21世紀の邦画少年

邦画についての覚書ブログ。☆5つで評価します。

1961〜1970年公開

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

もず

イメージ 1

☆☆☆☆☆
初公開年月 1961年3月1日
鑑賞メディア;CS

監督:渋谷実5点
原作:水木洋子4点
脚本:水木洋子5点
撮影:長岡博之5点
美術:松山崇5点
音楽:武満徹3点

出演:(岡田さち子)4点、淡島千景(岡田すが子)4点、川津祐介(酒田)3点、永井智雄(藤村)5点、山田五十鈴(一福のおかみ)4点、乙羽信子4点、清川虹子4点

 母と娘の定型的な愛憎劇をまるでヒッチコックのサスペンスのような作品に仕上げている映画技術に驚嘆する。現在(1980年代以降)はこのような作品がない。

 その的確な映画技術は最初のシーンから最後まで貫かれていて揺るぎがない。
 一福という小奇麗だが場末の小料理屋のレイアウトがよい。曲線的なカウンター席から二階へと続く階段が吹き抜けのようになっていて、途中の踊り場が厨房からのバイパスになっているのも粋だ。

 最初から一福の女中である乙羽信子のエキセントリックな演技に驚く。このようなリアリズムに反するような演技はリスクを伴う。しかし、劇の中に見事に溶けていく。この演出は結構見事。その女中の楽天的な明るさを象徴していて面白い。

 その女中の一人である淡島千景の少々下品なあばずれぶりもうまい。演技力が現在の役者とは異なるので、所作と台詞が一体化していてリアルでありながら舞台劇のように分かりやすい。

 また、淡島千景が捨てた娘である有馬稲子もいい味を出している。関西から上京して来たことになっているので、時折正確な関西イントネーションを交えながら話すところは秀逸な演出。

 役者の演出に関しては、先ほども書いたが今の役者と役者が違うのでそのうまさは比較にならない。永井智雄の上品だが度量の狭い紳士の雰囲気や山田五十鈴の意地悪な演技力はいつものことながら舌を巻く。

 当時(といっても戦後15年も過ぎている)の男尊女卑が色濃く残っている世相もうまく描かれている。女性の自活がいかに困難であったか。男性に依存したものであったかが良く分かる。
 自分の子供と離れなければならなかったのも娘が上京して美容師になろうとしているのもいい男性がいないからである。本当に大事にしてくれる男性の庇護の下で暮らすのか、自立して暮らすのかは現在の女性にとっても大きな問題のはずだ。

 特に、少々文句を言った女中の淡島千景を首にするシーンは驚いた。一福の今まで影の薄かった旦那が突然何も言わずに淡島千景を張り倒すのだ。また、それまで半紙になにやら書いていたので、お品書きでもしているのかと思っていたのだが、それは新たな女中募集の張り紙だったのだ。
 その直後の一福の裏通りのシーンもモダンで構図もよく、山田五十鈴と淡島千景の立場の差を見事に表している。女中の身分の低さと旦那の権威を傘にきている山田五十鈴のいやらしさが良く出ている。

 この作品はシチュエーションごとに謎が提示され、それを解決していくパターンで展開される。特に印象に残ったのは、淡島千景が腰を悪くして寝ていたはずなのに、突然遊園地の遊具で大声を出してはしゃいでいるシーンに変わるところだ。しばらく、何の説明も無く、突然親しげな清川虹子が登場し温泉場で遊んでいるのは非常に意外性に富んでいる。

 母と娘が一緒に暮らすきっかけになるシーンはよく考えられている。
 それまで、日本家屋を意識した縦と横に区分けされた画面構成が突然そこだけ変わる。
 一点透視図法的な道をさびしげに淡島千景が去っていく。そこは工場街の裏通りだ。そこに大きな工場のサイレンが鳴り響く。それをきっかけに母である淡島千景が娘の有馬稲子のもとへ走って戻ってくるのだ。その二人の不安感や孤独をよく象徴したシーンだと思う。

 最後の病院のシーンでは、病室の壁が白ではなく緑に塗られている。不気味である。死の病に冒された母が幻想の中で娘に会う。娘は病室の窓から入ってくる。それは主観的なカメラで表現される。この病室やカメラの移動はまさしくヒッチコックタッチだ。

 全編適度な色合いと構図の的確さ。インテリアやロケーションのうまさ。光の取り入れ方。観客にそれを意識させないうまさがある。こういう作品こそ総合芸術としての映画の見本のような作品である。

 最後に残る疑問がある。母親の奔放な言動は脳炎という病気によるものなのか、もともとの性格なのかというものだ。私にはどちらの要素もあるように思えた。

 蛇足ながら、この作品の「もず」の意味がわかりません。何の象徴なのかが今ひとつわかりません。どなたか教えてください。

釈迦

イメージ 1

☆☆☆☆
鑑賞メディア;CS
初公開年月 1961年11月1日
監督:三隅研次3点
製作:永田雅一5点
脚本:八尋不二2点
撮影:今井ひろし3点
美術:内藤昭、渡辺竹三郎4点
造型:大橋史典
衣裳:伊藤なつ
編集:菅沼完二
振付:榊原帰逸
音楽:伊福部昭3点

出演:本郷功次郎(シッダ太子)、チェリト・ソリス(ヤショダラー)、勝新太郎(ダイバ・ダッタ)、川崎敬三(ウパリ)、川口浩(アジヤセ王)、小林勝彦(アナン)、市川雷蔵(クナラ王子)、山本富士子(ウシヤナ)、中村玉緒(オータミー)、叶順子(マータンガ)、京マチ子 (村の女ヤサ)、中村鴈治郎(アショカ王)、山田五十鈴(カリティ)、月丘夢路(タクシラー)、北林谷栄(スミイ)、杉村春子(イダイケ)、千田是也(スッドーダナ)、東野英治郎(シュラダ)

 とんでも映画の王道をいく大作である。

 まず、今から25世紀も前のよくわからん超古代のインド人たちを、日本人が日本語で演じるのである。これが変。

 壮大なオープンセットが70ミリの大画面で見られるのだが、そのバックの景色は富士の裾野っぽい。つまり屋外なので太陽光線がインドのように明るくないし角度がゆるい。生えている植物も温帯広葉樹っぽい。これも変。

 当時の大映の映画スターたちが総出演している。上記の俳優たちを見て欲しいがその名前だけで1作撮れる位の大物たちが各エピソードで原色のサリーを着て裸を見せている。坊主たちの頭も剃髪で無く、現代の日本で散髪してきました感満載。特に川崎敬三にいたっては、演技もスタイルも気の弱いサラリーマンそのもの。女性の化粧も額に赤い点を描く以外は当時の流行の化粧で、タイトルバックでカネボウのでっかい宣伝。全く変。

 主軸にあるのは本郷功次郎演じるシッダ太子と勝新太郎演じるダイバ・ダッタの確執。その原因はシッダの妻のヤショダラーとの三角関係。後の大映テレビドラマに見る大げさな舞台劇のような定型的演技がわかりやすすぎる。全てが平坦な心理描写。これらが変。

 当時の宗教的対立を単純化し、魔法や奇跡をおこせる人物として仏陀を扱い、そのエピソードの数々はキリストと似ている。しかし、キリストと異なり結構簡単に悟ってしまう。それは、苦行六年という一文で終わり。その後は何が来ても無敵だ。

 京マチ子ほどの大女優を村の女で出す大胆さ。多分エピソード的には仏陀に乳を与えたスジャータのことなんだろうけど。
 山田五十鈴演じるカリティは夜叉と呼んでいたが、鬼子母神のことだ。説話はもっと凄惨なもので、人食いの話だ。でもどのように演じても山田五十鈴は山田五十鈴で、バタ臭い話では精彩を欠く。
 まだ美人はいいが、杉村春子のインド人の女王などは顔を茶色に塗っているだけだぞ。それだけで笑える。

 このように突っ込みどころ満載のボム映画なのだが、面白い。仏教説話をでかい紙芝居で見ているかのような無駄な感じがいい。

 だって20世紀フォックスを倒産に追い込んだ「クレオパトラ」で主役を演じたのは最近お亡くなりになった大女優のエリザベステイラーだ。そのクレオパトラだって何千年も前のエジプトの話なのに全く関係ないアメリカの白人が演じているのだ。

 こういう無意識の馬鹿事業が最近はなくなった。意図された馬鹿(ゼブラーマンのように)は苦笑しかない。子供の誇大妄想(怪獣映画のように)をそのまま映画にしたようなこういう作品はこの時代しかあり得なかったのだろう。貴重な文化的資料だ。仏教的にはNGだろうけどね。

古都

イメージ 1

☆☆☆☆
初公開年月 1963年1月13日
鑑賞メディア;CS

監督:中村登4点
原作:川端康成2点
脚本:権藤利英3点
撮影:成島東一郎5点
音楽:武満徹4点
出演:岩下志麻4点、吉田輝雄3点、早川保3点、長門裕之4点、宮口精二3点、東野英治郎4点

 ノーベル賞作家としては少々中途半端な出来である「古都」を中村登監督が丹精でゆるぎない画面構成で撮りあげた傑作。

 私は京都市内で生まれた。京都市内といってもいわゆる洛中ではなく酒どころとして知られる伏見だ。しかし、出てくる場所がどこか説明なしでもすべてわかった。特に観光名所として有名でない西陣の織物問屋や機織をしている職人の家屋は私の友人の実家そのもので懐かしかった。

 60年代の京都はわたしの子供時代の思い出とともにある。したがって、四条大橋をわたったところにある「いづもや」のネオンサインも懐かしかったし、周山街道の途中の北山杉の製材所も現在と余り変わらずあるのではないか。

 それらをまったく一分の狂いも無く完璧な構図で、どの画面を抜き出しても絵になる色で京都の四季を描き出している。それは息苦しいぐらいだ。映画の教科書といわれるゆえんである。

 私は、アメリカンニューシネマで映画に目覚めたので、このような文芸作品を長い間、退屈でアクションのないものとして見ていなかった。

 文芸作なので別にオチはない。離れ離れに育った一卵性双生児の姉妹が偶然出会い交流を深めるというだけの話だ。それに京都の四季と京都の商家や芸子や職人の風情を重ねてあるだけの作品だ。それらを味わう作品なのだ。京都観光の長いPVともいえる。映画的といえばこれほど映画的なものもない。

 しかし、昭和の時代にしては人々のメンタリティーや京都人の雰囲気が私が体験していたものとずいぶん異なるのである。岩下志麻はきれいだし、実年齢ぐらいを演じているし、晩年の極道の妻シリーズよりよっぽど関西イントネーションがうまい。他の役者も大人しい演技でわかりやすい。それは良い。
 祇園祭の宵山のにぎわいはともかくも時代祭りは京都人より観光客が多かった。
 しかし、商家の捨て子の娘の元へ自分の身代をつぶしても長男を養子にやる京都の人間はいない。おかしい。何か裏がある。当時でもいいなずけなどというものはもう無かった。つまり当時から繊維は斜陽産業のひとつで現在でもそうだ。斜陽産業のままずっと続くのだ。

 だから、着物の卸問屋のお嬢さんをそれほど身分が異なると考えたか疑問である。木こりの娘だからといって主人公ほど謙虚になったか、機織の職人の恋心が無理なものかが、はなはだ疑問である。これは、京都を良く知らない川端が想像上の京都像として描いたパラレルワールドのような作品ではないのかと思う。

 したがって問屋の従業員たちの適当なさぼりや帳簿のごまかしや祇園祭のお稚児になることを「あほやでこいつ」と言った台詞にはリアリティを感じた。

人間

イメージ 1

☆☆
初公開年月 1962年11月4日
鑑賞メディア;CS

監督:新藤兼人2点
原作:野上弥生子「海神丸」
脚本:新藤兼人2点
撮影:黒田清巳3点
美術:新藤兼人3点
編集:近藤光雄3点
音楽:林光2点

出演:乙羽信子(五郎助)3点、殿山泰司(亀五郎)3点、佐藤慶(八蔵)3点、山本圭(三吉)3点

 カニバリズム映画は多くあるが、これは直接それを描いていないし、人間の良心がそれをしなかったという内容になっている。

 そこが面白さを半減させてしまっている。普通の漁民が異常な状態の中で止むに止まれぬ状況で共食いをしてしまう内容ならもっと深いものが出来たと思う。

 したがって乙羽信子の演技も舞台劇を見ているようで大げさだし、達者なはずの殿山泰司も当たり前の台詞を繰り返すだけでつまらない。山本圭にいたっては、可哀相なくらい演技をさせてもらっていない感じがする。

 ただ、佐藤慶に殺された山本圭が生き返るように見えるシーンだけがサスペンスとして少し演出が光っていた。

 最後の乙羽信子の事故死と佐藤慶の自殺は何なのだろう?これは、脚本を書いた新藤兼人自身の良心という意味以上のものが出ていない。つまり自主規制だ。このことは新藤兼人の思想の根幹に関わることなので彼自身のメッセージ性の高い映画からは矛盾しているように見える。
 そういう演出の迷いが全編に出ていて演出が粗いように思える。

 ところで、これは実話に基づいた話なのだが、漁師達は何とか釣りをしたりして魚を食べる算段は無かったのだろうか?そこが疑問。

開く トラックバック(1)

裸の十九才

イメージ 1

☆☆☆☆
初公開年月 1970年10月31日
鑑賞メディア;CS

監督:新藤兼人4点
製作:絲屋寿雄、能登節雄、桑原一雄
脚本:新藤兼人、松田昭三、関功3点
撮影:黒田清巳、高尾清照2点
美術:春木章3点
編集:榎寿男3点
音楽:林光、小山恭弘2点
ナレーター:宇野重吉2点

出演:原田大二郎(山田道夫)4点、乙羽信子(山田タケ)4点、鳥居恵子2点、太地喜和子3点、佐藤慶3点、草野大悟3、渡辺文雄4点、殿山泰司4点、河原崎長一郎4点

 永山則夫連続射殺事件とその背景を追った新藤監督らしい社会派サスペンス映画。

 しかし、60年代後半から70年代初めの日本社会のゆがみ具合が懐かしいような忘れたいような複雑な感情を呼び起こす一編だ。

 結局、無知と貧乏が悪いということだ。それは、典型的な貧乏人の子沢山という分かりやすい劣悪な環境で語られる。ばくち好きの放蕩亭主に避妊をしない馬鹿な母親。二人には家計という観念が無い。

 このような酷い家庭環境で育った多くの兄弟たちの中で犯罪者が主人公しかいなかったことから、無知と貧乏だけが犯罪の温床ともいえない気もする。監督は社会との明確な接点を失った若者はこのような不可解な犯罪を犯すのではないかという問いかけだけで終わっている。

 モノクロ画面はややシャープさに欠け、荒い。東宝が配給しているにもかかわらず、暴力と女の裸のシーンが多く出てくる。それらはどれも余りエロチックではない。乙羽信子や太地喜和子も脱いでいてラブシーンもあるのだがエロは感じない。むしろ時代を感じる。いかにも70年代っぽい無造作な感覚なのだ。

 原田大二郎も当時としては余りに前髪が長すぎる。当時の長髪はもっと後ろ髪が長い。また男前過ぎて犯罪者の屈折の表現が甘い。

 話は射殺事件を縦軸に主人公の生い立ちを時間を飛ばしながら語られる。そこに齟齬を感じさせないのは脚本と編集のうまさだろう。

 ところで、盗んだ拳銃はリボルバー式だったので6発ぐらいしか弾は入らないはずだ。撃った数から考えると銃弾も一緒に盗んだのだろうなぁ。そのシーンが無かったし以後も弾を込めているシーンは無かったので少し不思議。
 その拳銃のばねが弾けるようなくぐもった音は良かった。映画によくある拳銃の大きな音でなくおもちゃのそれに似た音だけが妙にリアルだった。

開く トラックバック(1)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.

ブログバナー

亜蘭澄士
亜蘭澄士
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事