南京マック2

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コメントどーぞ

スーパー南京大虐殺分析表

40万  抗日肯定派       誇大                極左
30万  親中反日肯定派     最大値               左翼
20万  中道肯定派       健全                中道左派
10万  嫌中肯定派       無難・妥当             中道中間派
4万   否定中間派       最小値               中道右派
     否定矮小(化)派  マヌケ 三流 旧陸軍、侵略好き    右翼
0万   否定幻(隠滅)派  馬鹿 アホ ペテン師 ジャップ ありえん 極右




対中侵略(日中戦争)犠牲者数(死亡)分析表

932万          中道左派
723万          中道中間派
438万          中道右派
        

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南京関連37

「世界の」・・・・71次資料  5
年12月18日『ニューヨーク・タイムズ』
南京特派員F・ティルマン・ダーディン

「南京を掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に匹敵するものは、ヨーロッパの暗黒時代の蛮行か、それとも中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。

無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、後ろ手に縛られて、場外の外側の処刑場に連行された。

塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に戦車の砲口が向けられることもあった。もっとも一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。

南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選び出すのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見過ごされ、命びろいをする場合もあった。

南京掃討をはじめて三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に潜んでいると強調した。(中略)
年齢・性別に関わりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。
日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖にかられて走り出すものは誰でも、射殺される危険があった。
日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内を回ると、民間人の死骸を毎日のように目にした。
老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。」
(『南京事件資料集・アメリカ関係資料編』 南京事件調査研究会・編訳)

南京関連36

「南京」・・・・68  579
佐藤 振壽(元毎日新聞記者)の証言
ちなみに100人斬り訴訟でウヨ側証人としてでた人です


 そんな時、連絡員の1人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせてき
た。何事がよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。
 行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、
その全景を撮った。


 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまザか
せて、後頭郡に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっ
ているように、回転して穴の底へ死体となって落ちていった。
 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声を
かけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」と
いう気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその
勢いで穴の中へ落下する。たまたま穴の方へ歩かせられていた一人の中国兵が、
いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた目本兵は、素早く小
銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れていない後方からの射撃だ
ったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。
 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。
緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだ。戦場で敵を殺すのは、殺さ
なければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持
たない人間を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せな
いのだろう。
 後で仲間にこの時のことを話すと、カメラマンとしてどうして写真を撮らな
かったかと反問された。「写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺されてい
たよ」と答えることしかできなかった。



南京大虐殺って・・・・  69
日本軍は南京城に達するまでにケチョンケチョンにやられて何千人も死んだんだよ。
南京城に着くまでの間に数万人の中国人民間人を虐殺している。
南京城に着いてから指揮官は兵隊達に「城内には女も酒も幾らでもある」と鼓舞した。
兵達は城に着くまでに散々やられたので弔い合戦気分で憎しみに満ちていた。

南京城攻略の後、時の司令官で昭和天皇の叔父の朝霞の宮は降伏した中国兵数千人を
城壁に向かって並ばせ、銃剣にて、一斉に刺し殺させた。

その後、城内の掃討作戦を実施し、城内に残っていた十数万人の中国人民間人を虐殺した。
日本政府の言う20万人は、城外で殺した分と城内で虐殺した分の合計である。



「世界の」・・・・69  128
> 日本軍が句容をこえて(12月7日)、進撃しはじめたことが中国軍による焼き払いの
> 狂宴の合図となったが、これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備を行っ
> ているものであった。中国の「ウエストポイント」である湯山には、砲兵学校と歩兵学
> 校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京へ向けて15マイ
> ルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払わ
> れたのである。

> 土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店に対する掠奪が拡がっていた。住宅に
> は手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。掠
> 奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。南京の商店は安全区以
> 外では経営者が逃げてしまっていたが、食糧は相当に貯蔵してあった」
>(12日)夕方には退却する中国軍は暴徒と化していた。中国軍は完全に潰滅した。中国
> 軍部隊は指揮官もなく、何が起こったか知らなかったが、ただわかっているのは、戦い
> が終わり、何とか生きのびねばならぬということだった



129
> 日曜日(12月12日)の正午(中略)、侵略軍(日本軍)が西門(水西門)付近から城
> 壁をよじのぼると(筆者〈注〉第6師団三明部隊の一番乗り)、中国軍の崩壊が始まっ
> た。第八八師の新兵がまず逃走し、たちまち他の者がそれに続いた。夕方までには大軍
> が下関(シャーカン)の方へあふれ出たが、下関門(把江門)はまだ中国軍の手中にあ
> った(筆者〈注〉このとき把江門でパニック状態が起き、人なだれとなって多くの中国
> 人が死傷している)。
> 将校たちは(この)状況に対処することもしなかった。一部隊は銃を捨て、軍服を脱
> ぎ、便衣を身につけた。記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が
> 軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽と言ってもよいほどの光景であった。多くの兵
> 士は下関(シャーカン)へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に入り込んで便衣に
> 着替えてくる者もあった。中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士
> もいた・・・・
> 日曜日の夕方には中国軍は安全区全体にひろがり、多数の者が、一般市民から便衣を盗
> んだり、頼んでゆずってもらったりした。“一般人”が一人もいない時は、それでも兵
> 士達は軍服を脱いで下着一枚になっていた。
> 軍服とともに武器も遺棄されて、街は小銃・手榴弾・剣・背のう・軍服・軍靴・ヘル
> メットでうずまるほどであった。下関付近で遺棄された軍装品の量はおびただしいもの
> だった。交通部の前から2ブロック先までは、トラック・砲・バス・指揮官乗用車・荷
> 馬車・機関銃・小火器がゴミ捨て場のように積み重ねてあった。
> 日曜日(13日)いっぱい、中国軍部隊の一部は市内の東部および西北地区で日本軍と
> 戦闘を続けた。しかし袋のネズミとなった中国軍の大部分はもう闘う気力もなかった。
> 何千という兵士が外国人の安全区委員会に出頭し、武器を捨てた。委員会はその時は日
> 本軍が捕虜を寛大に扱うだろうと思ったので、降伏してくるものを受け入れるほかなか
> った。中国軍の多くの集団が個々の外国人に身をまかせ、子供のように庇護をもとめた。




盧溝橋   23
矢次一夫(国策研究会主宰)

 「女房もちの多くの兵たちが、突然動員され出征させられるのだから、中国各地で性犯罪が頻発するであろうことは自明だったのだが、これを抑制したり取り締まったりする方法はなかったわけだ。
 事実当時の逓信事務次官だった小野猛は、極秘だが、お目にかけよう、といって、数冊の分厚い写真帳を貸してくれたので、ひらいて見たら、暴行のかぎりをつくした写真が一杯ある。血刃を指し上げている一兵士の周囲に、数十箇の中国兵の首級が陳列されているものだとか、近衛に相似した中国兵の首級を木の枝にひっかけ、葉巻をくわえたような形で切断した男根を口にさしこんだものだとか、今や正にエイッと中国兵を打首にしようとしているものだとか、筆紙につくしがたい残虐写真が満載されていた」
 「私はこれをちょっと貸してくれ、と頼み、正午の国策研究会常任理事会にもちこんで、食事が済んだら大変な資料を見せる、と言ったら、下村海南、大蔵公望、今井田清徳、大橋八郎などの役員たちが、食事前でもよいから、見せろ、といって聞かない。私が、食事がまずくなる、というのに、下村海南など、思わせぶりをするなよ、早く見せろ、というので、では、といって写真帖を開いた。
 一同はこれを取り囲んで一見するや否や、さすがに顔色が変わり、ううんと唸ったっきり、しばらくは一言を発するものもない。これらの写真は、小野の説明によると、出征兵士たちが、自己の武勇?を誇示するためかどうか、写真に撮って家郷に送ったものが、途中検閲によって押収されたものだということだ。日本民族に潜在する残虐性が戦場という異常状態で爆発したものであるにせよ、かつて外国人によって書かれた『泰天二十年』に見られる日露戦争当時の、軍規整々、を謳われたものと同じ日本人、しかも私共の祖父の時代であるだけに驚きは大きく、とくに下村海南は、日露役当時逓信省の局長として活躍した人物だけに、痛恨の情は、ひとしおであった」

   ( 矢次一夫 『昭和動乱私史 上巻』 )



「反日に反撃」・・・・  353
第16師団では>>343の通りに捕虜殺害命令がでていた。

児玉義雄氏の述懐古 (歩兵第三十八連隊副官)
聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、
師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ」と電話で
伝えらた。私は、これは、とんでもないことだと、大きなショックをうけた。

 俘虜の数は約一万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おった
と記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言っ
てきましたので拒否しましたら、
しかし、人間は水さえ飲んでいれば十日や二十日は保つというから、食飼のことは何とかなるだろう。

 参謀長に指示をうけようとしたが、参謀長は即座に「捕虜はつくらん」と言われたので、後方参謀に話した。
「証言による『南京戦史』



南京大虐殺があったことを・・・・  105
南京攻略戦では、住民が反抗的態度に出たと言うので、「十里四方の住民全部を殺せ」という軍
命令が出された。兵隊たちは村落を包囲し、手当り次第、住民を銃剣で突き殺した。婦女子は特
にむごい殺し方をした、と彼等は酔がまわるほどに手ぶり、身ぶりで、その状況を実演して見せ
るのである。その残酷さは目をおおわせるものがあった。夜半、帰還兵の一人、泣き上戸の彼が
泣きわめきながら、「許してくれ―おれのせいじゃないんだぞ―」と、暗いローソクのもとで半
狂乱の姿をさらしていた。
朝香進一『初年兵日記』

第十軍従軍カメラマン河野公輝の証言
川沿いに女たちが首だけ出して隠れているのを、引き上げて殺した。 陰部に竹を突き刺された死
体が昆山にいたるまで、 えんえんと道ばたに転がされていた。 蘇州での強姦と略奪もすさまじい
ものだった。 ここは、美人の産地とされているが、 娘であろうが人妻であろうが片っ端から強姦
した。 そして、終わった後は、必ず殺した。 どうゆうわけか、みんなそうした。 強姦に飽きると
、肉親同士に交わりを命じ、 それを見物するようなことも、あちこちでなされた。
『目撃者が語る昭和史第5卷 日中戦争』

南京以外2

対中侵略(日中戦争)犠牲者数分類表1,1
少なめで800万〜1000万 中道(左派)で1000万から1400万 多めで1400万から2000万
やや少なめにとって
少なめで600万から800万 中道(左派)で800万から1100万 多めで1100万から1500万
といったところ



山本弘・・・・2  86
続き。東京101Dについて陳瞬臣氏が書かれておられるが、
「捕虜になった中国兵が、もう一度やる元気があるかと日本兵に言われて、
101となら何べんでもやってやる。と、答えたそうだ。第101師団は
東京の招集兵が主体で、あまり強くなかった。」
元東京101Dの坂田甚蔵氏は、云われる。
「私ら部隊は、戦闘は弱いけど、悪いことでは天下一品だった。
だから鬼部隊と呼ばれてね。街に入ったら強い。なにしろ略奪や強姦は
お手のもので、部隊にちゃんと火つけ班まで出来ていたんだからね。」



南京大虐殺や慰安婦・・・・
悪いことし放題じゃった。十人おって九人まで強姦しとらん奴はおらん。自慢話にもなっとる。 慰安婦、慰安婦いうて、三十人くらいの女をたいがいの部隊では連れ歩いておった。pp276

  (自分が強姦した中国の女性は)十人じゃきかんわと、三十人くらいじゃろうか、ようは覚えとらん。 それは勘弁してくれ・・・・・。第一線部隊はそんなもんじゃ。(『南京戦』松岡環編より)

うけうり8

やっぱり南京大虐殺は・・・・  2
事実は事実として認識した方がいいと思う。やっぱり歴史は正確に伝えないと。
俺だって、南京大虐殺なんて信じたくない。俺の祖父がそんな事をしたとは思いたくもない。
できれば日本人は清く美しく、みたいなの信じたくて南京大虐殺は否定したい。否定したいよ。
でも、俺の祖父は南京大虐殺の事はずっと心に閉まっておこうと思ったらしいんだけど、やっぱり
それができなくて、苦しくて、自分の過去をざんげしてすっきりしたいという風に思ったみたい。
それで俺にいろいろ教えてくれたし、全部話してくれた。

祖父の部隊だけでも2ヶ月で中国人を3千人〜5千人は殺したといっていた。
当時は上からの命令で「シナ見たら殺せ、焼き尽くせ!」というのがあったらしく、
やられる前にこちらからやっちまえ!というのも後押しして、それで女、子供、老人までも殺したらしい。
死体の処理は、焼却という方法をとったらしい。祖父の部隊はそうだったと言っていた。
他の部隊がどんな死体処理法をとったかまでは分からないと言っていた。
とにかく祖父の部隊だけで3千体以上の死体を焼却したとも言っていた。



41
私も祖父から話を聞いたことがあります。祖父は宇治川電気という発電所の技師でこれは後に関西電力に吸収されたようですが、
南京の発電所で働いていたとき、南京大虐殺のことを中国人の部下から聞いたとのこと。人を殺して生めるのが大変なので
川岸に並んで立たせて機関銃でうち殺したということです。死んだあと川に落ちてかってに流れていったとのこと。
とにかく半端な人数ではなく、また要領のいい人間は撃たれたふりをして、自ら川に
飛び込み泳いで逃げたとのこと。そうしてもばれないくらいの規模だったようです。



329
私の母方の祖父が、1と似たような経験してるんで、私は南京大虐殺はあったと思います。
ただ1と違う点は、私が祖父から聞いた話では、死体は焼却ではなく川に流したと言ってました。
来る日も来る日も大量の死体を川に流す作業をしていたようです。
その中には女性や小さな子供など、一般市民も多く含まれていたと言っておりました。
証拠を残すな、という上からの指令があったようで、毎日毎日死体を流す作業をしていたそうです。
不思議な事に私が祖父から聞いたのは、平成に入ってからなんですよ。たしか、平成8年くらいだったと思います。
祖父が亡くなったのは平成9年ですから、亡くなる前に南京大虐殺の話をしてくれたと言う記憶が私自身あるので、
平成8年に間違いはないと思います。でも祖父は南京大虐殺という言葉は使ってはいませんでした。
自分の部隊だけでも無抵抗のシナ人を大勢殺した、という言い方でした。
それまでは中国人に対する殺害の事は何一つ話ませんでした。
祖父が生前、日記をつけてたのであれから日記などいろいろ探してるんですが、
1937年から1938年5月までは日記が抜けてるので、あの時祖父の話を録音していれば
良かったと今になって思います。


やっぱり南京大虐殺は・・・・  650
>国連においては「根拠のない政治宣伝」とされ、全く相手にされなかった。
歴史に残る大虐殺がすべて発生直後に国際連盟や国際連合で非難決議されているわけではない。
発生時期に国際機関の公然の非難決議がないから虐殺が実在しないというなら、
ホロコーストもポルポトの残虐行為もチベットでの残虐行為もなかったことになる。
国際社会の非難決議があるかどうかは、残虐行為そのものの規模よりは国際社会が
その残虐行為にただちに向き合う余裕と意欲があるかどうかにかかっているのである。

>確かに、南京攻略後、捕虜・敗残兵・便衣隊処分が行われたが、民間人が虐殺された
などという当時の記録も証言も無い。
いくらでもあるでしょ。無差別殺害命令も出ていましたよ。

・第六師団が抗洲湾に上陸、崑山に直進中、第六師団司令部に「女、こどもにかかわらず
シナ人はみな殺せ。家は全部焼け」という無茶苦茶な命令が届いた。
・南京攻略戦では、住民が反抗的態度に出たと言うので、「十里四方の住民全部を殺せ」
という軍命令が出された。兵隊たちは村落を包囲し、手当り次第、住民を銃剣で突き殺した。
婦女子は特にむごい殺し方をした、と彼等は酔がまわるほどに手ぶり、身ぶりで、その状況を
実演して見せるのである。その残酷さは目をおおわせるものがあった。
・みんな殺せという命令が、抗州湾上陸の直後に出された。河野さんは、たしかに命令伝達書を見た。
そこには、つぎのようなことが書かれていた。
 ―共産主義の暴虐を許さず、共匪の跳梁を粉砕するため、農夫、工夫はもとより、
女子どもにいたるまで、全員殺戮すべし。
・この兵は抗州湾に上陸して、上海戦線の腹背を衝いた柳川兵団の兵士であった。
私はその兵士から、兵団長の命令なるものを聞いて暫らく信じられなかった。それは、
生ある者は皆殺せ、家は悉く焼け、と言うのである。
http://www.geocities.jp/yu77799/minkanjin.html



「世界の」南京大虐殺・・・・67  342
俺が思うのはいちおは南京の虐殺は認めたほうがいいと思うよ。
どのくらい虐殺があったのかは分からんけど。
俺の祖父は94歳でまだ元気なんだけど、ずいぶん南京で酷い事を
したっていうのは言ってる。銃剣で胸を突くのが祖父の役目で、
多い時は祖父一人で一日400人くらい中国人の胸を突いて、
殺したといってるよ。いつもこの話になったら祖父は突く真似をやって教えてくれるんだけど、
肩が痛くなったって言ってる。



370
皇族の三笠宮親王様も南京での虐殺を認めてますし、中国に謝罪していますから、
おそらく南京で大きな虐殺はあったのだと思います。

ちなみに、私の祖父は、2年前に中国に行って、慰霊碑に謝罪しています。
祖父は南京攻略戦に参加した元少尉です。
士官学校も出ています。私も祖父にはあまり踏み込んだ事は聞かなかったのですが、
約700名〜800名の一般人を射殺したと言っていました。その中に中国兵はいなかったそうです。
全員、女性、幼い子供、老人らしいです。その時に、祖父は仏像、絵巻物を中国人から取り上げ、それを2年前に中国に返しに行きました。
慰霊碑に行けば祖父が返したものが今もあるのではないでしょうか。祖父はそれだけが心残りだと言っていました。
慰霊碑の前で泣いていました。帰りは、体調を悪くし中国のホテルで休養したくらいです。



「世界の」・・・・66  504
要は、部隊の方針で虐殺を行った部隊もいるし、
しなかった部隊もあるという事。否定派はそれを素直に認めない。
しかし率としては虐殺を行った部隊の方が遥かに多く、虐殺を黙認する部隊が多く、
それらの行動が目立ってたといういう事。

虐殺見なかったというのは、たまたま虐殺を行わなかった数少ない部隊にいたか、
それかその本人の特殊性から、一人だけ高い人権感覚を持って虐殺を拒否したか、
それか、なにか特別な宗教に入っていたかのどちらかだよ。

当時のごく普通の日本兵は、中国人をシナ、シナと明らかに差別し、ぜんぜん人間として見てなかった。
だから中国人を殺すのも抵抗すらおぼえなかったというのが、本当の姿。
しかし、否定派はそれを認めようとせず、極めてごく少ない、極めて稀な高徳な日本兵の
行動、振る舞いを例に出し、それを全体の日本兵と強引に信じ込み、
「だ か ら な か っ た !」と興奮しながら結論づけようとする。

高徳な人間は少なからず中国軍にもいただろうし、日本軍にもいた。
それらの人間を一般化するのは間違っている。
当時から「いい人」はどこの国にも、どこの軍にもいる。しかし、これは例外中の例外。



571
日中戦争のさなか、1937(昭和12)年12月に起きた南京事件から
70年。日本軍の通信隊員として南京攻略に参加した谷正三さん(92)=大津市真野4丁目=は、
今も悲惨な光景が目に浮かぶ。南京への道すがら、何度も目撃した日本兵による虐殺――。
太平洋戦争開戦の日の8日を前に、大切に保管してきた当時の日記や写真などを手に取ると、
心に刻み続けた言葉がよみがえるという。「あんな悲惨なことを二度と繰り返してはいけない」(鬼原民幸)

谷さんは35年に徴兵され、京都市伏見区の第16師団通信隊に入隊。
戦地に電話線を引くなどし、通信網を確保するのが任務だった。
37年夏、上海付近に上陸して西へ、南京に向かった。

日本軍侵攻の情報が入っていたためか、途中の村々で住民の姿はほとんど見かけなかった。
しかし、南京に近づき、差しかかったある集落で、谷さんと行動を共にしていた別の部隊の兵士が、
わずかに残っていた住民を銃剣で次々と刺し殺していった。
中には軍刀の切れ味を自慢げに試すように、無抵抗の住民を切りつけた兵士もいたという。
谷さんは「上官が止めないのをいいことに、競い合っているようだった」と話す。
別の集落では、多くの中国人が捕虜として拘束されていた。顔見知りの兵士が谷さんに、
「(捕虜を)殺しに行かないか。なかなか経験できないぞ」と声をかけてきた。
今でも恐ろしい思い出だ。「同年代の兵士だったから断ることができた。あのとき殺していたら、
一生罪を背負わなければならなかった」

当時の仲間と続けていた「戦友会」の集いは、亡くなる人が増えて数年前に解散。
戦争の記憶を振り返る機会は減った。「日本軍はひどいことをたくさんした。
人間同士で殺し合うことが、どれだけむなしいことか。
戦争は、もう絶対に繰り返してはいけない」。谷さんの思いは募る。



「中国」  239
子供の頃(70年代)、じいさんの戦友だった人がうちに遊びに来た。
夜になって酒が入ると中国戦線の思い出話になったのだが、まともな交戦の話がほとんどなくて、
行軍中シナ人の家に上がりこんで食料を奪って皆殺しにしただの、捕まえた捕虜を突き殺すのを
皆われを争って希望しただの、そんな話ばかりだった。
子供の俺は「敵国人を殺すのはいいことだ」と別に疑うこともなかったので、そんな祖父たちを
ただ単純にすごいなあと思っていた orz

俺の実家は九州某都市、祖父の出征はちょうど昭和11〜14年頃。
後から知ったが、当時熊本の第6師団が上海から南京に攻め上ったらしい。
俺のじいさん、たぶん南京でも人殺しをしてたんだろうと思う。




南京大虐殺は・・・・  155
最近の若い人は戦争に行った人の話を聞いた事がないのかね。
強姦、略奪が戦地での楽しみだったと自分が話をした老人は言ってたよ。
当時中国人は犬コロ以下の存在なんだから、殺すのに合理的な理由なんか不要だったんじゃないか。

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