徒然ブログ

いつも御覧いただき誠に有難うございます。誠に申し訳ございませんが更新は不定期とさせていただきます。

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/56363877.html からの続き

こうしてヨーロッパによる世界制覇を基盤とした貿易で誕生したのが、資本主義という現在の経済体制そのものです。資本主義はベネチアのある北イタリアでうまれ、オランダやイギリスなどに伝播され、イギリスの産業革命によって完成されたシステムです。資本主義にはデメリットもあります。

それは拡大・対立・闘争ということです。競合者と対立し闘争しそれに勝利を収めて拡大を目指す。これが資本主義の本質であると思います。

したがって、紀元後1600年ごろから始まった大航海時代〜産業革命を契機にしたヨーロッパ文明の秋の時代は、ひたすら拡大路線を突き進むことで資本主義のサガを背負った時代と言えるでしょう。

しかし、紀元後2000年を転換点としてその寿命が尽きる頃です。多くの経済学者が「資本主義の終焉」と唱えているのはまさにその寿命を見通しているということだろうと思います。

今、地球が抱えている諸問題、資源や環境破壊の問題も結局はこのヨーロッパ文明の時代が極みに達してとことんまで行ってしまった、その長所だったものが害悪に変化してきて現れているのでしょう。

このまま行けば地球環境はもたないと言う所まで来てしまいました。これらの諸問題が「東西文明交代期」に収斂しているのです。

また、一方でアジアの文明波動はヨーロッパの波動と正反対のサイクルになっています。東半球が昼ならば西半球が夜と言う具合にです。西の第1文明サイクルの春の時代、つまりエーゲ文明の準備段階では、東はメソポタミアにシュメール文明が、インドではインダス文明が栄えていました。

西の第1文明サイクルの夏と秋の文明であるエーゲ文明やエジプトの中王国や新王国が栄えていた時代には、アジアは文明の準備段階、つまり冬と春の時代でした。インダス文明は滅び、シュメール文明もその中心都市ウルが滅ぶなどして消滅していったのです。

逆にエーゲ文明が滅んで、西の第2文明サイクルの冬の時代に入ったとき、東では興隆の時代を迎えました。メソポタミアではアッシリアやアケメネス朝ペルシャが栄え、インドの古代文明も絶頂を迎えていたのです。

中国では周が殷を滅ぼして建国し、やがて諸子国家と呼ばれる古典思想家を輩出し春秋時代を経て、また冬の戦国時代を迎えるのです。
次いで、西でギリシャ・ローマが栄えた時代には、中国では文明創造力が低下し武力が支配した前漢・後漢帝国の中世的時代に入っています。漢の時代には確かに巨大な帝国を築き上げましたが、この時代の中国文明の内容はそれ以前の時代の模倣に過ぎません。学術的には創造性がゼロといえます。

アジア、特に中国の文明サイクルの内容はヨーロッパほどハッキリしたものではありませんが、中国史の特徴は、文明の低調期であっても強力な王朝を出し続けて来たことです。王朝の政治的強さでなく文明創造力という視点で見ないと文明サイクルの低調と高調の違いが見えてこないのです。しかし文明の創造という観点からみるとやはりハッキリした波動を観察する事が出来ます。

後漢が滅んだあと、中国は南北朝から隋・唐にかけて中国的なルネッサンスが起こり、素晴らしい興隆期を迎えます。隋・唐は夏の文明であり、文学や芸術面では創造力が発揮されました。李白や杜甫の詩は中国文化を代表するものであり、書道の顔真卿もまた中国芸術の最高峰です。

またインドから渡来した仏教は、敦煌や雲崗での仏教彫刻を生み出しました。唐帝国の首都であった長安は一大国際都市でした。長安の人口約150万のうち外国人が常に4000人は滞在していたと記録されています。この頃、日本から長安を訪れた遣唐使たちは長安を見ただけで世界を見たといえるでしょう。

その意味で漢帝国と唐帝国は文化創造力で、比較にならないほど唐が優れていたといえます。そして、同じ頃ヨーロッパでは暗黒の中世期の真っ只中だったのです。

中国の文明波動の秋の時代が唐の後に建国された宋でした。遼や金といった北方民族に追われて、南に移って南宋となり、宋時代より帝国の範囲は縮小しましたが経済は大発展し、生産力は唐の時代よりも遥かに拡大しました。この時代の日本で、平清盛の平家が成り上がったのは、もっぱら宋との交易で培った経済力でした。

宋の経済力はそれほど強かったのです。この頃の日本で流通していた貨幣は宋銭でした。この当時、宋の沿岸都市には、遠くインドや中近東の商人が住んでいて母国との貿易に当たっていたと記録されています。宋の時代は秋ですから、哲学や思想の方面に文化創造が発揮されました。朱子学・陽明学・陰陽五行論や「気」についても、この時代に盛んに研究されていました。

宋を滅ぼしたのはモンゴル族の元でした。文明波動理論上では1200年が文明交代期だったのですが、チンギス・ハーンがモンゴル族を統一したのは1206年でした。

その後、彼の子孫がユーラシア大陸を飲み込む世界征服が繰り広げられました。その意味でチンギス・ハーンは文明交代期の申し子であったといえます。もし、唐帝国が力を持ち続けていたら、チンギス・ハーンは辺境の暴れ者で終わったと思います。

この頃、日本では源平の合戦で文明が秋から冬へと移行する時期であり、1192年に鎌倉幕府が設立されて中世武士社会へと続いていきました。

人間というのは個人の能力や努力だけでなく生まれて活躍する時代にも大きく影響されるのでしょう。時代が何を求めているかに応えることができて初めて変革期のリーダーになれるのです。

1200年から1300年弱までの頃が、モンゴル軍が猛威を振るった時期で、東から西への文明波動の覇権が移行する800年の文明交代期だったのです。東洋文明を没落させ戦国時代へと導いた主役がチンギス・ハーンとその子孫たちでした。しかし、14世紀に入ると元の活動は急速に衰えて北に追いやられました。

元を受け継いだのは、明と清の2つの王朝でした。明王朝は漢民族の王朝でしたが、「明」と言う名とは裏腹に、国家に反逆する者を1度に1万5千人〜3万人といった粛清が行われるような暗い王朝でした。
恐怖政治が行われた暗黒の中世期特有の王朝だったのです。明の時代は国家体制は鎖国であり、経済は自給自足が主体でした。

世界王朝であり経済大国だった唐・宋の時代とは大きな違いです。明は日本人の海賊「倭寇」に荒らされたことが滅びる原因の一つであったようです。明は倭寇程度で滅びる力でしかありませんでした。

続いて清王朝時代には漢民族の力がすっかり衰え、満州族による征服王朝が樹立されましたが経済は自給自足のままです。弁髪という満州族の髪型が漢民族に強要されましたが、漢民族は全く抵抗できませんでした。

中国が本格的に春の時代になるのは漢民族の反乱である1911年の辛亥革命です。この後、漢民族が主導権を握る中華人民共和国という巨大帝国が1949年に樹立されました。

その後、文化大革命が1960年代後半から1970年代前半まで続き、清王朝から続いた封建的文化や欧米列強支配による資本主義文化を排除し、新しく社会主義文化を創生しようという運動が起こったが、実態は毛沢東らが、でっち上げて引き起こした権力闘争でした。

改革運動とは名ばかりで、西側と癒着した資本家や西洋思考の学者などが粛清されました。こうして独自の国家体制を確立したことで、文明的には本格的な春の時代が巡ってきました。


http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/56385946.htmlへ続く…

文明法則史学(文明800年周期説)
http://www.ktroad.ne.jp/~bunmei/

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事