南京マック2

改竄・隠滅のおそれがあるので印刷を勧める

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南京関連12

じんじんじん・・・・  760
許伝音はその宜誓口供書で、この新開路の事件について、もっと具体的に、つぎのように記述している。
「十三才以上、七十以下の女と云ふ女は日本兵〈に〉凌辱されました。
屡々続けざまに凌辱を受けたのであります。幾千とも知れない女達は、
日本兵に凌辱された揚句に殺されて屍体までも汚されて居ました。
市中及び其の外郭で繰り返し行は〈れ〉たこの兵士共の行為の例証として、私は南門の「シンカイ路七番地」の例を引用します。
その家では十一人が殺されたのであります。兵隊が戸口に来た時に、
年よりの祖父が応待に出ました。彼はその場で射殺されました。
七十を超えたその妻は何事がはじまったのかと思って且に出て来ました。
彼女は自分の夫から数歩の所で射殺されました。
彼等の娘が赤ん坊を抱いて出て来ました。
兵隊はその母と赤ん坊を二人共殺したのであります。
その家族には十七と十四になる二人の未婚の女の子がありました。
二人とも兵士に凌辱を受け〈た〉揚句に殺されました。
一人の女の子はテーブルの上の血の海の中で膣に棒切をつきこまれて横
〈た〉はって居り、もう一人は香水の瓶を膣につきさされて「ベッド」の血の中に横〈た〉はって居たのでありました。
五人の他の女も此の家で殺されたのであります。
即ち日本兵がその家で見付けた全員が殺されましく。
一人の少女は家の近くに、皆が殺されて後、
一日一晩かくれて居て助りました。」

(洞富雄)

『日中戦争史資料8』P28〜29



761
一月二六日 水曜日

 廃墟からの帰還、知り合いの女性に出会った。彼女はわたしに、
楊□の池に多数の死体があることを知っているか、
と尋ねた。そのことは多少聞いているので行ってみたい、と答えると、
同道しよう、と言ってくれた。しばらくして彼女の夫に出会い、彼が、
わたしとわたしの使用人を案内してくれることになった。
わたしたちは問題の池を見つけた。
黒焦げになったたくさんの死体が岸辺に転がり、
燈油かガソリンの空き罐二缶 が死体に混じっていた。
死人の両手は、背中のうしろで針金を使って縛られていた。
死体が何体あるのか、また、最初に機関銃で撃たれ、
そのあと焼かれたのかどうかはわからない。だが、
そうであればよいと思う。これ以外にも焼け焦げた死体は、
西側の小さいほうの池におそらく二〇体ないし四〇体あった。
履いていた靴のなかには兵士の靴ではないものもあり、
それらは一般 民間人の靴のようだった。
焼かれていない死体が丘陵地全体に見られる。

『南京事件の日々』 P137〜138




766
考えられるのは、揚子江だろうね
後は沼とか湖水とか

二千メートル、いやもっと広かったであろうか、
その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ。
見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、
そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。
大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた”イカダ”
のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、
死体の”山”はつづいていた。それは果てしなくつづいているように
思えた。

 少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は”屍の河”と化していたのだ



775
朝倉正男(1915年3月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 陥落してから、二日ぐらいしてから南京城内で掃蕩しました。
家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。調べることはせえへん。
捕まえて調べるので引っ張ることもあるし、
その場でぼんと銃でやってしまうこともあった。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P221



776
後藤忠信(1914年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

 敗残兵の処理は、連れてきて、捕虜収容所へ入れとるもんな。
収容所は下関にありましたでしょ。倉庫……、下関の港の倉庫やでさぁ、
大きいですなぁ。自分の分隊でも処理しとったんでしょうな。
上官の命令でな。いや、その場では私らねぇ、
手ぇかけて殺したっていうこと……。まぁとにかく、
男は生かしとくなっていうことはよう聞いてはおりましたけどなぁ。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P219



826
>南京大虐殺てされてる日にちの翌日の日にちの報道写真見れば
>大虐殺なんてなかったのがわかる。
>日本兵の周りで遊ぶ子供達に日本兵と笑いながら鍋を鍋をつついてる中国人。

でたーー!否定派の定番妄想大嘘!w 小林よしのりみたいな大嘘つきのマンガばかり
読んでるから無知を公開して恥かくハメになるんだってw以下の資料をよく読もう。

南京安全区国際委員のマッカラムは日記に以下のような情景を書き留めています。
「1938年1月9日−難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、ケーキ、
りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。
こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して
10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。」
「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」 南京事件調査研究会・編訳 青木書店



831
1937年9月9日、陸軍省報道検閲部局「新聞掲載事項拒否判定要領」(以下のような記事は掲載してはならないことになっている)
「我軍に不利なる記事写真」
「支那兵または支那人逮捕尋問等の記事写真中、虐待の感を与えるおそれあるもの」
「惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし 」
(「南京大虐殺否定論13のウソ」南京事件調査研究会 柏書房)

『「よいか、軍に不利な報道は原則としていっさい書いてはいかん。現地では許可された以外のことを書いてはいかん。この命令に違反した奴は即時内地送還だぞ。記事検閲を原則とし、とくに軍機の秘密事項を書き送った奴は戦時陸軍刑法で銃殺だ」
というわけで絶対的な軍命令の報道規制で、報道の自由どころか自由な従軍記事報道は許されない。』
『南京事件の真相』(熊本第六師団戦記)



832
否定派がよく言う映画「南京」のカメラマンも虐殺を見てる。

白井茂氏『カメラと人生』より
『延々とつづいている。これは何事だろうと思ったら、実はこの
人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。だから命乞いの
哀願だったのである。それがそうとわかっても、私にはどうして
やることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。
柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあっ
て、その上で銃殺が行われている。(中略)見たもの全部を撮ったわ
けではない。また撮ったものも切られたものがある。』



918
◆第十六師団歩兵第三十三連隊第三大隊 井戸直次郎
(強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。
そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるの見たで。
婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじゃ。もう無茶苦茶じゃ。(略)
街の中でも女が隠れ取る所を良く知っとるわ。
若いもんも、お婆あも、みんなやった。それからばれたらまずいから、
殺すんじゃ。南京に入る前から、南京に入ったら女はやりたい放題、
物は取りたい放題じゃ、と言われておった。
「七十くらいのお婆あをやった。腰が軽うなった」と自慢しよる奴もおった。
(略)慰安所作っても強姦は減らんわ。(『南京戦』pp275)



919
第十六師団第三十三連隊第三機関銃中隊 依田修
私らが行く所は慰安所というのはなかつたし、
いつも一線ばかりだったので慰安所なんかは行ったこともないし、
あるということも知らなかった。その代わりに「女性を徴発して来い」
と言いわたされることがあります。
夜中に一ぺん、「女を洗濯婦として徴用せよ」と言われたことがありました。
それは小隊に出た命令です。いい顔の女は皆連れて来ました。
大体向こうに行くとクーニャンは一人で部屋にいるんですな。
夜中に襲撃して、寝ている女性を二十人から三十人連れてきて、
各分隊に三人ぐらい配分する。
《略》分隊に配分された場合は分隊長からやるんです。
連れてきたときは抵抗するよりも泣いていましたな。
(『南京戦』pp97)


920
「斉藤曹長は<境>にいた頃から、軍務はしっかりするし、
ふだんは善い男だった。ただ女癖だけが滅法悪くて敬遠されていた。
女を強姦した経験のある兵隊だってチョイチョイあるが、彼の場合は、
作戦中にみたシナ人の女を必ず強姦して必ず殺した。
それも数十人斬りどころではなく、数百人斬りだろうと噂されていた。 
ところが昨年十二月初、<境>が貴州省の独山まで攻めこみ、
例によって彼が女を犯そうとしたとき、その女が日本語で「やめて」と叫んだ。
ビックリして事情を訊くと、横浜育ちの日本人でシナ人に嫁ぎ、
シナ事変勃発後は夫に従って独山にかえったのだという。
彼は単にやれなくなったばかりではない。
その日の驚きを親しい戦友にその日に洩らしただけで、
黙り込んでしまった。 人柄もすっかり変わり、女になんの興味も示さない。
軍務は依然としてキチンとするが、軍務以外のことは何もしゃべらない。」
(阪本楠彦『湘桂公路一九四五年』



921
I氏(伊達郡) 証言 第9中隊所属・伍長
南京附近で捕虜はかたまって無抵抗で投降してきた。
相当年輩の捕虜もおり、十四−十五歳の若者もいた。
敗残兵は少なかったのではないのか。捕虜収容所は幕府山の南側にあり、
そこから見た幕府山はなだらかにみえた。
山の下に”もろ”があり、捕虜はそこに全部収容した。
何日か収容した後、捕虜には『対岸に送る』と説明し、夕方、
五人ずつジュズつなぎにして、二日間にわたって同じ場所に連行した。
捕虜収容所から虐殺現場までは二−三キロメートルで、
一日目の捕虜連行数は四〇〇−五〇〇人だった。
虐殺現場は二階建ての中国海軍兵舎、一〇メートル位 の
桟橋が一本あったが、両日とも桟橋に船はなかった。
重機関銃は兵舎の窓を切り、銃口を出した。
笛の合図一つで銃撃を開始し、一〇分間位 続いた。
銃撃は一回だけだった。重機関銃は三−四丁あり、軽機関銃、
小銃も加わった。この時、我々歩兵は捕虜を取り囲んでいた。
死体処理は一日目はその夜のうちに揚子江に流し、
二日目は次の日に片付けた。                

『南京大虐殺の証明』P139

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第十六師団歩兵第三十三連隊第三っで検索して笑った。証言してる人、その部隊の人が多いみたいだけど、同じ人なのか。その舞台が鬼畜だったのか。聞いた。とか。見たとか、すごい卑怯だ。絶対自分がやってるはずだもん。聞いたとか、見たとか、伝聞って信用できない。

2013/8/7(水) 午前 0:46 [ pra**eacef*l* ]


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