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一関市の郷土史家千田一司先生から無理にお借りした本です。 谷川健一編「金属と地名」三一書房1998年発行 各地の地名と金属のかかわりを書いています。 目の覚めるような面白さがあります。 其の中から千田一司先生の研究された蕨手刀に関する記述について紹介します。 古代に蝦夷が住んでいたとされる陸奥に金が発見されて、大和朝廷は一気に陸奥制覇をめざし、大軍を派遣して征服戦争を仕掛けます。 これに対して、奥州側では、武器を開発して対抗する必要が生じました。 鉄資源が豊かにある一関市舞川地区に鍛冶集団が居たとされます。 儛草(もぐさ)神社が彼ら鍛冶たちが祀った神社です。 儛と言う字は使用されていないので舞と書かれて代用されています。 舞草神社の周辺から鍛冶場跡や鉄鉱石採掘跡が見つかっているそうです。 京都東寺子院の観智院に伝わる「観智院本銘尽」および鎌倉時代の「正安本銘尽」などの刀剣古文書が残っており、舞草鍛冶の元祖は文寿とされています。文寿は唐から渡来した人とも言われ、舞草神社の近郊に唐の子という地名があり文寿の子が住んだとも考えられます。 刀の柄の部分が蕨の形をしていることからなずけられました。 この刀は当時突きを主にした直刀から、馬上からでも効率よく敵を払い倒せるように刀身にそりがはいるように改良され、日本刀の原型になっています。当時俘囚刀とも呼ばれて、京都の貴族にも愛好されたそうです。 奥州藤原氏の時代にも武器工場として、藤原氏の力の源泉のひとつとなっていました。 奥州藤原氏の滅亡後には舞草刀鍛冶たちは全国に散ってゆきました。 刀剣古文書に取り上げられている鎌倉時代の優秀な刀工42名の中で8名もの舞草鍛冶があげられているそうです。 古代から伝わる文書から舞草鍛冶・蕨手刀の記述を東北人らしい粘りと迫力でさがしあて、迫ってゆく千田先生の姿がすばらしい。 ここから私の見解です。 蝦夷の側にこのような製鉄の技術があり、優れた武器を作るちからが有ったとすると、古代の見方は一変します。
狩猟採集の貧しい集団、組織的には何も出来ない遅れた民族と思われていたものが、高度な技術集団を傘下に治めた、強力な民族、出雲族につながる人々だった可能性があります。 蝦夷とアイヌとの関係はよくわかりませんが文化的に優れた集団だったことは間違いないでしょう。 |
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私もエミシと呼ばれる地に鍛冶の文化がこんなに発達していたとは知りませんでした。
やっぱり地続きだったので出雲もエミシも同じ様な程度? 文化の伝播も早かったのでしょう。
戦いに勝った側の歴史ですから、負けると低く評価される。
2009/8/14(金) 午後 8:07 [ 六さん ]
六さん 津軽弁と出雲弁は共通したものがあると読んだことがあります。国譲りで敗れた出雲族が北に逃れてアイヌと共同戦線を張ったか、もともと津軽まで大国主の国だったのか歴史は面白いですね!!!
2009/8/14(金) 午後 8:37
大変興味深い本ですね
切り口を変えると新しい歴史がみえてきますね
2009/8/16(日) 午前 11:19
六さん 甲斐駒=花水の蛍です。花水の蛍のブログに岩手旅行をMIXIから転載しておりますので、そちらにも遊びに来てください。
2009/8/16(日) 午後 9:09
アーサーさん 同感です!
鉄は国家なりとか鉄を制するものは国を制すとか格言がいろいろありますね。
どうやら出雲族は折角の鉄を天孫族との戦いに十分に生かすことが出来なかったようですね?
2009/8/16(日) 午後 9:24
交易の話が、刀鍛冶へと繋がってきてるようですが。
2009/8/20(木) 午後 4:19 [ 羽木 鉄蔵 ]