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			<title>南京マック２</title>
			<description>パスワードを勝手に変えられて南京マックにアクセスできなくなったので</description>
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			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>南京マック２</title>
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			<description>パスワードを勝手に変えられて南京マックにアクセスできなくなったので</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2</link>
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		<item>
			<title>コメントどーぞ</title>
			<description>スーパー南京大虐殺分析表&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４０万　　抗日肯定派　　　　　　　誇大　　　 　　　　　　　　　　　　極左 &lt;br /&gt;
３０万　　親中反日肯定派　　　　　最大値　　 　　　　　　　　　　　　左翼 &lt;br /&gt;
２０万　　中道肯定派　　　　　　　健全　　　 　　　　　　　　　　　　中道左派 &lt;br /&gt;
１０万　　嫌中肯定派　　　　　　　無難・妥当　　 　　　　　　　　　　中道中間派 &lt;br /&gt;
４万　　　否定中間派　　　　　　　最小値　　　　　 　　　　　　　　　中道右派&lt;br /&gt;
　　　　　否定矮小（化）派　　マヌケ　三流　旧陸軍、侵略好き　　 　右翼 &lt;br /&gt;
０万　　 否定幻（隠滅）派　　馬鹿　アホ　ペテン師　ジャップ　ありえん　極右&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対中侵略（日中戦争）犠牲者数（死亡）分析表&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
９３２万　　　　　　　　　　中道左派&lt;br /&gt;
７２３万　　　　　　　　　　中道中間派&lt;br /&gt;
４３８万　　　　　　　　　　中道右派&lt;br /&gt;
           　　　　　　　　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/16696994.html</link>
			<pubDate>Wed, 17 Sep 2008 23:27:42 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>南京関連３７</title>
			<description>「世界の」・・・・７１次資料　　５&lt;br /&gt;
年12月18日『ニューヨーク・タイムズ』 &lt;br /&gt;
南京特派員Ｆ・ティルマン・ダーディン &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「南京を掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に匹敵するものは、ヨーロッパの暗黒時代の蛮行か、それとも中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、後ろ手に縛られて、場外の外側の処刑場に連行された。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に戦車の砲口が向けられることもあった。もっとも一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選び出すのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見過ごされ、命びろいをする場合もあった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京掃討をはじめて三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に潜んでいると強調した。（中略） &lt;br /&gt;
年齢・性別に関わりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。 &lt;br /&gt;
日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖にかられて走り出すものは誰でも、射殺される危険があった。 &lt;br /&gt;
日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内を回ると、民間人の死骸を毎日のように目にした。 &lt;br /&gt;
老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。」 &lt;br /&gt;
（『南京事件資料集・アメリカ関係資料編』　南京事件調査研究会・編訳）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/10266070.html</link>
			<pubDate>Wed, 11 Jun 2008 18:49:35 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>南京関連３６</title>
			<description>「南京」・・・・６８　　５７９&lt;br /&gt;
佐藤　振壽（元毎日新聞記者）の証言 &lt;br /&gt;
ちなみに100人斬り訴訟でウヨ側証人としてでた人です &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
略 &lt;br /&gt;
　そんな時、連絡員の１人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせてき &lt;br /&gt;
た。何事がよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。 &lt;br /&gt;
　行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、 &lt;br /&gt;
その全景を撮った。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
略 &lt;br /&gt;
　右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまザか &lt;br /&gt;
せて、後頭郡に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっ &lt;br /&gt;
ているように、回転して穴の底へ死体となって落ちていった。 &lt;br /&gt;
　左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ！」と声を &lt;br /&gt;
かけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ！」と &lt;br /&gt;
いう気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその &lt;br /&gt;
勢いで穴の中へ落下する。たまたま穴の方へ歩かせられていた一人の中国兵が、 &lt;br /&gt;
いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた目本兵は、素早く小 &lt;br /&gt;
銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れていない後方からの射撃だ &lt;br /&gt;
ったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。 &lt;br /&gt;
　銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。 &lt;br /&gt;
緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだ。戦場で敵を殺すのは、殺さ &lt;br /&gt;
なければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持 &lt;br /&gt;
たない人間を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せな &lt;br /&gt;
いのだろう。 &lt;br /&gt;
　後で仲間にこの時のことを話すと、カメラマンとしてどうして写真を撮らな &lt;br /&gt;
かったかと反問された。「写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺されてい &lt;br /&gt;
たよ」と答えることしかできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺って・・・・　　６９&lt;br /&gt;
日本軍は南京城に達するまでにケチョンケチョンにやられて何千人も死んだんだよ。 &lt;br /&gt;
南京城に着くまでの間に数万人の中国人民間人を虐殺している。 &lt;br /&gt;
南京城に着いてから指揮官は兵隊達に「城内には女も酒も幾らでもある」と鼓舞した。 &lt;br /&gt;
兵達は城に着くまでに散々やられたので弔い合戦気分で憎しみに満ちていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京城攻略の後、時の司令官で昭和天皇の叔父の朝霞の宮は降伏した中国兵数千人を &lt;br /&gt;
城壁に向かって並ばせ、銃剣にて、一斉に刺し殺させた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、城内の掃討作戦を実施し、城内に残っていた十数万人の中国人民間人を虐殺した。 &lt;br /&gt;
日本政府の言う２０万人は、城外で殺した分と城内で虐殺した分の合計である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「世界の」・・・・６９　　１２８&lt;br /&gt;
&amp;gt; 日本軍が句容をこえて（１２月７日）、進撃しはじめたことが中国軍による焼き払いの &lt;br /&gt;
&amp;gt; 狂宴の合図となったが、これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備を行っ &lt;br /&gt;
&amp;gt; ているものであった。中国の「ウエストポイント」である湯山には、砲兵学校と歩兵学 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京へ向けて１５マイ &lt;br /&gt;
&amp;gt; ルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払わ &lt;br /&gt;
&amp;gt; れたのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt; 土曜日（11日）には、中国軍による市内の商店に対する掠奪が拡がっていた。住宅に &lt;br /&gt;
&amp;gt; は手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。掠 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。南京の商店は安全区以 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 外では経営者が逃げてしまっていたが、食糧は相当に貯蔵してあった」 &lt;br /&gt;
&amp;gt;（12日）夕方には退却する中国軍は暴徒と化していた。中国軍は完全に潰滅した。中国 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 軍部隊は指揮官もなく、何が起こったか知らなかったが、ただわかっているのは、戦い &lt;br /&gt;
&amp;gt; が終わり、何とか生きのびねばならぬということだった &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１２９&lt;br /&gt;
&amp;gt; 日曜日（12月12日）の正午（中略）、侵略軍（日本軍）が西門（水西門）付近から城 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 壁をよじのぼると（筆者〈注〉第6師団三明部隊の一番乗り）、中国軍の崩壊が始まっ &lt;br /&gt;
&amp;gt; た。第八八師の新兵がまず逃走し、たちまち他の者がそれに続いた。夕方までには大軍 &lt;br /&gt;
&amp;gt; が下関（シャーカン）の方へあふれ出たが、下関門（把江門）はまだ中国軍の手中にあ &lt;br /&gt;
&amp;gt; った（筆者〈注〉このとき把江門でパニック状態が起き、人なだれとなって多くの中国 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 人が死傷している）。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;　将校たちは（この）状況に対処することもしなかった。一部隊は銃を捨て、軍服を脱 &lt;br /&gt;
&amp;gt; ぎ、便衣を身につけた。記者が１２日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が &lt;br /&gt;
&amp;gt; 軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽と言ってもよいほどの光景であった。多くの兵 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 士は下関（シャーカン）へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に入り込んで便衣に &lt;br /&gt;
&amp;gt; 着替えてくる者もあった。中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士 &lt;br /&gt;
&amp;gt; もいた・・・・ &lt;br /&gt;
&amp;gt; 日曜日の夕方には中国軍は安全区全体にひろがり、多数の者が、一般市民から便衣を盗 &lt;br /&gt;
&amp;gt; んだり、頼んでゆずってもらったりした。“一般人”が一人もいない時は、それでも兵 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 士達は軍服を脱いで下着一枚になっていた。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;　軍服とともに武器も遺棄されて、街は小銃・手榴弾・剣・背のう・軍服・軍靴・ヘル &lt;br /&gt;
&amp;gt; メットでうずまるほどであった。下関付近で遺棄された軍装品の量はおびただしいもの &lt;br /&gt;
&amp;gt; だった。交通部の前から2ブロック先までは、トラック・砲・バス・指揮官乗用車・荷 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 馬車・機関銃・小火器がゴミ捨て場のように積み重ねてあった。 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 日曜日（13日）いっぱい、中国軍部隊の一部は市内の東部および西北地区で日本軍と &lt;br /&gt;
&amp;gt; 戦闘を続けた。しかし袋のネズミとなった中国軍の大部分はもう闘う気力もなかった。 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 何千という兵士が外国人の安全区委員会に出頭し、武器を捨てた。委員会はその時は日 &lt;br /&gt;
&amp;gt; 本軍が捕虜を寛大に扱うだろうと思ったので、降伏してくるものを受け入れるほかなか &lt;br /&gt;
&amp;gt; った。中国軍の多くの集団が個々の外国人に身をまかせ、子供のように庇護をもとめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盧溝橋　　　２３&lt;br /&gt;
矢次一夫（国策研究会主宰） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「女房もちの多くの兵たちが、突然動員され出征させられるのだから、中国各地で性犯罪が頻発するであろうことは自明だったのだが、これを抑制したり取り締まったりする方法はなかったわけだ。 &lt;br /&gt;
　事実当時の逓信事務次官だった小野猛は、極秘だが、お目にかけよう、といって、数冊の分厚い写真帳を貸してくれたので、ひらいて見たら、暴行のかぎりをつくした写真が一杯ある。血刃を指し上げている一兵士の周囲に、数十箇の中国兵の首級が陳列されているものだとか、近衛に相似した中国兵の首級を木の枝にひっかけ、葉巻をくわえたような形で切断した男根を口にさしこんだものだとか、今や正にエイッと中国兵を打首にしようとしているものだとか、筆紙につくしがたい残虐写真が満載されていた」 &lt;br /&gt;
　「私はこれをちょっと貸してくれ、と頼み、正午の国策研究会常任理事会にもちこんで、食事が済んだら大変な資料を見せる、と言ったら、下村海南、大蔵公望、今井田清徳、大橋八郎などの役員たちが、食事前でもよいから、見せろ、といって聞かない。私が、食事がまずくなる、というのに、下村海南など、思わせぶりをするなよ、早く見せろ、というので、では、といって写真帖を開いた。 &lt;br /&gt;
　一同はこれを取り囲んで一見するや否や、さすがに顔色が変わり、ううんと唸ったっきり、しばらくは一言を発するものもない。これらの写真は、小野の説明によると、出征兵士たちが、自己の武勇？を誇示するためかどうか、写真に撮って家郷に送ったものが、途中検閲によって押収されたものだということだ。日本民族に潜在する残虐性が戦場という異常状態で爆発したものであるにせよ、かつて外国人によって書かれた『泰天二十年』に見られる日露戦争当時の、軍規整々、を謳われたものと同じ日本人、しかも私共の祖父の時代であるだけに驚きは大きく、とくに下村海南は、日露役当時逓信省の局長として活躍した人物だけに、痛恨の情は、ひとしおであった」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　（ 矢次一夫 『昭和動乱私史 上巻』 ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「反日に反撃」・・・・　　３５３&lt;br /&gt;
第１６師団では&amp;gt;&amp;gt;343の通りに捕虜殺害命令がでていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
児玉義雄氏の述懐古　（歩兵第三十八連隊副官） &lt;br /&gt;
聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、 &lt;br /&gt;
師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな、処置せよ」と電話で &lt;br /&gt;
伝えらた。私は、これは、とんでもないことだと、大きなショックをうけた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　俘虜の数は約一万（戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約八千以上おった &lt;br /&gt;
と記憶します）でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言っ &lt;br /&gt;
てきましたので拒否しましたら、 &lt;br /&gt;
しかし、人間は水さえ飲んでいれば十日や二十日は保つというから、食飼のことは何とかなるだろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　参謀長に指示をうけようとしたが、参謀長は即座に「捕虜はつくらん」と言われたので、後方参謀に話した。 &lt;br /&gt;
「証言による『南京戦史』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺があったことを・・・・　　１０５&lt;br /&gt;
南京攻略戦では、住民が反抗的態度に出たと言うので、「十里四方の住民全部を殺せ」という軍 &lt;br /&gt;
命令が出された。兵隊たちは村落を包囲し、手当り次第、住民を銃剣で突き殺した。婦女子は特 &lt;br /&gt;
にむごい殺し方をした、と彼等は酔がまわるほどに手ぶり、身ぶりで、その状況を実演して見せ &lt;br /&gt;
るのである。その残酷さは目をおおわせるものがあった。夜半、帰還兵の一人、泣き上戸の彼が &lt;br /&gt;
泣きわめきながら、「許してくれ―おれのせいじゃないんだぞ―」と、暗いローソクのもとで半 &lt;br /&gt;
狂乱の姿をさらしていた。 &lt;br /&gt;
朝香進一『初年兵日記』 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第十軍従軍カメラマン河野公輝の証言 &lt;br /&gt;
川沿いに女たちが首だけ出して隠れているのを、引き上げて殺した。 陰部に竹を突き刺された死 &lt;br /&gt;
体が昆山にいたるまで、 えんえんと道ばたに転がされていた。 蘇州での強姦と略奪もすさまじい &lt;br /&gt;
ものだった。 ここは、美人の産地とされているが、 娘であろうが人妻であろうが片っ端から強姦 &lt;br /&gt;
した。 そして、終わった後は、必ず殺した。 どうゆうわけか、みんなそうした。 強姦に飽きると &lt;br /&gt;
、肉親同士に交わりを命じ、 それを見物するようなことも、あちこちでなされた。 &lt;br /&gt;
『目撃者が語る昭和史第５卷　日中戦争』</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/1062308.html</link>
			<pubDate>Sun, 13 Jan 2008 10:58:19 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>南京以外２</title>
			<description>対中侵略（日中戦争）犠牲者数分類表１，１&lt;br /&gt;
少なめで800万～1000万　中道（左派）で1000万から1400万　多めで1400万から2000万&lt;br /&gt;
 やや少なめにとって &lt;br /&gt;
少なめで600万から800万　中道（左派）で800万から1100万　多めで1100万から1500万 &lt;br /&gt;
といったところ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山本弘・・・・２　　８６&lt;br /&gt;
続き。東京１０１Ｄについて陳瞬臣氏が書かれておられるが、 &lt;br /&gt;
「捕虜になった中国兵が、もう一度やる元気があるかと日本兵に言われて、 &lt;br /&gt;
１０１となら何べんでもやってやる。と、答えたそうだ。第１０１師団は &lt;br /&gt;
東京の招集兵が主体で、あまり強くなかった。」 &lt;br /&gt;
元東京１０１Ｄの坂田甚蔵氏は、云われる。 &lt;br /&gt;
「私ら部隊は、戦闘は弱いけど、悪いことでは天下一品だった。 &lt;br /&gt;
だから鬼部隊と呼ばれてね。街に入ったら強い。なにしろ略奪や強姦は &lt;br /&gt;
お手のもので、部隊にちゃんと火つけ班まで出来ていたんだからね。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺や慰安婦・・・・&lt;br /&gt;
悪いことし放題じゃった。十人おって九人まで強姦しとらん奴はおらん。自慢話にもなっとる。 慰安婦、慰安婦いうて、三十人くらいの女をたいがいの部隊では連れ歩いておった。pp276 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　（自分が強姦した中国の女性は）十人じゃきかんわと、三十人くらいじゃろうか、ようは覚えとらん。 それは勘弁してくれ・・・・・。第一線部隊はそんなもんじゃ。（『南京戦』松岡環編より）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/492039.html</link>
			<pubDate>Sun, 23 Dec 2007 11:36:02 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>うけうり８</title>
			<description>やっぱり南京大虐殺は・・・・　　２&lt;br /&gt;
事実は事実として認識した方がいいと思う。やっぱり歴史は正確に伝えないと。 &lt;br /&gt;
俺だって、南京大虐殺なんて信じたくない。俺の祖父がそんな事をしたとは思いたくもない。 &lt;br /&gt;
できれば日本人は清く美しく、みたいなの信じたくて南京大虐殺は否定したい。否定したいよ。 &lt;br /&gt;
でも、俺の祖父は南京大虐殺の事はずっと心に閉まっておこうと思ったらしいんだけど、やっぱり &lt;br /&gt;
それができなくて、苦しくて、自分の過去をざんげしてすっきりしたいという風に思ったみたい。 &lt;br /&gt;
それで俺にいろいろ教えてくれたし、全部話してくれた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祖父の部隊だけでも２ヶ月で中国人を３千人～５千人は殺したといっていた。 &lt;br /&gt;
当時は上からの命令で「シナ見たら殺せ、焼き尽くせ！」というのがあったらしく、 &lt;br /&gt;
やられる前にこちらからやっちまえ！というのも後押しして、それで女、子供、老人までも殺したらしい。 &lt;br /&gt;
死体の処理は、焼却という方法をとったらしい。祖父の部隊はそうだったと言っていた。 &lt;br /&gt;
他の部隊がどんな死体処理法をとったかまでは分からないと言っていた。 &lt;br /&gt;
とにかく祖父の部隊だけで３千体以上の死体を焼却したとも言っていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４１&lt;br /&gt;
私も祖父から話を聞いたことがあります。祖父は宇治川電気という発電所の技師でこれは後に関西電力に吸収されたようですが、 &lt;br /&gt;
南京の発電所で働いていたとき、南京大虐殺のことを中国人の部下から聞いたとのこと。人を殺して生めるのが大変なので &lt;br /&gt;
川岸に並んで立たせて機関銃でうち殺したということです。死んだあと川に落ちてかってに流れていったとのこと。 &lt;br /&gt;
とにかく半端な人数ではなく、また要領のいい人間は撃たれたふりをして、自ら川に &lt;br /&gt;
飛び込み泳いで逃げたとのこと。そうしてもばれないくらいの規模だったようです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３２９&lt;br /&gt;
私の母方の祖父が、１と似たような経験してるんで、私は南京大虐殺はあったと思います。 &lt;br /&gt;
ただ１と違う点は、私が祖父から聞いた話では、死体は焼却ではなく川に流したと言ってました。 &lt;br /&gt;
来る日も来る日も大量の死体を川に流す作業をしていたようです。 &lt;br /&gt;
その中には女性や小さな子供など、一般市民も多く含まれていたと言っておりました。 &lt;br /&gt;
証拠を残すな、という上からの指令があったようで、毎日毎日死体を流す作業をしていたそうです。 &lt;br /&gt;
不思議な事に私が祖父から聞いたのは、平成に入ってからなんですよ。たしか、平成８年くらいだったと思います。 &lt;br /&gt;
祖父が亡くなったのは平成９年ですから、亡くなる前に南京大虐殺の話をしてくれたと言う記憶が私自身あるので、 &lt;br /&gt;
平成８年に間違いはないと思います。でも祖父は南京大虐殺という言葉は使ってはいませんでした。 &lt;br /&gt;
自分の部隊だけでも無抵抗のシナ人を大勢殺した、という言い方でした。 &lt;br /&gt;
それまでは中国人に対する殺害の事は何一つ話ませんでした。 &lt;br /&gt;
祖父が生前、日記をつけてたのであれから日記などいろいろ探してるんですが、 &lt;br /&gt;
１９３７年から１９３８年５月までは日記が抜けてるので、あの時祖父の話を録音していれば &lt;br /&gt;
良かったと今になって思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やっぱり南京大虐殺は・・・・　　６５０&lt;br /&gt;
＞国連においては「根拠のない政治宣伝」とされ、全く相手にされなかった。 &lt;br /&gt;
歴史に残る大虐殺がすべて発生直後に国際連盟や国際連合で非難決議されているわけではない。 &lt;br /&gt;
発生時期に国際機関の公然の非難決議がないから虐殺が実在しないというなら、 &lt;br /&gt;
ホロコーストもポルポトの残虐行為もチベットでの残虐行為もなかったことになる。 &lt;br /&gt;
国際社会の非難決議があるかどうかは、残虐行為そのものの規模よりは国際社会が &lt;br /&gt;
その残虐行為にただちに向き合う余裕と意欲があるかどうかにかかっているのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞確かに、南京攻略後、捕虜・敗残兵・便衣隊処分が行われたが、民間人が虐殺された &lt;br /&gt;
などという当時の記録も証言も無い。 &lt;br /&gt;
いくらでもあるでしょ。無差別殺害命令も出ていましたよ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・第六師団が抗洲湾に上陸、崑山に直進中、第六師団司令部に「女、こどもにかかわらず &lt;br /&gt;
シナ人はみな殺せ。家は全部焼け」という無茶苦茶な命令が届いた。 &lt;br /&gt;
・南京攻略戦では、住民が反抗的態度に出たと言うので、「十里四方の住民全部を殺せ」 &lt;br /&gt;
という軍命令が出された。兵隊たちは村落を包囲し、手当り次第、住民を銃剣で突き殺した。 &lt;br /&gt;
婦女子は特にむごい殺し方をした、と彼等は酔がまわるほどに手ぶり、身ぶりで、その状況を &lt;br /&gt;
実演して見せるのである。その残酷さは目をおおわせるものがあった。 &lt;br /&gt;
・みんな殺せという命令が、抗州湾上陸の直後に出された。河野さんは、たしかに命令伝達書を見た。 &lt;br /&gt;
そこには、つぎのようなことが書かれていた。 &lt;br /&gt;
　―共産主義の暴虐を許さず、共匪の跳梁を粉砕するため、農夫、工夫はもとより、 &lt;br /&gt;
女子どもにいたるまで、全員殺戮すべし。 &lt;br /&gt;
・この兵は抗州湾に上陸して、上海戦線の腹背を衝いた柳川兵団の兵士であった。 &lt;br /&gt;
私はその兵士から、兵団長の命令なるものを聞いて暫らく信じられなかった。それは、 &lt;br /&gt;
生ある者は皆殺せ、家は悉く焼け、と言うのである。 &lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;http://www.geocities.jp/yu77799/minkanjin.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.geocities.jp/yu77799/minkanjin.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「世界の」南京大虐殺・・・・６７　　３４２&lt;br /&gt;
俺が思うのはいちおは南京の虐殺は認めたほうがいいと思うよ。 &lt;br /&gt;
どのくらい虐殺があったのかは分からんけど。 &lt;br /&gt;
俺の祖父は９４歳でまだ元気なんだけど、ずいぶん南京で酷い事を &lt;br /&gt;
したっていうのは言ってる。銃剣で胸を突くのが祖父の役目で、 &lt;br /&gt;
多い時は祖父一人で一日４００人くらい中国人の胸を突いて、 &lt;br /&gt;
殺したといってるよ。いつもこの話になったら祖父は突く真似をやって教えてくれるんだけど、 &lt;br /&gt;
肩が痛くなったって言ってる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３７０&lt;br /&gt;
皇族の三笠宮親王様も南京での虐殺を認めてますし、中国に謝罪していますから、 &lt;br /&gt;
おそらく南京で大きな虐殺はあったのだと思います。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、私の祖父は、２年前に中国に行って、慰霊碑に謝罪しています。 &lt;br /&gt;
祖父は南京攻略戦に参加した元少尉です。 &lt;br /&gt;
士官学校も出ています。私も祖父にはあまり踏み込んだ事は聞かなかったのですが、 &lt;br /&gt;
約700名～800名の一般人を射殺したと言っていました。その中に中国兵はいなかったそうです。 &lt;br /&gt;
全員、女性、幼い子供、老人らしいです。その時に、祖父は仏像、絵巻物を中国人から取り上げ、それを2年前に中国に返しに行きました。 &lt;br /&gt;
慰霊碑に行けば祖父が返したものが今もあるのではないでしょうか。祖父はそれだけが心残りだと言っていました。 &lt;br /&gt;
慰霊碑の前で泣いていました。帰りは、体調を悪くし中国のホテルで休養したくらいです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「世界の」・・・・６６　　５０４&lt;br /&gt;
要は、部隊の方針で虐殺を行った部隊もいるし、 &lt;br /&gt;
しなかった部隊もあるという事。否定派はそれを素直に認めない。 &lt;br /&gt;
しかし率としては虐殺を行った部隊の方が遥かに多く、虐殺を黙認する部隊が多く、 &lt;br /&gt;
それらの行動が目立ってたといういう事。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
虐殺見なかったというのは、たまたま虐殺を行わなかった数少ない部隊にいたか、 &lt;br /&gt;
それかその本人の特殊性から、一人だけ高い人権感覚を持って虐殺を拒否したか、 &lt;br /&gt;
それか、なにか特別な宗教に入っていたかのどちらかだよ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時のごく普通の日本兵は、中国人をシナ、シナと明らかに差別し、ぜんぜん人間として見てなかった。 &lt;br /&gt;
だから中国人を殺すのも抵抗すらおぼえなかったというのが、本当の姿。 &lt;br /&gt;
しかし、否定派はそれを認めようとせず、極めてごく少ない、極めて稀な高徳な日本兵の &lt;br /&gt;
行動、振る舞いを例に出し、それを全体の日本兵と強引に信じ込み、 &lt;br /&gt;
「だ　か　ら　な　か　っ　た　！」と興奮しながら結論づけようとする。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高徳な人間は少なからず中国軍にもいただろうし、日本軍にもいた。 &lt;br /&gt;
それらの人間を一般化するのは間違っている。 &lt;br /&gt;
当時から「いい人」はどこの国にも、どこの軍にもいる。しかし、これは例外中の例外。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５７１&lt;br /&gt;
日中戦争のさなか、１９３７（昭和１２）年１２月に起きた南京事件から &lt;br /&gt;
７０年。日本軍の通信隊員として南京攻略に参加した谷正三さん（９２）＝大津市真野４丁目＝は、 &lt;br /&gt;
今も悲惨な光景が目に浮かぶ。南京への道すがら、何度も目撃した日本兵による虐殺――。 &lt;br /&gt;
太平洋戦争開戦の日の８日を前に、大切に保管してきた当時の日記や写真などを手に取ると、 &lt;br /&gt;
心に刻み続けた言葉がよみがえるという。「あんな悲惨なことを二度と繰り返してはいけない」（鬼原民幸） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
谷さんは３５年に徴兵され、京都市伏見区の第１６師団通信隊に入隊。 &lt;br /&gt;
戦地に電話線を引くなどし、通信網を確保するのが任務だった。 &lt;br /&gt;
３７年夏、上海付近に上陸して西へ、南京に向かった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本軍侵攻の情報が入っていたためか、途中の村々で住民の姿はほとんど見かけなかった。 &lt;br /&gt;
しかし、南京に近づき、差しかかったある集落で、谷さんと行動を共にしていた別の部隊の兵士が、 &lt;br /&gt;
わずかに残っていた住民を銃剣で次々と刺し殺していった。 &lt;br /&gt;
中には軍刀の切れ味を自慢げに試すように、無抵抗の住民を切りつけた兵士もいたという。 &lt;br /&gt;
谷さんは「上官が止めないのをいいことに、競い合っているようだった」と話す。 &lt;br /&gt;
別の集落では、多くの中国人が捕虜として拘束されていた。顔見知りの兵士が谷さんに、 &lt;br /&gt;
「（捕虜を）殺しに行かないか。なかなか経験できないぞ」と声をかけてきた。 &lt;br /&gt;
今でも恐ろしい思い出だ。「同年代の兵士だったから断ることができた。あのとき殺していたら、 &lt;br /&gt;
一生罪を背負わなければならなかった」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時の仲間と続けていた「戦友会」の集いは、亡くなる人が増えて数年前に解散。 &lt;br /&gt;
戦争の記憶を振り返る機会は減った。「日本軍はひどいことをたくさんした。 &lt;br /&gt;
人間同士で殺し合うことが、どれだけむなしいことか。 &lt;br /&gt;
戦争は、もう絶対に繰り返してはいけない」。谷さんの思いは募る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「中国」　　２３９&lt;br /&gt;
子供の頃（70年代）、じいさんの戦友だった人がうちに遊びに来た。 &lt;br /&gt;
夜になって酒が入ると中国戦線の思い出話になったのだが、まともな交戦の話がほとんどなくて、 &lt;br /&gt;
行軍中シナ人の家に上がりこんで食料を奪って皆殺しにしただの、捕まえた捕虜を突き殺すのを &lt;br /&gt;
皆われを争って希望しただの、そんな話ばかりだった。 &lt;br /&gt;
子供の俺は「敵国人を殺すのはいいことだ」と別に疑うこともなかったので、そんな祖父たちを &lt;br /&gt;
ただ単純にすごいなあと思っていた orz &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
俺の実家は九州某都市、祖父の出征はちょうど昭和11～14年頃。 &lt;br /&gt;
後から知ったが、当時熊本の第６師団が上海から南京に攻め上ったらしい。 &lt;br /&gt;
俺のじいさん、たぶん南京でも人殺しをしてたんだろうと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺は・・・・　　１５５&lt;br /&gt;
最近の若い人は戦争に行った人の話を聞いた事がないのかね。 &lt;br /&gt;
強姦、略奪が戦地での楽しみだったと自分が話をした老人は言ってたよ。 &lt;br /&gt;
当時中国人は犬コロ以下の存在なんだから、殺すのに合理的な理由なんか不要だったんじゃないか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/298629.html</link>
			<pubDate>Wed, 12 Dec 2007 22:57:14 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>南京関連３５</title>
			<description>[世界の]・・・・６４　　６０８&lt;br /&gt;
ようするに否定派の仲間内で、口裏合わせをして、旧日本軍のアリバイ工作をやっているという事ですね。板倉氏は例の田中正明の改竄事件を暴露したことで、少しは（他の１００％捏造派よりも）まともな研究家という印象を持たれているようですが、今回『本当はこうだった南京事件』で板倉氏の諸論文をまとめて読み直ししてみると、典型的な捏造派である事がよく分かりました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
曽根一夫氏や東史郎氏の証言に対する反証論文にしても、結局、旧日本軍の同じ部隊の生き残り兵士 &lt;br /&gt;
から証言をかき集め、重箱の隅を突っついた子細な記憶違いを浮き出させて、あたかも曽根氏や東氏が &lt;br /&gt;
虚偽の証言を働いているかの様な＜印象操作＞を専らとしている。（一つ一つの反証は全く脆弱。） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、板倉氏らに反証の材料をもたらしたこれらの生き残り兵士は戦友会などの組織に属して、これまでも自分達の部隊に都合の悪い事実は散々隠し通してきた確信犯達ですから、彼らの証言が東氏や曽根氏以上に真実を語るであろうという保証は全くない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いや公平にみて、利害関係者であるからこそ、軍の不都合の事実を語る可能性は低い、という自明の確率を推量した上での証言の再検証が、科学的分析の常道というものでしょう。 &lt;br /&gt;
ところが、板倉氏が提出している証拠の類は、これらの利害関係者の証言を全く無批判に「事実」として採用し、ただひたすら、東氏や曽根氏の証言への「客観的反証材料」としている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「たとえば三羽鳥の大庭に該当するのは、大場邦雄氏で１２中隊の昭和十年兵・砲手、足立は足立辰夫 &lt;br /&gt;
１２中隊十一年兵・砲手、村松は村松安治、中隊不明だが十年兵・馭者、で健在の大場氏だけ一字変え &lt;br /&gt;
てあるのは名誉棄損を恐れたのであろう。この人達はこの様な（注：曽根氏が証言している様な）残虐行為をする人物ではない、と戦友皆が保証する。 &lt;br /&gt;
大場氏は兵器工場の火災を消火して表彰されたこともあり、温和な人物として知られる。同じ内務班で初年兵であった青木銀造氏は、「ビンタを張られたこともない優しい人です」と言う。本人の大場氏は「曽根君は本当に善良な温厚な青年で、そんな事を書くとは信じられません」「この無残なこと、私大場は全く知りません。神にかけて断言します」と否定する。」（板倉由明、前掲書p277） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大人の常識で言えば、平和時の日常生活で温厚なおヒトだから、戦争時に人が変わった様な残虐な人殺しや強姦を働くはずがないという弁明の論は、全く人間の歴史を知らない子供だましの論理でしかないでしょう。先に、戦争における反倫理・道徳の「人間の業」を平然として語ったお人の「大人の論理」とはとても思えない。（藁&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やっぱり南京大虐殺は・・・・　　４４６&lt;br /&gt;
蒋介石が南京での残虐行為に言及した資料があり、知らなかったとは言えない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1938年1月22日の蒋介石日記に「倭寇（日本軍）は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。 &lt;br /&gt;
野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦は &lt;br /&gt;
その極に達しているのだ。」とある。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、1938年7月7日に抗戦一周年を期して出された声明「日本国民に告げる書（日本国民への声明）」 &lt;br /&gt;
には以下のようにある。 &lt;br /&gt;
「また日本軍が占領したどの地区においても掠奪、暴行火附けを行つた余勢で、わが方の遠くに避難 &lt;br /&gt;
出来なかつた無辜の人民および負傷兵士に対しても大規模な屠殺が行はれた。また数千人を広場に縛 &lt;br /&gt;
してこれに機銃掃射を加へ、あるひは数十人を一室に集めて油を注ぎ火炙りに処し、甚しきに至つて &lt;br /&gt;
は殺人の多少を以て競争し、互ひに冗談の種としてゐる。」 &lt;br /&gt;
これを「虐殺」が書かれていないと読むのは無理である。 &lt;br /&gt;
あえて言えば、この声明には「南京」という言葉は使われていないのだが、対日戦一周年を期して出 &lt;br /&gt;
された声明の中の、「占領された一地区」に、南京地区が入っていないという読み方が出来るわけもない。 &lt;br /&gt;
「虐殺」が書かれていないというのは事実に反する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「世界の」南京大虐殺・・・・６６　　５０４&lt;br /&gt;
要は、部隊の方針で虐殺を行った部隊もいるし、 &lt;br /&gt;
しなかった部隊もあるという事。否定派はそれを素直に認めない。 &lt;br /&gt;
しかし率としては虐殺を行った部隊の方が遥かに多く、虐殺を黙認する部隊が多く、 &lt;br /&gt;
それらの行動が目立ってたといういう事。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
虐殺見なかったというのは、たまたま虐殺を行わなかった数少ない部隊にいたか、 &lt;br /&gt;
それかその本人の特殊性から、一人だけ高い人権感覚を持って虐殺を拒否したか、 &lt;br /&gt;
それか、なにか特別な宗教に入っていたかのどちらかだよ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時のごく普通の日本兵は、中国人をシナ、シナと明らかに差別し、ぜんぜん人間として見てなかった。 &lt;br /&gt;
だから中国人を殺すのも抵抗すらおぼえなかったというのが、本当の姿。 &lt;br /&gt;
しかし、否定派はそれを認めようとせず、極めてごく少ない、極めて稀な高徳な日本兵の &lt;br /&gt;
行動、振る舞いを例に出し、それを全体の日本兵と強引に信じ込み、 &lt;br /&gt;
「だ　か　ら　な　か　っ　た　！」と興奮しながら結論づけようとする。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高徳な人間は少なからず中国軍にもいただろうし、日本軍にもいた。 &lt;br /&gt;
それらの人間を一般化するのは間違っている。 &lt;br /&gt;
当時から「いい人」はどこの国にも、どこの軍にもいる。しかし、これは例外中の例外。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５０６&lt;br /&gt;
虐殺の動機はない。あえていうならば、戦争いう特殊な緊張状態を強いられる状況の下で、 &lt;br /&gt;
人間というものの本能部分（攻撃性・残虐性）が露骨に行動に現れてしまった悲惨な事例とでも言おうか。 &lt;br /&gt;
この南京大虐殺事件というものは、人間の本質とはなんなのか、を考えさせられる事件であり、 &lt;br /&gt;
戦闘状態における人間の心理、抑圧、というものを理解するうえで、避けて通れない歴史的事実である。 &lt;br /&gt;
この事実の湾曲は、戦時の人間の状態を知る上で、正確なデーターが得られないばかりか、 &lt;br /&gt;
精神医学的側面から見ても、戦時の人間の異常行動を考察する上で、間違った病理認識を後世に与えてしまう事になりかねないので、 &lt;br /&gt;
南京大虐殺否定論には注意が必要である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般的に戦争と虐殺セットであり、多かれ少なかれ虐殺（大量無差別殺人）は必ず起こる。 &lt;br /&gt;
この現象は、戦争というものが慢性的に人間の闘争本能部分を大きく刺激される行為ゆえに、 &lt;br /&gt;
理性の部分が低下し、攻撃性が剥き出しになったために起こる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺がなぜ大きくクローズアップされるのかといえば、 &lt;br /&gt;
戦時中、日本は日本なりに大義名分があるにせよ、中国に侵攻してしまった事実がある。 &lt;br /&gt;
そしてその実態は侵略行為であり、その侵略と虐殺が重なったために、又、この虐殺というものが、 &lt;br /&gt;
他の国には類を見ない比較的規模の大きな虐殺なため、世界から非難されるのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後60年、日本は平和への道を歩き出し、戦争をやってこなかった。 &lt;br /&gt;
その結果、戦争というものがどれだけ狂気な世界なのか理解できない人が増えている。 &lt;br /&gt;
戦時における狂気というものが、実感として理解できないため、どうしても現在の平和な日常生活の延長線上に、 &lt;br /&gt;
この南京大虐殺を捉える傾向がある。特に若い世代は（20～30代）、当時の日本軍の蛮行が、 &lt;br /&gt;
理解不能（非日常）な行動のために、南京大虐殺はなかったと思ってしまう人が出てきてしまうのである。 &lt;br /&gt;
そこに否定論が蔓延すれば、否定論になびいてしまう人が出てくるのは仕方がない面もある。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカ、中国、各ヨーロッパ諸国などは、徴兵制があることから比較的戦争が身近であり、 &lt;br /&gt;
戦争というものの狂気を理解している。そのため南京大虐殺は起こりえるものと理解している。 &lt;br /&gt;
ところが現在の日本は、他の国とは違い、特に若い世代を中心として戦争の本当の恐ろしさを知らず、 &lt;br /&gt;
狂気の無知さを利用し、一部の者が、否定論を激しく宣伝し、歴史修正を行おうとしている。 &lt;br /&gt;
洗脳されないように気をつけてもらいたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「世界の」南京大虐殺は・・・・６７　　６０６&lt;br /&gt;
隠された憲兵の証言。N010243　＜ファイル23-35＞ &lt;br /&gt;
機櫚郡屬乃載　 &lt;br /&gt;
「1961年聞き取り調査」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【1937年12月の寒い中、今日もいつものように見回りに出掛けました。 &lt;br /&gt;
その日はとても晴れていたのを覚えています。 &lt;br /&gt;
南京陥落してから２週間ですからね。 &lt;br /&gt;
丘の上があり、しばらくすると上等兵以下数人がそこで７人しゃがんでいました。 &lt;br /&gt;
７人でしゃがんで何やらやっていました。 &lt;br /&gt;
また強姦かと思いきや、「何してる？」とその集団に声をかけたら、 &lt;br /&gt;
その兵士は私に振り向き、「いやちょっと・・」と苦笑いをしていました。 &lt;br /&gt;
私が驚いたのは、その兵士は全員顔が真っ赤に染まり返り血をあび、上半身は血だらけでした。 &lt;br /&gt;
みんな顔も軍服も血だらけなのです。その中の数人がナイフを持っていました。 &lt;br /&gt;
なにかを切っているんです。そして笑顔で何かを隠すようにしゃがんでこそこそとやってるんです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はなにをやってるのかよく見てみました。 &lt;br /&gt;
なんと彼らは幼児をバラバラに切断し、その母親もバラバラに切っていたのです。 &lt;br /&gt;
そしてぐちゃぐちゃにしているんです。それも世間話をしながら楽しそうにやってるんです。 &lt;br /&gt;
ゾッとしましたね。ふと見ると私の３０メートル先には中尉が黙ってその光景を見ていました。 &lt;br /&gt;
私はなにも出来ませんでした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あたりを見渡すと、他にも５人、３人、６人としゃがんで何かをしている &lt;br /&gt;
集団がぽつぽつとありました。良く見てみると、女性を犯していたり、 &lt;br /&gt;
７歳くらいの女の子を捕まえ、強姦殺害したりしているんです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内地に帰ってからもこの事は家族にも言えませんでした。今だから言えるんです。 &lt;br /&gt;
地獄絵図でした。】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「反日に反撃」・・・・　　４６７&lt;br /&gt;
私は南京には、最初一九七一年、次が一九八一年、次が一九九六年と三回行きました。 &lt;br /&gt;
最初に南京を訪れた時のことです。当時、京都府会議員をしていた私は二〇〇人ほどの後援会員とともに &lt;br /&gt;
上海・蘇州・南京の旅行を行いました。・・・・・ &lt;br /&gt;
同行した後援会員のなかには、戦争に従軍した体験を持つ方が何人かいらっしゃいました。ちょうど南京市 &lt;br /&gt;
に入り、南京城壁のところにさしかかったとき、そのうちの一人が突然うずくまって、体をがたがたと &lt;br /&gt;
震わせはじめたのです。しまいには、土の上に倒れて体を震わせて動かないのです。私はびっくりして、 &lt;br /&gt;
看護婦に強心剤を打たせました。数十分が経過してから、ようやく落ち着きました。 &lt;br /&gt;
「どうしたんだ」だと聞きました。すると彼は、「私は戦争の時、京都の福知山二〇連隊の一員として &lt;br /&gt;
南京攻略に参加し、まさにここにいたのです。いま南京に来て当時を思い起こし、地の底に足を引きずり &lt;br /&gt;
込まれる状態になり、体が震えてきたのです」と話し、当時の体験を話してくれました。 &lt;br /&gt;
その一つは。彼が南京に攻め込んだとき、倒れていた中国側兵士を助けた話でしたが、もう一つは &lt;br /&gt;
痛ましい話でした。「南京に入った時、土嚢が積まれた家がありました。扉を開けて中を見ると、 &lt;br /&gt;
女性と子どもがいるばかりだったので、私は上官に「ここは女、子どもばかりです」と言って扉を &lt;br /&gt;
閉めようとしたのですが、上官が「何を言ってるのだ、その中に便衣兵がいるのだ、例外なしに殺せ、 &lt;br /&gt;
容赦するな」と言って命令を下し、私たちはみんな目をつぶって、火をつけてこの人たちを殺して &lt;br /&gt;
しまった。戦争のなかで一番嫌な体験です。戦争から帰ってきてもずっと心に残っていて私の夢に &lt;br /&gt;
現れてきます・・」この体験を話してくれた方は数年前に亡くなりました。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/69337.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Nov 2007 16:17:53 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>南京関連３４</title>
			<description>南京大虐殺はあった・・・・　　６７２&lt;br /&gt;
1937年12月13日、南京が陥落した時、同市内に在る中国軍隊の凡ての抵抗は停止しました。 &lt;br /&gt;
同市に入城した日本兵は街路にいた民間人たちを無差別に射撃しました。 &lt;br /&gt;
一度、日本軍が同市を完全に支配するや、強姦、殺戮、拷問及び掠奪への耽溺が始まり、 それが6週間続きました。 &lt;br /&gt;
最初の2～3日間に2万人以上の人々が日本軍により即座に死刑に 処せられました。 &lt;br /&gt;
6週間に南京市内とその周りで殺害された概数は、26万ないし30万で、 全部が裁判なしで残虐に殺害されたのであります。 &lt;br /&gt;
この概数の正確性は紅卍字会と崇善堂の記録がこの二つの団体で 15万5千以上の死体を埋葬した事実によって示されております。 &lt;br /&gt;
6週間の同期間において2万名を下らざる婦人と少女は日本軍に強姦されたのであります。 &lt;br /&gt;
（「日中戦史資料集」8　東京裁判資料編P300）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[世界の]・・・・６３　　１２７&lt;br /&gt;
三笠宮崇仁親王の回想 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「南京に着任してみると、とにかく警戒厳重で、司令部内で用をたしにゆくときさえ憲兵がついてくるありさまで、公務出張以外、私用で外出する気にはなったくなれなかった。一年いたあいだに中華料理を食べたのはたった二回しかなかった。 &lt;br /&gt;
まあそんなことはどうでもよいとして、わたくしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実体に驚きはてたのである。 &lt;br /&gt;
罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。 &lt;br /&gt;
かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ &lt;br /&gt;
聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった。 &lt;br /&gt;
（中略） &lt;br /&gt;
わたくしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである。 &lt;br /&gt;
こういう考えかたを持った当初は、すこし極端かなとも思ったが、「暴戻なる支那軍」の鉄道爆破事件が、じつは一部の幹部の陰謀によるとはいえ、とにかく「暴戻なる関東軍（満州に駐在した日本軍）」のしわざであったことを知るにおよんでは、もはや極端だと思わなくなった。 &lt;br /&gt;
こうして聖戦にたいする信念を完全に喪失したわたくしとしては、求めるものはただ和平のみとなった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三笠宮崇仁「わが思い出の記」 &lt;br /&gt;
『帝王と墓と民衆──オリエントのあけぼの』ｐ１７２?８０ &lt;br /&gt;
光文社カッパ・ブックス、昭和３１年４月３０日初版発行（昭和３６年４月２０日３１版発行）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１７９&lt;br /&gt;
井上涼（井上日召長女、井上日召は血盟団事件首謀者・仮出所後は近衛文麿のブレーン） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「実は、私は近衛さんのおかげで命を助けてもらったことがあります。私はもともとからだが弱く、肺を患って &lt;br /&gt;
入退院を繰り返していましたが、牛込の自宅にいるとき、深夜に突然、おなかに激しい痛みを感じました。黄色い &lt;br /&gt;
水を吐く私に驚いた母が、近衛家にお願いしたところ、ちょうど近衛さんが痔の手術で東大病院に入院しているという。 &lt;br /&gt;
そこで近衛さんの奥様が往診を当直の先生に頼んでくださり、真夜中にもかかわらず、往診が受けることができたのです。 &lt;br /&gt;
（中略） &lt;br /&gt;
　父はたまに見舞いに来てくれました。そんな折、父から聞いた話で、強く印象に残っていることが二つあります。 &lt;br /&gt;
ひとつは南京事件です。御存知のように、南京事件が起きたのは昭和十二年ですが、戦中この事件を知っていたのは &lt;br /&gt;
ごく一部の人たちだったのです。父は「日本ではこの戦争を『聖戦』と呼んでいるが、中国では兵隊たちが女性を襲ったり、 &lt;br /&gt;
いろいろ乱暴なことをやっている。中国人は『性戦』だと言っているよ。」当時、私は十六、十七歳の女学生でしたから、 &lt;br /&gt;
ただただびっくりするばかりでした。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「父・井上日召が語った南京と原爆」『証言　父と母の戦争』文藝春秋　2007年9月特別号　P293&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺の証拠・・・・　　７７&lt;br /&gt;
俺の爺さんも中国戦線にいたんだが、南京での大虐殺は &lt;br /&gt;
聞いてないといっていた。まあ、八路軍に味方した村を全滅 &lt;br /&gt;
させたとは言ってたが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[世界の]・・・・６０　　７４４&lt;br /&gt;
否定派のアホさを大分堪能しているでしょうがここで少しまとめましょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺はありました。なぜそれが分るかというと、例えば、南京戦に参加した &lt;br /&gt;
日本軍兵士が当時の現場で書いた日記等の資料（いわゆる一次史料）に虐殺の記述が &lt;br /&gt;
多数みられるから。（もちろん、南京で軍紀が乱れ虐殺が多発していることは日本国内の &lt;br /&gt;
軍上層部や外務省にも当時から知られていた。）また、南京戦に参加した日本軍兵士が後 &lt;br /&gt;
にした多くの証言でも虐殺の言及がある。　また、それ以外にも当時の南京にいた外国人 &lt;br /&gt;
による資料（日記や手紙などの一次史料）や証言にも同様に日本軍がした虐殺や強姦の言及が多数みられる。海外や日本からの記者や文化人による記録や証言でも同様である。もちろん、被害者の中国人も日本軍がした虐殺や強姦等の蛮行の事実を訴えている。そして多くの遺骨が南京で発掘されている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう「あった」としか言えない状況で、実際歴史学の世界でもとっくに「あった」ことに &lt;br /&gt;
なっている。（だから、どの教科書にも「あった」こととして書かれている） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし、「なかった」としたら、当時の多くの日本軍兵士はありもしなかった捕虜大量殺害の記録をわざわざ日記等に書いたことになる。集団催眠にでもかかってありもしなかった捕虜大量殺害の幻覚をみてその記録を残したのか？それも１人や２人ではなく多くの日本軍兵士が？ &lt;br /&gt;
また、同様に当時の南京にいた外国人や文化人、記者等もありもしなかった虐殺の幻覚をみて記録を残したのか？またはこれら全ての資料や証言が捏造なのか？それならその証拠は？もちろんそんな荒唐無稽な妄想はありえない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現実に南京で日本軍による虐殺や強姦略奪等の蛮行が多発したから、日本軍兵士自身の記録を含む多くの資料に虐殺の言及があるのだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は本当に・・・・２　　６２６&lt;br /&gt;
なにをいっているのでしょうか？南京大虐殺の存在を認めて数十年が経って &lt;br /&gt;
から異議を申し立ててそれこそ無効でしょう。南京大虐殺から何年経ったか &lt;br /&gt;
ご存知ですか？罪を認めておきながら証拠が出しにくくなった今になって &lt;br /&gt;
証拠を出せだなんて筋が違う。昨日起こったことなら証拠が無ければ通用 &lt;br /&gt;
しないとはいえるが実際はそうじゃない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６３３&lt;br /&gt;
本当に右翼は狂信者だなあ。芸もなく証拠を出せなんて。南京大虐殺に &lt;br /&gt;
対して謝罪した以上、既に既成事実化しているんだよ。証拠云々の問題 &lt;br /&gt;
じゃない。再審はそれを覆るほどの証拠が必要だろう。証拠を出すのは &lt;br /&gt;
そっちの方だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[社会]・・・・　　５３１&lt;br /&gt;
当時を美化する者は、当時を知らず知ろうともしない連中か &lt;br /&gt;
いい思いをした連中か、いい環境にあり誠実であったもののみと思われます。 &lt;br /&gt;
あるいは、そういう連中を支持層においている輩でありましょう。 &lt;br /&gt;
たいていの人は、軍隊生活は地獄と言っておられる。 &lt;br /&gt;
光輝ある皇軍に入るという希望を胸にした者も、たがいその実態に失望しておられるのである。 &lt;br /&gt;
当時の軍人は、軍人以外を地方人と呼び、警察すらも軍人を捕らえられないくらい力を持っておりましたそういう中で、威張り腐った軍人に民間人が軍人精神を強要されるなど、十分に考えられることであり、そういう証言があちこちに出るということはあったということでせう。 &lt;br /&gt;
火の無いところに煙はたたぬものであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デーブスペクター・・・・　　８７７&lt;br /&gt;
ところで停戦協定はあくまで停戦協定でしかないので &lt;br /&gt;
侵略とは無関係なんだが、わからないかな？ &lt;br /&gt;
和平条約ではないので権利が確定されたわけでもな。 &lt;br /&gt;
停戦協定が破られたら戦争が再開されるってだけの話。 &lt;br /&gt;
となるとやっぱり自作自演の日本人殺害を理由にした第一次上海事変が &lt;br /&gt;
中国の侵略だったはずもねえって結論になっちゃうんだよな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺や慰安婦を・・・・　　３３８&lt;br /&gt;
　十二月十六日 &lt;br /&gt;
午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配 &lt;br /&gt;
置して交通遮断の上、各中隊分担の地域内を掃蕩する。 &lt;br /&gt;
目につくほとんどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の &lt;br /&gt;
中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百 &lt;br /&gt;
名も狩り出してくるが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十 &lt;br /&gt;
名を引き立ててくる。そのすぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大 &lt;br /&gt;
勢泣いて放免を頼みに来る。 &lt;br /&gt;
市民と認められる者はすぐ帰して、三十六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命 &lt;br /&gt;
を乞うが致し方もない。 &lt;br /&gt;
真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のない &lt;br /&gt;
ことだいう。多少の犠牲は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せ &lt;br /&gt;
よとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。 &lt;br /&gt;
　　　　　　　（水谷荘日記、「南京戦史」P502）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/69332.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Nov 2007 16:17:08 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>南京関連３３</title>
			<description>[兵庫]・・・・　　７４７&lt;br /&gt;
虐殺の史実をこの国は早く公式に認め謝罪すべきです &lt;br /&gt;
殺戮されたという事実もあるというのに &lt;br /&gt;
なぜ日本は事実を認めようとしないのですか &lt;br /&gt;
どうも最近この国はおかしく感じます &lt;br /&gt;
中国人民の怒りは頂点に達しています &lt;br /&gt;
共存共栄の道を探るにはまず過去の過ちを認めるべきでしょう &lt;br /&gt;
ノービザのような草の根的な交流もありますが　それ以前に歴史認識の共有が必要です &lt;br /&gt;
捏造を重ねた歴史を振りかざして　アジアの信頼を得ることができますか &lt;br /&gt;
造られた歴史などには何の価値もありませんよ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[世界の]・・・・62　　３５２&lt;br /&gt;
板倉由明「松井石根大将「陣中日記」改竄の怪」『歴史と人物 60年冬号』掲載 &lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;http://nagoya.cool.ne.jp/whitecray/doc_matsui.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://nagoya.cool.ne.jp/whitecray/doc_matsui.html&lt;/a&gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「編集室の一隅で史料を見せられたときは、息の詰まる感じであった。目の前に並んだ自衛隊の坂妻駐屯地資料館蔵の「松井日記原本」（コピーならびにかなりの数の写真版）と、芙蓉書房版・田中正明編『松井石根大将の陣中日誌』第四章収録の「日記」との間には、見過ごすことのできない大きな差異が、それも単純ミスではない明らかに意図的な改竄がいくつも認められたのである。 &lt;br /&gt;
（中略） &lt;br /&gt;
これも悪質な書き換えである。田中氏は「支邦事変日誌抜粋」（73ページ）からにある記者会見の記述を元にしてこの部分を作ったのであろう。しかし、そもそも日記原本にない「抜粋」などというのもおかしいが、書き加えた上に「南京占領から十日を経た外人記者団との会見において，松井大将が『南京虐殺』に関する質問受けたという様子が全く見られない点，注目すべきである」という編者注まで付けていることは &lt;br /&gt;
どういうことか。 &lt;br /&gt;
（中略） &lt;br /&gt;
この会見で通訳にあたった堀口氏の記憶では，外人記者たちから南京事件の質問が続出し，松井大将は「現在調査中」と苦しい答弁をしていた，という。嫌な質問があったからこそ日記に書かなかったのである。 &lt;br /&gt;
この部分は芙蓉版と日記原本では意味が全く異なってくる。まず芙蓉版では，残留内外人は多少恐怖していたが，日本軍が治安回復に努めた結果安心してきたように読める。 &lt;br /&gt;
ところが日記原本を素直に読むと日本軍が落ち着いてきたので内外人も安心したことになり，恐怖の原因が日本軍にあったことが判る。 &lt;br /&gt;
　（中略） &lt;br /&gt;
この改竄は弁解の余地なしというべきで，素人の筆者が何度眺めても「治安」とか「誠に遺憾」などの文字は見つからない。「多少」と「不少」の読み違いは止むを得ぬと甘く見ても，編者が自己の主張に合わせて松井日記の記述を反対方向にねじ曲げたことは否定できまい。 &lt;br /&gt;
以上のように芙蓉版（引用者註：田中正明の本のこと）版を検討してみると，改竄の方向がすべて南京事件否定に向かって揃っていることがあらためてはっきりする。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[反日に反撃]・・・・　　４４９&lt;br /&gt;
奥宮正武氏は元海軍中佐、大本営海軍参謀。戦後、航空自衛隊に入り、部隊長等を歴任。 &lt;br /&gt;
退官時は空将。その後ＰＨＰ研究所顧問等を務めた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、 &lt;br /&gt;
軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江に投棄されていた。 &lt;br /&gt;
　岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。 &lt;br /&gt;
が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の川 &lt;br /&gt;
となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。 &lt;br /&gt;
　この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、 &lt;br /&gt;
明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私がロを出す余地はないと &lt;br /&gt;
感じた次第であった。 &lt;br /&gt;
　このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。もっとも、二十六日と &lt;br /&gt;
二十五日前と二十七日後にどのような処刑が行なわれていたかは分からなかったが（註　第三〇旅団長佐々木到一少将の手記によれば、 &lt;br /&gt;
十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日頃までに数千人の処刑をしたとのことである）、 &lt;br /&gt;
二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興奮状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。 &lt;br /&gt;
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。 &lt;br /&gt;
　私は、この二日間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれば、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、 &lt;br /&gt;
大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の &lt;br /&gt;
相違があるかも知れないが。 &lt;br /&gt;
　それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、 &lt;br /&gt;
莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[世界の]・・・・６２　　５７８&lt;br /&gt;
&amp;gt;あるのならどこにあるのかピンポイントで指し示してほしいものです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは、キミが「南京虐殺の客観的な証拠」とするものが何であるかによるでしょう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、極東軍事裁判では、国際安全委員会の欧米人のメンバーの証言（J・マギー &lt;br /&gt;
やＭＳ・ベーツら）や、外国の在中国大使館の報告書、中国人の許伝音証言、南京 &lt;br /&gt;
慈善団体の埋葬記録、日本人関係者尋問調書の一部などを有力な証拠として採用し、 &lt;br /&gt;
判決の際の判断のポイントとしている。 &lt;br /&gt;
キミはこれらの裁判所の採用証拠を「客観的な証拠ではない」と断定しているわけだから、 &lt;br /&gt;
その理由は証言一つ一つについて、キミの口から説明して貰わなければならない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それとも、キミは虐殺現場そのものをずばり映した映像フィルムとか、写真、日本軍の &lt;br /&gt;
虐殺命令書などの「証拠」を求めているのだろうか？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
普通、そうした証拠は、事件の性格からして非常に残りにくいという事情を考慮しても &lt;br /&gt;
南京事件に関しては幸か不幸か、そうした証拠は少なからず残されている。 &lt;br /&gt;
例えば、李秀英や夏淑琴が日本兵によって襲われた事実の状況証拠は決定的である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
極東軍事裁判に証拠として提出された魯甦の証言は、当初日本側の研究者達の間で &lt;br /&gt;
その驚くべき虐殺者の数からして、信憑性に疑義が出されていた。あの洞富雄先生ですら &lt;br /&gt;
「総数を５万７４１８人としているのは、いかなる資料によってものであろうか、少々不信に感ぜられぬでもない」（『決定版南京大虐殺』1982年p149）と言っていたほどである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、この草鞋峡の虐殺目撃証言が全く荒唐無稽の話でなかった事は、1980年代に至って日本側の研究者によって調査発掘された第13師団山田支隊の兵士らの証言記録との符合に よって奇跡的に証明されたわけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[徹底討論]・・・・　　１１９&lt;br /&gt;
じいちゃんくらいの世代が家族や親戚にいれば &lt;br /&gt;
捕虜を一列に並ばせて竹やりで串刺しにしたとか、試し切りとか &lt;br /&gt;
なぶり殺しはの話はさんざん聞かされるはずなんだよな。 &lt;br /&gt;
そういう生の声を聞けば虐殺があったってことはわかるよ。 &lt;br /&gt;
（身内にウソを行ってもしょうがないし） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただしそれを中国がプロパガンダとして利用してるのが問題。 &lt;br /&gt;
もう戦後の賠償や謝罪もすんでるんだから批判をされるのもおかしな話。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから中国はチベットで虐殺を行い僧侶を殺しまくったが &lt;br /&gt;
それを国民に伏せてるのがむかつく。 &lt;br /&gt;
まあむちゃくちゃな国であることは確か。 &lt;br /&gt;
しかし日本も昔同じことをやったのも確か。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺はあった・・・・　　３２１&lt;br /&gt;
問　陸軍は事件の調査をやったことがあるか。 &lt;br /&gt;
答　イェス、憲兵隊が実施し、わたしはその報告書を読んだ。 &lt;br /&gt;
問　それによって軍法会議が開かれたか。 &lt;br /&gt;
答　十四年春、我々は松井大将、中島師団長を軍法会議にかげるよう主張した &lt;br /&gt;
　　が、中島(鉄蔵)参謀次長の猛反対で実現しなかった。 &lt;br /&gt;
問　この件で松井と会ったか。 &lt;br /&gt;
答　彼は兵務課長だったわたしを二度訪ねてきた。彼は大アジア主義者で米英 &lt;br /&gt;
　　との開戦を主張していた。 &lt;br /&gt;
問　あなたが事件のことを初めて知ったのはいつか。 &lt;br /&gt;
答　十三年三月頃だ。私は朝鮮で連隊長をしていたが、松井軍の参謀から同じ &lt;br /&gt;
　　師団の連隊長へ移ってきた長勇大佐から聞いた。 &lt;br /&gt;
問　彼は何と言ったのか。 &lt;br /&gt;
答　南京東方の鎮江付近で多数の捕虜を殺したこと、兵士たちの強姦があまり &lt;br /&gt;
　　ひどいので慰安所を開設した、と述べた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
田中隆吉尋問調書&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やっぱり・・・・　　７７３&lt;br /&gt;
＞報道なんて虐殺を見なくても、伝聞等で書けるんですが・・・。＾＾； &lt;br /&gt;
＞んで新聞記者が虐殺を見たという証拠はマダ？ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「南京大虐殺」　シカゴ・デイリー・ニューズ　一九三七年十二月十五日　 &lt;br /&gt;
Ａ・Ｔ・スティール &lt;br /&gt;
＜見出し＞ &lt;br /&gt;
・日本軍何千人も殺害・”目撃者の語る地獄の四日間” &lt;br /&gt;
・通りに５フィートも積もる死体の山 &lt;br /&gt;
＜南京（米艦オアフ号より）十二月十五日＞南京の包囲と攻略を最もふさ &lt;br /&gt;
わしい言葉で表現するならば、”地獄の四日間”ということになるだろう。 &lt;br /&gt;
　首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦 &lt;br /&gt;
オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、我々一行が最後に &lt;br /&gt;
目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を &lt;br /&gt;
整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体 &lt;br /&gt;
が積まれていた。それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺はあった・・・・　　４４０&lt;br /&gt;
南京安全区委員の見解 &lt;br /&gt;
「極東軍事裁判」　速記録第４９号　（A．検察側立証段階７） &lt;br /&gt;
○マギー証人　それは一寸幾らいたかと云ふことは申上兼ねるのでありますが、 &lt;br /&gt;
我々委員会の「メンバー」の委員の推定によりますと、安全地帯には約二十万、 &lt;br /&gt;
或は三十万を超したかも知れませぬ。城外の安全地帯にはもつともつと沢山居 &lt;br /&gt;
りましたが、何れにしても推定は不可能であります。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
〔小野寺モニター　一寸訂正致します。我々委員会で推定した所では、安全地帯 &lt;br /&gt;
に入つたのは少くとも二十万は入つたと思ふ。其の外に安全地帯に来なかつた者が &lt;br /&gt;
どの位あつたかは到底推定出来ないと思ふ。けれども三十万は最低の見積りであ &lt;br /&gt;
らうと思ふ。兎に角城外に居つた者、市外に居つた者がどの位居つたかと云ふこと &lt;br /&gt;
は到底推定出来兼ねる〕 &lt;br /&gt;
（「南京大残虐事件資料集　第２巻」Ｐ１００） &lt;br /&gt;
ttp://www.geocities.jp/yu77799/jinkou.html</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/69321.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Nov 2007 16:16:25 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>南京関連３２</title>
			<description>[従軍慰安婦]・・・・　　８９１&lt;br /&gt;
証拠は無いですよ。めんどくさいし。 &lt;br /&gt;
でも、それだからって完全否定するのは間違いだとそういうことです &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
議長による決議案（C・六九／一九三八／七）の提示に続き、顧維鈞氏（１） &lt;br /&gt;
の演説― &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただいま読み上げられた決議案を拝聴しました。本決議案に関する &lt;br /&gt;
中国政府の見解を表明する前に、最近数か月間に起こった出来事を &lt;br /&gt;
述べ、現下で連盟理事会が何をなし得るか、我が国の切実な要求は &lt;br /&gt;
何か、についての中国政府の見解を申し述べたいと思います。 &lt;br /&gt;
第一八回連盟総会が、咋年一〇月六日、日本の中国侵攻にたいする &lt;br /&gt;
中国政府の抗議に関連して決議を採択した後も、日本軍は中国領土 &lt;br /&gt;
への無慈悲な侵略を続け、これをいっそう激化させています。華北 &lt;br /&gt;
の日本軍は黄河を渡り、聖なる山東省の都であり、孔子の生地での &lt;br /&gt;
ある済南を占領しました。華中では一一月、中国抵抗軍が、陸海空 &lt;br /&gt;
が一体となった日本軍の激烈な攻撃にたいして三か月に及ぶ勇敢な &lt;br /&gt;
抵抗をおこなったすえ、上海地方からの撤退を余儀なくされました。 &lt;br /&gt;
南京に脅威が迫ったため、中国政府は、首都を海岸から一千マイル離 &lt;br /&gt;
れた重慶に移すことを強いられました。日本軍が漢口と南京にたいし &lt;br /&gt;
て加えた執拗な攻撃の結果、三月には、この二つの重要な都市と最も &lt;br /&gt;
肥沃で人口の多い長江流域が日本軍占領下に入りました。日本海軍は、 &lt;br /&gt;
福建省および広東省沿岸にある多くの中国の島嶼を制圧し、広東と華 &lt;br /&gt;
南にたいする侵略の試みを繰り返しています。日本軍航空隊は、国際 &lt;br /&gt;
社会の非難の合唱を無視して無防備な都市にたいして無差別爆撃を続 &lt;br /&gt;
け、中国民間人の大量殺戮をおこなっています。広範囲にわたる再三 &lt;br /&gt;
の空襲が、西北の甘肅省から南西の広西省まで一七をこえる省の人口 &lt;br /&gt;
密集地帯に加えられ、すさまじい犠牲者を出していますが、その大半 &lt;br /&gt;
は女性と子どもであります。さらに、高い軍紀を誇りにしてきた日本 &lt;br /&gt;
兵が占領地で繰り広げる残虐で野蛮な行為は、戦火に打ちひしがれた &lt;br /&gt;
民衆の艱難辛苦をさらにいっそう増大させ、礼節と人道に衝撃を与え &lt;br /&gt;
ています。あまりにも多くの事件が中立国の目撃者によって報告され、 &lt;br /&gt;
外国の新聞で報道されているので、ここでいちいち証拠をあげるには &lt;br /&gt;
及ばないでしょう。ただ、その一端を物語るものとして、日本軍の南 &lt;br /&gt;
京占領に続いて起こった恐怖の光景にかんする『ニューヨーク・タイ &lt;br /&gt;
ムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。このリポートは一 &lt;br /&gt;
二月二〇日付の『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものでありま &lt;br /&gt;
す。特派員は簡潔な言葉で綴っています。「大がかりな略奪、強姦さ &lt;br /&gt;
れる女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の &lt;br /&gt;
大量処刑、連行される壮健な男たち」。日本兵が南京と漢ロでおこな &lt;br /&gt;
った残虐行為についての信頼できるもうひとつの記録は、米国人の教 &lt;br /&gt;
授と外交使節団による報告と手紙にもとづくもので、一九三八年頁一 &lt;br /&gt;
月二十八日の『デイリー・テレグラフ』紙と『モーニング・ポスト』 &lt;br /&gt;
紙に掲載されでいます。南京で日本兵によって虐殺された中国人市民 &lt;br /&gt;
の数は二万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの &lt;br /&gt;
女性が辱めを受けました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（『ドイツ外交官が見た南京事件』Ｐ１３６～Ｐ１３９） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
９６１&lt;br /&gt;
当時あった可能性を示す資料その２ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宋美齢からアメリカの友人への手紙 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
総統司令部、中国 &lt;br /&gt;
一九三八年一月五日 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカ合衆国、マサチューセッツ州、 &lt;br /&gt;
ウェーバンドーセット路一八三号 &lt;br /&gt;
ミセス・ミリアム・H・クラーク &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親愛なるクラーク様 &lt;br /&gt;
あなたからのクリスマスカード、そしてあなたの二人のお嬢さんと &lt;br /&gt;
お庭の写真を拝受いたしました。愛らしいお子様ね。あなたの家の庭は &lt;br /&gt;
その風景とともに素敵な環境をあなたがたにあたえているようですね。 &lt;br /&gt;
私は「ミムズ（Mims）」をよく覚えています。しかし、あなたもお &lt;br /&gt;
分かりのように、私がいま生きている状況は、私たちが学生であった日々からすれば想像できないほど変わっています。 &lt;br /&gt;
私たちは限られた装備と資源でもって、私たちの自由のために最善を &lt;br /&gt;
つくして戦っています。非戦闘員の男性、女性そして子供に対する大規模かつ無制限な虐殺は、想像を絶しますが、現在も行われているのです。 &lt;br /&gt;
日本軍は、宣戦布告もせずに、まったく残虐に、そして国際法や人道主義をまったく無視して、最新鋭の武器を使うことができると信じてい &lt;br /&gt;
るのです。この蛮行に対して世界では、いままでのところ激しい非難の表明以上のことが行われていないのは驚くべきことです。 &lt;br /&gt;
最初に殺戮が始まった時は、それはたまたま行われたものと思われて &lt;br /&gt;
いました。しかし、時が経つにつれて、それは可能なかぎり中国人を殺すという、計画的意図に基づいたものであることが判明したのです。日 &lt;br /&gt;
本は中国に手を出し横領しようと決意してから、まず中国北部に殺到し、 &lt;br /&gt;
そこをアヘンと麻薬を使って支配いたしました。それは、人民の戦意を挫き、民衆から抵抗の力を抜き取ってしまうためでした。 &lt;br /&gt;
戦争が勃発してから日本軍は、機関銃と高性能爆薬を使えば、きわめ &lt;br /&gt;
て簡単に何千、何万という民衆を殺せることに気づきはじめました。そ &lt;br /&gt;
こで彼らは、すべての都市、町、村に対して、また自分たちの住まいか &lt;br /&gt;
ら安全を求めて避難している難民の群れに対して、爆撃と機関銃掃射を加えはじめたのです。 &lt;br /&gt;
現在日本軍はそれ以上のことをやっています。彼らは上海と南京の間 &lt;br /&gt;
で五体満足な男性すべてを一人ずつ、あるいは束にまとめて射殺してい &lt;br /&gt;
るのです。わずかに生き残った五体満足な男は、日本軍の使役を強制さ &lt;br /&gt;
れています。南京において彼らは冷酷にも何千人も屠殺いたしました。 &lt;br /&gt;
同様な虐殺は華北全体でも行われてきています。日本軍は、世界が彼ら &lt;br /&gt;
を恐れている状態が続けられると思っている限り、虐殺行為を続けるでしょう。 &lt;br /&gt;
日本人は、アメリカとイギリスの国民は日本の強さと力の前に戦闘 &lt;br /&gt;
意欲を失って臆病になったことは確かだ、と思っています。もちろん、私たちはそれが虚偽であることは分かっていますし、今の時点ですぐ &lt;br /&gt;
戦争にひきずりこまれることは、両国とも望まないことを知っています。 &lt;br /&gt;
しかし、私たち中国人は、もしアメリカとイギリスが日本に対して、戦争をやめよと一声圧力をかけてくれたらと思わずにはいられません。間違 &lt;br /&gt;
っているかもしれませんが、私たちはほんの少しの金融的締めつけも、日本の政治を変えさせるのに十分な圧力になるように思います。世界の文明諸国が、各国の大使を日本から引き揚げて抗議を表明し、非難を徹底させれば日本への強い圧力になります。 &lt;br /&gt;
中国において私たちは、補給が得られる間は戦えます。しかし、もし &lt;br /&gt;
補給が得られなくなれば私たちは敗北することになりますが、それはア &lt;br /&gt;
メリカとイギリスおよび他の諸国が日本を助けたがゆえに中国は敗れて亡びるのであって、日本自体に負けるのではありません。私たちは、ア &lt;br /&gt;
メリカ政府がなぜ、戦争が始まる前に買ってすでに支払いも済んだ飛行 &lt;br /&gt;
機を、中国に届けることを中止したのか理解できません。それらの飛行機はここにはまだないのです。こうしたことや同様な行為が日本に勇気 &lt;br /&gt;
と自信を与えているのです。 &lt;br /&gt;
列強が条約の尊厳を守るために、そして国際法を擁護するために、 &lt;br /&gt;
さらに人間の権利を保護するためになんらかの行動を起こすのはいつ &lt;br /&gt;
のことか、私たちには分かりません。しかしもし、ただちにそれがなれなかったとしたら、中国で現在進行している事態が、将来必ず他 &lt;br /&gt;
の民主主義国におよぶことがやがて明らかになるでしょう。 &lt;br /&gt;
いま、私の国を襲っているようなおぞましい出来事から、アメリカ美しい家庭が自由であることを私は祈っています。あなたの好意に &lt;br /&gt;
深い感謝をこめて、どうぞよろしくお願いいたします。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　敬　具 &lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　宋美齢　（蒋介石夫人） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（「南京事件資料集1　アメリカ関係資料編」P２１５～P２１６）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[世界の]「南京大虐殺・・・・５９　　７８２&lt;br /&gt;
＞満州は中国領ではない。日本が正当に領有する権限を有する、日本の領土だ。 &lt;br /&gt;
満州が中国の領土かどうかは置いておいて、日本の領土でない事は明らかだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞満鉄爆破も中国軍の仕業だったかもしれない、例え日本軍だとしてもその情勢下では仕方ない。 &lt;br /&gt;
中国軍の仕業だった証拠は無い。むしろ関東軍担当者がが認めている。それを開き直って仕方ないとは &lt;br /&gt;
理解できない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞天皇の命令無視もあったかもしれんが、中国が満州を狙うから悪い。断固中国に一撃を加え徹底的に &lt;br /&gt;
おいおい、最高司令官の命令無視を容認する軍隊が軍紀など守れるかよ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＞南京攻略も中国悪い、中国が攻めてきたから日本軍が攻め返したら首都まで行っただけ。 &lt;br /&gt;
＞少々の犠牲は戦争では当たり前、南京を守れなかった中国の責任 &lt;br /&gt;
だったら原爆投下も東京大空襲も南京大虐殺も戦争に負けた日本の責任だろ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺・・・・２　　５８７&lt;br /&gt;
なぜ安全区だけかのように言いたがるの？ &lt;br /&gt;
南京城区は安全区を含む南京城内と周辺の市部を表します。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京市の調査から残留難民は陥落時最大で２０万。 &lt;br /&gt;
翌年一月中旬に安全区委員会は日本軍の不完全な調査から２５万としています。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt;日中戦争史資料集９　南京事件供￣冓鹸愀源駑訴圍142 &lt;br /&gt;
&amp;gt;第19号文書（Z―35） &lt;br /&gt;
&amp;gt;南京安全区国際委員会　寧海路5号　1938年1月14日 &lt;br /&gt;
&amp;gt;南京日本帝国大使館　福田篤泰殿 &lt;br /&gt;
&amp;gt; &lt;br /&gt;
&amp;gt;～略～ &lt;br /&gt;
&amp;gt;貴下が登記した市民は16万人と思いますが、それには10歳以下の子供は &lt;br /&gt;
&amp;gt;含まれて いないし、いくつかの地区では、年をとった婦人も含まれていません。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;ですから当市の総人口は多分25万から30万だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[世界の]・・・・６２　　２３８&lt;br /&gt;
&amp;gt;「命令」なら当然「命令書」があるはずですから、その命令書にはこれも当然のこととして &lt;br /&gt;
&amp;gt;「旅団命」か「師団命」か「連隊命」か記載されているはず。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
虐殺命令があったなら、その証拠として「命令書」が残っているはずだ、というキミの仮定には蓋然性はないな。というのは、そうした軍の機密文書の類は、日本軍が敗戦の時に大規模に処分して隠滅した、というのはよく知られた事実だからだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もち論、日本軍の師団、旅団、連隊レベルの組織文書が大量に残されており、その文書の &lt;br /&gt;
中に「虐殺命令」を裏付ける資料が見当たらないというなら、キミの下手な屁理屈もある程度は通るかも知れん。 &lt;br /&gt;
せいぜい頑張って、１３師団関係の組織文書を発見し、その中に「虐殺命令書」が無かったことを証明してみてくれ。（藁 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山田部隊の虐殺に関してはその多くの関係者の証言で実態は明らかにされており、（『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』大月書店）、実態は明らかにされており、いまさら虐殺の「命令書」の存在の有無などは、ただの話逸らしの方便でしかないだろう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/69312.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Nov 2007 16:15:45 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>南京関連３１</title>
			<description>[世界の]南京大虐殺・・・・６１　　３０５&lt;br /&gt;
&amp;gt;確か解放された中国軍が別の日本軍に逮捕され処刑されたという証言があるのですよね？ &lt;br /&gt;
あら？私にご指命ですか？多分、このこと↓ですかねえ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】53次資料 &lt;br /&gt;
&amp;gt;&amp;gt;516 名前：やまんば ◆bBpWaTff0M [] 投稿日：2006/11/25(土) 01:28:54 ID:uNRJDvhM &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt;ウヨクのホームページにおける本多氏の著書からの引用は以上である。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;元中国兵にとってはとってもハッピーエンドの結末で、さすがに「人道的わが日本軍」を思わせる内容である。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;ところが、本多氏のその著書にはこの後にすぐに続きがあった。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;何故か以下の部分はウヨクのホームページの引用からはそっくり割愛（トリミング）されている訳である。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;本多氏の著書を一度でも読まない限り、誰にも分からない仕掛けになっている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt;「劉二等兵も安徽省へ行くグループの一つとして四〇～五〇人一緒に出発し、三叉河をへて江東門まで来た。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;蕪湖の方へ行くつもりであった。途中はおびただしい死体が散乱し、それらは兵隊のほか老人・子供のものも &lt;br /&gt;
&amp;gt;多かった。あるところには針金で鎖骨を貫いてつないだ七人の死体があった。そのうち二人は女性で、一人の &lt;br /&gt;
&amp;gt;鼻の穴に未使用の弾丸が二つ押しこまれていた。七人はいずれも銃剣による刺殺らしかった。」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt;「江東門（江東郷）まで来たとき、模範囚監獄の前で日本兵たちと会った。下関の日本軍にいわれたとおり、 &lt;br /&gt;
&amp;gt;劉さんら四〇～五〇人の釈放組は白旗を見せて「投降して釈放された兵隊です」といった。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;だが、この日本兵たちは、有無をいわせず全員逮捕した。そのまま監獄のすぐ東側の野菜畑に連行された &lt;br /&gt;
&amp;gt;二列に並ばされる。まわりを五〇～六〇人の日本兵がかこむ。そのうち十数人が軍刀、後は銃剣だった。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;号令のようなものは覚えていない。いきなりまわりから一斉に、捕虜の列へ銃剣と軍刀が殺到してきた。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;劉さんらは立ったままの姿勢で、ひざまずいたりしている者はなかった。劉さんは、自分に向かって軍刀 &lt;br /&gt;
&amp;gt;を両手で斬りおろす日本兵の恐ろしい形相を見たのが記憶の最後だった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt;気づいた時は暗かった。劉さんの倒れている上に二人が折り重なっていた。二人とも死んでいる。 &lt;br /&gt;
&amp;gt;それをどけて立ち上がると夜空に星が見えた。俗に「あの世では星が見えない」ときいていたのを思い出し &lt;br /&gt;
&amp;gt;「どうやら生きている」と考えた。うしろ首を切られているが、幸いあまり深くはないらしく、出血もほとんど &lt;br /&gt;
&amp;gt;止まっていた。」（本多勝一『南京への道』朝日新聞社p163-166） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt;捕虜釈放のハッピーエンドのはずの話は、１８０度暗転して、実は捕虜皆殺しの悪夢の話に過ぎなかった訳である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国は・・・・　　２５０&lt;br /&gt;
「満州国の防衛のため」日本側は華北に軍事的圧力を加え、 &lt;br /&gt;
衝突や緊張が起こったというが、 &lt;br /&gt;
中国側は、そもそも満州国の建国自体を侵略と捉えている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
満州・華北以外にも &lt;br /&gt;
中国各地に日本人が居留して、それらを防衛するため多数日本軍が進駐して &lt;br /&gt;
いる状況だったが、 &lt;br /&gt;
そもそもが、中国の領土内で、日本軍が中国へ出かけていってその上での話し。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本＝加害者の図式を覆すのは容易ではないと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やっぱり南京大虐殺・・・・　　１３０&lt;br /&gt;
南京での規模がどの程度かは知らないが、民間人大量虐殺があったことは否定しようのない事実……　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の祖父は南方で戦死したのだが、シナ事変に参加していた時期の日記が遺されている。　 &lt;br /&gt;
それにはシナ人の集落から男を片っ端からしょっ引いて海岸に集めて皆殺しにした様子が &lt;br /&gt;
書かれてある。　南京攻略後で違う場所での事だが、少なくとも500人以上の規模、　 &lt;br /&gt;
シンガポールの華僑虐殺と同じ手口でろくに調べもせずに良民不良民の別なく便衣兵ごと &lt;br /&gt;
一掃するのが目的の大量虐殺だ。　　 &lt;br /&gt;
南京事件が解明されたとしても各地での事件があとどれだけ出てくるかわからない。 &lt;br /&gt;
中共は論破されたらされたでそっちへシフトしていくだろうから恐喝のネタには何も困らんな。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親が生きてるうちはおそらく公表しないだろう。　孫の自分が判断することになるが、 &lt;br /&gt;
政治に利用されることを考えると気が重い……&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界の南京大虐殺・・・・５９　　５５１&lt;br /&gt;
武藤　章（Ａ級被告）東京裁判での証言。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シベリア出兵以後、日本軍の質が悪化し、選抜二個大隊だけを南京城内に &lt;br /&gt;
入れる手筈をしていたのに、各部隊が命令を守らずどんどん入場したのが &lt;br /&gt;
事件を誘発した原因だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５９０&lt;br /&gt;
&amp;gt;近代の軍隊ってのは、計画的にやらないとあっという間に破綻するものなんですよ &lt;br /&gt;
&amp;gt;山賊の寄せ集めとは、訳が違うのです。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはギャクか？まさに日本軍は山賊の寄せ集めだったわけだが。 &lt;br /&gt;
ﾆｭｰｷﾞﾆｱ戦の補給無視の作戦、中国戦線での現地調達戦略、インパール戦のデタラメ、ﾌｨﾘﾋﾟﾝ戦の捕虜 &lt;br /&gt;
ﾊﾞﾀｰﾝでの虐待死、オランダ女性達をレイプしまくったり、上げたらきりがない。 &lt;br /&gt;
南京攻略自体、現地軍の巧妙本位だろうが。上海戦の際に南京攻略まで考えて部隊展開していない。 &lt;br /&gt;
むしろ上海を制圧して終ろうとしているにもかかわらず、首都攻略を発令しては補給も追いつくわけが無い。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５９２&lt;br /&gt;
&amp;gt;永久陣地を構築している以上、安全保障上、策動地たる南京攻略も視野に入れた準備をするのは当然です。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この考え方自体が旧日本軍なんだよな～何が安全保障だよ。 &lt;br /&gt;
で、南京を攻略したら南京を守る為に重慶、その次は昆明と際限なく続く戦闘に次ぐ戦闘。 &lt;br /&gt;
陣地攻略しなくても中国領土に野心が無ければ上海で止められるはずだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５９５&lt;br /&gt;
松井司令官、期限付き開城勧告〔昭和12年12月10日　東京日日〕 &lt;br /&gt;
（上海本社特電九日発） 松井最高指揮官は本日正午、飛行機により南京防衛 &lt;br /&gt;
司令官に対し投降勧告文を投下し、十日正午までに回答を要求せり。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本軍百万、江南を席巻し、南京城はまさに包囲の中にあり、戦局の態勢より見れば、 &lt;br /&gt;
今後の抗戦は百害ありて一利なし。惟うに江寧の地は中華の旧都、民国の首都にして &lt;br /&gt;
明の孝陵、中山陵など幾多の名所旧跡蝟集し、宛然東亜文化の精粋を観るの概あり。 &lt;br /&gt;
日本軍は抵抗者に対しては峻烈、いやしくも仮借せずといえども、無辜の民衆及び中国 &lt;br /&gt;
軍隊に対しては寛大を以ってし、これを侵さず。いわんや東亜の文化は努めてこれを &lt;br /&gt;
保護、保存の熱意を有す。しかれども貴軍にして抗戦を継続するにおいては、南京は &lt;br /&gt;
たちまち戦火の坩堝と化して、千載の文化、十年の経営も一朝にして廃墟に帰すべし。 &lt;br /&gt;
よって本司令官はここに日本軍を代表し、貴軍が速やかに南京城を平和裡に開城し &lt;br /&gt;
左記処置に出ずべきことを勧告す。　　　　　大日本陸軍総司令官　松井石根 &lt;br /&gt;
　 &lt;br /&gt;
本勧告に対する回答は十二月十日正午、中山路上の歩哨線において受領すべく、 &lt;br /&gt;
貴軍にいおいて貴軍司令官を代表する責任者を派遣するにおいては、即時同所にて &lt;br /&gt;
本司令官代表者との間に南京城接受に関する所要の協定をつくるの用意を有す。 &lt;br /&gt;
もし同時までになんらの回答に接せざる場合は、日本軍は遺憾ながら直ちに南京城の &lt;br /&gt;
攻略を開始すべし。 &lt;br /&gt;
松井最高指揮官の武士道的見地から礼を尽くした勧告文に対し、唐生智は非礼にも &lt;br /&gt;
回答期限たる十日正午に至るもなんら回答をなさざるのみか、かえって今早朝来 &lt;br /&gt;
猛烈なる砲火を以ってわが軍を攻撃、応酬しつつあり。わが軍は今や一挙に南京城 &lt;br /&gt;
を攻略すべく、全軍進撃の間一髪の姿勢をとっている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５８９&lt;br /&gt;
中国が降伏するわけないでしょうに。物理的・軍事的にに日本が中国を屈服させる事はできない、 &lt;br /&gt;
これは解っているよね？中国全土を占領するのにどれほどの軍事力が必要か。 &lt;br /&gt;
それが中国首脳陣もわかっている以上降伏などしない。 &lt;br /&gt;
日本は中国に宣戦布告すら行っていませんが、なぜ全滅するまで戦うの。 &lt;br /&gt;
中国が永久要塞作ろうがそれは奴らの領土内での事で日本が干渉する予知は無い、日本の利権は &lt;br /&gt;
上海しかないの。それ以上は侵略。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６０８&lt;br /&gt;
&amp;gt;侵略してきた日本が悪いと、全部日本のせいにしてしまうのは納得いかない。 &lt;br /&gt;
上海戦の前段階に北京近郊の熱河省に日本が侵攻した「熱河作戦」があります。 &lt;br /&gt;
天皇陛下がハッキリ言った「万里の長城を越えるな」の指示を日本軍は無視して長城をこえ &lt;br /&gt;
中国領内に侵攻を開始した作戦です。これは統帥部の指示すら聞かない暴走。 &lt;br /&gt;
さらに上海で反日ののろしが上がりそれに乗じて上海の治安維持という名目で一気に首都南京を攻略してしまった。日本の侵略以外なんと考えますか。中国が悪いなどとてもいえません&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南京大虐殺や・・・・　　４９&lt;br /&gt;
丸木位里・丸木俊「南京大虐殺の図」 &lt;br /&gt;
&lt;a HREF=&quot;http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kyosei/nanking.htm&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kyosei/nanking.htm&lt;/a&gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
捕虜５万、非戦闘員３５万人。 &lt;br /&gt;
1937年、日本侵略軍に虐殺された人びとは、 &lt;br /&gt;
南京だけで、広島長崎の犠牲者に匹敵する大量虐殺であります。 &lt;br /&gt;
略奪、放火、強姦、最後にはすべて殺害して捨てたのです。 &lt;br /&gt;
ありとあらゆる惨劇がくりひろげられたのであります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
盧溝橋・・・・　　５０９&lt;br /&gt;
日本人が、「日本軍が南京で行った戦争犯罪」と言えば、「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」の第四六、 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家ノ名譽及權利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スヘシ。 &lt;br /&gt;
私有財産ハ、之ヲ没収スルコトヲ得ス。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の違反。すなわち、非戦闘員に対する略奪、殺害のことを指します。 &lt;br /&gt;
中国が主張する30万人の犠牲者には、これ以外に、第二三條の &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特別ノ條約ヲ以テ定メタル禁止ノ外、特ニ禁止スルモノ左ノ如シ。 &lt;br /&gt;
(略) &lt;br /&gt;
（ハ）兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段盡キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の違反。すなわち、捕虜に対する殺害を含みます。捕虜は国民党軍の兵士であり、南京市民ではありません。 &lt;br /&gt;
したがって彼らが南京で殺害されたことは、南京市の人口とは関係ありません。 &lt;br /&gt;
日本軍が行った戦争犯罪のうち、後者を含めるか含めないかが、 &lt;br /&gt;
南京大虐殺の犠牲者数の推定が日本と中国で食い違う最も大きな理由です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は南京・・・・２　　４０７&lt;br /&gt;
敵国内だからな。 &lt;br /&gt;
敵国の住民をどうしようと勝利者の勝手、というやつ。 &lt;br /&gt;
中国でも古来、敵地にあってはそのような横暴は枚挙に暇がない。 &lt;br /&gt;
むろん日本でもそうだろう。 &lt;br /&gt;
中国では淮西あたりの戦闘のおり、占領地を略奪して人肉食が流行ったという記録もある。 &lt;br /&gt;
窮状時の人肉食ではなく、好んでのことだったという。 &lt;br /&gt;
残酷さとは、国籍に限らず誰もが持っているものと戦慄する。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bbisxa2/69300.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Nov 2007 16:14:55 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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