80年代中盤

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仕事の繁忙期がやや収束し、久しぶりの書き込みです。
 
原発を巡って世間が騒々しいです。
日本では過去に、原子力エネルギーから離れるための教訓を与えられたことが何度もあった思います。
 
1945年の原爆投下。
1984年のチェルノブイリ。
バカな私が知っている範囲でも2回あります。
 
1984年には、反原発行動で代々木公園に40万人(?)市民が集まったと言われています。
 
以下、記憶だけで書いてますので、間違っていたらごめんなさい。
上記の反原発行動の後、横須賀も反原発運動の現場になった記憶があります。
原子力発電のプルトニウム燃料が横須賀港から各地に運ばれていたため、市民団体が中心となり、その運搬車両に嫌がらせを行っていました。
しかし、世論は最終的なところまで盛り上がりませんでした。
神奈川大学では、県内ということもあり、運搬車両に嫌がらせをする運動に関わっていた奇特な学生も数名おり、学内でも反原発を訴えていました。
 
なぜ、奇特な学生か?
バブルご愛好のDCブランドバカばかりな学生の中にあって、そりゃ、奇特でしょ。
なんども本ブログ内で繰り返していますが、そういう奇特な学生は、白い眼で見られ、クズ扱いです。
 
1984年に、ソ連で起きたことを自分のこととして省みようとしなかった日本人。
尊敬しますね。すごいです。そのセンスは抜群です。
当時は「ソ連ざまあみろ」なんて平気で言っている方々もたくさんいました、ほんとに。
(すいません、私は共産主義とか社会主義とか信奉しておりません。ねんのため)
いま、ソ連(ロシア)から、「日本ざまあみろ」と言われています。
万事、OKです。因果応報なので、それ自体はとても正しい関係性のあり方です。
 
あのころにかえれるとしたら、、、。
原発を推進している勢力に対し、DCバカ学生も一緒になって明確なアンチを唱えていれば、今日のような事態にはならなかったかもしれない。(しかし違う形で何かあったかもしれないがね)
 
で、今になって、政府の責任とか、管はバカだとか、東電ふざけるな、とかいう世論。
すごい、さすが日本人です。いまや、世界から尊敬されています。自分自身を省みないことの人格的な優秀さ。
 
私は日本人であることを誇りに思います。
 
そして、将来無用に誇らなくてもいいように、現在の大学生諸君、高校生諸君、まさにもろもろの先輩方を顧みず(笑)に、愚直に闘ってほしいと思います。
私は、徹底的に「優秀な皆さん」へ、攻撃を仕掛けたいと思います。
 
「政府は無責任。子供の体が心配でたまらない。こういう世の中に誰がしたの?自民党?管首相?」。
間違いなく、あなたです、私です。

1−(4) 闘争課題

「闘争課題」、この表現の仕方は正しくないように思いますが、いちおう、これでいきます。
神奈川大学の学生運動グループが取り組んでいた学内問題や社会問題ですね。
 
学内問題、、、ない!(笑)。というか、あまり覚えていません。
学外のほうが多かった気がします。なぜだ!?
本来、やはり学内の問題にウエートを置くべきなのではないでしょうか、学生の本分としては。
私はこう考えます。先輩方、いわゆる全共闘以降の動きになると思いますが、基本的な部分はほぼ解決してくれていたのではないかな、と思います。さすが先輩たちです。
神奈川大学全共闘の資料を拝見したことがあります。「米田体制打倒!」とか書いてあり、日大ほどではなかったと思いますが、右翼学生のテロとかもその当時はあったと聞きます。そのような中で、反帝学評(解放派の学生組織)の皆さんを中心に相当頑張って手に入れた学園民主化だったのだと思います。
1960年代の後半の神奈川大学民主化闘争の中で、応援団が(おそらく右翼学生と一体となって)学生運動つぶしに動いたことから、80年代当時でさえも「応援団」は禁止されていました。
なんだか、応援指導部とか、たしかそんな名前でしたね。かわいそう。
 
繰り返しますが、そのような先輩方の体を張った戦いが、自由な校風を育んだのでしょう。自由っていうのも、まあとらえ方ですけどね。
 
学内問題といえば、Ⅱ部学友会が大学側の規制や各種対応について色々と批判し、定期的に学生課の窓口に行って交渉を繰り返していました。その姿は鮮明です。「お〜やっとる!」って感じです。
あと、19号館問題。1−(2)の「ボックス」でも述べた、サークルボックスの学外移転の問題。
大学当局はうっとおしい自治会やサークル等を学外に追い出したいと思っていましたから。でも、結局大学生協がどういう経緯かは知りませんが、正門横からこの裏門はじの19号館に移転し、批判をあびていました。まあ、生協はたくさんの職員を抱えていたし、背負っているものが違いすぎるから、大学側との妥協点を見つけるのは当然でしょう。
 
それと原理研究会の公然登場ですかね。あの頃、統一協会(教会、ではありません)の学生組織である原理研究会は、各大学キャンパスへの食い込みを狙っていました。もっとソフトにやればいいものを、大学当局と一体となって、学生運動つぶしの片棒を担ぐようなこともやっていました。
明確に反共を掲げる勝共連合とか、そういう右翼的な政治団体とも一体でしたし。
神奈川大学には、この勝共連合の幹部と言われたK教授という人がいました。K教授が学長選に出馬すること、そして、原理研究会を学内に手引きしていること、さらに原理研が学内で講演会を開催することなど、1987年はキャンパスが燃えました(笑)。久々の機動隊導入。また、これは別の項で詳しくですね。
 
学内問題はこういう感じでしょうか、、、。
 
学外では、三里塚、狭山、国鉄民営化、寄場、天皇、パレスチナなどの新左翼らしい話題から、反核・反原発、環境保護、スパイ防止法など市民運動系など幅広い課題がありました。が、今のように、若者が「仕事よこせ!」とサウンドデモで闊歩するようなことはなかったと思います。まだまだ、バブバブでよい時代です。
1985年、中核派が主体となった三里塚闘争のいわゆる「10・20」と、反国鉄民営化反対の浅草橋駅襲撃はかなりのインパクトがありました。私は、けっこう興味本位で「おっーーー!すっげーーー!!」とか思って見ていました。国鉄民営化に伴って、多くの労働者が職場を追われました。国鉄当局に反抗的な組合に所属する労働者がビシビシきられていったと聞いています。
それと狭山闘争です。1963年、被差別部落に住む青年が、埼玉県狭山市で起きた誘拐・殺害事件によってでっちあげ逮捕された問題。警察の取り調べで「やったことを認めれば、懲役で済む」と騙され、“自白”した結果、裁判では死刑判決を言い渡されたという事件です。裁判の透明化が必要、なんてことはこのころからずっと言われていることですね。この青年を犯人に仕立て上げようという警察の見込み捜査は、相当ひどいものがあったようです。
また、東京・山谷で、日雇労働者組合の指導的立場の方が右翼・暴力団に刺されて亡くなられたということもありました。“日の丸か!?、赤旗か!?”と、究極に突き詰めた戦いが日本にもあったのです。
 
そして、1989年の昭和天皇崩御が、1つの頂点であったのだと思います。
 
1987年の沖縄国体の際、地元民が日の丸を焼き払い、大きな話題となりました。
そこから連なっていった天皇崩御です。
 
そして、1991年のソ連崩壊ですね。
 
まあ、バブルに浮かれる裏で、現実的には死ぬほどたくさん考えなければならない問題が横たわっていて、われら日本人はたくさんそれを見過ごした、ということでしょうか。
 
だからいまさら原発どうのこうのなんて言っても遅いって(笑)。まあいいです。
やりこれですね(笑)。
 
すべてが学生運動とは言い難い面もありますが、「学友に対して自分達の考え方を訴え、大学の何かを変えようとすること」が学生運動と定義すれば、様々な学生運動グループが存在していたことは事実です。
 
すでに記述しているように、まず解放派(狭間派)という皆さんが全学自治会を掌握し、まあ恐怖政治を行っていました。恐怖政治といっても、この時期は自分たちと思想信条が違うグループに対し、嫌がらせをしたり、暴力を振るったりということは無かったと思います。まあ、原理研の諸君は殴られていたみたいですけどね、これは当然。
しかし一方、他のグループもいちおう解放派の存在をすごく気にしていました。「いや〜、それについてはアオカイに文句言われそうだし、控えとこうか」という雰囲気がありました。自粛ですね。
たとえば三里塚闘争については、解放派は北原事務局長のグループを支援していましたから、もう一方の熱田代表のグループの集会に行っている、なんてことは学内では公然と言えませんでした。実際には、熱田代表が仕切る集会に行っている学生はいましたが。
 
さらに言いますと、外部の政治勢力とつながっているグループは、他にもありました。
まず解放派の「労対派」もしくは「全協」といわれる方々(これについては、どの学内グループかは、ここでは言いません)。1981年に学内おいて、解放派狭間派と解放派労対派の激突がありまして、労対派が負けました。もともと同じグループ内の戦争なので、いわゆる「内々ゲバ」です。解放派労対派(ご老体なので負けた、なんてギャグもありましたが)は、80年代中盤にも学内で生き残っている方がいました。1981年のこの激突は改めて別のところで述べます。
また、毛沢東派の方々。これは書いていいですかね、中国研究会ですね。いかにもわかりやすい。
それと日本共産党の民主青年同盟、略称「民青」。これは社会科学研究会です。
あくまで当時の話です。いま学内に同名のサークルが、あるかないか分かりませんが、もう20年以上経過しているので、当時とは関係ないはずです。念のため。
 
そして、「ノンセクト」と呼ばれる方々。外部の政治党派等の指導を受けず、独立独歩のグループです。Ⅱ部学友会(夜の戦線)、学生法学会、Ⅱ部サークル連絡会議、という感じですか。この3チームは共に、横浜寿町の日雇い労働者の労働組合と接点を持っていたようです。
ノンセクトは上部団体を持たないため、党派の皆さんにいじめられやすいです。まあヤクザの世界と同じでしょうか。愚連隊(→ノンセクト)は本職のヤクザ(→解放派)と比べ格下、みたいな。
 
もう少し言うと、Aという政治グループは、A以外の政治グループの人間が学内にいることを極端に嫌うわけですが、ノンセクトはいわばアマチュアですから、解放派も多めに見ていました。それと、解放派も神奈川大学のノンセクトも、お〜〜〜きなジャンル分けでは、「新左翼」と呼ばれる同じ穴のムジナです。そういうこともノンセクトがある程度は、自由に動ける要因だったのでしょう。
 
ただ、社会科学研究会(日本共産党)や中国研究会(毛派)、それ以外の大きな政治勢力が真剣に学内に登場しようとしていたのであれば、きっと解放派の諸君も黙っていないでしょうね。
 
ちなみに、狭間派に対しては、自分がなんであれ・どういう思想信条を持っているのであれ、「私はノンセクトです」と、皆主張しました(笑)。「三里塚には行ったことがありません」とも。
 
しかし、民青が学生自治会の主導権を持っていたら、ノンセクトはいじめられるパターンですね。
日本共産党は、ジャンル分け的に「旧左翼」ですから。
 
だいたい、このような感じでしょうか。
80年代中盤にしては、相対的にみて、それなりに様々なグループが割拠している大学であった、ということが言えると思います。
 
なんか面倒くさいですね(笑)。
 
それと、これは運動グループか私は分かりませんが、「高麗(こりょ)」という在日の学生が集うサークル(?)がありました。すいません、総連系か民団系か、今となっては思い出せません。
たしか、学内で勉強会をやっていたりしました。
しかし、学内の学生運動グループに対しては非常に冷ややかだったようです。
彼らがあまり接点を持ちたくなかった理由は、「日本人の運動に利用されたくなかった」からではないか?と想像します。チョン・ドファン大統領来日、光州蜂起など、1980年代前半〜中盤の日本の学生運動は、朝鮮半島情勢に大きな思いを寄せていました。しかし、在日の彼らは、結局当事者たりえない日本人に対して違和感を持っていたのではないでしょうか?(学生運動に取り組み、「チョン・ドファン来日阻止」「光州蜂起支持」、という心情の者にさえ)
 
この「現場との違和感」は、またおいおい、記録していきます。

1−(2) ボックス

現在の神奈川大学・横浜Cの建物の概要をホームページで拝見しました。
各館の配置について当時の痕跡はありますが、実際に行って見てみないと、正確なところを書くことができないと感じています。ホームページを見る限り、それぐらい変わっています。
ちなみに、当時は横浜Cしかありませんでした。
 
またホームページを拝見したついで、ということで書きますと、中島三千男先生が学長になられていることに驚きました。たしか、一般教養(歴史?)の授業を受けさせていただきましたが、その時は若手の良い先生というイメージでした。さらについでで、今、きちんと勉強をやる気で入学できたとしたら、的場先生の授業が受けたいです。マルクスに関する本、拝読いたしました。おもしろかったです。
 
さて、「ボックス」の話しに戻します。ボックスとは、学生が自由に使える部室のことです。
 
たぶん、現在の1号館から10号館が、塀に囲まれている内側にある建物で、それ以外は公道を隔てて外側にあったと思います。
80年代初頭(70年代後半?)くらいまでは、この塀の中に全てのボックスがあったのですが、学舎の拡張計画(裏には、学内のボックスを塀の外に出そう、という大学当局の思惑があったのでしょう)に伴って、6号館内にあったボックスが現在の23号館のあたりに移転させられたと聞いております。
 
以下、80年代中頃のおおよそのボックス位置と、政治色のある団体もしくはサークルの入居状況です。
10号館地下&2階…解放派の拠点でした。「全学自治会」「社会思想研究会」「新聞会」「部落解放研究会」等がそれぞれ1つずつ部屋を持っていたと思います。それ以外も含めて合計6〜7部屋を独占していたのではないでしょうか?
8号館2階…Ⅱ部(夜間部)自治会である「学友会」が2階の1室に入居していました。彼らはノンセンクトで黒ヘルです。「夜の戦線」という名称の機関紙をもっていました。
6号館のヨコ…サークル長屋と言われるボックスがありました。ここにはごくごく普通の大学公認のサークルが入っていましたが、社会科学研究会、中国研究会、エスペラント研究会、Ⅱ部劇団という、ひとくせもふたくせもありそうなサークルもありました。
7号館地下…解放派系の全学自治会が仕切る大学祭実行委員会のボックスが2部屋ありました。
3号館地下…Ⅱ部自治会「学友会」の仕切る分裂大学祭(この名称についてはまたどこかで記録します)実行委員会のボックスが1部屋ありました。
3号館ワキ……Ⅱ部学生のサークル連絡会議(名称があいまい)や音楽系サークルのボックスがありました。
ここまでが塀の中です。
23号館周辺…今の建物が建つ前、このあたりにプレハブっぽいサークルボックス棟があり、学生法学会が2室持っていました。
そして、生協です。神奈川大学生活協同組合。19号館ですね。現在の生協はどうか知りませんが、当時はそれなりに意識のある学生が生協の運営に携わっていたようです。
 
特に10号館は解放派の拠点ということもあって、とても風流な(笑)雰囲気でした。政治スローガンが廊下の壁にペンキで大書きされ、ビラが無数に貼ってあり、なんとなく薄暗く、とても好きな空間でした。私の嫌いな「バブリーな学生」にとっては近寄りがたい場所であり、一種独特の雰囲気があったのです。
 
法政大学の学生会館、京都大学の西部講堂や学生寮は当時有名でしたが、学生の自治空間というものが確かに神奈川大学にもあったのです。大学の敷地内にあるにも関わらず、大学当局が立ち入れない(立ち入りづらい)場所です。当時の大学職員はきっとやりきれない思いも抱えていたと想像します。
 そういう意味での「やりきれない思い」は、きっと今はないと思います。
良いか悪いかは別にして、今はないでしょう。ない。
 
ただ、こうも思います。当時、本来の学生自治ということにこだわり、学生生活に対して、学生という立場で、学生全体に貢献しようと活動していたのは、Ⅱ部学友会だけだったような気がします。
Ⅱ部はサークル連絡会議という組織が機能しており、学友会とある程度共同歩調をとりながら、学内問題にも取り組んでいました。音楽系サークルや演劇サークルなども積極的に関わりを持っていたようです。
一方(対比するわけではないのですが)、昼間部は解放派という学外政治勢力の出先でもある全学自治会が実権を握っていましたし、バブリーに浮かれる学生ばかりで、学生自治のための明確な運動はなかったように思います。唯一学祭ぐらいでしょうか、いろいろなサークルが一緒になって何かを作り上げていたのは。ただし、この大学祭も解放派の仕切りでしたが(笑)。

1−(1) 入学式

入学式には、必ず青ヘルメットの「解放派」の方々が本館前に陣取って示威行動を展開していました。
学内にはそれ以外の学生運動グループもいましたが、ここまで堂々と、新入生の前に登場するのは彼らだけです。
たしか、竹ざおを持っていたと思います。
 
それ以外のグループもいました、ということについてですが、たぶん、解放派の皆さんを刺激しないように配慮していたか、逆に解放派の皆さんに「入学式では情宣(この場合、新入生の勧誘活動)をするな」と言われていたか、その辺は分かりません。ただ、大学そのものの運営とはあまり関係ないところで、学生相互の独自の政治状況があったことは確かです。
つまり竹ざおと青いヘルメットは、当然のことながら対当局・対権力という意味と、そしてもう1つ対学生(他のグループ)という、両方の意味を持っていたのでしょう。
 
この頃、まさにバブル一直線。自分も含め、信じられないようなバカ学生がわんさかと生まれていく中で、一方の象徴とも言える、汚いジャンパー、時代遅れのパターンのジーンズ、タオル覆面でいる彼ら。全共闘の生き残り、というイメージでしょうか。
時代が沸く中で、時代遅れは禁物。売れない商品を延々と作り続けているようなもので、これは許されないことです。
 
しかし、彼らにシンパシーを抱く新入生も中にはいたと思います。
まじめな学生、社会問題を真剣に考える学生、というわけではなく、時代が沸いていく雰囲気に気色悪さを感じていた普通の学生です。
私もこの時代が気持ち悪いと思っていました。あみん、とか、DCブランド、とか、キンツマ、とか全然だめでした。
また、「なんでもはなし」という気風の日本にあって、「なんでもあり」を喜ぶ特殊な人達も、竹ざおを持つ彼らを、なんとも思っていなかったか、もしくは面白がっていたはずです。
 
とにかく、入学式のこの示威行動については、「危ない人達なので関わらないようにしよう」と思う学生が99%だったと思います。とは言うものの、残りの1%に賭ける彼らの姿勢は立派でもあります。迎合しない態度や意思ですね。
 
学生相互の政治状況は、おいおい記録していきますが、入学式に登場する解放派の皆さんは、さらに細分化すると「狭間派」と自称し、また「革労協(革命的労働者協会)」等と名乗っていたと記憶します。

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