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初公開年月 1949年9月13日 鑑賞メディア;BS 監督:小津安二郎4点 製作:山本武 原作:広津和郎 脚本:野田高梧、小津安二郎5点 撮影:厚田雄春3点 美術:浜田辰雄3点 衣裳:鈴木文次郎 編集:浜村義康4点 音楽:伊藤宣二2点 久しぶりに観た。3回目ぐらいか。 この作品は、この後、小津監督がデジャブのように繰り返す、結婚適齢期の女性とその家族の話を確立した作品として有名だ。 また、後のTVのホームドラマのように家のセットの中で繰り広げられるたわいない会話の基本もここにある。 しかし、この作品はそんな生ぬるい決まりきったものを超えて観客を考えせずにはおかない奇妙な吸引力を持っている。 まず、感情のこもらない棒読み風の台詞回し。同じ言葉の繰り返し。ストレート・カットでしか結ばれない画面。静止した風景の挿入。そして、有名なローアングル。 また、イマジナリー・ラインの完全無視。この編集に、私は未だに混乱する。 しかし、面白い。後の作品ではこの度合いがもっと高くなっていくが、こ「晩春」では、役者にある程度演技もさせているし、自転車のデートのシーンではドリーショットもある。 最初に父親の曽宮周吉が家に帰ってきたときは、娘の曽宮紀子がそばについて脱ぎ捨てた背広を畳から拾って片付ける。が、ラストシークエンスでは、周吉は一人で家に帰ってきて一人でハンガーに背広をかける。繰り返しの同じような退屈なシーンの連続でありながら少しずつそれを変化させてそれぞれに意味を持たせている。 能を父と娘で鑑賞しているシークエンスでは、「杜若」の恋の舞が映し出される。幻想的な能の舞台とリンクさせて紀子が父親の再婚相手である三輪秋子を何度も睨む。このカットは怖い。
紀子(原節子)は、エレクトラコンプレックスなのだ。父と自分の間に入ってくる新たな他人を受け入れることが出来ない。だから、親友北川アヤの助言も軽く受け流すことが出来ない。
そうであるにも関わらず父の助手である服部昌一とデートもする。また、そのとき自分がやきもち焼きであることを語っている。服部も婚約者がいながら紀子をデートに誘う。性的に潔癖症の紀子はそれを承諾できない。 このように紀子の心理は複雑なのである。父親が一人身になったときの心配もあるが、何より二人で暮らすのがうれしいのである。 よく議論になっている、京都の旅館での壺のシーンは、私はやはり性的なものを意図していると思う。 枕を並べて寝る父と娘もおかしいし、原節子の顔は化粧がべったりついたままだ。映画的お約束かもしれないが、ちょっとおかしい。またその前の台詞が、再婚した父親の友達に「汚らしい」などとひどい事を言った反省の弁だ。つまり、性的なものを受け入れるというサインなのだ。 もちろん本当に近親相姦が行われているのでなくそのような心理的象徴として重要な意味を持つシーンなのだ。 原節子さんは当時紀子と同じぐらいの28,9だ。バタ臭い顔立ちだが日本的な可愛さを持った稀有な女優だと改めて思った。 杉村春子さんは達者すぎて小津監督も紋切り型の演技に収め切れなかったのだろう。うまいのでコメディリリーフなのだろうが一人浮いている感じがする。 とにかく、久しぶりに観て、世界中の映像作家が研究したくなるのは、よくわかる。それほど、当たり前のように見えて変わった映像だ。
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