徒然ブログ

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http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/57258196.html…からの続き

他の渡来人が政治の表舞台に出て行く中で、意外にも歴史上では秦氏を名乗る人は数えるほどしかいない。むしろ、政治よりも、経済活動に力を注いだらしく、蚕の社という名にあるように養蚕業で名を馳せたようだ。

養蚕業で作られる絹(シルク)などを使って絹織物を作ったことから秦氏のハタとは機織のハタではないかという説もある。
元々は大陸の進んだ技術を持った集団であることは確かであり、治水工事や巨大古墳の建設などにも力を発揮したことが記紀にも記されている。

また、渡来人であるのにも関わらず、彼らは神道を奉じた。日本古来の神道に帰依し、次々と神社を建立していく。
そこから派生した神社としては、稲荷神社、八幡神社、白山神社、白髭神社、金比羅神社、日吉神社などがあり、伊勢神宮の創建にも関わっている。
景教徒であった秦氏が伊勢神宮の創建にも関わっている…ということは、「天照大神=イエス・キリスト」ということになる。確かに天照大神の天岩戸逸話では「天照大神が悪い弟を嫌って岩の洞窟に隠れた」という話です。

この天岩戸と酷似した話がある、それは「キリストが磔になった後に巨大な岩穴の墓に葬られ、岩の扉で塞がれたが天使がそれを開けてからイエスが復活している」のだ。日本では古来では人が死ぬことを「お隠れになる」と言った。

その当時、確かに日食もあっただろうが、これを天照大神の話に当てはめてみると神は一度死んだことになる。その後、神は甦り(希望の)光を人々に投げかけたということになる。これはキリスト教的な話と日食が組み合わさった話なのではないだろうか。

その意味では、今日の神社神道の根幹は秦氏がすべて整備したものであるようだ。神道だけではなく、仏教の浄土宗を開いた「法然」の母は秦氏であり、真言密教を日本に伝えた「空海」の弟子たちや金銭的支援者も秦氏で、天台密教の拠点である比叡山は秦氏が押さえていた。

安倍晴明で有名な陰陽道や役行者で有名な修験道も秦氏が関与していたという。日本の宗教や習俗には秦氏が関与してきたことは歴史的にも事実である。日本人の信仰基盤を整備したのは秦氏なのである。その影響はキリスト教まで及んでいた。

三位一体鳥居を建設した秦氏はキリスト教徒あるいは景教徒だった可能性が高い。秦氏の族長を意味する「太秦」は通常はウズマサとは読まないが、佐伯博士によると、これはヘブライ語で「光の賜物」という意味だという。

しかも「太秦」は「大秦」とも表記することがあり、これは中国語で「ローマ帝国」を意味する。中国に景教が伝わったときに、そのルーツがローマ帝国であるということで「大秦景教」とも呼ばれ、教会は「大秦寺」と称された。

日本でいう「太秦寺」は秦氏の氏寺として知られている広隆寺の別名でもある。ここまで来れば「秦氏」は景教徒だったということになるが、彼らは単なるクリスチャンではなかったようなのだ。広隆寺の近くに秦氏が創建した「大酒神社」がある。
今では大酒と表記されているが、かつては「大辟」だった。どんな意味かというと死刑の意味だという。

また、この大酒神社は京都の他にも兵庫県の赤穂地方にも数多く分布していて、こちらの表記は「大避神社」と表記されている場所もあり、文書によっては「大僻大明神」と表記しているケースもある。この辟という文字を核に違う偏がついている。

これを景教経典では「大闢(ダイビャク)」という名を持つ人物が登場する。この大闢とは、古代イスラエル王国のメシアである「ダビデ王」のことなのだという。
すなわち、大僻大明神とはダビデ王のことだったのである。秦氏は大酒神社にて大僻大明神を祖人として祀っているということは、秦氏はダビデを祖先として祀っていることになる。

もしかしたら秦氏はダビデの子孫或いは古代ユダヤ人(アジア系)の血を引く者ということになる。更に、かつて広隆寺の境内にあった「伊佐良井(いさらい)」もまた、佐伯博士は「イスラエルの井戸」だと解釈する。
パレスチナ地方には「ヤコブの井戸」と称する井戸があるが、この名はアブラハムの孫ヤコブにちなんでおり、ヤコブの別名はイスラエルという。

よって、井戸にイスラエルという言葉をもじってつけるのはユダヤ人しか考えられない。確信を得た佐伯博士は明治41年、学会誌「地理歴史」にて「太秦を論ず」という論文を発表。

秦氏の正体はユダヤ系景教徒であると主張し、学会に大衝撃を与えた。そして、後に大和朝廷は「騎馬民族征服王朝」だったという論文を発表した江上波夫名誉教授は、かつて佐伯博士の門下生だった。

日ユ同祖論において重要な鍵を握っている秦氏だが、景教徒がネストリウス派だとした場合、異端として追放されたのは451年ですから、2〜3世紀には秦氏は既に朝鮮半島に根を下ろして生活していたので年代が合わない。

実は中国で景教というものは幅広い意味を成すことがわかった。アジア全土に広がった原始キリスト教も中国では景教と呼ばれていたというのだ。

このことは、原始キリスト教はイエス・キリストが直接、弟子たちや現地人に教えていた信仰であり、そのときはカトリックやギリシャ正教やプロテスタントという派閥は無く、ましてやプロテスタントが正統教義として主張する三位一体という思想は当時の欧州には無かったのです。

キリストが生きた時代に、法皇や枢機卿や大司教や司教なんて階位があったでしょうか?当時は、そんなものは決して存在しませんでした。イエス・キリストの死後、ローマ帝国に布教されてヨーロッパに広がっていったときにキリスト教を政治的に利用しようとした連中が商売の便宜上、偉そうな階位を勝手にでっち上げただけなのです。

挙句の果ては政治と教会が結託し「免罪符」などという詐欺的紙切れを販売して民衆から搾取していました。政治権力に利用されて聖書も一部が改竄され、今のキリスト教はイエスの教えから逸脱し歪んでいった。

話を戻します。問題はユダヤ人で、秦氏がユダヤ人だったとすれば彼らはイエスが直接布教していた時の「原始キリスト教徒」であり、イエスの12使徒の直系であったかもしれない。

イエスの死後、カトリック教会が整備されてローマ帝国の国教となって偶像崇拝化と変化して各地に広がっていく中で徐々に失われていった根本的な教義や信仰を秦氏たちが継承している可能性がある。

秦氏が信仰していたとされる原始キリスト教とは何だったのか。実際問題として、イエス・キリストが布教していた時代はキリスト教というものは存在せず、「聖書」といえば「旧約聖書」であった。ということはイエスはキリスト教徒ではなくユダヤ教徒であったのです。

このユダヤ教徒であるということは、基本的にはユダヤ人であるということであるから、イエスも含め両親であるヨセフとマリア、従兄弟のバプテスマのヨハネもユダヤ人でユダヤ教徒だったということである。
12使徒もしかり、その他の70人の弟子たちもユダヤ人だった。よって宣教師は、ユダヤ人もしくはイスラエル人に向かって言葉を述べていたのです。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところしか遣わされていない」(マタイによる福音書・第15章24節)

秦氏に戻ろう。単なる土を盛り上げたような墳墓であった古墳が、秦氏が渡来してきてからは前方後円墳が急激に進歩して巨大化したことからも秦氏が高度な土木建築技術を持っていことをうかがい知ることが出来る。

太秦をウズマサと読ませたのは「秦河勝」である。ウズマサの意味である「光の賜物=イエス・キリスト」だという説もある。

また、秦河勝が側近の舎人として仕えた主人は「聖徳太子」であった。しかも、聖徳太子の出生伝説にはイエス・キリストの姿が濃厚に見え隠れしている。

実は聖徳太子という名は彼の死後に付けられた名前であり、生前は「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)」もしくは短縮して「厩戸皇子」と呼ばれていた。皇子にしては珍しい名だが、この世の偉人で馬小屋で誕生したのは世界広しといえどもイエス・キリストたった一人である。

母であるマリアは旅の途中で産気付き、馬小屋でイエスを産んだ。幼児イエスが飼い葉桶に入れられたことは有名である。歴史学者の久米邦武博士は、聖徳太子の誕生伝説はイエス・キリストの逸話がもとになっていると主張。

聖徳太子とイエス・キリストの共通点はこれだけではない。聖徳太子とイエス・キリストはどちらも王家の血を引いており、聖徳太子は法隆寺を建設したことから日本の大工の祖として崇められているが、イエスの職業は大工であった。

間人皇后は夢に現れた救世観音によって聖徳太子を身ごもるが、マリアは天使ガブリエルによってイエスの受胎告知をされた。

イエス・キリストが未来予言を数多く残したように、聖徳太子もまた「未来記」を残した。聖徳太子伝説は明らかにキリスト教が関係していることは事実のようだ。しかし、それは景教に由来するものではない。

聖徳太子の側近は秦河勝をトップとする秦氏一族がいたからである。イエスが存命中に布教した原始キリスト教徒の子孫であった当時の秦氏が一族を挙げて擁立した皇子に対して自らの政治的権力を維持するためにイエス・キリスト伝説を付加したのである。

聖徳太子は数多くの予言を残したが、中でも秦氏を突き動かしたのは新しい都の建設に関する予言であった。かつて山背(山城=京都)へやってきた聖徳太子は、いずれここに天皇の都が建てられるだろうと述べたという。

この言葉通りに、秦氏は山背に都を建設することになる。この約1200年栄えた「平安京」がそれである。

もともと山背は太秦を中心として秦氏が多数居住していた場所で、奈良から都を遷都するという動きがあった際に、いち早く誘致に乗り出した。というか遷都そのものが秦氏が用意周到に根回した公共事業としての大プロジェクトであった可能性が高い。

当時、圧倒的な政治権力を持った藤原氏と婚姻関係を結び、遷都事業を積極的に推進する勢力を朝廷内に増やしていった。彼ら秦氏は独自のネットワークから土地や資金や技術者を自前で用意し、瞬く間に平安京を建設した。

都で最も大事な天皇の御所である内裏は、かつて秦河勝の邸宅があった場所で、紫寝殿の前に植えられた右近橘は秦河勝の邸宅の庭に植えられてあったものだという。自分の邸宅の跡地に天皇が住む…こうしてますます権力を盤石なものにしていった。

新しい都は完成し「平安京」と名が付けられた。平安なる都という願いを込めたものだが、これをヘブライ語に訳すと「エルサレム」なのである。

ガリラヤとはハープの意味であるガリラヤ湖の近くにエルサレムはあり、平安京は琵琶湖の近くにある。日本の琵琶はハープのような弦楽器であり、しかも両方とも淡水湖である。

また日本語とヘブライ語の共通点も多く、書く・取る・住むなどの言葉は読み方も意味も同じですし、ハケシュは拍手というそうだ。このように日本語と共通したヘブライ語は500語程度存在するそうだ。

秦氏が建設した都「平安京」とはまさにイスラエル12支族が住まう為に造られた極東のエルサレムだったのである。

だから、ヘブライの血を引く秦氏がカッバーラの術を使用して建設した都なので、天皇が江戸時代末まで安心して住み続けることが出来たのだろう。

海賊対策での海自派遣は、終末戦争に日本もイスラエル側に加担する布石なのだろう。もしかしてユダヤ支配層が本当に欲しいのはこの日本かも。パレスチナと異なり水資源も豊富で、四季もある。日本は今後、極東イスラエルとされてしまう可能性も否定できない。日本でテロが起きないことを祈る。

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