徒然ブログ

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.泪覆猟

古代における日本の風俗を記した書物に「魏志倭人伝」があるが、それによって3世紀頃には「邪馬台国」と呼ばれるクニがあって女王「卑弥呼」が統治していたという話である。

この邪馬台国に支配下には数百にも上る小さなクニがあって、彼らの多くは刺青をしていたという。刺青の風習があるのは海洋民族が多いのである。

当時は東南アジア地域からもたらされた稲作が始まっていたが、羊はいたようだが不思議なことに馬や牛といった大型の家畜はいなかったと記されている。しかし、4世紀を過ぎてからは何故か馬や牛が突如として日本に出現し始めた。

そして家畜として大量に飼育されるようになっていった。それに伴って家畜に使う道具が急速に発達し造られるようになる。特筆すべきは馬具である。

大陸で使用されていたような鐙や馬面冑など、主として戦闘に使用する馬具が大量に生産されるようになった。そして、それまで日本には無かった金や銅も使用され始めた。

このことから、邪馬台国時代とは明らかに異なる大陸文化が急速に日本に取り入れられたことは、弥生時代的な文化が消失または断絶したことになるように思う。

邪馬台国時代に代表される稲作中心の弥生時代から急速に大陸的な中央集権化が推進される「古墳時代」が始まったのである。
最近では古墳時代は邪馬台国から移行した説もあるようだが、邪馬台国のことを示した「魏志倭人伝」を最後に、暫くの間は大陸との交流を持たなかったようなのだ。

次に中国地域との交流を持ち始めて中国の歴史に日本が登場するのは5世紀の「宋書」という書物でなのです。このときは既に大和朝廷が存在して中央集権化が進んでいた時期であろう。

要するに新しい国家体制に移行した時代、即ち短期間のうちに既存文化の消失と大転換があったであろう4世紀から5世紀始めの頃の歴史として残っていないのです。

そのため古代の日本史の中でも「謎の4世紀」と呼ばれているらしいが、この謎のことを革命的な学説で解明した人が「騎馬民族征服王朝説」を唱えた東大名誉教授だった江上波夫氏です。

江上氏は、謎の時代とされている4世紀頃に大陸の騎馬民族の集団が朝鮮半島を南下していき、後に九州に上陸して圧倒的な軍事力で日本に居た牧歌的な先住民を一気に征服。

そこから邪馬台国の中枢だった近畿地方に侵攻し西日本一帯を征服して大和朝廷を開いたというものである。元々は朝鮮半島には馬韓という国があり、北部には高句麗を始めとする騎馬民族の小国が群雄割拠していた。

そして高句麗に中央アジア系の「夫余族」が朝鮮半島に侵入して「秦韓(辰韓)」と「弁韓(弁辰)」を建国していった。これらの夫余系騎馬民族は馬韓の「辰王」が支配していたのだが、2〜3世紀頃には馬韓の領域にあった夫余族が独立を果たして国名を「百済」とする。

こうした独立の動きを受けて周辺国にも変化があり、秦韓は「新羅」に、弁韓は「伽耶」へと発達して朝鮮半島の三国時代を迎える。この4世紀頃には「五胡十六国の大乱」で有名な中国の動乱が発生したことで朝鮮半島の諸国も影響を受けた。

高句麗も北部から攻め込まれていき、盛んに朝鮮半島南部にまで攻め込んできた。こうした状況下で、朝鮮半島南端に勢力を持っていた「辰王」が日本海を渡って九州へと侵攻して勢力を拡大していったことで、伽耶と北九州の占領地が連合状態になった。

江上氏によれば、『記紀』で語られている初代の神武天皇の東征は、中央アジア〜朝鮮半島を含めた大陸時代の騎馬民族の征服劇を伝えた伝記であり、九州北部を占領して支配下に治めたのが「記紀」でいう第10代「崇神天皇」であるという。

神武天皇の存在は今まで神話的な要素が多く、本当に日本に実在した人物なのかどうか定かではなかったが、こうして考えれば納得が出来る。

しかし、初代の「神武天皇」から数えて9代までの天皇の業績はそれほど記されていないことから、日本には存在しなかった天皇であって、日本に渡来してきてからの本当の初代は「崇神天皇」であり、またの名を「ハツクニシラススメラノミコト」といい、最初に国を開いたことを暗示している。

さらに「崇神天皇」亡き後に、本格的に大挙して九州から近畿地方へと侵攻し大和朝廷を開いたのが、「記紀」でいうところの第15代「応神天皇」だという。
堀の部分を含めなければ最大規模の古墳であるのは、統一国家を成し遂げた王権の強大さを誇示しているのだろう。

古代日本の特徴の1つとして古墳の存在があるが、日本独自の形式としては前方後円墳がある。前方後円墳はヒョウタンの形を模したものだといわれてきた。偶然の発見のことを「瓢箪から駒」という諺がある。

前方後円墳からは大陸系騎馬民族の文化を代表する遺品が発見されていることから、前方後円墳という形は騎馬民族の王族の象徴を模したものだということも出来る。実際問題として、この前方後円墳は日本のオリジナル古墳というのが通説となっているが、朝鮮半島地域でも多く発見されている。

その大半は朝鮮半島南部が多く、これらは日本の影響で造られたものだという学者もいるが、日本よりも約200〜300年程古いと推測される前方後円墳が幾つも発見されている。それに比べて北朝鮮にある前方後円墳は積石塚の形態になっている。

これは日本の前方後円墳の原型とも思えるもので典型的な騎馬民族に墳墓の形態である。同様な積石塚の形態の墳墓は北アジア一帯に広がっており、遠くは北欧でも発見されている。

そうしたことで、前方後円墳が騎馬民族の象徴だと考えてもよいのだと思う。この独特な形は、四角い方墳と丸い円墳を合体させたものだとされているが、よく考えれば違うことがわかる。方墳は四角い形をしており、正四角形から長方形なのであるが、前方後円墳の場合は台形に近い。

明らかに予めデザインが決まっていたかのようである。わかりやすい形としては、日本を統治した騎馬民族の大王である応神天皇の墳墓である「応神天皇陵」は台形と丸の合体した形の他にも小さな出っ張りが付随している。

前方部と後円部の境目あたりに耳の形のような部位があるのがわかる。これを考えながら前方後円墳を逆さまにしてみると「壷」の形に見えると思う。付随した出っ張りの部分が取っ手である壷です。

前方後円墳は壷をモデルに造られていたことになる。こうして壷は王族のシンボルとして考えられていたことがわかる。応神天皇の息子である16代仁徳天皇の陵墓も同様な形をしている。

渡来して日本を支配した騎馬民族の王族であった天皇家は、壷に自から民族的な意味を込めていたことだろう。日本最古の神社の1つとして「籠神社」がある。ここには以前に黄金の壷が神社の宝物として伝わったいた。

その名も「真名之壷」というもので、高天原に存在するという聖なる水を汲むための器であるとも伝わっていた。しかし、真名之壷は行方不明になってしまって現在は籠神社にはないといわれている。

一方で伊勢神宮の外宮に祀られているものが真名之壷だという話があるが、この話は終戦直後に中山忠直という人が言い出したようだ。籠神社から伊勢神宮へ直接に「豊受大神」が祭神の分霊を行って祀っていることからも関係性は大きい。

籠神社から伊勢神宮の外宮へと「豊受大神」の御魂を移したのは第21代雄略天応の頃とされている。現在でも「八咫烏(ヤタガラス)」系統の人たちは皇族と同様に戸籍がなく、日本のエスタブリッシュの一端を担っている。飛鳥昭雄氏は八咫烏について著書でこう書いていた。

『かつて日本の神社を裏で全て仕切っている人々に会ったことがある。神道において祭祀の頂点が天皇だとすれば、彼らは裏の天皇ともいうべき存在を頂点に置き動いている。本名は全て隠され称号として「八咫烏(ヤタガラス)」と呼ばれている。彼らとの会見の中で、伊勢神宮の御神体について、幾つか問答を行った。その際に外宮の御神体が真名之壷だと暗に認めた』というのである。

この真名之壷こそが天皇家の祖先が王族の証として日本に持ってきた神器なのだと考えられる。日本に侵攻した騎馬民族の王は真名之壷を模った巨大な陵墓を後世に残すことで騎馬民族の王家の威信を誇示したのだろう。
問題は、真名之壷と同じ名前を神器としている民族が世界には他に存在している。イスラエル人、ユダヤ人とも呼ばれている人たちなのである。

続く…

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