徒然ブログ

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宗教問題

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http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/59024173.htmlからの続き

空海は9世紀に船で唐に渡った人です。遭難の危険も覚悟しなければ行くことができなかった時代に、命の危険を顧みずに行ったわけです。

こうして当時は渡来人だけが海を越えて渡ってきたわけではありません。空海は中国で学んだ後、帰国します。そして日本に新しい仏教をもたらした1人です。

空海の開いた真言密教の総本山は高野山ですが、その高野山には、中国の西安(旧長安)にある「大秦景教流行中国碑」のレプリカとも言える模造碑が置かれています。模造碑は高野山の他、京都大学にもあります。

何故、空海の開いた真言密教の総本山には、景教の碑があるのでしょうか。そして何故か、有名なキリシタン大名だった高山右近(1552〜1615)の兜が飾ってあるといいます。その兜には十字架が付いている。

どうしてだか仏教の真言宗のお寺に東方キリスト教と関係した品があり、先祖代々に渡って大切に保管されているのです。しかし、日本のアカデミズムな学者たちは、空海と景教徒とのつながりを理解できません。

でも、空海の伝えた仏教(密教)をよく知っている高野山のお坊様方は、真言宗は景教からきていることを知っています。高野山では儀式の最初に十字を切ります。これは景教の儀式から来ているといいます。

かつて大陸にいた景教徒たちは、重要な儀式の最初に十字を切ったことが知られています。彼らは入信した人に洗礼を授けるようなときも十字を切りました。胸の前で、或いは、空を切る形で十字を切るのは景教の習慣だったようです。

その風習が密教に取り入れられている。今も法要の最初に切る十字は景教の儀式から来ています。また、高野山奥の院御廟前の灯篭に十字架がついています。

通説ですと、空海は唐の時代の中国に渡って仏教を学んだことになっています。けれども、渡る前に既に日本で原始キリスト教徒の流れを汲む秦氏や景教徒の人々と接触していました。

空海の出身地は、讃岐(香川県)でした。実はここは秦氏の人々が多く住んでいるところでした。その地には景教徒も多数居たと思います。また、空海の先生であった仏教僧の「勤操・ゴンゾウ」(758〜827)も、元の姓を秦といいました。

「空海は彼らのパワーに驚き、東方キリスト教・景教のことをもっと学ぼうとして、彼らの紹介で当時はアジア地域最大の東方キリスト教の中心地だった長安に行ったのだ」という研究者もいます。

そのとき、後の天台宗の開祖であった最澄も一緒に唐に渡りました。最澄派日本に帰るとき旧約聖書を持ち帰り、一方で空海は新約聖書を持ち帰ったということです。ところが後に空海と最澄は喧嘩をしてしまいます。

2人は景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を分けて持ち帰った。実は天台宗と真言宗の違いはそこにあるのです。高野山では空海の持ち帰った新約聖書が読まれ研究されて教義に取り入れられていったという。

一般では、9世紀に空海は唐の時代の中国に渡り、そこで仏教を学んで、それを日本に持ち帰って広めたとされています。しかし、仏教自体は平城京の時代の聖武天皇の頃には普及し始めていました。

何故、普及している仏教を新たに命がけで勉強しに行ったのでしょう。空海が持ち帰った仏教は、実は密教であり、シャカが説いた原始仏教とは似ても似つかないほど景教の影響を受けた教えでした。

ある学者は「それは景教と混合した仏教だった」とも述べています。空海は中国にいる間に、景教についてかなりの知識を吸収していました。
彼が行った唐の長安には、景教の教会が4つもあったといわれていますし、空海は景教の教会の直ぐ近くに住んでいました。

彼は景教徒の景浄という人物にも会っていました。この景教徒の景浄は「大秦景教流行中国碑」を碑文を書いた景教徒です。空海は他の景教徒とも長期間にわたって会ったことが知られています。

空海は日本で死に際に「悲しんではいけない。私は…弥勒菩薩のそばに仕えるために入定(死ぬ)するが、56億7000万年の後、弥勒と共に再び地上に現れるだろう」と言いました。

仏教では、弥勒が現れるのは約56億7000万年の未来とされています。遠い将来に人々を救いに来るという弥勒も出現のときに、自分も復活するというこの信仰は、原始仏教には存在しなかった思想です。

これはまさに、「キリスト再臨」するときにクリスチャンは復活する」というキリスト教信仰であり、景教の信仰も同じです。弥勒信仰はというものは、実は東方キリスト教やペルシャのゾロアスター教の思想が仏教の中に取り入れられて生まれたものです。

空海の述べていた「弥勒」の真の姿とは、実は景教徒たちが信じていたキリストがモデルだと思われます。このように空海の説いた真言密教は、景教と混合した仏教だったということがわかります。

しかし別の学者は、彼は日本に居たときから景教徒との交友の中で景教の魅力を発見し、「もっと景教を学ぶために本場の唐に渡った」のだといいます。唐に渡ったのは仏教を学ぶためではなく、景教をもっと本格的に学びたかったからだったと。

そして帰国後、高野山を一種の修道院のようにしていたようです。空海の説いた密教の儀式は十字を切るという景教徒の風習だけではなく、他にも景教徒が行っていた儀式を取り入れています。

密教には「灌頂・カンジョウ」という儀式があります。これは真言宗以前の仏教には無かったもので、キリスト教で行う洗礼式を取り入れたものだと指摘されています。

空海は、この「灌頂」を受けて「遍照金剛」という「灌頂名」を授かりました。空海自身、「灌頂」を受けたと言うことは、それの立派な信者だったのでしょう。

遍照とは「広く照らす」の意味で、これは景教徒の訳した漢語聖書「マタイの福音書」5章16節の「あなた方の光を人々の前で輝かせ」から取ったもので、空海の師匠だった恵果和尚から授けられた灌頂用の金属製の器は、ペルシャのものをまねたものといわれています。

京都の東寺には「天使」を描いた原始キリスト教の美術様式に似た絵があり、同じような天使の描かれた絵は岩手の中尊寺にも存在し、さらには中央アジアの景教遺跡に多く見つかっています。

現在の仏教界では当たり前となった「加持祈祷」は人々の病気が良くなるように祈ったわけですが、この加持祈祷は真言密教が最初に始めたのです。真言密教が広まった理由は加持祈祷にあったようです。

現在は他の宗派も真言宗の広まりに刺激されて加持祈祷を始めました。かつて中国において、景教徒たちは人々の病気平癒のための祈りを盛んに行っていましたから、空海もそれをアレンジして取り入れたのだと思います。

京都・大文字火は空海が景教から取り入れて始めました。大文字火は、お盆のときに「大」の字を模った送り火のための行事ですが、実は「お盆」は、元々は仏教の行事ではありません。中国でペルシャ系のソクド人や景教徒の影響を受けて始まったものです。

それを空海らが日本に持ち帰って広めました。このように日本独自の伝統的な仏教の風習だと思っていたものが、実はそうではなかったという場合が多いのです。

親鸞にしても空海にしても景教の影響を大きく受け、仏教との混合や習合が発生しました。仏教は他のあらゆる宗教の良点や教義を取り込む、非常に懐の深い宗教だったのです。

http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/58993656.html…からの続き

仏教の話になりますが、親鸞(1173〜1262)が開いた浄土真宗は、京都の西本願寺が総本山です。その宝物の中には、親鸞も読んで学んだという「世尊布施論」があります。

実は、これは仏教の経典ではありません。中国で7世紀に、景教徒によって漢語に訳された景教の経典なのです。それが日本に持ち込まれていました。

この「世尊」とはシャカではなくイエスのことを指しています。内容もイエスの「山上の垂訓」(マタイの福音書、第5章〜7章)から始まり、イエスの生涯、教え、キリスト教の救い…など、についても述べています。

例えば、「空の鳥を見よ。種まきもせず、刈り入れもしない。…あなたがたは食べ物や住まいのことで、心を煩わせ過ぎてはならない。…求めよ。そうすれば与えられる。たたけ。そうすれば開かれる。誰でも求める者は神は与え、誰でもたたく者に彼は開くのだ」など、良く知られたイエスの教えもそこに書かれているようです。

親鸞という人は「称名念仏」の信仰である「南無阿弥陀仏」の念仏を広めた人です。この「南無阿弥陀仏」とは、「私は阿弥陀仏に帰依します」或いは「阿弥陀仏を信じます」というような意味で、阿弥陀仏の名前を心に念じて唱えるならば救われるというものです。

こうした仏の名を呼んだら救われるという考えは、元々は仏教には無かったものです。実は、この「名を呼んだら救われる」という考えは、元々はキリスト教のものなのです。

聖書には「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」(使徒の働き2・21)と記されています。キリスト教では、基本的にイエスの救いを信じて、その御名を呼び求める者は誰でも救われる…と教えます。

また、阿弥陀信仰自体は元々の仏教には無かったものでした。仏教史学の権威であるアルティ博士は「阿弥陀仏の教義は…インドでつくられたものではない。

中国の仏教はカシミールやネパールから伝来したもので、阿弥陀仏は当時この地方に影響を与えたペルシャのゾロアスター教とキリスト教に起因する」と述べています。

アミダの名は「無量光、無量寿」を意味するサンスクリット語「アミターバー、アミターユース」からきたものだといわれています。

アミダは、「無量光、無量寿」即ち無限の光と永遠の命の仏、といわれているものですが、これは「ヨハネの福音書」1章4節の「この方(キリスト)にいのちがあった。このいのちは人の光であった」という聖書の言葉から取った思想であると指摘されています。

このように、親鸞の信じた「阿弥陀仏」はいわゆるキリスト教の思想を仏教に取り入れたものでした。

「行い(修行)による救い」ではなく「信仰(信心)による救い」を説いていた親鸞の教えは、実は東方キリスト教から来ているのです。そのための親鸞は、景教の経典「世尊布施論」を熱心に学んだのでしょう。

かつて16世紀のヨーロッパで、宗教改革者ルターは、聖書にある、人は信仰によって義と認められる、という「信仰義認」の心理を発見し、それを人々に説きました。

彼は「行いによる救い」ではなく「信仰による救い」を説いていましたので、宗教学者はドイツのルターと日本の親鸞を比較して語るようです。

しかし、この教えは当時に大モンゴル帝国の支配下にあった東欧にアジアから移住した景教徒の人々と、同じく大モンゴル帝国の支配下であった中央アジア周辺の景教徒からも伝播したと思われます。

こうして、景教徒を含む移住者と東欧に隣接する中央アジア諸国やコーカサスの景教徒から「景教」が伝わったことで、新教であるプロテスタントが「神聖ローマ帝国」領内に発生したのだと私は思っています。

実は、ルターが宗教改革の必要性を訴え「信仰による救い」を説いてから数十年後に、フランシスコ・ザビエルが日本にやってきました。ザビエルは日本で浄土真宗の人々を見て、彼は浄土真宗の教えがあまりにもルターの教えに似ているので驚いたと記録にあります。

実は、長安(現在の西安)にある「大秦景教流行中国碑」において、景教は「真宗」とも呼ばれています。これは親鸞の開いた浄土真宗と関連があるようです。

日本の仏教徒は、遣唐使の時代から景教の経典や景教の教えに親しんできました。そのために古来から日本の仏教の伝説や書物の中には、景教に由来すると思われるものが少なからず混ざっています。

冨山昌徳氏は、著書「日本史の中の仏教と景教」の中で、仏教僧の法然(1133〜1212)の伝記と、聖書との関係を指摘しており、法然伝の根本資料となっている古書「夢感聖相記」の中には、聖書の「山上の変貌」の記事である「マタイの福音書」17章の内容が、同じ順序でソックリ転用されているといいます。

そして詳しく解説までかいてあります。ちなみに法然の母は秦氏でした。そして親鸞の先生が法然です。法然は中国の僧であった善導(613〜681)の著作を熱心に学んでいました。

善導は唐の時代に浄土教を大成させた僧侶でした。善導は「行い(修行)による救い」ではなく「阿弥陀仏への信仰による救い」を説きましたが、ちょうどその頃、景教徒たちが中国に来て「行い(修行)による救い」ではなく「救世主イエスへの信仰による救い」を熱心に説き始めた時期でした。

よって、景教徒→善導→法然→親鸞という一連の景教の教えが伝わったのだということがわかります。浄土真宗が非常にキリスト教的だというのはここに関係しているのかもしれません。

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古代の日本において、景教徒の影響が庶民の間に入り込んでいたことや、当時の知識人の間では聖書が好んで読まれたり研究されていたことは、次のような事実からも伺えます。

例えば、聖徳太子にまつわる様々な伝記です。聖徳太子が実際には、どのような人物だったかについては謎が多いといわれています。

聖徳太子の死後、数百年たった平安時代には、聖徳太子に対する敬意が膨らんで、彼に関する多くの伝説が生まれていきました。そして、不思議なことに聖徳太子の伝説の中には、聖書の物語が多く転用されたようです。

例えば、聖徳太子は馬小屋で生まれた「救世菩薩」という一種の救世主とされています。聖徳太子は「厩戸の皇子」と呼ばれていますが、馬小屋で生まれたということです。

久米邦武博士は「これは、マリアが馬小屋でイエスを産んだとするキリスト教の話が、聖徳太子の伝説中に取り込まれたからだ」と推測しています。

聖徳太子にまつわる他の伝説も聖書の話によく似ています。例えば、聖徳太子の母である間人皇后がみた夢の中に救世観音が現れ、太子の誕生を予告したとなって居ますが、同様に聖書においても、マリアの前に大天使ガブリエルが現れ、イエスの誕生を予告しています。

さらに伝説では、日羅聖人は聖徳太子を「救世観音」と呼んで礼拝し、その後に日羅聖人は暗殺されたとなっています。これは、バプテスマのヨハネがキリストを「救世主」と呼んで礼拝したが、その後にヨハネは暗殺されたという、聖書の記事にソックリです。

『日本史の中の仏教と聖書』の著者である冨山昌徳氏は「醍醐本『聖徳太子伝記』(13世紀)には聖徳太子が死んで甦った話が出ているだけでなく、本書(聖徳太子伝記)全体の構成が『ヨハネの福音書』を模したものと推測される」といっています。

さらに聖徳太子が「片岡山で飢えた者に衣食を与えたという話」と「それに続いて、その飢えた人がやがて死んで葬られたが、数日の後に復活して、ただ棺の上には衣だけしか残っていなかった」という話が「日本書紀」に載っていますが、これらも聖書について知っている人なら、聖書の話に似ていると思うでしょう。

キリストは飢えた者に衣食を与えるなら決して報いからもれることはないと言い、それはキリスト自身に与えられたのと同じだと教えました。そしてキリストが死んで葬られ、後に復活した墓には、ただ衣だけしか残っていなかったと、聖書では記しているからです。

また、聖徳太子は大工の祖と仰がれ、「大工の守護神」とされています。同様にイエスの職業は大工でした。広隆寺でも1月に「チョンナ初め」という儀式が今もあって、これは聖徳太子が大工の祖であるとしています。

聖徳太子にまつわる伝説には、元々はキリスト教だったものが多く取り入れられています。池田栄教授は「聖徳太子の当時、キリスト教の何らかの一派が、既に我が国においてキリスト教を伝えていたと思われる。そのために仏教徒の間に、このような一種の習合伝説が生まれたのであろう」と。

日本には早くから原始キリスト教の流れを汲む東方キリスト教(景教)が入っていました。その考えが取り入れられ、或いは対抗する形で後に、秦氏など聖徳太子のメシア化を図る人々が存在し、そのためにこのような聖徳太子の伝説が民衆の間に根付いたようです。

続く…http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/59024173.html

以下、http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/58899177.htmlの記事にいただいたコメントの返信です。

my_hope様、コメントいただき有難うございました。

私はれっきとした日本人です。近視眼的に物事を見ただけでは、常に流動化している世界情勢が端的にしかわかりません。
文明の波は西へ進んでいますから、時代がどちらに向かっているのか、ということを前提に話をする必要もあるのではないでしょうか。

建国60周年の軍事パレードは、問題山積の中国内をまとめる国威発揚の目的であって、どうしても背伸びしているようにしか見えません。

いくら経済大国になったからとはいえ、中国はまだまだ封建制度から完全に脱皮していないのです。それは都市戸籍と農村戸籍などという階級制度が現在も幅を利かせているからです。

また、日本に軍事的な脅威をもたらすのは中国共産党支配の中国ではなく、アジア動乱後に誕生する巨大帝国なのかもしれません。中国に存在する56民族に関しては、過去に民族大移動が起きた結果なのです。

彼らが迫害や戦火を逃れるために移動してきて結果的にそこの地域に腰をすえて落ち着いた先が中国という国になった、ということなのでしょう。

その上、ときの支配者がウイグルやチベットを占領し、その他の地域も資源確保の目的で手に入れて国境を引いたのだと思っています。
日本のような小さな島国の場合、中世期の鎖国などが功を奏して数百年ほどで混ぜ混ぜになりましたが、地続きの大陸の場合はそうはいきませんので、この問題は難かしいのです。

民族問題はどちらが優れているかとか、どちらが支配するかという排他的な論理では解決できません。IMAGIN や WE ARE THE WORLDの歌のような心で乗り越えて行きたいものです。
そして、お互いに利点を認め合うしかありません。これから世界は国境ではなく民境になって行くでしょうね。

日本も古墳時代〜平安時代には多民族の国でした。民族大移動の影響もあって、祖国を追われたり戦火を逃れてきた人々が、海を渡った極東の地に行けば誰も追いかけてこないという安心感を求めて日本を目指してきました。商売を目的とした人々も来たことでしょう。

当時は、人々が言葉も違うし文化も違うので様々なトラブルもあったと思います。聖徳太子の時代に発布された「和をもって尊しとなす」という言葉の意味は、「国民全員で仲良くしなさい」ということだと思います。それは多民族国家だった故の言葉だったのでしょう。

それだけ、世界中から人が集まってきた時代でした。その結果として平安時代という高度な文化が開花したのです。良き伝統は大切ですが、異文化を取り入れることが伝統を汚すことにはならないと思います。

仏教も、キリスト教やゾロアスター教やイスラム教の影響を受けて積極的に取り入れたことで、現在の仏教となったようですから。参考にしていただければ幸いです。

http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/57434288.html

はじめに…イエス・キリストの使途であったトマスやバルトロマイやアダイなどの弟子たちは、最初に東方のアッシリア方面に伝道しに行きました。

こうして西暦40年〜60年頃には、既にアッシリア地域を始めとする中東やコーカサス地方に福音がかなり広まっていました。

このとき、これらの地域には元々から散ったユダヤ人も多く住んでいましたから、キリストの弟子たちは、彼らユダヤ人の中にもユダヤ教から、彼ら弟子たちの言う原始キリスト教への改宗者を得ていったことでしょう。

ローマ帝国内で弾圧されていたキリスト教が、厳格なユダヤ教義を取り除いた異邦人伝道用の内容と聖母信仰をクローズアップされた形でヨーロッパで認められる遥か以前に、アッシリア方面を布教基盤とした「東方キリスト教」は、ユダヤ教の教義内容を色濃く残していました。

日本にやって来た秦氏は、東方キリスト教徒でしたので、彼ら秦氏が信じていた東方キリスト教(景教)は、カバーラ由来の『生命の樹』から派生した「三位一体」の教えなど、非常にユダヤ教的だと感じるのはそのためです。

要するに、東方キリスト教は、異邦人を対象とした宣教から発展したカトリックなどと異なり、カッバーラの奥義である『生命の樹』から派生した「三位一体」などのユダヤ教義を豊かに保存しました。

原始キリスト教がアッシリア地域に広まったとき、中央アジア地域にはあちこちにキリスト教国が誕生しました。秦氏の祖国の1つである――『クンユエ(弓月)=現アルマトイを含むカザフスタン南部・バルハシ湖より南、キルギスタンの近くから新彊ウィグル自治区の一部までの地域』がありました。

クンユエ(弓月)もアッシリア地域から遠くないところに生まれたキリスト教国だったのです。当時のローマ帝国の国内では、西暦313年に信教の自由が許されるまで、激しい迫害がキリスト教徒に襲い掛かっていました。

ところがローマ帝国の東にある中近東のアッシリア地域においては、既に西暦300年以前に多くの国々がキリスト教国となっていたのです。そして彼らは更に東へダイナミックに伝道を開始しました。

彼らは西暦70年のエルサレム滅亡以前に、既に福音をインドや中国にまでもたらしていました。キリスト教が既に1世紀にはインドに広まりつつあったことにより、キリスト教はインドの地にある他の宗教にまで影響を及ぼしました。

例えば1世紀〜2世紀頃に成立したとされる古代インドの叙事詩『バガバッド・ギーター』には、「聖書のヨハネの福音書」からの借用とみられるものがたくさんあります。

他にも、アジアに広まり始めたキリスト教は、様々な形で各地の宗教や文化にも影響を与えていきました。西暦300年頃までにはシルクロード沿いの東方地域の大部分に、原始キリスト教が浸透していたのです。

本題に入ります。では、一体全体、原始キリスト教と今日の正統派と呼ばれるカトリックやプロテスタントや正教などのヨーロッパ地域で発展したキリスト教とは何が違うのでしょうか。

重要なのは、キリスト教の基盤であるユダヤ教なのです。アンティオキア教団から派生した異邦人対象の宣教活動において、主としてヨーロッパ地域に宣教されたときに、ユダヤ人が持つ厳格な風俗習慣は強制されませんでした。

もし、強制されていたならば、これほどまでに世界的宗教にはなっていなかったかもしれません。ユダヤの枠組みを超えることで、キリスト教は世界的に発展していったわけですが、それと同時に原始キリスト教が持っていたユダヤの神秘思想も失われていきました。

これがユダヤ教の神秘主義思想であった「カバーラ」です。カバーラを知らないキリスト教徒は、イエスの言葉の解釈をめぐって新たな神学的構築をする必要に迫られている。
カバーラという根幹がなくなったとき、解釈は各人各様の思考や思想や人生観と環境によって何通りにも発生してしまいました。

それが多くの宗派を生み出し、ひいては統一した正当教義を制定しなければならない状況になり何度も宗教会議が開かれた。
こうした流れの中で、「絶対神は唯一である」というテーゼと、イエスが明かしたとされる「御父・御子・聖霊」に旧約聖書と新約聖書との整合性をつけるために「三位一体」という教義が成立しました。

かくして1度成立した正当教義に異を唱える者たちは、片っ端から異端の烙印を押されてしまった。その状況は現在でも続いているように思います。そして、カバーラという視点から見た場合、イエスの教えはどうだったのか…。

先ず基本となるのが森羅万象の全てを象徴しているとされる「生命の樹」です。これは図形で示す場合、3本柱に11個の球体セフィロトとそれらを結ぶ22本のラインで構成される。

「絶対神は唯一」という「神は1人」という表現を使いましたが、神を数える単位は何でしょうか。それは「柱」なのです。この3本柱は、そのまま3人の神…即ち「御父・御子・聖霊」という絶対3神を象徴しています。

「生命の樹」の3つの柱〜真ん中に立つ「均衡の柱」、向かって右の「慈悲の柱」、左の「峻厳の柱〜それに神道にも3柱の神は登場します。これらは3神を認めてはじめて理解できるのです。カパーラにおいては「柱」は神の象徴なのです。 

しかし注意しなくてはならないのは、絶対神です。一般のキリスト教正統教義では、御父なる唯一の絶対神はヤハウェであると考えられています。でも最新の聖書研究によって、その教義が誤りであることがわかってきました。

画期的な学説を発表したのは、イギリスの権威ある「旧約聖書学会」の会長で、自身もメソジスト派の牧師であるマーガレット・バーガー教授は、現在の最古の「旧約聖書」の写本である「死海文書」の内容と、現在に世界中に流布されている「旧約聖書」の内容が異なることに注目しました。

このことは、ソロモン第1神殿におけるユダヤ教と紀元前8世紀頃のヒゼキア王による宗教改革後のユダヤ教では、根本的に教義が大きく異なることを発見されました。

これは、むしろ、紀元1世紀の段階で、イエス・キリストが述べ伝えたとされ弟子たちが信じた「原始キリスト教」は、このソロモン第1神殿におけるユダヤ教の教義に即したものであることを、マーガレット・バーガー教授は学術的に証明されました。

これは具体的にいえば、絶対神ヤハウェの扱いについてでありますが、このヤハウェはイスラエル人の民族的守護神であると同時に、数多くいる守護天使の1人だった。いわゆる守護天使の長というべき存在で、その上には「至高なるなる絶対神」…即ち「エル・エルヨーン」が存在したという。

要するに、紀元前8世紀頃の古代ユダヤ教では、絶対神という位置付けとして、ヤハウェは第2位の神だったのである。
後世に、第2位ヤハウェを第1位エル・エルヨーンと同一視する教義にしてしまったことで、この重要な教義が忘れ去られてしまい、混乱したユダヤ教徒たちはヨーロッパのヘレニズム文化の思想に影響されて、2元論のグノーシス主義を生み出した。

一般にグノーシスはヘレニズム文化に影響された原始キリスト教だとされているが、そのルーツはソロモン第1神殿における古代ユダヤ教にあるとバーガー教授は強く断言しています。

また、グノーシスでは「ソフィア(知恵)」を重要視し、ソフィアをヘブル語で「コクマー」ともいう。コクマーは「旧約聖書」の中で女性的に描かれ、グノーシスでは女神として象徴されている。

バーガー教授によれば、これは絶対神ヤハウェの女性的側面であり、キリスト教でいう聖霊に相当する絶対神であるといっている。日本では知られていないがバーガー教授の学説は神学論争となっています。

このバーガー教授の学説は、『カバーラの根本教義』と一致していることが多いのです。これは、本来の御父なる絶対神とは、エル・エルヨーン或いはエロヒムと呼ばれる存在であり、御子なる絶対神はヤハウェにして受肉したイエス・キリストということになる。
そして絶対神の女性的側面のソフィア…聖霊を含めた絶対3神をカバーラの生命の樹に対応させるとこのようになります。

「均衡の柱」…御父とは「エロヒム=エル・エルヨーン」のことであり、イエスの父である
「慈悲の柱」…御子とは「イエス・キリスト=ヤハウェ」のことである
「峻厳の柱」…聖霊とは御父「エロヒム」の遣わした聖霊、ルーハ=コクマー=ソフィアである 

イエス・キリストがヤハウェと同一神であることを決して認めない現代のキリスト教は、残念ながら間違ってしまったといえるだろう。キリスト教は中世期における教会の大衆支配にも利用されてきた。

そもそも、イエスがヤハウェであるということはイエス自身が述べているのですから…。
「はっきり言っておく、アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネによる福音書・第8章58節)
「神はモーセに『私はある。私はあるという者だ』と言われ」(出エジプト記・第3章14節)

ヤハウェとはヘブル語の意味で「私はある者」或いは「ありて在る者」なのです。今日まで残っている「新約聖書」の原典はギリシャ語で書かれていたため、日本語に翻訳されるとピンと来ないが、ヘブル語なら、イエス・キリスト自らがヤハウェだと名乗っているときことになります。

バーガー教授によれば、福音書の幾つかや「ヨハネの黙示録」の原典は明らかにヘブル語で書かれていた痕跡があるのだということです。

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