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[社説]「日本、・・・・ 95
塚本誠 (元憲兵大佐) 『ある情報将校の記録』より
「昭和十年十一月、日本の工作により華北に段汝耕を主班とする冀東政権が樹立された。
これは段汝耕という留日学生出身の、中国ではあまり高く評価されていない男に、通州
を中心とした停戦地域内に地方政権をたてさせ、そこを通じて日本の商品を合法的に中
国に「密輸出」しようとしたものである。
日本の商品は大連に陸上げされると、鉄道で満州を通ってこの政府の「領土」にはい
る。その時、その商品はごく安い税がかけられる。冀東政権は中国のなかにある地方政
権ということになっているから、ここで一度税をかけられた商品はそこから中国のどこ
に運ばれようと、中国では二度と税はかけられない。いや中国があえてそれに税をかけ
ようとすれば日本から厳重な抗議が出ることを覚悟しなければならない。
だからこういう合法的密輸品が中国の市場に大手をふって汎濫すれば、中国の商工業
は破算するしかない。もし中国政府にそれを阻止する力がないとすれば、中国はもはや
国家の破算を待つばかりだ。これが中国の愛国者を捉えた切迫した感情だった。
この感情で一番ゆさぶられたのは若い学生たちだった。
十年十二月、北京の学生が冀東政権に反対して起ちあがると、それにつづいて上海で
は学生が蒋政府に対して対日抗戦の請願デモを行った。これは必然的ななりゆきである。
この運動はたちまち全土に波及した」
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山内三郎(元満州製薬株式会社社長)
「新しく作られた自治連合政府(冀東防共自治政府)が、親日派を長官に選び、日本の軍部と手を握っていたことから、この冀東地区こそ、満州、関東州などから送り込まれるヘロインなどの密輸基地の観を呈し始めたのである。
首都は通州に所在したが、この首都郊外ですら、日本軍特務機関の暗黙の了解のもとに、麻薬製造が公然と行なわれたのである。
冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった。全満州、関東州は、冀東景気で湧き返った。徴兵検査前の日本人の青少年がヘロイン製造と販売のいずれかにちょっと手を染めるだけで、身分不相応な収入を得ることができ、彼らの遊び興ずる姿が、天津の花柳界に夜な夜な見うけられるようになった。
大連の花町やダンスホールなどは、当時の金で一晩に数百円の遊びをする青年たちによって埋められた。
ヘロインの結晶づくりで、一キロにつき千円の儲け(工賃)があり、一晩に五キロや一〇キロは大した苦労もなしに作ることができたから、金を湯水のように浪費することは当然のように考えられていたのである。
冀東地区のヘロイン原料は、やはり熱河とか張家口あたりを窓口にして綏遠産が主に運び込まれていた。業者が増えると販売競争が激しくなり、業者間で取締り当局に競争相手を売ることもあった。だが、警備当局が業者の工場に踏みこんでみると、すでに日本軍の憲兵の手がまわっていて、たとえ証拠物件のヘロイン粉を押収したりしても、必ずあとから特務機関本部に呼び出しがあって、却って家屋侵入を責められることになるのがオチであった」
(『人物往来』1965年9月号 山内三郎(元満州製薬株式会社社長)「麻薬と戦争」)
盧溝橋事件・・・・ 361
秦郁彦氏 『中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を』より
この種の残虐事件で、今もよく引き合いに出されるのが、盧溝橋事件から
三週間後に北京近郊の通州で起きた邦人虐殺事件である。死者百二十数人と数
も多く、その惨状を見聞きして敵愾心を高めた京都第十六師団の兵士が、華中に
転戦して南京で報復したという説すらある。当時の日本の新聞も大々的に宣伝し
たものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州
の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、いわば飼犬に
手を噛まれたようなもの。さすがの日本軍も、殷汝耕政府主席の費任は問えな
かった(戦後、漢奸として処刑)。
[世界の]南京大虐殺・・・・62 140
まあ、ウヨ厨くんらが「通州事件」を虐殺事件だと言いたいなら、それも「数の問題ではない」と言いたいなら、あえて反対はしないが、そうすると奇妙な事に、南京事件こそ正真正銘の虐殺事件として認定せざるを得なくなるわけだが・・・・。(藁
で、通州事件において襲撃を受けたのは、主に日本の守備隊と特務機関である。これは
ある意味で君らが南京事件で日本軍の活動を正当化している様に、戦争における戦闘
中の行為だから、虐殺には当たらないとも言える。
200数十人の犠牲者の内、何人が「非虐殺者」で何人が「戦死者」であるか、南京事件
の定義に沿って、もう一度カウントし直してみる必要があろう。(あと朝鮮人のアヘン取引業 者なども殺されたらしいが、彼らが「正当な被虐殺者」?の定義に含まれるかどうか、厳密に精査する必要も出てくるだろう。
信夫信三郎氏「聖断の歴史学」より
>七月二九日、保安隊は予定の行動に蜂起した。日本軍の守備隊は、北京南苑の攻撃に
>向っていて通州の守備は手薄であった。まさか傀儡政権の保安隊が抗日の蜂起をするとは
>夢にもおもわず、逆に通州は安全だというので北京から戦火を避けて避難してくるものさえあった。
>日本軍は完全に虚をつかれた。留守を守る守備隊の数は、寄せ集めて百十名ばかりであった。
>保安隊の攻撃は、通州守備隊と特務機関に集中した。守備隊長藤尾心一中尉と機関長細
>木繁中佐は戦死した。
http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html
「戦死」と言ってますが・・・・。(藁
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