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埼玉県 川口市赤山 「赤山城址(伊奈氏陣屋跡)」
伊奈氏は、家康関東入国と共に鴻巣・小室領1万石を給され。熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。 三代忠治の時に、赤山領として幕府から7千石を賜り、寛永6年(1629)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。 これが赤山城で、以来十代163年間伊奈氏が居城したものである。城郭の南方に隣接する源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、四代忠克以後の代々の墓があり、五代忠常建立の頒徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。 【赤山城趾】の名称で川口市指定文化財に登録されています。 |
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この木にかすかに見える白い棉みたいな
ゴミみたいなもの・・・
実は近くに寄ると
可愛らしい花なんです。
その名は「10月桜」
・薔薇(ばら)科。
・学名 Prunus × subhirtella cv. Autumnalis (十月桜) Prunus : サクラ属 subhirtella : やや短い剛毛のある autumnalis : 秋の、秋咲きの Prunus(プラナス)は ラテン古名の「plum(すもも)」が起源 ・開花時期は、10/20頃〜翌1/10頃。 (二度咲き→ 3/20頃〜 4/10頃)。 ・花弁は八重で、白、または、うすピンク色。 ・全体のつぼみの3分の1が10月頃から咲き、 残りの3分の2は春に咲く。2回楽しめる。 春の花のほうが少し大きいらしい。 冬に「季節はずれに桜が咲いてるな」というときは この十月桜であることが多い。 ・冬、春ともに、葉があるときに咲くことが多い。 ・同様に秋から冬にかけて咲く桜が「冬桜」。 十月桜と冬桜は似ているが、 花弁と花びらの数は、 十月桜 → ”八重”で、花びらは5〜18枚 寒桜 → ”一重”で、花びらは5枚 とても可愛らしいでしょ
こんな時期
だんだんピンク色になるみたいです
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埼玉県さいたま市 南区 一里塚の跡「弁財天」
由来 昔辻地区は湿地が多く、村人たちは大変難儀した。 この水難を守るため、水の神弁財天を安置し 地区の守り神とすると共に、中仙道を旅する人々の 安泰を願った。 由来伝記の為、有志相計り保存会を結成し 祠を再建して、ふるさとの道しるべとする。
弁財天は元来、インドの河神であることから、日本でも水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多い。 「日本三大弁才天」と称される奈良県天川村・天河大弁財天社、滋賀県竹生島・宝厳寺、広島県宮島・大願寺はいずれも海や湖や川などの水に関係している。 像容からは、原語の「サラスヴァティー」は聖なる河の名を表すサンスクリット語である。 元来、古代インドの河神であるが、河の流れる音からの連想から音楽神とされ、福徳神、学芸神など幅広い性格をもつ。像容は8臂像と2臂像の2つに大別される。 8臂像は『金光明最勝王経』「大弁才天女品(ほん)」所説によるもので、8本の手には弓、矢、矛(ほこ)、鉄輪、羂索(けんさく、投げ縄)などを持つと説かれる。 近年では弁才天の「才」の音が「財」に通じることから財宝神としての性格をもつようになり、「弁財天」と書かれることが多くなった。鎌倉の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰がある。以上のように、近世以降の弁才天信仰は、仏教、神道、民間信仰が混交して、複雑な様相を示している。
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埼玉県さいたま市 南区 一里塚の跡の碑
一里塚(いちりづか)とは、大きな道路の側に1里毎に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)である。 元々は中国起源のもので、塚の側に槐の木を植えたり標識を立てたりしていた。ただし、当時の中国での1里は約500mであった。 日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。室町時代の一休(或いは一休に近しい遊女・地獄太夫)が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日、江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出した。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了した。一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿である。 辻の一里塚
日本橋から5里(約19.6km)、辻村にあった道中5つ目の一里塚。当時このあたりは湿地が多く、通行に難があったため、水難除けに弁才天が祀られていた。 現在は「辻一里塚公園」として整備され、その一角に「辻一里塚の跡」と刻まれた石碑と弁才天の祠がある。所在地:旧・中山道および国道17号線と東京外環自動車道の交差する地点近く。 |
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東京都 北区赤羽 岩淵宿 日光御成道
【岩槻街道と岩淵宿】 13世紀鎌倉時代にはすでに川口に渡って岩付(岩槻)から古河へと奥州に向かう街道が出来ていて、岩淵には宿場が開かれていた。江戸時代に入ると各街道に整備が急がれて岩槻街道は主要五街道の下にランクされた。 家康の廟所が日光に出来ると二代将軍から日光社参の旅が始まったが、将軍家の第一の宿所を岩付城と定めていたことから行列は日光街道を利用せずに岩槻街道を通ることを習いとした。旅人や諸大名の行列の多くは日光街道の方を通行していたので岩槻道は徳川家のワンマン道路的に見なされて日光御成り道とも呼ばれていた。 徳川家の社参行列は臣下の大名行列よりも規模が抜きん出たものでなくてはならず、そのために多大な費用と手間を要して財政を圧迫することにもなったが、江戸期260年のあいだに中断した時期はあるもののたびたび行われていた。またそれ以外にも奥方お女中達の東照宮参詣も盛んでよくこの街道を往来した。 【岩淵宿】 荒川を挟んで岩淵宿と川口宿があった。 岩淵宿は岩槻道の最初の宿場。日本橋から三里八町、宿の長さは四町二十一間、道幅四間とある。旅篭屋は若松屋、大黒屋が有名で本陣は小田切氏が代々勤める。 川口と合い宿として月の前半後半で宿場の役目を交代した。 実際にはほとんどが日光街道の千住宿を利用したのであまり活気はなかった。 しかし宿場の機能とは旅人に宿を提供するばかりではない。むしろ江戸内外の物資の運輸や郵便通信などの問屋場業務のほうが政治的社会的には重要で、多くは本陣が直轄して運営されていた。ことに岩淵は街道交通に加えて荒川の上流下流の水運もあったのでその意味では物資が集積する賑わいのある町だった。 (「赤羽時間旅行」より引用)
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