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加地伸行著「儒教とは何か」中公文庫 周王朝は封建制国家でした。各地に諸侯が王となって独立した国があり、周王朝が覇権を握っていました。 それに対し秦王朝は郡県制国家を作りました。皇帝の派遣する高級官僚が長官となって各地の郡・県を治める制度です。 このとき始皇帝は法家を採用し、法治の中央集権国家をつくり、徳治を求める儒家に対して焚書坑儒で弾圧し粛清しました。 この改革には抵抗がつよく、始皇帝の死後、各地で反乱がおこり、わずかに20年ほどで秦は滅亡しました。 秦の後を襲った前漢王朝は直轄地は郡県制とし、遠方は諸侯の自治をみとめる郡国制国家をつくります。 郡国制は皇帝にとってはあくまでも妥協案の国家であって、国内の国の大きな共同体は、次第に分解され、中小の共同体の上に官僚を派遣する中央集権国家になってゆきます。 中央集権国家の官僚は中小自治体(諸侯国)から推薦して採用する形から始まりましたが科挙の制度が採用されて、試験で官僚を選ぶようになります。 科挙で試験する内容は書経、易経などの古典の博識を問う内容で、次第に儒家に握られて、儒教による政治が主流になっていきました。 官僚が科挙で採用される(隋・唐時代)となると皇帝から直に採用されると言うことで、推薦母体から後押(前漢・後漢時代)しされた官僚より、はるかに皇帝に対する忠誠はたかくなります。 孔子による儒教は周の時代に基づいていたのが、規模の大きくなった前漢・後漢王朝では指導原理として合わなくなり、儒家は解釈を工夫して、対応するようになります。 秦の焚書坑儒事件で、古典文書が失われますが、儒家の記憶から古典は再構成されて今文尚書がつくられ、焚書から逃れて家屋の壁などから発見されたとして古文尚書がぞくぞくあらわれます。 不思議なことに古文尚書あたらしい規模の大きな時代に合った内容だったりして、偽造文書も多かったようです。 これらの古典に対する解釈が経学として活発に論争がおこり、儒家の思想が活性化しました。 宋王朝になって天使直属の科挙官僚のシステムが完成しました。そして儒学も宋学(朱子学)としてあたらしい展開をします。 前漢時代に儒教は国教となりましたが、後漢の後期になって、仏教・道教という強力なライバルが登場します。特に仏教は緻密な論理をもっており、変転極まりない魏・晋・南北六朝の時代に、道教とともに生活苦にあえぐ大衆を救済しました。 儒教は仏教・道教が持っている宇宙論や形而上学がありませんでした。そこで朱子は無(無極)にして有(太極) 宇宙には物質がもともと存在していたと考えます。太極が運動すると陽が発生、静止すると陰が発生する。陰陽は木・火・土・金・水の5行を生み出す。 太極は理である。陰陽は気である。陰陽は永遠の過去から、永遠の未来まで存在している。生物は気が集まることによってこの世に生まれ、気が散じることによって死ぬ。人間は気の中でももっとも優れた気の集まったものである。 ******* このあたりで小生の理解の限度を超えてしまいました。 物質がビッグバンで発生したとする、西洋型の論理よりも解りやすく、納得しやすいように思います。
Tom 2010年02月17日 22:13 大化の改新で日本は中央集権化を目指したわけですが、それよりも1000年近く前に中国では、秦によって中央集権国家が出来上がるんですね。結局、大化の改新もその流れを汲むものなのでしょうが。中央集権国家は統治者にとっての一つの見果てぬ夢なんでしょうね。焚書坑儒は、愚ですね。タリバンによる仏像破壊も似ています。
「気」の考えは、東洋医学にも受け継がれていますね。武術にも。一つの哲学かもしれませんね。
花水の蛍 2010年02月17日 23:41 Tomさん 厄介な議論にコメントありがとうございます。
経書・経学の経という字は縦糸を言うのだそうです。現実に基づいてプラグマティズムのように唯物論的に理性的な議論を展開します。 それに対して緯書というものがあり緯というのは横糸を意味するのだそうです。天の動きと地上の事柄を連動して仮借する占星術、宇宙の神秘と人間の社会や歴史を結びつける考察、人間の超能力の世界を今から見ると荒唐無稽と思われることを議論する書物を緯書といい、後漢の時代から大量に書かれたのだそうです。これらの緯書から緯学といわれる空想的で壮大な議論が学問になります。こうした議論から朱子の宇宙論が作られてゆくようです。 日本でも奈良・平安時代は陰陽師が跋扈し、言霊を恐れ、怨霊を恐れる時代でした。中国の影響でそうなったかは良くわかりません。 大化の改新は中国の中央集権に倣ったものですね。日本では神道による祭政一致の連合国から皇室中心の中央集権国家になり、祭祀は皇室の専権行事になってゆきます。 津軽藩が南部藩から独立したときに、それまでの文書を集めて焚書したそうですが、支配者が正当性を主張するときに実行されます。 古事記・日本書紀をまとめるにあたって、家伝を提出させたのも一種の焚書ですね。物部氏の伝承などもこのときにあいまいになってしまったようです。
Tom 2010年02月20日 16:38 なかなか面白いです。一時流行った言葉で、垂直思考、水平思考という言葉がありました。ちょっと似てるなと思いました。
現象の中から法則性を見つけていく、そしてその法則性を利用するということは、高度な脳を持った生物がよくやることですが、(たとえばカラスが固い木の実を車道に落とし、車に轢かせて中の実を食べるのも、そういう認識法の一つの利用のように思うのですが)人間の脳の優れている点は、それらの法則のさらに奥にまで踏み込んで、法則を引き起こしている実体は何かというところまで追求し、現象と実体との関連性を検証する。それが出来ることのような気がします。 腐ったものを食べれば必ず腹をこわす。では腹痛を引き起こす実体は何か?病原菌だ。病原菌と腹痛との間にはどんな因果関係があるのか?というふうに。儒学は、実体への迫り方が西欧に比べてやや手ぬるかったということはないでしょうか? 法則性には強い関心を示したものの、実体究明へと向かわず、思弁、形而上学の段階で留まることが多かったというような。 朱子学の背景が分かって面白いです。天体は人間にとって大いなる環境。外界と接して生きている生物である人間は、自分を取り巻く環境に強い関心を払ったのでしょうね。その中で、最も遠い距離にあって最も大きい環境が天体。遠く大きいだけに空想が膨らむのでしょうね。今だってそうですけど。(天体の運行法則は実用的な意味もありますし) 陰陽師 朱子学の影響、ありそうですね。 >神道による祭政一致の連合国から皇室中心の中央集権国家になり、祭祀は皇室の専権行事になってゆきます その辺の流れが大変面白そうですね。人間社会に共通しているように思います。 >津軽藩が南部藩から独立したときに、それまでの文書を集めて焚書 焚書(過去の抹殺・消去)は、お前が支配するか、オレが支配するか。二つに一つだ。式のいわばゼロサムゲームみたいですね。近代になると、悪い歴史もよい歴史も歴史は歴史。そこから教訓的にいろいろ学ぼうとします。広島原爆ドームを残しているのもそういう思想なのかなと、ふと思いました。 >物部氏の伝承などもこのときにあいまいになってしまったようです。 近、現代の人間からみればとても惜しいことですよね。 |
古代史雑感
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加地伸行著「儒教とは何か」中公文庫 儒教の歴史は大きく区分すると 1原儒時代 孔子が登場する前の時代 祖先崇拝と招魂祭祀に儒(シャーマン)が活躍した。 2儒教成立時代 孔子が儒経を成立する時代 3経学時代 儒教が国家の指導原理となり研究が進み確立完成する時代 4儒教内面化時代 清が倒れて礼教性が否定されたあとの儒教 とわけられます。経学時代がながく、仏教・道教との競合や儒教内部の抗争が続いて朱子学に収斂してゆきます。 儒には王朝の祭祀儀礼・古伝承の記録を司る上層の知識人(君子儒)たちと、祈祷や喪葬を担当するシャーマン系下層の儒(原儒・小人儒)があります。 孔子は上層の儒(君子儒)として、強力な塾を作り、人材を輩出します。塾は師と弟子が強い絆に結ばれて、さまざまな問題を討論しています。そこで使われる教材は孔子がそれまでの歴史の中に蓄えられた先人の知恵を取捨選択再編成した詩経・書経を用いました。 儒家はキリスト教のように神はすべての人を平等に愛するという立場をとらず、自身に近い血筋のものと遠いものを区別します。一番近い親子の間の愛が強く、葬儀などの悲しみの度合いも、喪に服する期間なども、親が亡くなった場合子が一番悲しみ、喪の期間もながくなります。 一族の祭祀では最初の先祖と自分から5代前までの祖先の名前をいれた位牌を祭壇に祀り、2代目以降6代前までは初代の位牌に合祀します。分家も5代までは同族として祭祀を共にします。これによって強力な一族の団結が保たれました。 葬儀などにおいて参加者全員が喪服を着ることはなく死者との関係が遠くなるにつれて平服になります。 [[attached(1,center)]] 孔子はシャーマンのおどろおどろしい招魂儀礼は良しとせず、整然と執り行う儀礼を重く見ています。 孔子が出現してから宗教的儀礼(招魂儀礼など)は次第に倫理的儀礼(社会的儀礼)と変わってゆき、血を受け継ぐ一族の団結の儀礼へと変わってゆきます。 孔子の死後弟子たちが各地に分散して根を下ろしてゆきます。そのなかで心の内省や礼の内容・目的を重んじた実践派・哲学派だった曾子の系統から孟子が登場します。また知識や礼の形式を重んじた文献派・学術派の子夏の系統から荀子がでます。孟子は性善説をとなえ、荀子は性悪説を唱えて、荀子の後から法家と言われる韓非子がでます。 儒家の理想とする人間・聖人は神でも仏でもなく、尭・舜と言った伝説の王で、あくまでも人間です。 聖人は努力して修行をつめば誰でも到達できるかもしれない人間です。 キリスト教の神になることはもちろん、仏教の仏になることも輪廻転生を繰り返した挙句にも容易にはできません。 儒教では孝・悌・仁・義・礼・・・・と言った倫理を収めることに聖人に近づくことができます。 聖人が政治を司ることを儒家は理想としています。 秦の始皇帝は法治を国家原理にして失敗わずか20年で秦は崩壊滅亡しました。それ以来法より道徳を重く見る儒教が中華王朝の国家原理とされました。そのため現在でも法治国家とはいえない、一罰百戒のような処罰が行われています。 儒教は人間は教育によって知性・徳性をみがくことによってよりよい人間になるとし、自然もまた人間の手をくわえ加工することによって、人間のより住みよい環境ができるとしました。 老子は自然的世界を重視しました。世俗を合理化する儒教の生き方は地位・財産・富貴を求めて会い争う世界を作るだけだ。常識や世俗の小ざかしい知恵などを捨てて無為自然になることを主張した。
道教として一定のひろがりはありましたが、国の指導原理にはなりえませんでした。 |
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儒教に関する本をずっと探していました。 「韓国は哲学である」と言う本は儒教に基づいて韓国を解析していました。 いいたいらしいことはなんとなくわかるのですが肝心の儒教に関して書いたものが見つかりませんでした。 ようやく加地伸行著「儒教とは何か」中公文庫が見つかりました。 実は儒教が宗教だと言うことが理解できませんでした。 孔子から始まった礼式の集大成のような印象のためです。 この本の最初のところを読んで目からうろこが落ちる思いです。 哲学と固ぐるしい礼法でがんじがらめで生命力を失ったかに見える儒教は実は死者を弔う礼法とその生死観ではっきり宗教としての存在がありました。 キリスト教の天国における永遠の生命、仏教の輪廻と解脱に対して儒教は先祖から受け継ぐ血筋のなかに命が受け継げられて、祖先たちの霊が自分にまた子供たち、孫たちの近くにあり、死者のどくろをよりしろに現世とつながっています。子孫があるかぎり先祖代々の霊は常に現世につながって子孫と共にあると考えられます。 儒は古代中国では葬式を執り行う人たちでした。孔子は農夫の父と儒の母の間に生まれました。 孔子以前の儒者を原儒と言います。原儒はしきたりを守り、葬儀や先祖祭礼で恍惚として招魂するシャーマンでした。しきたりを守ることから知識を蓄積する知識人の面もあり、招魂祭、葬儀を主催することから宗教家としての面もありました。 知識人としての儒は君子儒として国家の祭礼や式典をつかさどる存在に、またシャーマンとしての儒は小人儒として社会を下さざえするように次第に分かれてゆきました。その君子儒を確立し礼式をさだめ君子儒を国家の指導原理まで高めた最初の人が孔子であったとされています。 孔子は[孝」を概念化しました。生きている親に「礼」を持って仕え、死んだ祖先対して「礼」を持って仕えることを「孝」としました。「孝」は日本で考えられているように親だけではなく子や孫をいつくしみ育てることもまた「孝」とされました。先祖に対しまた親に対して「礼」を持って仕え、子や孫をいつくしみ育て、子孫の繁栄を実現することこそ、自分自身の存在を永遠に確かなものにするのです。生死を「孝」で結びその上に礼式を確かなものして、社会規範にし、また死の恐れをしずめる宗教性を確立したと考えられます。 孔子はまた家族愛、親族愛の概念だった「仁」を、広く人を愛する博愛にたかめて、積極的に他人を愛し良く仕えることを説きます。 孔子は20代後半に魯国の役人に取り立てられます。そこで田舎ものと馬鹿にされながら先輩たちにしつこく魯国の礼式について質問し習得して、国の大礼を身に着けてゆきます。音楽にも才能があった孔子は式典にともなう音楽にも精通して、やがて魯国の礼式の大家としてのし上がってゆきます。
また孔子は周王朝の文献をよく研究し、殷王朝、夏王朝の礼式も研究して、文献学者としても一家をなします。詩経・書経を再編してやがて孔子の主催する私塾の教科書として、人のあり方、社会のあり方、為政者としての心得などを習得する教材とします。 当時の塾は行政官僚を養成する大学であり政党であり、ジャーナリズムでもあるような社会的に大きな影響力を持っていました。師と弟子は熱い共同体となって、社会に対していたわけです。 孔子が50才ごろ魯国の閣僚になるやライバルの塾長小正卯をただちに暗殺して、自分の塾の安泰をはかったりしたそうです。自分たちの政治主張を守るためには容赦がなかったと言うことでしょう。 |
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最近バスを乗り継いで散歩をしています。 吉祥寺から中野へゆき、中野のブロードウエイを歩いて早稲田通りに出て新宿に向かいました。 そこにBOOKOFFがあり、ふらふらと入り込みました! 「日本人はるかな旅」全5巻が105円コーナーにそろっています。 こう言う事はけっこう珍しい!そろっているときは普通は高い値段がつきます。私もどれかをすでに買ってありますが、どれだかはわかりません。こんなときは全部かうにかぎります。 重いです。快い重さです。 21世紀に入ったころ、文明を振り返る企画展やら日本人のルーツをたどる番組やら、歴史の興味を駆り立てるイベントが目白押しでした。 そのときのNHKスペシャル「日本人遥かな旅」の取材を基にした本です。 家に帰ると前に買ったのは3巻で、確か花水にももう一冊あるはずです。前には高い値段で買ったような気がします。今回はとてもラッキーです。 1巻マンモスハンターシベリアから 2巻巨大噴火に消えた黒潮の民 3巻海が育てた森の王国 4巻は稲作について論じています。 5巻そして日本人が生まれた 縄文時代日本は孤立した島国などではなく、常に外部から人々がはいってきた歴史を持つ国です。 江戸末期から明治時代にかけて、ヨーロッパから来た人たちが、中国や朝鮮とくらべて遥かに多様な人間の坩堝と考えられていたようです。 豊富な写真を掲載した「日本人はるかな旅」シリーズは貴重な記録です。 4巻で稲が6000年前から栽培された形跡を報告しています。 この本では論じていませんが稲は連作障害の多い作物ですから焼畑農業では収量に問題があります。水田にすることによって連作障害は少なくなり、連作が可能になります。水田は中国大陸の方がはやくはじまり、弥生時代になって日本にはいってきたようです。日本にはいっていからの普及の速さから、日本でもすでに相当に高度な農業の受け入れ態勢が有ったのではないかと論じています。 とにかく面白いシリーズです。
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友人たちと伊勢神宮の宝物展を見に行く約束をしていました。 岩手旅行やら、札幌の法事などで、気がつくと最終日が迫っていました。あわてて二人の友人の都合を確かめたら最終日の9月6日しかありません。 そんなわけで最終日に滑り込むことになりました。 当日は9時半上の駅公園口待ち合わせ、博物館まで歩いて、行きました。 時間よりはやく集まったので、開館前から並ぶことが出来、すでに50人くらい先客が並んでいました。 平成館で美輪明宏の音声ガイドを借りて重装備です。 室町時代や鎌倉時代に写筆された古事記、日本書紀などがまず出て行きました。 平安時代の延喜式、鎌倉時代の続日本紀・・・・訳本でしか見ることの無い原本が〜〜 この展示会は平成25年に完了する伊勢神宮の遷宮を期して解されています。 神社社屋の遷宮については、いろいろ情報がありました。 実は遷宮と同時に、宮司さんなどの関係者の衣装を一新し、宝物まで一新するのだそうです。 きれいな宝剣なども20年ごとに作り変えられると聞いて驚いてしまいました。 一切を原初にもどして再生するのだそうです。 古い宝物は一般の人の目に触れないように、火に投じられたり、地中に埋葬されたりしたのだそうで、偶然発掘された宝剣と何代か前の、保存されるようになってからの宝剣が展示されていました。 大変にみごとな、名人の手になる宝剣たちです。 無駄とも思えるこんなやり方は、逆に技術を継承する役割をはたしていたようです。 宮大工から、織物、金属細工、刀剣の鍛造までさまざまな技術が古代から伝わっていることになります。 われわれ三人組はとても感動しました!!! 3時間脱水状況になりながら、じっくり見学させていただきました。 上野公園の西郷さんの像の近くのレストランで食事をし、忍蓮の池、岩崎邸見学・・・・
徒町からアメ横を抜け、上野駅でビールを飲んでから解散しました。 家に帰ったら万歩計は2万歩近い表示でした。 よくぞ歩いたものです。 |



