニホンアカガエルの卵塊を昨日と同じく5塊確認した。 西のビオトープにニホンアカガエルの卵塊を昨日と同じく2塊確認した。 - 追伸2: 2016年米・豪・ニュージーランド映画「光をくれた人」を観た。 <第1次世界大戦後のオーストラリア。 孤島ヤヌス・ロックに灯台守として赴任した帰還兵トム(マイケル・ファスベンダー)は、明るく美しい妻イザベル(アリシア・ビカンダー)と幸せな日々を送りはじめる。 やがてイザベルはトムの子を身ごもるが、立て続けに流産と死産に見舞われてしまう。 そんな矢先、男性の死体と生後間もない赤ん坊を乗せたボートが島に流れ着く。 赤ん坊に心を奪われたイザベルは本土に報告しようとするトムを説得し、赤ん坊にルーシーと名付けて我が子として育てはじめるが……。> 1977年生まれドイツ出身の俳優マイケル・ファスベンダーと 1988年生まれスウェーデン出身の女優アリシア・ビカンダー主演のヒューマンドラマ映画だね。 1970年生まれイングランド出身の女優レイチェル・ワイズも出ている。 1947年生まれオーストラリア出身の俳優ブライアン・ブラウンも出ている。 1940年生まれオーストラリア出身の俳優ジャック・トンプソンも出ている。 監督は「ブルーバレンタイン」のデレク・シアンフランス。 孤島に流れ着いた赤ん坊を我が子として育てる灯台守夫婦の愛と葛藤を描いたM・L・ステッドマンの小説「海を照らす光」を映画化。 - 追伸3: 今日、風呂に入りながら聴いたアルバムは、 「リンプ・ビズキット グレイテスト・ヒッツ」。 - 追伸4: 2011年米映画「ドリームハウス」を観た。 <家族との時間を大切にするため仕事を辞め、郊外の家に引越したウィル(ダニエル・クレイグ)。 しかし、その家ではかつて、父親を除く家族全員が惨殺された忌まわしい事件が起こっていた。 最初は気にしていなかったウィルだが、子どもたちが幽霊のようなものを目撃したり、不審な男が家の周囲に現れたりと、不気味な出来事が相次ぐ。 やがて、過去の事件の犯人がまだ捕まっていないことを知ったウィルは、独自に調査を始めるのだが……。> 1968年生まれイングランド出身の俳優ダニエル・クレイグと 1970年生まれイングランド出身の女優レイチェル・ワイズ主演のサイコスリラー映画だね。 1968年生まれイングランド出身の女優ナオミ・ワッツも出ている。 1966年生まれニュージーランド出身の俳優マートン・ソーカスも出ている。 1961年生まれカナダ出身の俳優イライアス・コティースも出ている。 監督は「マイ・レフトフット」「父の祈りを」など人間ドラマの秀作で知られるジム・シェリダン。 |
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『関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ』
- 関ヶ原の戦いは、いまや映画やドラマでもおなじみだ。 石田三成と徳川家康、東西の両雄によるこの一大合戦は、有名な小早川秀秋の裏切りなど、参加大名による数々のエピソードでそのストーリーが彩られ、単なる戦いではなく壮大な人間ドラマとしても広く語られている。 しかし、近年ではそれらの「虚構性」を指摘する研究者も多い。 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。 - 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「関ヶ原の実像」を解説する。 - ■揺らぎ始めた「関ヶ原」の神話 - 慶長5(1600)年9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を舞台に繰り広げられた、徳川家康率いる東軍、石田三成率いる西軍、合わせておよそ16万の軍勢が激突した「関ヶ原の戦い」は、豊臣秀吉没後の政治の主導権をめぐる「天下分け目の戦い」としてもよく知られています。 - 現代でも、この戦いは映画やドラマでたびたび再現され、三成打倒で東軍が結束した小山評定(おやまひょうじょう)、西軍必勝の鶴翼(かくよく)の布陣、家康の問(とい)鉄砲に裏切りを決断する小早川秀秋など、数々の名場面に彩られる、まさに「史上空前の大合戦」として描かれています。 - さらに、戦いについての詳細な解説本も多数出版されており、古戦場となった関ヶ原は観光名所として歴史ファンが全国から訪れる人気ぶりです。 しかし、実は近年の研究により、実際の戦いの様子は従来の認識とは異なることが次々と明らかになってきました。 - 今回は、最新研究により解明された、関ヶ原の戦いの実像について解説します。 - 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。 - Q1. 関ヶ原の戦いとは何ですか? - 慶長5(1600)年9月15日、美濃国関ヶ原で行われた日本史上最大級の野戦です。 - 当日は家康率いる約7万4000(東軍)と三成率いる約8万2000(西軍)の軍勢が激突し、開戦当初は陣形の有利な西軍が優勢でしたが、小早川秀秋の東軍への寝返りを機に形勢が逆転したため、ほぼ半日で決着し家康が勝利したとされています。 - ■関ヶ原の戦い、実はかなり後世のフィクション - Q2. 現在の認識はこれまでと違うのですか? - だいぶ異なっています。 - 近年では、白峰旬氏をはじめ各研究者が1次史料(当時の人が残した手紙や日記などの同時代史料)を基に、関ヶ原の戦いに関する検証を行っています。 - その結果、これまで知られてきたストーリーが、実は「史実ではなかった」可能性が高いことが、次々と明らかにされてきました。 - Q3. それらの根拠となる史料にはどんなものがありますか? - たとえば、当時来日していた「キリスト教宣教師の記録」です。 - 言うまでもなく彼らは外国人であるため、第三者的な立場から日本国内での出来事を見聞していました。 - また、彼らは大名や貴族をはじめ、文化人、庶民にいたるまで交友関係が広く、残した情報も詳細であることから、近年の研究で注目されています。 - Q4. 私たちの知る「関ヶ原の戦い」とは何だったのですか? - 端的に言えば、江戸時代以降に作り上げられたフィクションです。 - 戦いがあったのは事実ですが、数々のエピソードについて詳しくみてみると、それらは戦いが起きた当時の記録(1次史料)からは確認できないものも多いのです。 最近の研究では、後世の小説等でしだいに脚色され、世間に浸透していった過程が明らかになっています。 - Q5. 具体的には「どんな事実」が明らかになったのですか? - 戦いの?末はもちろん、これまで広く知られてきたエピソードや名場面が「ことごとく」史実ではないとする指摘が相次いでいます。 - 私たちが知っている関ヶ原の戦いの、どんな部分が「史実ではない」と指摘されているのでしょうか。 - ■エピソードの多くは後世の創作 - 【定説1】三成襲撃事件で、三成は家康の屋敷に逃げ込んだ 慶長4(1599)年閏3月3日、前田利家の死去にともない、三成は政権内で敵対していた加藤清正ら武断派の大名に襲われますが、同じく政敵であった家康の屋敷にあえて逃げ込み、難を逃れたとされています。 - しかし、これは18世紀の兵学者、大道寺友山による『岩淵夜話』の創作エピソードが、後に参謀本部編『日本戦史・関原役』などの書物で取り上げられた結果、史実と誤解されて定着したものです。 - このとき、三成は伏見城(京都市伏見区)から出られなくなったというのが実情で、実際に三成が逃げたのは、伏見城の中にある自らの邸宅(治部少丸)でした。 - 【定説2】関ヶ原の戦いは「三成による謀反」だった 秀吉の死後、政治の主導権をめぐり家康に失脚させられた三成は、その復権を企み家康を亡き者にしようと豊臣恩顧の大名を召集し、ついに関ヶ原で決戦が行われたというストーリーが一般的に知られています。 - このこと自体は事実ですが、それゆえにこの戦いは「三成による謀反」であり、「家康vs三成の一騎討ち」の図式であるというのは、近年の研究とは認識が異なります。 当時、家康に敵対したのは三大老(毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝)四奉行(石田三成、前田玄以、増田長盛、長束正家)でした。 正義の側を示す「公儀(こうぎ)」は、三成の側にあったと指摘されています。 - ちなみに、このときの両軍を東軍・西軍と呼ぶようになったのは、戦いが終わって約100年が過ぎてからです。 - 【定説3】家康が小山で開いた軍議(小山評定)で東軍は結束した 慶長5(1600)年7月25日、家康は会津の上杉討伐に同行した諸大名を下野国(栃木県)小山に召集して三成の謀反を報じ、これを制圧すべく上杉攻めを中止して西上を提案します。 すると、豊臣恩顧の大名、福島正則(尾張国清洲)が率先して家康への恭順を表明し、続いて山内一豊(遠江国掛川)も居城を提供すると申し出るなど、東軍諸将が三成打倒を掲げ一つに結束したというのは、物語前半のハイライトシーンです。 - しかし、この評定が開かれた証拠を示す家康や各大名の書状は「一通も」見つかっていません。 福島正則にいたってはすでに東海道を西上の途にあり、小山には不在だったことがわかっています。 山内一豊の申し出云々も当時の記録にはなく、これらのエピソードは後世の編纂物でしか確認できません。 - また、「優柔不断な小早川秀秋に、家康は問鉄砲で裏切りを催促した」というよく聞く俗説も、揺らいでいます。 - ■小早川秀秋への「問鉄砲」はなかった - 【定説4】優柔不断な小早川秀秋に、家康は問鉄砲で裏切りを催促した 戦闘開始後、数時間が経過してなお東軍への寝返りを決行しようとしない小早川秀秋に対し、業を煮やした家康は秀秋の陣に「問鉄砲」を撃ちかける(大砲を撃ちかけたという説もあり)と、これに恐怖した秀秋はついに寝返りを決意し、戦いは一気に決着する──この場面は、まさに関ヶ原の戦いのクライマックスです。 - ただ、当時の記録には問鉄砲についての記述は見当たらず、宣教師の記録には秀秋は「開戦と同時に」家康方についたと記されたものもあります。 - 【定説5】島津義弘は、退却時に家康本陣を中央突破して武力を誇示した 義弘は三成の命令に反して終始陣を動かず、最後は島津の武力を誇示するために正面の家康本陣に突撃し、そのまま中央突破で戦場を離脱して、薩摩へ帰国したとされています。 - これらについては、戦後まとめられた島津将兵による証言等から、①義弘勢はもともと少数兵力だったため、二番備(にばんぞなえ)と呼ばれる予備兵力の役割だった、②後方の退路が潰走する味方と追撃する敵軍でごった返していたため正面突破を選んだ、③伊勢方面を目指したためたまたま家康の本陣前をかすめる形になった、などが真相のようです。 - 【定説6】徳川秀忠は「真田の妨害」により関ヶ原に遅刻した 物語では、中山道から関ヶ原に急ぐ秀忠の進軍を、信濃国上田城主、真田昌幸が妨害して足止めさせたため、秀忠は関ヶ原の決戦に間に合わず家康の怒りを買ったとされています。 - しかし、実際に秀忠が家康から受けていた命令は、中山道を進み上田城の真田氏を「攻略後に」上洛せよという内容だったことが、当時の史料(書状)からわかっています。 つまり、上田での「足止め」は当初からの「予定の行動」だったとも解釈できます。 結果的に遅参となったのは、秀忠の稚拙な攻撃・戦略が原因です。 - ■家康はやはり「完全な悪者」? - Q6. 最新の研究では、戦いの構図はどう解釈されていますか? - 家康が「完全に悪者(=反逆者)」になります。 - 秀吉の死後、家康は大老の地位にありながら豊臣家のルールを守らず、勝手な行為を繰り返したため、他の大老と奉行が結託し、政権から家康を排除しようと企てました。 そして、会津の上杉景勝(大老)の陽動を契機に家康が景勝追討を名目として東国へ出陣すると、大老・奉行の筆頭格となる毛利輝元、石田三成が秀頼を推戴(政権掌握)し、公儀の立場から家康を逆賊に指定しました。 - 三成らは九州・西国・北国から軍勢を集め、景勝は東北の諸大名を指揮下に置き、関東の家康を包囲殲滅する算段でした。 しかし、実際は足並みがそろわずに関ヶ原で敗北し、計画は破綻しました。 - Q7. 現在の「関ヶ原の戦い」はどのようにして生まれたのですか? - いくつかの段階を経て作り上げられました。 - まず全体的な下地として、天下を取った家康は、豊臣公儀の逆賊となった事実を隠蔽するため、三成1人をヒールに仕立て上げ、自らを正義(公儀)の側へと話をすり替えました。 その後、幕府による大名御家人の家譜(かふ)編纂事業の過程で、各子孫が関ヶ原に参戦したご先祖の活躍を「盛った」内容で申告し、それらの「誇大エピソード」が流布します。 - さらに、出版ブームに乗って作られた軍記物の小説が、これらを基に読者の反響を得ようと、さらなる「演出要素」を加えます。 やがてその?末が世間の一般的認識として定着して、既成事実化したと考えられています。 - ■「作られた物語」より「歴史の真実」を知る楽しみ - 京都にいた公家や僧などの日記には、関ヶ原の戦いに関する記述がいくつかみられます。 - たとえば、西軍による伏見城攻めについて、落城にいたる10日余りは連日昼夜にわたり鉄砲攻撃が行われ、その銃声は約12キロメートル離れた京都市中まで聞こえたと記され、すでに合戦での主要兵器が鉄砲に移行していた様子がうかがえます。 - こうした記録こそが、戦いの「真実の姿」を伝えるものでしょう。 現代の歴史ドラマや小説と同じで、後世に創作された「物語」には、フィクションが多く盛り込まれています。 - 近年は、「1次史料」の解読が進むのと同時に、「新たな史料」の発見などから次々と「歴史の真実」が解明され、日本史の教科書に書かれる内容も大きく様変わりをみせています。 - 本記事で解説した関ヶ原の戦いでも、聖徳太子でも、どの題材でも構いません。 ぜひ、小説やドラマなど「作られた物語を楽しむ」ところからもう一歩進み、「最新の日本史」を学び直すことで「歴史の真実を知る楽しみ」を体感してみてください。 - みなさんが学校で学んだときよりも、日本史は「大きく進化」しているからです。 - 山岸 良二 :歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師 - (東洋経済) - ↑ 世界史・日本史の大好きな私としては上記は当たり前のこと。 さらに言えば、いつでもどこでも歴史は勝者が作ることは当たり前。 - 日本の戦国時代で一番好きなのが三成。 一か月前も、三成が逃げ込んだ伊吹山や関ヶ原光成本陣跡なども見て回った。 - 当時は、三成も悔しい思いをしただろう。 仮に今、光成にインタビューしたら「もうどうでもいいよ。」と言うだろう。 追伸:
昨夜録画した「事件 18」をCMを飛ばしながら観た。
1943年生まれ京都府出身の俳優北大路欣也主演のサスペンスドラマだね。
追伸2:
2016年米映画「BFG ビッグ・フレンドリー・ジャイアント」を観た。
<10歳の女の子ソフィー(ルビー・バーンヒル)は、ロンドンの児童養護施設で生活していた。
寝付きの悪いソフィーが窓から夜の街を見ていると、身長約7メートルの巨人(マーク・ライランス)が出現し、彼女を巨人の国へ連れていく。
巨人の名はBFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント。
優しいBFGに、ソフィーは心を許すようになる。
そして、子供たちに夢を吹き込む仕事をしているBFGと一緒に、ソフィーは夢の国へと向かう。>
1960年生まれイングランド出身の俳優マーク・ライランス主演のファンタジーアドベンチャー映画だね。
巨匠スティーヴン・スピルバーグがロアルド・ダールの児童文学「オ・ヤサシ巨人BFG」を映画化した。
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『私たちの祖先はどこから来たのか? 「3万年前の大航海」への挑戦 「最初の日本人」は航海者だった』
最初の日本人は航海者だった
縄文時代より前の旧石器時代の遺跡は、日本でどれだけ見つかっているでしょうか?
正解はなんと1万以上。 これらの遺跡は、たいへん興味深い時空分布を示します。
3万8000年前より古い遺跡は、日本列島に存在するかどうか不明です。 ところがこの後、遺跡が急増するのです。
様々な理由から、これは日本列島へホモ・サピエンス、
つまり私たち現生人類がやって来たことのシグナルとみなせます。
広い意味で私たちの祖先と考えられる、この太古のホモ・サピエンス集団のことを、 「祖先たち」と呼ぶことにしましょう。
その頃の地球は氷期の最中にあり、気温が低く、海水面は今より80mほど下がっていました。 そのため地形も劇的に異なっており、例えば北海道はサハリンを通じて大陸につながる半島で、
台湾もアジア大陸の一部となっていました。
それでも対馬海峡や津軽海峡は開いており、琉球の島々も孤立していましたので、
祖先たちが日本列島へやって来るためには、海を越える必要がありました。
祖先たちの真の姿が見えてくるかもしれない
それは簡単なことではなかったはずです。
特に琉球の島々への渡海は、当時の人類が成し遂げた最も難しい航海だったに違いありません。
最長220kmに及ぶ島間距離に加え、世界最大の海流である黒潮が、
当時も今のように行く手を阻んでいた可能性が高いからです。
彼らが島へたどりついたのは、偶然の漂流のせいではなかったでしょう。 多数の男女が集団で渡らなければ、新たな土地で人口を維持できません。
さらに本州では、3万8000年前に、伊豆の島から黒曜石を運び込んでいた証拠があります。
これは世界最古の往復航海の証拠であると同時に、
この時期から意図的な航海術が存在したことの動かぬ証しです。
「海流に乗れば島につけるのでは? という考えがありますが、 それは世界地図と海流図を持っている現代人の発想です。
どこへ行くともわからぬ海流に家族を乗せるほど、彼らが向こう見ずだったとは思えません。
そのように3万年前の状況を理解できたら、祖先たちの真の姿が見えてくるのではないか?
そんな気持ちに駆られて、私は「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」を始めました。
プロジェクト・チームには、遺跡を調査する考古学者や人類学者、過去の海流を復元する古海洋学者、 人口維持に必要な移住者数をシミュレーションする数理生物学の専門家などがいて、
多角的に研究を進めています。
さらに海洋探検家が加わって、本物の海を相手に航海を体験するのです。
こうして、科学と冒険を融合させたプロジェクトがスタートしました。 人間の挑戦の歴史を究明する
前置きが長くなりますが、ここで、グローバルな視点からプロジェクトの意義を整理しておきましょう。
私たちホモ・サピエンスは、20万〜10万年前にアフリカで進化し、 5万年前以降に世界中へ大拡散を遂げたことがわかっています。
現在、ホモ・サピエンスが世界中に暮らしていることを、私たちは当たり前と思いがちですが、 人類は最初から世界中にいたわけではありません。
地球全体へ広がることができたのは、祖先たちが寒冷地を克服する装備や、
舟の発明といった技術革新を成し遂げたからで、
それが可能な創造力を進化させた人類だったから、と言えるでしょう。
日本への渡来も、そうした世界拡散の一幕だったわけですが、そこで困難な海を越えるというドラマがありました。 渡海としては、4万7000年ほど前に、インドネシアの海を越えてオーストラリア大陸へ渡った例があるのですが、
先に述べたように琉球の島への到達は困難です。
祖先たちがどうやってそれを突破したかを究明できれば、 人類の海への挑戦史の、大きな空白を埋めることができるはずです。
クラウドファンディングで資金を獲得
さて、強力なプロジェクト・チームはすぐにできましたが、課題は資金でした。
研究者だけで小さくやるなら、少額で済むでしょう。 しかしこのプロジェクトを研究者だけの体験で終わらせるのは「もったいない」と私は考えました。
多くの一般の方々と、この壮大な謎解き体験を共有したい。
しかし規模を大きくすれば、それだけ費用もかかります。
困っていたところ、上司の林良博・国立科学博物館館長から薦められたのが、 日本の国立の博物館としては初挑戦となる、クラウドファンディングだったのです。
初めての試みは試練の連続でしたが、博物館が一丸となって臨んだ結果、 875名の方々から総額2638万円が寄せられ、思い描いていた最初の実験航海を実現できることになりました。
クラウドファンディングは、プロジェクトを広く共有したいという私たちの理念と親和性が高く、 たいへん有効な方法だと感じています。
支援者の方々には、博物館が提供する多彩な特典以外に、定期的に進捗状況をお伝えし、
研究チームとの交流の場も設けています。
2016年、第一段階の実験航海
最初の実験に私たちが選んだのは、「草の舟を漕ぐ」というモデルでした。
与那国島を出発し、目指すのは直線で75km離れた西表島です。
太古の舟は遺跡に残っておらず、直接知ることはできません。 それでも当時の道具技術や、地元で入手可能な材料といった制約をかければ、可能性を絞れます。
竹や木といった候補もありますが、まず最初に、成形が容易な草の舟を試すことにしたのです。
与那国島に自生しているヒメガマという草を刈り、古来から島で使われているツル植物で縛って、 長さ6.4mほどの舟を作りました。
ヒメガマ舟は、速度こそ人が歩く程度でしたが、浮力と安定性が優れていることがわかりました。
そして時計やGPSを持たず、風やうねりや星など、自然のサインから針路を読みとって舟を進める、 テスト航海に挑んだのです。
漕ぎ手となったのは、地元を中心とする男女の若者たち。
移住をシミュレーションするため草舟は2艘にし、計14人が乗り込みました。
当日は曇天で目標の西表島が見えませんでしたが、そんな悪条件の中でも、 漕ぎ手たちは方角や時刻を正しく捉えていました。
それでも舟は海流に流されてしまい、私たちは実験の中断を余儀なくされました。
事後に解析した航跡データや海上保安庁の報告から、この日は北向きの海流が、
普段の倍以上に強まっていたことがわかりました。
こうして私たちの最初の挑戦は、海の厳しさを思い知らされる結果となったのです。 それでも祖先たちは、そうした困難を乗り越えて島にたどり着いています。
私たちも諦めることなく、試行を繰り返して、なんとか島へ到達する術を探して行こうと考えています。
次の舞台は台湾
私たちの最終目標は、台湾から与那国島を目指す大航海で、2019年頃の実施を目指して準備を始めています。
それは巨大な黒潮を越え、遠く水平線の下に隠れた目的地を目指す、
3日間ほどに及ぶタフな航海になるでしょう。
祖先たちは、そこでどんな舟を使ったのでしょう? 様々な可能性を検討していきますが、今年からスタートする台湾東海岸での活動では、
地元のアミ族の方々の協力を得て、竹の舟を試作する予定です。
彼らは台湾のどこから出発したのでしょう?
台湾の高山から琉球の島の視認性を確認し、舟のスピードと海流の強さを考えて作戦を練っていきます。
研究もさらに充実させます。 帆の可能性追究のほか、琉球だけでなく、
日本周辺の主要な海峡における祖先たちの活動を総覧することを計画中です。
そうして、かつてこの地域に存在したはずの、太古の海洋文化の全貌を解き明かして行きたいと考えています。
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航海プロジェクトについてもっと知るには 公式ウェブサイト・フェイスブック http://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/ https://www.facebook.com/koukaiproject/ テレビ番組(2016年に放映され番組がネットで視聴できます) GYAO! (1/27正午まで) http://gyao.yahoo.co.jp/p/11140/v00040/ ニコニコ動画(1/27正午まで) http://www.nicovideo.jp/watch/1482805619 TVer(1/27正午まで) http://tver.jp/episode/24440798/ 古代のホモ・サピエンスについて知るには 「世界遺産ラスコー展 クロマニョン人が残した洞窟壁画」 アフリカを出てユーラシアの西へ移動したホモ・サピエンス集団(=クロマニョン人)が発展させた、 素晴らしい芸術文化を紹介する日本初の展覧会です。
(現代ビジネス)
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20万年前にアフリカで生まれたホモ・サピエンスは5万年前にアフリカを出て少しづつ全世界に広がった。
3万5千年前に日本列島に到着し、1万年前に南アメリカ大陸の先端まで到達した。
まさに今の日本で言えば特定外来生物となる。
追伸:
次男がケガをしたということで学校の先生と妻が次男を連れて外科にいった。
中学校の「入学手続き・制服等の注文」があったので私一人で行き先生たちに事情を説明し
中学校の玄関で妻と次男の到着を待った。
一番最後になり制服やジャージやカバンや靴などの注文を行った。
追伸2:
2011年米映画「猿の惑星 創世記」をまたまた観た。
<現代のサンフランシスコ。高い知能を持つ猿のシーザーは人類に裏切られ、自分の仲間である猿を率い、
自由のために人類との戦いに向けて立ち上がることに。人類のごう慢さが、
猿の知能を発達させてしまう要因となり、人類にとって最大の危機を巻き起こしていく。>
1978年生まれカリフォルニア州出身の俳優ジェームズ・フランコ主演のSF映画だね。 |
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<外来種は悪くない?>日本で愛される七草もアメリカでは有害植物
アライグマ、タイワンザル、ヌートリア、マングース、カミツキガメ、ミシシッピアカミミガメ、ウシガエル、
ブラックバス、ソウギョ、ブルーギル、アメリカシロヒトリ、イエシロアリ、ウリミバエ、アメリカザリガニ、
アフリカマイマイ、オオアワダチソウ、オオブタクサ、セイヨウタンポポ、セイタカアワダチソウ。
・・・以上は日本生態学会が定めた日本の「侵略的外来種ワースト100」の一部である。 日本固有の生態系を危機に追い込むにっくき外来種である、というのがおおかたの日本人の考え方であろう。
だが、外来種というのは本当に悪さだけをしているのだろうか。 生態系というのは太古の昔から変わり続けてきたものではないのだろうか、
固有種が大切というのはただの感傷論ではないのだろうか・・・と言うのがフレッド・ピアス著
『外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD』(草思社)の趣旨である。
たとえば日本の固有種であるクズ(葛)。 万葉の昔から秋の七草の1つ。
根を用いて食材の葛粉や漢方薬(葛根湯)が作られ、つるを煮てから発酵させ、取りだした繊維で葛布を編み、
湯で溶かしたものを葛湯で、これは固まると透明もしくは半透明になり、
葛切りや葛餅、葛菓子(干菓子)などの和菓子になる。
しかしこのクズ、北アメリカでは繁茂力の高さや拡散の速さから、 有害植物ならびに侵略的外来種として指定され、駆除が続けられている・・・と聞くとどうか。
一方、筆者が子どもの頃ゆでて食べ生で食べたり、 遊びに使ったタデ科のイタドリ(別名スカンポ)は世界の「侵略的外来種ワースト100 選定種」の1つである。
地下茎は太く強靭で、生長も早い。
19世紀に観賞用としてイギリスに輸出され、旺盛な繁殖力から在来種の植生を脅かす外来種となり、 英国ではコンクリートやアスファルトを突き破るなどのわるもんである・・・と言うことを聞いたらどう思うか。
著者フレッド・ピアス氏は次のように言う。 *「そもそも外来種と呼ばれる動植物は、在来種が弱っている隙間に自分の陣地を見つけることで生きながらえ た。イタドリの場合でも生活排水や工場排水で植生が弱っているところ入り込んで緑を復活させた」
*「外来種の駆除より、環境の浄化が必要なのではないか」 *「外来種は交雑して固有種を絶滅させるというイメージがあるが、それだけではない。外来種がしげったことで その場所は勢いの弱くなっていた昆虫や小魚のすみかを提供する」
*「外来種への嫌悪感は危機を煽ることの好きなメディアが加担しているのではないか」 *「知っているものの好感から、知らないものへの嫌悪に続く斜面は滑りやすい」 この主張は直ちに民族浄化や移民拒否政策を連想させる。 これらは科学的根拠の薄いただの「思想」や「イデオロギー」ではないのか。
固有種(現地人)が離れたところを外来種(移民)が埋める・・・。
そのことにも極めて似ている。
そもそも生態系の混乱は産業革命や大航海時代、グローバリズムによって加速度的に進んだと考えるが、 それ以前にも生態系は変わり続けていた、そもそも不変で固有の生態系などと言うのはあるのか。
(メディアゴン)
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地球上の生き物たちの40億年の歴史をみれば
いろいろな生き物が進化しながら移動したり絶滅したりしていた。
今も通過点に過ぎず
これからもいろいろな生き物が姿形を変えて環境に合わせて進化し続ける。
最大の外来種は5万年前にアフリカ大陸から世界中に広まったホモ・サピエンスであろう。
追伸:
2009年米映画「ミドルメン アダルト業界でネットを変えた男たち」を観た。
<1995年、実業家のジャック(ルーク・ウィルソン)は妻子を残してLAへ飛び、
友人経営のクラブを立て直していた。一方、有能だが経営力のないウェイン(ジョヴァンニ・リビシ)と
バック(ガブリエル・マクト)はポルノ画像をネット上で有料公開するが、金銭問題で窮地に。
そこでジャックは、彼らが作ったカードの決済システムに着目、仲介者として参加する。
すると事業は見事に当たり、大金を手にするのだった。だがやがて、ジャックはFBIにマークされ、
家族崩壊の危機にも立たされてしまう…。>
1971年生まれテキサス州出身の俳優ルーク・ウィルソン主演の実話を基にしたドラマ映画だね。
追伸2:
2004年米映画「ミート・ザ・ペアレンツ2」を観た。
認められ、結婚式を前に両親を引き合わせることになる。彼は父親のバーニー(ダスティン・ホフマン)を弁護士、
母親のロズ (バーブラ・ストライサンド)を医者と説明していたが、実際はバーニーが休業中の専業主夫、
ロズは高齢者向けの性生活カウンセラーでグレッグも認める変わり者。
口裏合わせもできないまま当日を迎え両親はジャック一家をもてなすが、
何もかもが裏目に出てグレッグの嘘もバレてしまいジャックは激怒。
さらにパムが妊娠していることやフォッカー家の元メイドにグレッグと瓜二つの子供がいることも分かり、
1943年生まれニューヨーク州出身の俳優ロバート・デニーロ主演のコメディ映画だね。
1937年生まれカリフォルニア州出身の俳優ダスティン・ホフマンも出ている。
1942年生まれニューヨーク州出身の女優バーブラ・ストライサンドも出ている。
1965年生まれニューヨーク州出身の俳優ベン・スティラーも出ている。
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