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日ユ同祖論

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▲泪覆猟

http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/60068584.html…からの続き

日本人とヤダヤ人、見た目も風貌も全く異なる両民族も文化的ルーツを比較してみると誠に興味深い共通点が多く存在していることに気づく。

日本文化の根底に流れているのは神道であり、日本古来の宗教でもあるのだが、外国人が日本人の本質を知ろうとするときに神道が関係してくることが多いという。神道を信奉している日本人であるならば、ユダヤ教を信じているのがユダヤ人なのである。

異なる両者には酷似した習慣が意外と多く存在している。一般的には神道は多神教でユダヤ教は一神教で両極端のようにも思えるが、多神教を極まれば唯一神教になってくる。実は奈良時代までの日本はユダヤ教的な側面を持った一神教だったことがわかっている。

神道には仏教とは違って偶像崇拝が無い。これもユダヤ教的である。神社の本殿にあるのは、鏡や幣帛という祭具であり、御神体は山や岩や樹木である場合が多い。これらの自然物は神ではなく神が降臨する聖地の意味が強いのだろう。

これはユダヤ教でいうシナイ山を聖地として神が降臨した岩に祭壇を作って聖なる樹木を「生命の樹」とすることと似ている。神殿の配置や構造も似ている。神社の拝殿と本殿が分かれており、ユダヤ教の神殿は拝聖所と至聖所に分かれている。

神社拝殿の前には手水舎があるし、ユダヤの神殿には手洗い洗盤がある。鳥居に相当するものは2本の柱であるが、古来の神社の鳥居は2本の柱に縄を張るだけの風習があったようだ。

神社の祭りでは御魂を入れた神輿担ぐのだが、これはユダヤ教の「契約の聖櫃アーク」を模したものであるとされている。人々が担ぐ姿はもちろんのこと、上にある羽を持った生き物の形など、ユダヤ人が見れば「これは契約の聖櫃アークだ!」と想像するだろう。

本来の契約の聖櫃アークにはイスラエルの3種の神器が入っていたことは有名であるが、これは「モーセの十戒石板」「アロンの杖」「マナの壷」である。このうちでは籠神社にあったという「真名之壷」と名前がソックリで、共に黄金製だということも同じようなのです。

現在では契約の聖櫃アークは3種の神器と共に行方不明になっているようだが、騎馬民族と共に日本に持ち込まれ何処かで密かに祀られているのだろう。日本でも3種の神器が存在した。

神道の最高祭祀である天皇が持つ王権のシンボルであり、「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」「草薙の剣」である。「八咫鏡」は御船代という名の聖櫃に入れられて伊勢神宮の内宮にある。実は「契約の聖櫃アーク」のアークとは船の意味なのであるから、もしかしたら御船代が「失われたアーク」なのだろうか。

他にも禊とパプテスマ、塩による聖別、柱を神の象徴とする思想、新年に食べる餅と過ぎ越しの祭りの種無しパン、など神道とユダヤ教とは風俗や風習が似ているのである。

こうして江戸時代後期には外国人から日本人とユダヤ人の類似性が指摘されてきたが、両者は同じ祖先を持つのではないかという「日ユ同祖論」が言われてきた。

この「日ユ同祖論」は明治時代から昭和初期まで盛り上がりを見せ、戦後は大きな発見と共に信憑性が高くなってきた。最近では長い年月の間に隠されてきた神社の秘儀や奥義などが明らかにされつつあるので、古代日本にイスラエル人が直接または子孫たちが渡来してきたことは間違いないようです。

しかし、ここで大きな問題にぶつかる。アジア系(スファラディー)や白人系(アシュケナジ)などユダヤ人の定義はいろいろありますが、実は本家ユダヤ人はアジア系なのです。

でも「ユダヤ教徒」であるという意味では皆さん基本的に「旧約聖書」を信じており、そこに記された預言をもとにして生きている。詳細は末尾の「ユダヤ人の定義について…」をご覧下さいませ。

ユダヤ人の太祖はアブラハムという予言者であったといわれている。アブラハムの長男だったイシュマエルからアラブ人が生まれ、次男イサクの子であったヤコブからはユダヤ人が生まれた。イスラエルの別名はヤコブということから、彼の子孫をイスラエル人と称した。

さらにヤコブには12人の息子がいた。名は「ルベン」「シメオン」「レビ」「ユダ」「ナフタリ」「ガド」「アシュル」「イッサカル」「ゼブルン」「ヨセフ」「ベニミヤン」という。彼らを元にイスラエル12支族が誕生したことになっている。

しかし「レビ」の子孫がレビ族として聖別されてレビ人と称した。彼らは特定の土地を持たず、他の支族の祭祀を行う要職にあったので、12支族からは除外されている。残った12支族は各自それぞれ支族を形成していった。

この中でヨセフ族は祭祀のために抜けたレビ族の穴を埋めるために2つに分裂し、それぞれ「マナセ族」「エフライム族」と称した。これが一般的なイスラエル12支族である。

そしてユダヤの古い伝承の話では、イスラエルの3種の神器を継承したのは「ガド族」だったといわれている。そして中央アジアを経由して日本に渡来してきたのは、「マナの壷」を王権のシンボルとして掲げていたのはガド族だった可能性が大きい。

日ユ同祖論を研究していた小谷部全一郎氏は、ガド族の王が日本の天皇になったと推測している。天皇を意味するミカドとは、ガドに尊称である御を付けて呼んだものであり、要するに「御+ガド」のことであると説いたのである。

この説はユダヤ人にも注目されて、サミュエル・グリーンバーグによれば、ミカドの呼称は「ミ・ガド」であり、ヘブライ語では「ガド族出身者」を意味するのだという。また、小谷部氏は、ガド族の王の長男の名前が「ゼッフォン」であり、それが次第に訛ってゼッポンからジッポン、それからニッポンになったのではないかと考えている。

その他にガド族と日本の関係では紋章がある。ガド族の紋章は移動式の幕舎で、いわゆる「遊牧民のテント」のようなものである。デザインは数種類あるようだが、その1つは3つのテントを模したもので、日本の家紋である「三つ網紋」に酷似しているのです。

両者はソックリだけではなくテントの上にたなびく旗までも似ているのである。この紋章の家系は、もしかしたら天皇家と縁が深いのかもしれない。また、「十六弁菊花紋」と並んで天皇家で使われていた紋章である「五七の桐」は葉の数までもガド族の紋章に似ている。

歴史上、ガド族は突如としてパレスチナの地から消えてしまった。それまで住んでいたパレスチナ地方はおろか中東からも痕跡が消えてしまったようである。

ガド族だけでなく12支族の中でも10支族が何処かへ離散してしまったのだ。詳細は「日本人のルーツ」の書庫の初期に記載してあるが、ここでも再度述べることにする。

紀元前13世紀頃に大預言者モーセに率いられたイスラエル12支族は、エジプトから現在のパレスチナの地にやって来た。そして紀元前11世紀頃には彼らは支族ごとに領地を定めた。

暫くして他国との関係もあって、族長制度から国王制度に移行したが、美男子として大衆から人気が高かった「サウル」を国王として古代イスラエル王国を建国する。

しかし、サウルは風貌とは異なる横暴で冷酷な性格から王の座を剥奪され、代わって即位したのが「ダビデ」であった。武人として英雄だった彼は、ユダヤ人にとって理想的な国王だったようだ。

ダビデの死後に「ソロモン」が即位した。彼は公共事業の政策も兼ねて巨大な神殿を建設して栄華を極めた。古代イスラエル王国の領地も最大となり、周辺諸国との貿易も盛んだった。ソロモンが統治した時代はイスラエル王国ににとって絶頂期だった。

しかしソロモンの晩年はユダヤ教の戒律を破り偶像崇拝に傾倒し、次々に拡大した公共施設の維持費が重くのしかかり、度重なる税率の上昇から次第に重税へと移行、さらには民衆に苦役を強いることも度々だった。

公共施設の拡充で生活は豊かになったが、民衆にとって重税の負担は耐えがたいものだった。彼ら大衆の不満は次第に蓄積され、ソロモンの息子「レハバレム」が即位した後に一気に噴出した。

エフライム族の「ヤロブアム」が民衆を先導して反乱を起こした。反乱は重税や苦役に耐えかねていたイスラエル王国全土の民衆へと飛び火して、ついに紀元前925年に古代イスラエル王国は南北に分裂した。

首都であったエルサレムを確保した反乱軍の「ヤロブアム」派が、自身の部族であるユダ族を始め、ベニミヤン族と祭祀のレビ族の一部を従えて「南朝ユダ王国」を建国した。

これに対して既存の勢力と残りのイスラエル10支族と分断した祭祀のレビ族の一部と共に「北朝イスラエル王国」を建国し、両国の対立が続いていった。しかし、最初に崩壊したのは北朝側だった。

紀元前722年にメソポタミア地方に勢力を急速に拡大していたアッシリア帝国の侵略に遭い、圧倒的な軍事力の差で北朝イスラエル王国は征服された。アッシリア帝国の猛攻に耐えた南朝側だったが国家が疲弊していった。

その後に新たに台頭してきた「新バビロニア王国」の侵攻によって、紀元前586年に南朝ユダ王国は完全に征服され消失した。そして、国王や貴族をはじめ民衆の多くを捕虜としてメソポタミヤ地方へと連行したことが「バビロン捕囚」の所以である。

それから40年後、「新バビロニア王国」が滅ぶと、南朝ユダ王国の人たちがパレスチナ地方に戻ってきたが、当時は既にアッシリア帝国も滅んでいた。
南朝ユダ王国の人たちの他にも北朝イスラエル王国の人たちも戻ってくると思われたが、彼ら北朝側の人たちはアッシリア帝国が無くなった後もユーフラテス川付近に留まった。

同じイスラエル人だったのだが、王朝が南北に分裂後は互いの交流は無かったようだ。彼ら北朝側の10支族は方々に離散していった。
これが歴史上の謎とされている「失われたイスラエル10支族」なのです。彼らは何処に行ったのかは、旧約聖書にも新約聖書にも書かれていない。

彼らは南朝側と一緒になることを拒み、別天地を求めて東へと移動したのだと考えられる。メソポタミアには西のパレスチナへ伸びる道と東へ伸びるシルクロードがあって未知の東方への道が存在していたからだ。

彼らの一部は東へと行かずにメソポタミアから北上していったようなのだ。シベリアを通り北極圏へと到達。「旧約聖書」の外典でもある「エズラ記」によれば、彼らは信仰を守るために絶対神(エロヒム)の導きによって「北の果て"アルザル"という地に向かい、世の末まで平和に暮らす…と記されている。

北極にはアルザルという場所は存在しない。現代科学では説明不能だが、異世界に通じる「謎の扉」のようなものが存在するのではないか。
こうして絶対神とされるエロヒムの手助けもあって彼らは異次元の世界に足を踏み入れることに成功し、争いの無い確固たる崇高な信仰の下で高度な文明を築き上げていたのです。

続く…

ユダヤ人の定義についての詳細はこちらのサイト
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nichiyu.html

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.泪覆猟

古代における日本の風俗を記した書物に「魏志倭人伝」があるが、それによって3世紀頃には「邪馬台国」と呼ばれるクニがあって女王「卑弥呼」が統治していたという話である。

この邪馬台国に支配下には数百にも上る小さなクニがあって、彼らの多くは刺青をしていたという。刺青の風習があるのは海洋民族が多いのである。

当時は東南アジア地域からもたらされた稲作が始まっていたが、羊はいたようだが不思議なことに馬や牛といった大型の家畜はいなかったと記されている。しかし、4世紀を過ぎてからは何故か馬や牛が突如として日本に出現し始めた。

そして家畜として大量に飼育されるようになっていった。それに伴って家畜に使う道具が急速に発達し造られるようになる。特筆すべきは馬具である。

大陸で使用されていたような鐙や馬面冑など、主として戦闘に使用する馬具が大量に生産されるようになった。そして、それまで日本には無かった金や銅も使用され始めた。

このことから、邪馬台国時代とは明らかに異なる大陸文化が急速に日本に取り入れられたことは、弥生時代的な文化が消失または断絶したことになるように思う。

邪馬台国時代に代表される稲作中心の弥生時代から急速に大陸的な中央集権化が推進される「古墳時代」が始まったのである。
最近では古墳時代は邪馬台国から移行した説もあるようだが、邪馬台国のことを示した「魏志倭人伝」を最後に、暫くの間は大陸との交流を持たなかったようなのだ。

次に中国地域との交流を持ち始めて中国の歴史に日本が登場するのは5世紀の「宋書」という書物でなのです。このときは既に大和朝廷が存在して中央集権化が進んでいた時期であろう。

要するに新しい国家体制に移行した時代、即ち短期間のうちに既存文化の消失と大転換があったであろう4世紀から5世紀始めの頃の歴史として残っていないのです。

そのため古代の日本史の中でも「謎の4世紀」と呼ばれているらしいが、この謎のことを革命的な学説で解明した人が「騎馬民族征服王朝説」を唱えた東大名誉教授だった江上波夫氏です。

江上氏は、謎の時代とされている4世紀頃に大陸の騎馬民族の集団が朝鮮半島を南下していき、後に九州に上陸して圧倒的な軍事力で日本に居た牧歌的な先住民を一気に征服。

そこから邪馬台国の中枢だった近畿地方に侵攻し西日本一帯を征服して大和朝廷を開いたというものである。元々は朝鮮半島には馬韓という国があり、北部には高句麗を始めとする騎馬民族の小国が群雄割拠していた。

そして高句麗に中央アジア系の「夫余族」が朝鮮半島に侵入して「秦韓(辰韓)」と「弁韓(弁辰)」を建国していった。これらの夫余系騎馬民族は馬韓の「辰王」が支配していたのだが、2〜3世紀頃には馬韓の領域にあった夫余族が独立を果たして国名を「百済」とする。

こうした独立の動きを受けて周辺国にも変化があり、秦韓は「新羅」に、弁韓は「伽耶」へと発達して朝鮮半島の三国時代を迎える。この4世紀頃には「五胡十六国の大乱」で有名な中国の動乱が発生したことで朝鮮半島の諸国も影響を受けた。

高句麗も北部から攻め込まれていき、盛んに朝鮮半島南部にまで攻め込んできた。こうした状況下で、朝鮮半島南端に勢力を持っていた「辰王」が日本海を渡って九州へと侵攻して勢力を拡大していったことで、伽耶と北九州の占領地が連合状態になった。

江上氏によれば、『記紀』で語られている初代の神武天皇の東征は、中央アジア〜朝鮮半島を含めた大陸時代の騎馬民族の征服劇を伝えた伝記であり、九州北部を占領して支配下に治めたのが「記紀」でいう第10代「崇神天皇」であるという。

神武天皇の存在は今まで神話的な要素が多く、本当に日本に実在した人物なのかどうか定かではなかったが、こうして考えれば納得が出来る。

しかし、初代の「神武天皇」から数えて9代までの天皇の業績はそれほど記されていないことから、日本には存在しなかった天皇であって、日本に渡来してきてからの本当の初代は「崇神天皇」であり、またの名を「ハツクニシラススメラノミコト」といい、最初に国を開いたことを暗示している。

さらに「崇神天皇」亡き後に、本格的に大挙して九州から近畿地方へと侵攻し大和朝廷を開いたのが、「記紀」でいうところの第15代「応神天皇」だという。
堀の部分を含めなければ最大規模の古墳であるのは、統一国家を成し遂げた王権の強大さを誇示しているのだろう。

古代日本の特徴の1つとして古墳の存在があるが、日本独自の形式としては前方後円墳がある。前方後円墳はヒョウタンの形を模したものだといわれてきた。偶然の発見のことを「瓢箪から駒」という諺がある。

前方後円墳からは大陸系騎馬民族の文化を代表する遺品が発見されていることから、前方後円墳という形は騎馬民族の王族の象徴を模したものだということも出来る。実際問題として、この前方後円墳は日本のオリジナル古墳というのが通説となっているが、朝鮮半島地域でも多く発見されている。

その大半は朝鮮半島南部が多く、これらは日本の影響で造られたものだという学者もいるが、日本よりも約200〜300年程古いと推測される前方後円墳が幾つも発見されている。それに比べて北朝鮮にある前方後円墳は積石塚の形態になっている。

これは日本の前方後円墳の原型とも思えるもので典型的な騎馬民族に墳墓の形態である。同様な積石塚の形態の墳墓は北アジア一帯に広がっており、遠くは北欧でも発見されている。

そうしたことで、前方後円墳が騎馬民族の象徴だと考えてもよいのだと思う。この独特な形は、四角い方墳と丸い円墳を合体させたものだとされているが、よく考えれば違うことがわかる。方墳は四角い形をしており、正四角形から長方形なのであるが、前方後円墳の場合は台形に近い。

明らかに予めデザインが決まっていたかのようである。わかりやすい形としては、日本を統治した騎馬民族の大王である応神天皇の墳墓である「応神天皇陵」は台形と丸の合体した形の他にも小さな出っ張りが付随している。

前方部と後円部の境目あたりに耳の形のような部位があるのがわかる。これを考えながら前方後円墳を逆さまにしてみると「壷」の形に見えると思う。付随した出っ張りの部分が取っ手である壷です。

前方後円墳は壷をモデルに造られていたことになる。こうして壷は王族のシンボルとして考えられていたことがわかる。応神天皇の息子である16代仁徳天皇の陵墓も同様な形をしている。

渡来して日本を支配した騎馬民族の王族であった天皇家は、壷に自から民族的な意味を込めていたことだろう。日本最古の神社の1つとして「籠神社」がある。ここには以前に黄金の壷が神社の宝物として伝わったいた。

その名も「真名之壷」というもので、高天原に存在するという聖なる水を汲むための器であるとも伝わっていた。しかし、真名之壷は行方不明になってしまって現在は籠神社にはないといわれている。

一方で伊勢神宮の外宮に祀られているものが真名之壷だという話があるが、この話は終戦直後に中山忠直という人が言い出したようだ。籠神社から伊勢神宮へ直接に「豊受大神」が祭神の分霊を行って祀っていることからも関係性は大きい。

籠神社から伊勢神宮の外宮へと「豊受大神」の御魂を移したのは第21代雄略天応の頃とされている。現在でも「八咫烏(ヤタガラス)」系統の人たちは皇族と同様に戸籍がなく、日本のエスタブリッシュの一端を担っている。飛鳥昭雄氏は八咫烏について著書でこう書いていた。

『かつて日本の神社を裏で全て仕切っている人々に会ったことがある。神道において祭祀の頂点が天皇だとすれば、彼らは裏の天皇ともいうべき存在を頂点に置き動いている。本名は全て隠され称号として「八咫烏(ヤタガラス)」と呼ばれている。彼らとの会見の中で、伊勢神宮の御神体について、幾つか問答を行った。その際に外宮の御神体が真名之壷だと暗に認めた』というのである。

この真名之壷こそが天皇家の祖先が王族の証として日本に持ってきた神器なのだと考えられる。日本に侵攻した騎馬民族の王は真名之壷を模った巨大な陵墓を後世に残すことで騎馬民族の王家の威信を誇示したのだろう。
問題は、真名之壷と同じ名前を神器としている民族が世界には他に存在している。イスラエル人、ユダヤ人とも呼ばれている人たちなのである。

続く…

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http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/58952358.html…からの続き

原始の八幡信仰(ヤハダ神=八幡神)と秦氏の関係ですが、奈良時代の末期になって、それまでの『記紀』「古事記」「日本書紀」にある神々とは全く系譜の異なる神が突如として登場しました。

それがヤハダ神です。日本全国の約11万にも及ぶ神社のうち、最も多いのが八幡(はちまん)様で、4万社以上あります。
「はちまん」という呼び名は、漢字が輸入されて漢字を当てはめた後に、それを読み替えたものです。それ以前は「ヤハダ」或いは「ヤハダ神、矢羽田、綾幡」と言っていました。

ヤハダ神の起源は九州の大分県にある宇佐の地にあります。そこには「宇佐八幡宮」(8世紀頃建立)があります。この宇佐八幡宮、有名な話では「道鏡事件」(769年)です。

道鏡という仏教の僧侶が陰謀を企み、天皇の座を奪おうとしたことがありました。その時、和気清麻呂が宇佐八幡宮から託宣を受けて道鏡の陰謀を阻止しました。この九州の宇佐地方は、実は昔に秦氏一族の最も古い居住地でした。

朝鮮半島から渡ってきた後に、この地に暫く本拠地を置き、近畿地方へと進んで行ったのだと思われます。宇佐八幡宮の宮司を務めた三氏族…宇佐氏、大神氏、辛嶋氏はいずれも秦氏の系統です。景教の教えをもっと大衆にも浸透させるために生まれたヤハダ神は、秦氏の信仰していた神(ヤハウェ)を元につくられのかもしれません。

秦氏の故郷である「弓月=クンユエ」は、天山山脈の麓にあり、現在のアルマトイを含むカザフスタン南部から新彊ウイグルの一部とキルギスタンの一部にまたがる東方キリスト教(景教)国家でした。

九州の宇佐の近くにも天山山地と名付けられた山々がありますが、これは秦氏の人々が故郷を思い出して名付けたものではないでしょうか。

さて、宇佐八幡宮に行くと、そこには「応神天皇が祀られている」という説明を受けます。応神天皇は、秦氏が大挙して渡来したとき、高度な土木技術を持っていた秦氏を受け入れてくれた天皇です。

当然、秦氏と非常に親しい間柄になっていったことでしょう。また、現在の学者の間では、応神天皇も実は渡来人であったといわれ始めました。大陸からの渡来人が日本の天皇になったというのです。応神天皇は、どんな信仰を持っていたのでしょうか。

兵庫県にある大避神社には、現在は秦河勝が祀られています。しかし、そこの宮司さんは、「おそらく昔は秦河勝が拝んでいたもの」を祭るための神社だったのだろうといいます。

同様に、宇佐八幡宮では現在は応神天皇を祀られていますが、昔は「応神天皇が拝んでいたもの」を祭っていたとも思われます。それこそが原始ヤハダ信仰だっと思われます。

「ヤハダ」とは、アラム・ヘブル語で「ユダヤ」を意味する「イェフダー」にも似ていることもあり、ヤハダ神はユダヤの神だと考える研究者もいます。ヤハダ神は、古来から他の一般の人々に深く信仰された人気のある神でした。

ヤハダ信仰には、聖書の物語を思い起こさせるような話がしばしば存在します。例えば、860年に京都に造られた古い神社の「岩清水八幡宮」には伝わる説話に、旧約聖書の物語にソックリなものがあります。

それは、源頼義が奥州合戦の際に、水が無くて兵士たちが苦しんだので、彼が岩清水八幡宮に祈って岩を突き刺しました。そうすると、そこから清水が湧き出したという話です。

一方、聖書には、イスラエル人が荒野で水が無くて苦しんだとき、モーセが神に祈って岩を突いたと書かれています。すると、そこから清水が湧き出した。(出エジプト記17・1〜7)このような聖書にソックリな話が、何故か古くから岩清水八幡宮に伝わっているのでしょうか。

ある学者は、源頼義が岩を突いて清水を湧き出させた話は、昔に岩清水八幡宮の神官が作り出したのではないだろうかと考えています。その際に聖書の物語を借用したのかもしれません。

人間は、何か物語をつくるとき、自分に親しみのある経典ないし文書の話をベースにしることがある思われます。八幡神社に限らず、他にも各地の神社には、聖書の話と思われるものがあります。

例えば、山口県の住吉神社と福岡県の和布刈神社に「めかりのしんじ=和布刈神事」と言うものが伝わっています。これは海の和布(わかめ)を刈り、神社に奉納する儀式です。

ある人は、この神事を詠った古い謡曲「和布刈」の言葉が、旧約聖書「出エジプト記」の紅海渡渉の記事に表現が良く似ていると指摘しています。

この和布刈神事の謡曲では、かつて風が起こり雲が起こり海の水が退けられて屏風を立てたように分かれて壁となり、海底が乾いて陸地となり、その後しばらくして元の荒れた海に戻った、という出来事について詠われています。

これはまさにモーセの紅海渡渉の話と非常に酷似しています。日本の伝説や伝承の中には、聖書の物語が引用されたり転用されたりとかという例がまだ多く存在しているように感じます。

「平家物語」の中にも、旧約聖書「エゼキエル書」の「枯れた骨」と同様な物語が混入していることも指摘されているようです。
日本では、江戸時代初期にキリシタンが迫害された時代があり、そのときに古いキリスト教的な遺跡や建物、しいては文書や物語や歴史的遺物などは焼かれたり破壊されたりしました。

このときに日本におけるキリスト教的な歴史は、表面的には無かったかのように時の幕府によって隠蔽されました。けれども注意深く残されたものを検証してみると、過去において景教を始めとする東方キリスト教的な影響を見つけることが出来るのです。

神社の話とは異なりますが、昔から日本の仏教界では、法華経が最も読まれ最も重んじられてきました。法華経は比叡山の天台宗においても研究されていました。

法然、親鸞、道元、日蓮など、鎌倉仏教をつくった人々もみな法華経にふれています。特に道元と日蓮は、最後まで法華経と深い関係を持ちました。法華経は、実はインドでは見向きもされなかった経典でした。

ところが日本では「仏教のバイブル」と言われるほどに親しまれる教典となりました。これは聖書と深い関係があったようなのです。
とある仏教学者が、日本宗教学界において、昭和9年に「法華経寿量品の思想と新約ヨハネ伝の思想について」と題する研究を発表しました。

それによれば、「法華経の寿量品は、新約聖書の『ヨハネの福音書』の思想によく似ている」といいます。冨山昌徳も、「法華経の寿量品は新約聖書『ヨハネの福音書』の教えを焼きなおし(換骨奪胎)してできたものと考えられます」と述べています。

また別のある人は、「法華経は西暦1世紀後半から2世紀にかけて作られた経典であり、当時の仏教徒が使途トマスのインドにおける伝道を見て、それに対抗してキリスト教と競えるようなシャカ像を作り上げた…それが法華経だった」と言っています。

法華経には「久遠実成の仏」という、シャカは実は永遠の昔から仏なのだ、という思想が説かれています。これは、ヨハネの福音書に語られている「永遠のキリスト」の教えと同じです。

また法華経では「一乗妙法」という、「声聞」「縁覚」「菩薩」の別を問わず、誰でもこの教えによって仏になれると説かれています。
これは、ヨハネの福音書をはじめ聖書全体で説いている「誰でもキリストによって神の子となれる」という思想と同じです。

このように法華経は数ある仏教の経典の中でも、聖書の中心的思想に最も近いものを持っていたのです。ここで、日本で何故、法華経が最も愛されたのか?という理由の1つを見ることが出来るのです。

続く…http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/58993656.html

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秦氏は、京都に「平安京」を造ることにおいて、中心的な役割を果たした人々でした。

彼らは高度な技術力を持ち、それまでも天皇の権威を誇示するために「マナの壷」の形を模した巨大前方後円墳の建設をはじめ、数々の土木工事を行ってきました。

かつて大阪平野に流れ込む淀川流域は氾濫につぐ氾濫で荒れ果てていました。そこで、堤防を築き難しい治水工事をやってのけたのも秦氏です。

そして、京都に平安京を造るために技術力の粋を結集し、労働力を提供したのも秦氏でした。かつて京都盆地は、相次ぐ鴨川や桂川の氾濫で荒れ果てた土地を治水工事によって川の流れを大きく変えて、そこを住みやすい土地に改良していったのです。

また、平安京が築かれた地域自体が、元々は秦氏の所有地でした。その土地は、秦氏とその一族である、賀茂氏、八坂氏、土師氏、栗田氏、茨田氏などの所有地でした。旧皇居、即ち京都御所が置かれていた土地も秦河勝の所有地でした。

話は少しそれますが、秦氏は645年の「大化の改新」後に姓を変えていきました。
秦、畑、端、畠、波田、羽田、八田、半田など。これらに山や川や野などを付けた秦野、畑野、畠山、畠田、畑川、畑中、畑山、波多野、八幡…。

一方、秦を違う姓に変えたケースもあります。わかっているだけでも、服部、羽鳥、林、神保、宋、惟宗、田村、島津、長田、長蔵、辛嶋、小松、大蔵、本間、高尾、原、常、井出、赤染、三林、小宅…。
戦国大名の土岐、長宗我部もそうですね。

話を戻します。平安遷都のために必要な巨額の資金も、秦 島麻呂が出しました。つまり、平安京は京都盆地にエルサレムの街を再現すると同時に、秦氏が朝廷中枢に入り込み権力を掌握するための巨大な公共事業でもあったのです。

よく指摘されている、「平安京」という名は、イスラエルのエルサレムと同じ意味です。エル・サレムはヘブル語で「平安の都」という意味であり、平安京ということなのです。この平安京には、秦氏のエルサレムへの憧憬の想いが込められています。

それは平安京が造られた後に始まった「祇園祭」に現れています。今も全国の各地で夏に行われている祇園祭の中心であり本場は京都の祇園祭です。京都の祇園祭における最も盛大な行事、山鉾巡業は、毎年7月17日に行われています。

この日は、聖書の「創世記」にある、ノアの箱舟がアララト山に漂着したとされている日と同じです。祇園祭は、元々は伝染病が起こらないようにと願いから始められました。

一方、旧約聖書によれば、古代イスラエルのソロモン王は、やはり伝染病が起こらないようにとの願いを込めて、ノアの箱舟がアララト山に漂着したとされている日とちょうど同じ時期に盛大な祭りを行いました。

京都の祇園祭は、7月1日と7月10日にも重要な催しがあります。これらの日は古代イスラエルの人々にとっても、重要な催しのある日でした(ラッパの祭り及び大贖罪日)このように、平安京には聖書から由来されていると思われる事柄が多くあることがわかります。

当時の人々は、渡来人たちと一緒になって、平安京遷都というビッグ・プロジェクトを成し遂げました。平安京の時代の日本は、ユーラシア大陸全域にわたる多くの民族や文化や宗教や各地の伝統を全て包容し、そこから新しい文化と文明を創造していったのです。

また、京都の近くに「琵琶湖」があります。イスラエルには琵琶湖と大きさも形も似たガラリヤ湖という湖がありますが、これは古代には「キネレテ湖」と呼ばれていましたが、これは琵琶の意味です。京都付近にはイスラエルを思い起こさせるような名前が多く存在するようです。

平安京を建設した秦氏は、全国に数多くある「稲荷神社」の創建にも深く関わりました。全国に1番多い神社は八幡神社で、稲荷神社は八幡神社に続いて多い神社です。

稲荷神社の頂点に立つのは、京都の伏見稲荷大社です。伏見稲荷大社は、秦氏の首領だった秦 公伊呂具が創建したものです。稲荷神社は秦氏の氏神(氏族が崇拝する神)でした。

また、空海に始まる真言密教の僧侶たちも、熱心に稲荷信仰を広めていきました。稲荷神社というと、朱色の鳥居やノボリ旗が特徴です。入り口にある狛犬も普通の神社のものは獅子なのに、稲荷神社はキツネになっています。

キツネは本来の神道とは別のものです。実際の稲荷神社とキツネは無関係でしたが、後に仏教系のダニキ信仰のキツネが入ったことで、稲荷神社にキツネが置かれるようになりました。

本来の稲荷神社は現在とは違うものでした。本来は秦氏の信仰する景教の流れを汲むものだったのです。イナリは、今は普通、「稲荷」と書きますが、漢字が日本に輸入される以前から、イナリという音がありましたので、稲荷は当て字なのです。

ある研究家は、このイナリというのは、「INRI」(ユダヤの王ナザレのイエス)からきているのではないか、と考えています。稲荷大神は正式には「宇迦之御魂大神」という名です。

この神は、実は伊勢神宮の外宮で祀られている「豊受大神」と同じ神なのです。世界百科事典には「(豊受大神の)トヨは美祢、ウケは…食物の意、すなわちこの神は…うかのみたま(の神)である」と。要するに、稲荷の神と伊勢の神は同じだということです。

また同辞典によれば、「伊勢神道」(伊勢神宮に基盤を置いた神道)において、「豊受大神」は秦氏が創建した「蚕の社」で祀られていたアメノミナカヌシの神と同一神とされているといいます。

また三神たける氏は「豊受大神が伊勢の外宮に移る以前、この神は丹後の『籠神社』で祀られていました。その籠神社の宮司はハッキリといいました。豊受大神はイスラエルの神であると。稲荷大神は元々は絶対神ヤハウェであり、イエス・キリストだったのでしょう」といっています。

伊勢神宮の神も、稲荷の神も、秦氏が創建した蚕の社のアメノミナカヌシの神も、みな同じ神なのです。元々はイスラエルの神ヤハウェだった。

地方に伝播されたり後世になって名前がいろいろになったので、たくさん神が存在しているように思いますが元は1つのようです。
伊勢神宮にまつわる「元伊勢」の1つである丹後の「籠神社」の近くに日本三景として美しい景観で有名な「天橋立」があります。

細長く伸びた砂洲が湾の中を横切っています。しかし、この橋立の由来は、元々は天と地とを結ぶ橋だったのが、外に外れて落ちそうになったのだといいます。しかし、立てた橋なら、元々は梯子だったということです。

昔は梯子を立てることを梯立と言っていましたから、「橋立」の由来はここから来ているのでしょう。聖書には、昔のイスラエル民族の父祖であるヤコブが、ある夜に神の幻の中に天と地を結ぶ梯子を見て、天使たちがその梯子を上り下りしていてた、という話が載っています。(創世紀28・11〜12)

この天橋立の伝説は、まさに聖書の話と酷似しています。また、日本の神道には、古来から「神道五部書」というものが伝わっています。これは鎌倉時代に完成したもので、伊勢神道のためのものです。

ある研究者は、この「神道五部書」と聖書の「モーセ五書」の間に見られる数々の類似性について語っています。秦氏は、稲荷神社の創建以外にも、伊勢神宮の創建にも深く関わっていたようです。

続く…http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/58961479.html

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http://blogs.yahoo.co.jp/beautyhappinesshide/57258196.html…からの続き

他の渡来人が政治の表舞台に出て行く中で、意外にも歴史上では秦氏を名乗る人は数えるほどしかいない。むしろ、政治よりも、経済活動に力を注いだらしく、蚕の社という名にあるように養蚕業で名を馳せたようだ。

養蚕業で作られる絹(シルク)などを使って絹織物を作ったことから秦氏のハタとは機織のハタではないかという説もある。
元々は大陸の進んだ技術を持った集団であることは確かであり、治水工事や巨大古墳の建設などにも力を発揮したことが記紀にも記されている。

また、渡来人であるのにも関わらず、彼らは神道を奉じた。日本古来の神道に帰依し、次々と神社を建立していく。
そこから派生した神社としては、稲荷神社、八幡神社、白山神社、白髭神社、金比羅神社、日吉神社などがあり、伊勢神宮の創建にも関わっている。
景教徒であった秦氏が伊勢神宮の創建にも関わっている…ということは、「天照大神=イエス・キリスト」ということになる。確かに天照大神の天岩戸逸話では「天照大神が悪い弟を嫌って岩の洞窟に隠れた」という話です。

この天岩戸と酷似した話がある、それは「キリストが磔になった後に巨大な岩穴の墓に葬られ、岩の扉で塞がれたが天使がそれを開けてからイエスが復活している」のだ。日本では古来では人が死ぬことを「お隠れになる」と言った。

その当時、確かに日食もあっただろうが、これを天照大神の話に当てはめてみると神は一度死んだことになる。その後、神は甦り(希望の)光を人々に投げかけたということになる。これはキリスト教的な話と日食が組み合わさった話なのではないだろうか。

その意味では、今日の神社神道の根幹は秦氏がすべて整備したものであるようだ。神道だけではなく、仏教の浄土宗を開いた「法然」の母は秦氏であり、真言密教を日本に伝えた「空海」の弟子たちや金銭的支援者も秦氏で、天台密教の拠点である比叡山は秦氏が押さえていた。

安倍晴明で有名な陰陽道や役行者で有名な修験道も秦氏が関与していたという。日本の宗教や習俗には秦氏が関与してきたことは歴史的にも事実である。日本人の信仰基盤を整備したのは秦氏なのである。その影響はキリスト教まで及んでいた。

三位一体鳥居を建設した秦氏はキリスト教徒あるいは景教徒だった可能性が高い。秦氏の族長を意味する「太秦」は通常はウズマサとは読まないが、佐伯博士によると、これはヘブライ語で「光の賜物」という意味だという。

しかも「太秦」は「大秦」とも表記することがあり、これは中国語で「ローマ帝国」を意味する。中国に景教が伝わったときに、そのルーツがローマ帝国であるということで「大秦景教」とも呼ばれ、教会は「大秦寺」と称された。

日本でいう「太秦寺」は秦氏の氏寺として知られている広隆寺の別名でもある。ここまで来れば「秦氏」は景教徒だったということになるが、彼らは単なるクリスチャンではなかったようなのだ。広隆寺の近くに秦氏が創建した「大酒神社」がある。
今では大酒と表記されているが、かつては「大辟」だった。どんな意味かというと死刑の意味だという。

また、この大酒神社は京都の他にも兵庫県の赤穂地方にも数多く分布していて、こちらの表記は「大避神社」と表記されている場所もあり、文書によっては「大僻大明神」と表記しているケースもある。この辟という文字を核に違う偏がついている。

これを景教経典では「大闢(ダイビャク)」という名を持つ人物が登場する。この大闢とは、古代イスラエル王国のメシアである「ダビデ王」のことなのだという。
すなわち、大僻大明神とはダビデ王のことだったのである。秦氏は大酒神社にて大僻大明神を祖人として祀っているということは、秦氏はダビデを祖先として祀っていることになる。

もしかしたら秦氏はダビデの子孫或いは古代ユダヤ人(アジア系)の血を引く者ということになる。更に、かつて広隆寺の境内にあった「伊佐良井(いさらい)」もまた、佐伯博士は「イスラエルの井戸」だと解釈する。
パレスチナ地方には「ヤコブの井戸」と称する井戸があるが、この名はアブラハムの孫ヤコブにちなんでおり、ヤコブの別名はイスラエルという。

よって、井戸にイスラエルという言葉をもじってつけるのはユダヤ人しか考えられない。確信を得た佐伯博士は明治41年、学会誌「地理歴史」にて「太秦を論ず」という論文を発表。

秦氏の正体はユダヤ系景教徒であると主張し、学会に大衝撃を与えた。そして、後に大和朝廷は「騎馬民族征服王朝」だったという論文を発表した江上波夫名誉教授は、かつて佐伯博士の門下生だった。

日ユ同祖論において重要な鍵を握っている秦氏だが、景教徒がネストリウス派だとした場合、異端として追放されたのは451年ですから、2〜3世紀には秦氏は既に朝鮮半島に根を下ろして生活していたので年代が合わない。

実は中国で景教というものは幅広い意味を成すことがわかった。アジア全土に広がった原始キリスト教も中国では景教と呼ばれていたというのだ。

このことは、原始キリスト教はイエス・キリストが直接、弟子たちや現地人に教えていた信仰であり、そのときはカトリックやギリシャ正教やプロテスタントという派閥は無く、ましてやプロテスタントが正統教義として主張する三位一体という思想は当時の欧州には無かったのです。

キリストが生きた時代に、法皇や枢機卿や大司教や司教なんて階位があったでしょうか?当時は、そんなものは決して存在しませんでした。イエス・キリストの死後、ローマ帝国に布教されてヨーロッパに広がっていったときにキリスト教を政治的に利用しようとした連中が商売の便宜上、偉そうな階位を勝手にでっち上げただけなのです。

挙句の果ては政治と教会が結託し「免罪符」などという詐欺的紙切れを販売して民衆から搾取していました。政治権力に利用されて聖書も一部が改竄され、今のキリスト教はイエスの教えから逸脱し歪んでいった。

話を戻します。問題はユダヤ人で、秦氏がユダヤ人だったとすれば彼らはイエスが直接布教していた時の「原始キリスト教徒」であり、イエスの12使徒の直系であったかもしれない。

イエスの死後、カトリック教会が整備されてローマ帝国の国教となって偶像崇拝化と変化して各地に広がっていく中で徐々に失われていった根本的な教義や信仰を秦氏たちが継承している可能性がある。

秦氏が信仰していたとされる原始キリスト教とは何だったのか。実際問題として、イエス・キリストが布教していた時代はキリスト教というものは存在せず、「聖書」といえば「旧約聖書」であった。ということはイエスはキリスト教徒ではなくユダヤ教徒であったのです。

このユダヤ教徒であるということは、基本的にはユダヤ人であるということであるから、イエスも含め両親であるヨセフとマリア、従兄弟のバプテスマのヨハネもユダヤ人でユダヤ教徒だったということである。
12使徒もしかり、その他の70人の弟子たちもユダヤ人だった。よって宣教師は、ユダヤ人もしくはイスラエル人に向かって言葉を述べていたのです。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところしか遣わされていない」(マタイによる福音書・第15章24節)

秦氏に戻ろう。単なる土を盛り上げたような墳墓であった古墳が、秦氏が渡来してきてからは前方後円墳が急激に進歩して巨大化したことからも秦氏が高度な土木建築技術を持っていことをうかがい知ることが出来る。

太秦をウズマサと読ませたのは「秦河勝」である。ウズマサの意味である「光の賜物=イエス・キリスト」だという説もある。

また、秦河勝が側近の舎人として仕えた主人は「聖徳太子」であった。しかも、聖徳太子の出生伝説にはイエス・キリストの姿が濃厚に見え隠れしている。

実は聖徳太子という名は彼の死後に付けられた名前であり、生前は「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)」もしくは短縮して「厩戸皇子」と呼ばれていた。皇子にしては珍しい名だが、この世の偉人で馬小屋で誕生したのは世界広しといえどもイエス・キリストたった一人である。

母であるマリアは旅の途中で産気付き、馬小屋でイエスを産んだ。幼児イエスが飼い葉桶に入れられたことは有名である。歴史学者の久米邦武博士は、聖徳太子の誕生伝説はイエス・キリストの逸話がもとになっていると主張。

聖徳太子とイエス・キリストの共通点はこれだけではない。聖徳太子とイエス・キリストはどちらも王家の血を引いており、聖徳太子は法隆寺を建設したことから日本の大工の祖として崇められているが、イエスの職業は大工であった。

間人皇后は夢に現れた救世観音によって聖徳太子を身ごもるが、マリアは天使ガブリエルによってイエスの受胎告知をされた。

イエス・キリストが未来予言を数多く残したように、聖徳太子もまた「未来記」を残した。聖徳太子伝説は明らかにキリスト教が関係していることは事実のようだ。しかし、それは景教に由来するものではない。

聖徳太子の側近は秦河勝をトップとする秦氏一族がいたからである。イエスが存命中に布教した原始キリスト教徒の子孫であった当時の秦氏が一族を挙げて擁立した皇子に対して自らの政治的権力を維持するためにイエス・キリスト伝説を付加したのである。

聖徳太子は数多くの予言を残したが、中でも秦氏を突き動かしたのは新しい都の建設に関する予言であった。かつて山背(山城=京都)へやってきた聖徳太子は、いずれここに天皇の都が建てられるだろうと述べたという。

この言葉通りに、秦氏は山背に都を建設することになる。この約1200年栄えた「平安京」がそれである。

もともと山背は太秦を中心として秦氏が多数居住していた場所で、奈良から都を遷都するという動きがあった際に、いち早く誘致に乗り出した。というか遷都そのものが秦氏が用意周到に根回した公共事業としての大プロジェクトであった可能性が高い。

当時、圧倒的な政治権力を持った藤原氏と婚姻関係を結び、遷都事業を積極的に推進する勢力を朝廷内に増やしていった。彼ら秦氏は独自のネットワークから土地や資金や技術者を自前で用意し、瞬く間に平安京を建設した。

都で最も大事な天皇の御所である内裏は、かつて秦河勝の邸宅があった場所で、紫寝殿の前に植えられた右近橘は秦河勝の邸宅の庭に植えられてあったものだという。自分の邸宅の跡地に天皇が住む…こうしてますます権力を盤石なものにしていった。

新しい都は完成し「平安京」と名が付けられた。平安なる都という願いを込めたものだが、これをヘブライ語に訳すと「エルサレム」なのである。

ガリラヤとはハープの意味であるガリラヤ湖の近くにエルサレムはあり、平安京は琵琶湖の近くにある。日本の琵琶はハープのような弦楽器であり、しかも両方とも淡水湖である。

また日本語とヘブライ語の共通点も多く、書く・取る・住むなどの言葉は読み方も意味も同じですし、ハケシュは拍手というそうだ。このように日本語と共通したヘブライ語は500語程度存在するそうだ。

秦氏が建設した都「平安京」とはまさにイスラエル12支族が住まう為に造られた極東のエルサレムだったのである。

だから、ヘブライの血を引く秦氏がカッバーラの術を使用して建設した都なので、天皇が江戸時代末まで安心して住み続けることが出来たのだろう。

海賊対策での海自派遣は、終末戦争に日本もイスラエル側に加担する布石なのだろう。もしかしてユダヤ支配層が本当に欲しいのはこの日本かも。パレスチナと異なり水資源も豊富で、四季もある。日本は今後、極東イスラエルとされてしまう可能性も否定できない。日本でテロが起きないことを祈る。

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