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…続き
日本史の中でも、其の時代ごとの貴族や武士といった覇者たちが、皇室との間で数多くの政略結婚が行われてきました。
特に天皇の妃に娘を嫁がせる権力者は、孫が将来の天皇の候補ということになり、更に強大な権力を手中に収めたのです。其れが平安時代では藤原氏であり平氏でした。
大局としての政略は大義名分も含みます。企業で言えば「経営理念」に相当します。そして中局である「戦略」は、ドコで戦うかイツ戦うかを決めるシナリオを練ることであり、敵に知られないように陰で行う謀略も其の中に含まれます。
そして、小局としての「戦術」ですが、これは軍隊の進め方です。将棋や囲碁のような感じで、陸上戦に持ち込むのか海軍の機動性を高めるのかといった主に現場で行う仕事に関する計画と実行が戦術です。
この点が理解しないと、人生においても流されるままにダラダラと成りがちです。「来月の資金繰りさえ乗り越えられれば」「とりあえず給与が入れば其れでいい」とか。
戦術から始めると負ける確率が高くなります。先ずは大局的に大義名分を掲げないと、小手先だけで前に進まないことが往々にしてあります。 会社の会議でも、ダラダラとなりがちなのは、其の会議が行われる名分としてキチンとした大局や中局が提示されないからです。現在は変化が次々と生まれる時代ですから、安定期ではなく変革期です。
安定期はバブル崩壊で終わりましたが、まだ安定期の幻想に取り憑かれている人がいます。最近では其の人たちが糾弾されるようになりました。今まで歴史上で戦乱が絶えない時代が多く存在しました。
だが、其の時代であっても決して地球は壊れませんでしたし、様々な武器を造っては使用しましたが、それでも人類滅亡までは行きませんでした。
遅かれ早かれ、未来永劫に栄え続ける文明は地球上には存在しません。今は地球の上空から世界情勢を俯瞰しなければ大局レベルでは理解できない時代なのです。
今回の西洋文明の始まりである十字軍の遠征によって、当時は先進地域だったアラビアへの略奪戦争が幾度と無く行われました。中世期から目覚め始めた欧州は、其のアラビアの高度文明に驚いたという。 一攫千金を狙う者たちによる小規模や中規模で略奪遠征した数は計り知れません。其の略奪戦争によって奪った財宝など戦利品を欧州に持って帰ったことで、更に東方へ向かう人が急増しました。
其の略奪品の荷揚げ港として機能し、其の後に東ローマ帝国の衰退後に本格的な地中海貿易の港となったのがアドリア海の奥にあるベネチアです。
其れがアラビア地域への地中海貿易に発展し、其れによって巨万の富を得た商人が豪商となり次第に財閥へと発展。つまり、元手は略奪品なのでタダ同然だから、ボロ儲けできたのです。
これはオランダが日本の長崎から持ち帰った陶磁器を始め、統治していた台湾やインドネシアから製品を持ち帰り、オランダ国内やベルギーとフランスなどで高値で販売し豪商が生まれていった事と似ています。
話は戻しますが、其れがベネチアに近いフィレンツェでルネッサンスとして開花。やがてイタリア全土にルネッサンスが広がり現代にまで残る荘厳な宗教建築が各地に誕生していったのです。
富裕な商人たちは貴族階級を後ろ盾にして政治支配権の獲得を画策し、13世紀末頃には財閥系による寡頭政治が行われた。
イタリア北部を中心としてオーストリアやチェコやドイツ南部など其の周辺地域も文化的に発展し、ルネッサンスを基盤として絵画や彫刻や音楽など様々な芸術が勃興します。
覇権はイタリアからスペインとポルトガルへと移行し、其れが次第に大航海時代へと向かい、独自の黄金文明を誇っていた中南米地域がスペインとポルトガルの殖民地となりました。
また、先述したように東インド会社などを主体として殖民地だったインドネシア地域を始め、統治していた台湾や鎖国下だった日本と唯一の貿易を行ったオランダには日本製の陶磁器や絵画など貴重な品物が高値で取引されて莫大な富が集まる。
其れと共に、やがて投機対象がトルコ原産のチューリップ球根の市場が加熱してバブルが発生。一時期は欧州で経済的覇権を握りました。
日本やインドネシアなどアジアと貿易していたオランダですが、距離が近いフランスには日本の浮世絵が伝わり印象派の作風に多大な影響を与えました。
そしてオランダの隣国であるベルギーから工業化が起きて其れがイギリスへと波及。蒸気機関が実用化されたイギリスで、大量生産方式の工業化が急速に進み、工業化が発展したイギリスは海軍大国へと向かい世界各地を植民地化し「日の沈まぬ国」とも呼ばれました。
北米大陸におけるイギリス植民地だった東部13州が独立を果たし、其の後がら破竹の勢いで西進し原住民を弾圧と殺戮しながら更に領土を拡大していったのが米国です。
中部はフランスから割譲され、西部はスペインから独立したメキシコに対して数々の謀略を用いて軍事行動を起こして領土を奪い、結果的にメキシコは独立当時の領土の約半分を米国領とされてしまったのです。
太平洋へと出た米国は海軍力を更に増強し、ハワイ諸島も数々の謀略を用いて手に入れます。東部との交通を短縮するため、国家転覆などの謀略によってパナマに運河を作らせた。
欧州からの技術を其のまま導入して急成長した米国は、やがて軍事的にも経済的にも世界覇権を握りました。しかし、遂に米国が覇権を握った時代は終焉に近づいています。其の世界覇権が日本へと移行しつつあります。
元々、歴史というのは「帝王学」の一種として、指導的な立場になる支配者の子弟が必修で学ぶ科目でした。現在は大半の人たちが、其々の役割を持つようになる時代ですから、多くの人にとって人生を切り開くために必要なのが歴史となっていると思います。 過去の出来事や事件が集まっているのが歴史ですが、其の過去の出来事や事件には一定のパターンがあり、其れを知ることで少しながら未来も知ることが出来るようになってきました。
確かに同じパターンではありませんが、少し似たパターンになっていくと推測できるのです。歴史を学ぶ上で大事なのは、過去の出来事や事件を知るだけでなく、歴史上の人物による「志」を知ることです。彼らの多くは未来志向であったのです。
歴史には流れがありパターンが存在するので、其の中で現在の位置を探る事が重要になってきます。
現在位置が理解できれば、今の立ち位置が歴史上のドノ地点なのかが理解できるようになり、其のの事で未来への「志」と「すべきこと」が湧き興って来る。
現代、日本という国に生まれた私達は、其の大きな歴史の転換期を目の当たりのしているのあり、現在位置を把握して大きな志と目標を定めなければならないのです。
経済活動は60年〜70年ほどの盛衰サイクルがあります。そして、100年以上かかる覇権の移行サイクルも存在します。今まで約100年ごとにイタリア・スペイン・ポルトガル・オランダおよびフランス・イギリス・アメリカと覇権が渡ってきました。
今回は其の覇権の移行が日本へと引き継がれようとしています。覇権を握る国の共通した特徴は、覇権が本格的に到来する前に大規模な国際的なバブル景気が発生して崩壊し其の後に長期に渡る大不況を経験していることです。
この現象が日本にも例外なく当てはまるのです。現在、世界から日本に対する高評価や賞賛が増えているのは覇権を握る兆候現象なのです。
そこで、私たち日本人はが次期覇権国となるべく生まれてきた以上、既存の欧米従属のリーダーではなく、転換型もしくは激動期のリーダーが必要になっているのです。 人間は十人十色であり様々な性格です。安定期には前例を重視する官僚型が必要ですが、転換期や激動期には既存の価値観とは異なった人物の登場が必要になってきます。
つまり、アウトロー的な人物です。現在は其の様な「既成概念を壊す」様な人物が必要とされているのです。日本が覇権を握るようになれば、世界経済や文化の中心となるわけですから、世界各地から人が集まるようになります。
日本人の多くが其れは嫌なのはわかります。しかし、嘗ての覇権国を見ても、世界各地から人が集まって其の様な状態になっていきました。
ただ、何でも受け入れるのではなく、日本的な長所を残しながら変化して行って欲しいと思います。多くの人は再び世界の中心が日本を始めとした東アジアに移ることを言うと喜びます。
しかし、多くの日本人が外国人が来るのは嫌がる傾向があります。このバランスが極めて難かしいのです。前回の東洋文明の勃興期である約1600年前を調べれば、いかに日本が国際的だったかが判明します。
大陸の騎馬民族特有の墳墓だった古墳が支配者に採用され日本各地で数多く造られました。其の後の奈良時代の奈良は国際都市でもあり、特に最盛期だった平安時代の京都は多くの渡来人が訪れる国際都市でしたが、経済が良かったので特に大きな犯罪は少なかったのです。
やがて最盛期から衰退に向かっていくと渡来系が自分たちの権利を主張し出したり犯罪が増加していったようです。単に日本的な優しさだけを振りまくのではなく、歴史パターンを知り大局観から先見性を見出していくことが必要なのだと思うのです。
まず大局である政略を立て、中局である戦略を練り、小局である戦術をドンドン実行していく。大局の基盤がアヤフヤだと戦略や戦術も立てられないし実行が難かしくなります。現在が其の典型でしょう。
確かに米英の勢力によって大局のシナリオが書けない状態なのですが、やがては其の欧米勢力の干渉も次第に減っていくでしょう。其の頃になると大局観に基づく政略が立てられるようになると思われます。
文明盛衰のリズムや国家衰亡のバターンを研究することによって、これから何が起きて何が予測できるのか、其れを示す座標が「現代が文明交代期である」という認識であり、これからの混沌と激変の時代を乗り越えていく覚悟となると思います。
この文明法則史を知っても生活に直ぐ役立つものではありませんが、マクロ的な大局観で世の中の流れを見る事が可能になります。
マスコミ報道で世界情勢を知っても、其の中に欧米勢力の謀略が加味されているとか、彼らによる露骨な「悪あがき」が行われているとか其の流れや方向性が直ぐに理解できます。
また、文明法則史を知ると「志」を持てるようになります。ただ漠然と過ごしていた自分の人生に対しても、日本人としての使命感が生まれたり様々な面で前向きになる「モノサシ」かもしれません。
現在の世界情勢は1つの側面だけでは解明できないように複雑化していますから、政治や経済だけではなく、宗教・民族学・芸術・文化・哲学・歴史学・考古学などを加味しないと理解できないようになっていると思います。
其の複雑化した現象の中にあるパターンや法則を感じ取り、自分の立ち位置や役割とは何かを知る「モノサシ」となるのです。
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歴史・一般
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現在、大河ドラマは13%前後の低視聴率だと言われています。この時代は確かに幕末と比べて親しみが少ないかもしれません。
しかし、文明法則史においては極めて重要な時代なのです。其れは前回の東西文明の交代期であるからです。この時代は東洋が没落し西洋が勃興する時代に相当します。
貴族政治が衰退し次第に武士が政治を支配していく過渡期であるのです。其の権力が移行する様子が平清盛という大河ドラマの中に描かれています。
今こそ大局観が必要な時代だと思うのです。実は元寇の前にも日本は大陸地域から侵攻されたことがありました。其れが平和ボケの平安時代に突如として発生した1019年の「刀伊の入寇」です。
これは教科書には掲載されていないことも多く、載っていたとしても極めて小さく扱われています。
現代の中国人の多くが実は、古代から匈奴や鮮卑族、扶余族、契丹族、突厥族、達靼族、モンゴル族、挹婁族、勿吉族、靺鞨族、女真族、満州族などの東北部やモンゴル平原やシベリアや沿海州など其の周辺の北方系の騎馬民族がルーツである場合が多い。 おそらくは朝鮮も高句麗以前の昔から数多くの異民族が流入した歴史が存在しているので、内心では自分たちのルーツは北方であるとも思っているように感じる。
よく、「現代の日本人と中国人や朝鮮人は全く違う遺伝子を持つので、日本人のルーツの1つとして大陸から渡ってきたという事は有り得ない」という話もありますが其れも当然です。
日本人は遥か古代から東・西・南・北の地域から渡って来た人々のミックスであり、其れが島国であることで長い年月で融合してきた世界でも極めて稀な国です。
大陸の北部は極寒で雪深いので、目を大きく見開くことが出来ない上に、雪目を予防するために目が細くなったり小さくなっていきました。
中国や朝鮮とは異なって、日本人に浅黒い肌と二重が多いのは南方系の遺伝子が入っているからです。 日本語や日本人の起源には様々な諸説があります。
確かに、中央アジアのウラル・アルタイ語が起源だとか、古代シナ語や古代ヘブライ語とアラム語や古代朝鮮語(特に伽耶や新羅の辺り)も一部で入っているでしょうが、其の他にもポリネシアやミクロネシア、インドネシアの島々や東南アジアやインド南部のタミル語など様々な説があります。
どれが正しい説かというのは不毛の議論であり、どれも多重混在で含まれているのではないでしょうか。
ベースは南洋系かもしれないが、各種の言語や文化が人間と共に時代ごとにドッと入ってきて追加され、また地方の方言も移住してきた地域の言語の一部が継承されているとも感じます。
要するに、日本という島国で独自に融合し醸成されていったと考える方が妥当です。しかし、地続きの大陸は違います。侵略された場所は完全に支配下に置かれ、征服した国の言語や慣習を強制的に押し付けられてきました。
嘗て日本は、京都の言語が標準語であったが、現在の標準語は東京語(特に東京の山の手を中心とした中流が話す言語)を主体にしている一種の共通語です。
この共通語が日本中に浸透したのは近年の事でマダ歴史は浅い。この共通語を日本語と称して諸外国や大陸の諸地域との共通性を見出そうとするのは極めて難しいと思います。
米国に行ったとき、日本語を話せる米国人がいると聞いて紹介してもらったらコテコテの大阪弁だったので驚いたこともあるし、イングランドでも日本語を話せる人を紹介してもらったら鹿児島弁が強い人だったこともある。
また、「日本人の知り合いがいる」と言われて会わされたら、日本語は片言しか話せなく実は韓国人だったこともあり、其の英国人は其の場で事実を知って怒っていた。何故、彼らは「自分は韓国人だ」と自信を持って主張しないのでしょう。
外国人が住んだ地域によって習得する日本語は少し違うのかもしれない。青森にいたときに難解な津軽弁と標準語を流暢に使い分ける青森で生まれ育った同僚がいたが、彼の母親の出身が東京だというので納得したことがある。
20代の頃は仕事関係で地方に行く事が多かった事から、特に九州南部や東北北部の言語は別のルーツのようにも思える。
ようやく中国も北京語という漢語を崩した字体の言語を共通語として広く拡散している。
大陸の話に戻します。歴史上、シナの地域は常に北方の騎馬遊牧民族が南下して軍事占領して王朝を設立してきた「空き地」のような場所ですから、歴史上において軍事力が強ければ王朝を設立できる地域なのです。 王朝が出来ても絶えず北方の騎馬民族の流入に苦しめられ、王朝の衰退も異民族の侵攻がキッカケとなっています。こうした現象は大陸国の宿命とも言えるでしょう。
現在の中国も共産党が国民党を軍事力で撃破したことで覇権を掌握している一種の独裁王朝です。其の前の国民党による支配の中華民国も、清を倒した勢力が主体となっていますから軍事力による制圧で支配したと同じです。
話を最初に戻します。刀伊という場所は現在のロシア沿海州あたりにいた民族である女真族の系統であり、シナから見れば北方の異民族です。
其の沿海州あたりの民族が勢力が強大化して独自の王朝を建設し、大挙して南下し一時的に朝鮮半島の日本海側の一部を制圧。コノ軍勢が朝鮮半島の南端から北九州へと攻め入って来ました。
この事件は日本では殆ど知られていませんが、これを知ったところで試験には影響が無いので学校でも教師の多くが触れません。
実は「刀伊の入寇」が起きた1019年というのは、貴族政治が下降し始め衰退へと向かう大きな転換点でもありました。この頃は藤原道長が太政大臣を辞任し隠居した頃です。
藤原氏が支配した時代の最盛期の頃であり、道長の子である頼道の時代にかけて藤原氏のよる政治体制が爛熟し腐敗が露呈していった頃でもあります。当時も少しづつ渡来人は入ってきていましたが、意外と犯罪は多くはありませんでした。
其の平和ボケが最高潮に達した頃に起きた異民族が大挙して軍事侵攻して来た事件によって、朝廷内部では大騒ぎになりタダ単に何の対策をすべきかわからずに右往左往していただけでした。
この時代には全く危機管理が全くと言って良いほど希薄であり、リスクに対して備えるという発想が無かったのです。この時代は藤原氏という古墳時代末期から長く続く特権貴族階級によって政治が握られていました。
この貴族政治の最盛期の時代は、安定期です。安定期とは、基本的に前例のみで物事が決められ、過去に行われた事の範囲内で政治や行政が行われた時代です。
つまり、前例だけに従って仕事をしていれば、殆どの政治と行政に関しては特に問題なかった時代です。殆ど大きな事件らしいものが起きていない頃であり、凶悪な犯罪も意外と少なかったのです。
政治的にも死刑の無い時代であり、極めて安定していたのです。其れは源氏物語や枕草子のような退廃的な文学にも象徴されります。貴族たちは花見や物見遊山に明け暮れ、歌を詠んだり恋愛をして遊んでいたのです。
庶民が納めた税金を使って遊んでばかりいた。源氏物語の内容には政治的な事柄は殆ど無く、貴族たちの恋愛模様や怪談話ばかりであり、男性的な決断力を特に必要とする場合は極めて稀だったので、紫式部も政治や経済について書く必要が無かったからでしょう。
このような安定期に外国に攻められるという、過去に前例が無い事態に遭遇した皇室や貴族は、ただ慌てるだけになって見苦しさを露呈させました。
急場の対処として貴族たちが集まって会議が多く行われましたが、計画的に情報を収集して敵を撃退するという思考には向かわないで、困ったと嘆いて右往左往する決断力の無い責任転嫁ばかりがダラダラと繰り返される会議。
やがて、神仏に祈祷することで事態の収拾を図ろうとする貴族たち。こうして、朝廷からナカナカ結論が出ない事に業を煮やしたのが北九州の豪族たちでした。
其の中でも突出した人物の鮮やかな登場で、呆気なく事件が解決へと向かっていったのです。其の人物とは、藤原隆家という人です。
コノ人は非常に無頼派の性格で、前例志向の安定した社会では嫌がられる存在です。彼は藤原一門の中で繰り広げられる政治権力闘争に破れて大宰府へ左遷されました。
菅原道真も同様ですが大宰府に左遷させられる人の方が、ヤル気が強く意外と危機意識を持った変革思考の人だったのでしょう。
あと30年ほど遅く生まれていたら歴史上に名を残すようなタイプです。この時代の変わり目の混乱の中で朝廷や政権を握る藤原氏の主流派が、何の対処も出来ずに右往左往してばかりの時期に、血気盛んに「刀伊の入寇」を撃退することを考えた人でした。
こういう人は安定期には嫌がられ疎まれ、居ないほうが上手く行くので窓際族として左遷させられる。
九州の大宰府の中で「異民族が攻めて来た」との知らせを聞いて血が騒ぎ、ヤル気を出して九州北部の周辺にいた武士を集めて軍隊を組成し、自ら軍隊を率いて撃退することに成功しました。
一時的に有名になりましたが、結果的には中央の藤原氏の手柄にされてしまいました。どんな才能に恵まれても、人間は其れを生かす環境やに生まれる時代によって活躍するかが、努力以外でも決まる場合もあるのです。
この平安時代は安定期でしたが、殆どの仕事が前例や慣例に従って行わないとスムーズに進みません。そして占いや祈祷によって行事を決めることも多く行われていました。
つまりは、神頼みや占星術です。激動の戦乱期なら、祈祷や占いをしている間に攻め込まれますから、即断即決が命運を左右しますが、安定期は決断力がナカナカ養われません。
安定期に徴用され優遇される人は、学歴が高くて教養も深く家柄は良いという人が多くなります。其の上、性格は温厚で上の命令には絶対に服従し反論しないなど、決して出過ぎた行為はしないという協調性が大事になります。
しかし、この温和で他人任せの性格は、変革期や戦乱期には時として役に立たない人の代表になります。移行期や戦乱期には、そうした人は無価値に近い存在となっていく傾向があります。
若い頃に学んだ教養も時代遅れとなっているのに其の知識に固執するし、融通の利かない人とレッテルを貼られるし、特にリーダーシップが取れないで其れが手かせ足かせに変化します。
其の頃は既に過去の前例や慣例は通用しない時代となります。そこで、激変期にリーダーシップを発揮する人物とは?其れは大局観を見据えることの出きる人です。
大局・中局・小局を全て知る器量が重要になります。古代のシナで興隆末期だった春秋時代の後に中世期に移行した戦国時代に書かれた兵法書に「孫子」があります。
現在ではマンガ化されていたりして書店で販売されているので理解しやすいと思います。其の中に、「良く兵を用いる者は道を修めて法を保つ。故に能く勝敗の勢を為す」とあります。
この「良く兵を用いる者」とは、戦争においてキチンと戦える者という意味も含まれ、現代でいえばキチンと仕事をこなせる者という意味にも当てはまります。
次の「道を修めて」は、シッカリとした政略が練れてこそ、実際の戦略に生かすことが出きるという意味であり、この政略とは大局観の事を指していると思われます。
中局が戦略、小局が最前線での戦術となるでしょう。つまり、孫子は、政略という大局がシッカリを把握していれば、戦略である中局と戦術である小局もキチンと成り立って遂行できるという事を言っており、勝負にも強くなるので勝敗を握れる可能性が高まるということであると思います。
政略とは国家の方向を示すビジョンです。昔から大陸では隣国などと戦略結婚が行われてきました。敵にしたくない相手や同盟を結ぶと有利になる相手と婚姻関係を結んで親戚となり味方にするのです。
国家の目標と外交も含め、どの国と戦うか和平を結ぶかを決めたのです。また親戚となり同盟関係になれば共同して他国に軍事攻撃を行うことで、敵地を容易に取ることも可能になります。
続く・・・
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「前々回の東西文明交代期(東洋の興隆期)における日本の歴史」からの続き
こうして、ザッとではありますが文明交代期から律令制度の構築と貴族政治の台頭から武士の世に移行するまでを見てきました。
つまり、4世紀の後半から5世紀頃の文明交代期に、急速に大陸から文化や人間が流入し、大陸の騎馬民族の墳墓などを始めとした諸文化が定着し、中央集権的な政治体制が進んだことです。
ましてや、天皇の墳墓が巨大な前方後円墳であることから、コノ当時から天皇の系統は大陸からの渡来系支配者であった可能性が高くなります。
前方後円墳は朝鮮半島でも見つかっており、其の朝鮮半島の古墳は日本のものよりも更に年代が古いことから、其の朝鮮にいた民族の一部が日本に渡来し王朝を立てた可能性も出てきます。
中世期の後半にあったとされる邪馬台国ですが、其の所在が近畿説と九州説とに2分していますが、私は近畿に存在したと思います。
大陸からの騎馬民族は最初は九州北部に拠点を設け、そこから都のある東へと途中の豪族を制圧して配下に置きながら進軍し、近畿に着くまでは膨大な軍勢になっていたと思われます。
其の強大な連合軍隊を前に大した軍事衝突も無く、邪馬台国の中央は呆気なく陥落し其の王朝を受け継ぐ形で大和朝廷による統治が始まったのでしょう。
日本人は決して単一民族で成り立っているのではなく、古代から東・西・南・北の方向から様々な渡来人が多く来ていました。モチロン海を渡ってです。
こうして、島国という一種の閉鎖空間の中で、千数百年という長い期間に渡り次第に融合していったのです。つまり、ミックスなのです。
よく天孫降臨の時代から日本人は日本列島に住んでいたと言われますが、其れは大陸から来て支配者になった者たちが、自分たちの正統性を主張し大衆に浸透させるために有利になるよう都合よく作った逸話でしかありません。
日本は既に世界に先駆けて、人種や民族の問題や差別問題、地域間の国内紛争問題などを解決済みの世界で稀な国です。世界を見渡してみてください、どこの国も自分勝手で自己中心的な民度が低い国ばかりではありませんか。
また、地方ごとに特色に富んだ四季折々に連動した節句や祭りが存在しています。欧州でも1000年以上も継続している祭りなど皆無です。欧州の王室も11世紀以降に設立されたものが多いのですから。
イングランド王室も11世紀からですし、日本の次に長いといわれるデンマーク王室でも8世紀から。
スウェーデン王室は、後継者難から欧州各国から後継者を探し、最終的に当時は欧州全土に権力を誇示していたフランスはナポレオンの幕僚を時期国王に据えて現在に至っていますから明らかな血統断絶があり歴史は浅いのです。
米国に行くと日本に比べて何とも陳腐な祭りが多いことに気付きます。伝統的と言われる「感謝祭」や「ハロウィン」も実は歴史は浅いのです。
話を戻します。大和言葉では、「命」とは「息の内」という意味であるとされています。つまり、息をしている内が命だということです。
「生きているのだから当たり前だ」と思われますが、息とは呼吸の事です。呼吸とはリズムであり波動の一種ですから、文明も呼吸を繰り返していると思われ、吸っている時期が中世期で吐いている時期が興隆期とも取れます。
東洋思想では8と16という数字が良いとされています。特定の地域が覇権を握る次代が約100年だとして、100の8倍で800年、100の16倍が1600年。其の約1600年で地球を1周する文明の移行が繰り返されている。
其の1600年を1サイクルとして周期で大転換期を迎えており、約800年ごとに東西の文明が中世期もしくは興隆期になっています。
其の中世期や興隆期の中でも転換期もありますが、其れはマイナーチェンジに近い感じであり、支配層の根幹そのものが激変するというまでは行きません。
8や16という数字は宇宙や生命の基本を成していることが徐々に判ってきました。学生時代で習った音楽の授業を思い出してください。
リズムも8拍子と16拍子で調和が取れます、これに8の半分である4を加えて4拍子となります。8ビートや16ビートという呼び方もありますが基本的には同じです。
美術の授業で描いたデザインも同様です。、円形を描くときに中心点を8本あるはい16本の線で引くと均等の取れた円が出来ます。皇室の16菊花紋も其の均整の取れたデザインだともいえます。
体操のリズムも16拍子ですし。実は文明も800年の半分の400年で大きな変化が訪れています。興隆期でも中世期でも、其の中間の約400年の前後10年の時期を境にして、時代や社会体制が大きく変わっています。
日本で例えれば、1992年に鎌倉幕府が設立されて中世の封建時代が本格化しました。其の約400年後の1590年の小田原征伐を最後に豊臣家に逆らう勢力は表向きにはなくなり天下統一が実現しました。
其の10年後の1600年に関が原の合戦によって今度は徳川家が覇権を握り、其の後は強大な権力の下で暫くの間は大規模な戦乱が起きず日本が平定されました。
これで戦国時代のように覇者を争っていた時代は終焉し、其れ以降では武士という支配階級は、人殺しの仕事を脱して今度は犯罪の検挙という治安の維持に当たりました。
しかし、時代はマダ中世期ですので相変わらず武家支配は継続しますが、其の変革期を境にして武士の仕事が全く逆の立場となったのです。
何故、文明に始まりがあり終わりがあるのでしょうか。其れは人間の寿命とも関係があります。人間の歴史も、幼年期→青年期→壮年期→老年期と4つに大別できます。
これを春夏秋冬と見ることも出来ます。地球そのものが1つの生命であると仮定すれば呼吸を行いリズムがあると思います。これがガイアシンフォニーとなり、文明のサイクルになったのでしょう。
私たちは歴史を知ろうとしますが、何故ゆえ歴史りたいと思うようになるのか。其れは過去から現在を知りたいという潜在的な思考なのではないでしょうか。
「歴史とは過去の出来事であり何の意味も無い」と思われる方もいるかもしれません。しかし、昔があって今があるのであって、各時代が続いてきて現在であるのです。
だから、たとえ古代人や昔の人たちの行ってきたことあっても、人間であることに変わりがありませんから、現代人と共通した欲望や傲慢さや失敗もあると思います。
現代人にも通じる人間臭い昔の人の知恵と教訓を、後世の私たちが学ぶことが出来るのです。そうして其れが結果的には「今と未来を知る」に繋がることになるのです。
「歴史を知って楽しかった」「あの人物の活躍は凄い!」で終わるのではなく、各時代の重要人物から未来を志す気概も感じて欲しいのです。
私達は、全体が見渡せない平地だけ見ている存在にも等しく、小高い丘や山の麓に上って、眼下の町を高みから俯瞰することが必要です。
現代に必要なのは大局観です。大局、中局、小局がありますが、大局を見るということも視野に入れないと時代がドコへ向かっているのか見失ってしまいかねません。
これは旅行において、目的地と道路の経路を把握するようなものに近いことです。また、「大は小を兼ねる」ともいいます。小さい定規では大きな定規のようには長く線は引けません。
スペースシャトルの宇宙飛行士の映像がリアルタイムで視聴できる時代です。其の宇宙飛行士が見ている地球の姿には国境も人種や民族の区別も何も見えません。
地球という家に住む人間同士で全てが繋がっていることが実感できます。江戸末期、吉田松陰は旅先では先に高い場所に上り、町を全体的に見てから町を散策したそうです。
最初に町に入ってしまっては地図が無ければ道に迷います。文明や歴史も宇宙という高みから見れば全体像が見えて、地上での争いなど無意味に感じます。
先ず高いところで全体像を見て細部を知る。そこから、おぼろげながら未来が見えてくるのだと思います。
また、吉田松陰は、「これは昔の出来事であるが今ならどうする?」と常に塾生に訊ねたといいます。 私たちが日本の良き未来に向けて志を持ち、これから本格的に興隆期を迎える東洋の礎にならなければなりません。
西洋から文化を受け継いで噛み砕いて橋渡しする役割だった東洋のトップランナーである日本がシッカリしなければ、今後のアジアルネッサンスが成功するはずが無いのです。
しかし、没落する側が常に足を引っ張るので、今後も紆余曲折の混沌とした時代は続きます。「世界が100人の村だったら」という本がベストセラーになりましたが、国際関係は近所付き合いと少し似ています。
借金ばかりして自転車操業で維持している家庭、些細なことでも直ぐに文句を言ってくる家庭、自分たちに都合の良い要求をしてくる家庭、など様々なです。
金持ちだで何も言わないばかりか他の家々に巨額のカネを貸している家庭、そういった様々な思考レベルの家々ともトラブル無く付き合えるようになることが地球村に住む国に化せられた試練です。
其の一方で未来を感じるような息吹も同様に出現しています。其れが文明交代期の特徴でもあるのです。これからアジアにルネッサンス期が訪れていきます。其のルネッサンスの基盤は既に日本を始め東アジアに誕生しています。
マダ多くの人たちが気付いていませんが、若者たちは其のルネッサンス黎明期に向かう新芽の段階を感じていると思います。其のルネッサンスは、科学や芸術や娯楽の分野で発展していきます。
もしかすると全く新しい分野や仕事も誕生していくかもしれません。私が考えているのは、例えば「開発遊び人」といった職業です。
現在は、ゲームなどを開発して販売したり配信したりしている企業が増えていますが、今後は其の分野のシェアが国内産業の中で次第に増えてくると思われ、将来は国内だけでなく海外向け製品の需要も増えてくるでしょう。
新たな「高橋名人」のような新開発のためにデモンストレーションして宣伝し、其れを製品に反映させる「新しいタイプの遊戯広報人」としての仕事が出来てくるかもしれません。其れも意外と大変な仕事でしょうが。
急成長を続けているホビー分野の新興企業の社長室はガラス張りで作られ、フィギア模型やゲーム機や様々な玩具が置かれており、既存の社長室の概念とは全く違っています。
これから素晴らしい時代になると感じています。東洋を始め世界規模で西洋までが日本の文化に染まっていく。日本が経済的にも文化的にも覇権を握る時代の到来が予想されます。
既に其の前兆現象は各所で見られます。私は、そういうことを伝えたかったのです。そして、日本の将来を悲観せずに未来へ希望を持ちましょう。
現在は産業面で新旧の交代現象も同時に起きているのです。時代の波に乗っている産業は上昇し売り切れが続出したり、お客が炎天下の中で並んでまで欲しいと思う商品など。
他方では、産業構造的に陳腐化したり同業他社が多い産業、外国にシェアを奪われつつある産業、リストラの跋扈や相次ぐ経営陣の辞任。そういった新旧の交代劇が起きているのが現代です。
このアジア文明の創造という流れの中でアジアから次々と新しい様々なSS(成長カーブ)のリーダーの役割を日本は担っていると思います。この日本発の思想を拡散し浸透させることが、しいては世界平和に繋がっていくのです。
一方、これから中世への突入という低調期を迎える欧州の国々を伸び行くアジア諸国が欧州列強による過去の凄惨な仕打ちを取り除き、欧州の応援をしてく必要も出てきます。
文明交代期に起きる革命や暗黒の戦乱の被害を少しでも和らげるように支援することで、アジアへの戦乱の波及や民族大移動を最小限に食い止めることになっていくと思います。
今回の欧米諸国の財政と経済危機に、アジア諸国が何も支援しなければ一部の地域で革命に近い現象が起きていた可能性もあります。
確かに、今までは「自業自得だ!どうせ暗黒の中世期に入るのだから支援するだけ無駄」と思っていましたが、巡って自分たちに災いが降りかからないように行動するのも必要な事なのだと少し思うようになりました。
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今回は記事にいただいたコメントへの返答も含んでいます。
本来では学説というものは多数決で決まるものではないはずですが、其れにもかかわらず現在のアカデミズムは多くの学者の支持を集めた者が定説とされていくのが現状。
一度、定説化した学説には多くの賛同者が其の学説を基に出版したり論文を書いたりして生計を立てている。
こうして、其の定説に固執するようになることで今度は其の定説を覆すのような新たな学説を異端視して排除する傾向にある。中世の魔女狩りのように、こうして最先端の学説が「異端」とされてしまう。
本題に入ります。何故、文明交代期に大陸からの侵攻に遭ってきたのか。其れはユーラシア大陸の全土に及ぶ民族大移動の影響が大きいと考えます。
嘗て、後漢の末期に起きた三国志時代などアジアでの戦乱の影響や、異民族流入による五胡十六国の初期現象の戦乱などで、中央アジア系のフン族や匈奴系など北方の騎馬民族が活発化していき次第に欧州に流入。
其の騎馬民族に土地を追われたたり、欧州を襲った急速な寒冷化も相まって、ゲルマン民族は繁栄を誇ったローマ帝国に進入。
このローマ帝国の衰退から滅亡に至る時期と五胡十六国の大乱が本格化していった時代が附合しています。要するにアジアの戦乱が欧州に波及し、其の欧州の崩壊による戦乱が再びアジアにも波及。
現代のローマ帝国とまで言われる米国と欧州ですが、嘗てローマ帝国が大幅に衰退化を始めたのが西暦370年前後あたりからでした。
民族移動は陸地だけではありません。1人乗りの小さなヨットで太平洋や大西洋を横断したことも、古代人が船で大洋に乗り出し民族移動が行われたことでしょう。
人間の徒歩は以外にも早いもので欧州から遅くとも数年以内でシナ地域まで来ることが出きる事が、間寛平さんで証明されたと思います
このユーラシア大陸の各地にに波及した民族移動によって、大陸人の一部が押しだされたりして日本に渡来した可能性は否定できないと思います。
実は、日本の歴史が明確な形で姿を表すのは実は古墳時代からなのです。3世紀の末期頃から5世紀末にかけての2百年ほどは古墳時代とされます。
大陸の文献によれば、当時は「倭の五王」が統治していたとされていますが、この4世紀末から5世紀の時代は文明交代期であり、急速に大陸の様式が取り入れられた時期です。
特に古墳は大陸の騎馬民族特有の墳墓ですから、多くの大陸人の土木技術者が渡来し巨大古墳の建設に当たったと思われます。
また、コノ時期はシナ大陸との交易が活発化し、特にシナの南北朝時代における南朝側との交易していました。また、この古墳時代には朝鮮半島へ何度も軍隊を送る事が可能な国力があった。 コノ当時は日本においては夏の時代の初期にあたり、現在の日本がいる位置に近い時代です。弥生時代は中世期だとすると文明法則的には納得がいきます。
魏志倭人伝には2世紀頃には倭国大乱があったとされ南北に分かれて内戦が起きていたとされています。其れを平定したのが卑弥呼だともされています。
古墳時代に話を戻すと、其の間に何度も半島から侵攻があったと思われ、国力が強い次代には逆に日本から侵攻したりを繰り返していた。
其の後、蘇我氏など権力を持っていった豪族によって文献が焼かれたりして、この古墳時代の始まりは記録が残されていないので「後漢書」といったシナの古い歴史書に見られる記述を参考にします。
この時代、日本では壷の形を模した前方後円墳といった巨大古墳が各地に建設されました。特に大阪の河内には幾つもの巨大古墳が建設されました。1辺の長さが400mを超え、平面積ではエジプトのピラミッドを凌駕しています。
どうして、そんな土木技術が急に起こったのか。この時代には「大君」と呼ばれる天皇が絶大な権力を持っており、地方の豪族が結束し政権を支援するという形をとって大和朝廷は成立しました。
つまり、強大な軍事力に裏打ちされる大和朝廷の権威に地方の豪族たちが屈服する形で互恵関係を維持しながら、大和朝廷は形成されたのです。
しかし、こうした譜代の豪族だけではなく、各地には朝廷に従わないで逆らう原住民の勢力が存在していました。特に東日本に多いとされた原住民系の蝦夷を討伐するために軍隊が何度も送られました。
この蝦夷を征伐するための大軍を率いた大将の職が最初の「征夷大将軍」とされた。日本神話に描かれるヤマトタケルの蝦夷征伐は、この大和朝廷側に有利になるような物語となっています。
要するに日本神話の殆どが、征服者側の正当性を完全なものとするために、征服者側の視点で捻じ曲げられて描かれた。
こうして大陸文化を取り入れ始めた時代が古墳時代であると思います。しかし、朝鮮南部の国だった任那が崩壊すると、連動するように日本国内でも騒乱が起こり始めた。
おそらく、任那王朝の滅亡によって多くの半島人が戦火を逃れて大挙して渡来したと思います。
やがて、武力に勝る渡来系の豪族が国内で台頭し始め、物部氏や蘇我氏などの豪族が朝廷へ政治的に食い込んでいった時代の覇権争いは蘇我氏に軍配があがり、其の後は覇者である蘇我氏の専制政治。
崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺された592年のクーデターを古墳時代の終わりとして、其の時代から異なる勢力によって政治が握られた。
この時代に、過去の日本の歴史を記した膨大な文献などが蘇我氏によって焼かれ、闇に葬り去られたとされています。自分たちに都合の良い政治体制へを浸透させるためには、過去をリセットし新たな神話を浸透させることが重要でした。
これは島国的ではなく、極めて大陸的な思考による行為です。コノ当時、秦氏を始めとした景教徒も含めた大陸系の渡来人らによって、聖徳太子にイエス・キリストに似た伝説が付加。
聖徳太子は政治改革を断行し、国家の指針として「十七条の憲法」人材活用として「冠位十二階」といった画期的に制度を作り、シナ王朝であった隋への使節としての遣隋使に多くの留学生を同行させました。
1つのシステムから次にシステムへ移行するとき、必ずといって良いほど旧体制の瓦解現象が進むと同時に社会的混乱が起きます。
其の混乱は過去の癒着や陳腐化した旧体制を壊す役割でもあります。古墳時代が終焉したことで、「地ならし」としての混迷期を経て大陸的な中央集権および律令政治への転換です。
これまで地方の豪族単位に所有していた私有耕作地と私有の労働者の制度から、大陸の均田制を模倣した公地公民制度への切り替えであり、社会主義体制への激変です。
地方豪族は私有地や私有労働者を取り上げられ衰退していきました。政治も地方の豪族単位で任意に統治させていた体制から、大和朝廷の一括統治へと支配権を強化したのです。
この大化の改新から始まった大規模な転換に対して、反感を持つ豪族たちが連合を組んで立ち上がったのが「壬申の乱」です。
企業でも同様ですが、政治体制も「黎明期・成長期・成熟期・衰退期」が存在します。衰退期の前に何か画期的な改革が行われないと衰退が一気に進みます。
コノ現象は衰退期に入ってから行っても、衰退を跳ね除けるほどの大きな成果は得られません。これは洋の東西を問わず共通しているカーブです。
蘇我氏の専横時代は長くは続かず、蘇我入鹿の暗殺によって再び混迷化。この戦乱期が645年「大化の改新」まで続きます。
コノ頃までに朝廷を含む政治体制の殆どが大陸系渡来人らに握られていきまし
た。こうして、大陸の政治を真似た中央集権的な律令政治が行われるようになり、絶大な権力を朝廷と其の周囲の貴族たちが握る時代への基礎となりました。
この平城京遷都によって、日本ルネッサンス期である奈良時代へと昇華していくのです。其の後、渡来系の秦氏の権力によって、秦氏が定住していた場所である山背(京都)に遷都する計画が持ち上がり、794年に平安京に遷都されます。
天皇が住まう内裏は嘗ては秦河勝の屋敷があった場所に建設されました。秦氏の頭領だった者の屋敷跡に天皇が住まうことで、渡来系の秦氏が権力を掌握していった。
コノ頃、秦氏は藤原氏との婚姻関係を強化し藤原氏も頭角を現し権力中枢へと駆け上がっていった。10世紀になると律令体制が磐石化し、興隆期の全盛の頂点へと向かう。
894には大陸から学ぶものは既に無くなり、コノ頃から日本独自の文化が次々と発生を始める。901年には藤原氏の政敵であった菅原道真を九州の大宰府に左遷し、事実上における藤原氏の専制政治を磐石なものとした。
やがてバブル景気のような好景気が起き、国風文化が盛隆し現代まで続く和風建築の基礎ともいえる、部屋を襖で区切る大邸宅の建築が貴族の間で流行した。
この興隆期の頂点の前後である平安時代の約340年近くは死刑が無かったという平和な時代であったのです。
しかし、興隆期の頂点は即ち衰退期へ向かう折り返し地点であり、この時代に何か改革をしないと其の体制は坂道を転がるように下降し始めるのです。
藤原氏による強行的なまでの独裁的な専制政治も、武士の台頭によって次第に終焉に向かいます。1018年に藤原道長が太政大臣を辞職する頃から、経済は急速に冷え込み始め疫病や凶悪な犯罪も発生。
各地で大規模な反体制の武力決起が増え出し、平安京の内と外でも反乱や放火が相次ぎ、盗賊が激増し治安が悪化。更に新たな渡来人による政治介入も増え、僧兵による武力行動が活発化。
其の現象を鎮めるために藤原頼道は平等院鳳凰堂を建設しました。特に東国んの
反乱は広がり、1051年から12年間は「前九年の役」と1081年から4年は「後三年の役」といった戦乱が勃発した。
其の相次ぐ反乱を鎮圧するために、朝廷と貴族は源氏や平氏といった武士の力を借りなければ鎮圧できませんでした。こうして武士である源氏と平氏が中央の政
治へ介入し始めます。
また、天皇を引退した上皇が実権を握って政治を取り仕切る「院政」が行われるようになると、其の権力に依存する旧態依然の腐敗貴族が取り巻きに加担したことが、貴族政治の更なる衰退を早め武士の台頭を急進させる状態に向かっていったのです。
そして、1156年の「保元の乱」と1159年の「平治の乱」で、貴族支配体制の衰退が表面化し武士が政治中枢へと徴用されるようになったことを契機に、武士が支配階級の一端に加わり貴族政治の崩壊が加速したのです。
平清盛は太政大臣まで登り詰めたが、やがて清盛の子孫は貴族化していき武士の本分を忘れ京都に留まり貴族の風習を継承するようになる。
平氏の退廃振りを見て機が熟したと見た源氏の頭領の頼朝が立ち上がり、弟の義経を戦場の最前線の大将として任せて、従兄弟である源義仲をも打ち倒させ、自分は武士が支配する世の中を実現するために根回しや謀略を主に行っていたとされます。
平氏を追い込んでいき壇ノ浦ので事実上において平氏の直系を滅ぼすことに成功。凱旋後、平氏討伐の最前線で活躍した大将は其の最大の功労者として扱われた。
其の後から頼朝の許可を得ることなく勝手に官位を受けたことや、平氏との戦いにおける頼朝の命令に従わずに独断行動によって頼朝を怒らせた。
義経は次第に頼朝と対立し追われた。全国に義経捕縛の命令が伝わると、難を逃れ再び藤原秀衡を頼って身を寄せた。秀衡の死後に頼朝の追及を受けて、秀衡の子である藤原泰衡に攻められ自刃。
1192年に鎌倉幕府を設立し完全なる封建制へと移行しました。こうして、例え身内であっても敵対する者は容赦なく葬り去る時代へと向かっていったのです。
しかし、旧態勢力の巻き返しや反乱も相次ぎ、関東では平将門が挙兵し、関西では藤原純友が反乱を起こしました。
其の後も鎌倉幕府の体制に反対する旧態勢力から源氏は命を狙われ、旧態勢力側に唆された身内の手によって3代将軍の源実朝が暗殺され、ここで源氏の直系は滅ぼされたのです。
こうして古墳時代の中心的な時代である文明交代期の5世紀から約800年を超えて13世紀初頭までを見てきました。前回のアジア時代の勃興から終焉までを、日本を例にして簡潔に述べました。
続く…
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2からの続き
今回の文明移行期において一番の懸念は「西洋の没落と戦乱化に伴う世界規模の民族大移動」です。実は没落し中世期化していく西洋地域だけが戦乱を迎えるのではないようです。
嘗て、アジアでの戦乱の影響で、フン族や匈奴系などが北方の騎馬民族が欧州に流入。騎馬民族に土地を追われたたり、欧州を襲った急速な寒冷化も相まってゲルマン民族は繁栄を誇ったローマ帝国に進入。
このローマ帝国の衰退から滅亡に至る時期と五胡十六国の大乱が発生し出し本格化していった時代が附合するからです。要するにアジアの戦乱が欧州に波及し、其の欧州の崩壊がアジアにも波及していった。 前回の西洋の没落時にローマ帝国が異民族の流入で急速に領土が消滅していきましたが、異民族に土地を奪われ追われた人たちの多くが各方面に逃げました。其の逃げた先では先住民の土地を奪い各地で争いが起きます。
こうして「ところてん」が押し出されるように、相次ぐ「玉突き状態」で追い出された流浪の民が次第に中央アジアやシナ地域に流入して戦乱が発生したのが「五胡十六国の大乱」です。
これは中国史では三国志よりも少し新しい時代なのですが意外と有名ではありません。其の理由は三国志の戦乱期は、日本でいう戦国時代の「国内覇者争い」の様なものですから国威発揚にも大いに利用できます。
しかしが、「五胡十六国の大乱」は異民族の流入によってシナ地域が蹂躙され大戦乱と化した「いわゆる屈辱の侵略によるもの」だからです。
海という天然の城塞で囲まれてきた島国である日本は、其の戦乱の影響が極めて少ないかも知れませんが、押しだされた武装化大規模集団の襲来に遭わないとも限りません。
現代は飛行機や船舶などの移動手段がありますので、難民が希望の場所へと直に向かうことも予想されます。
この「五胡十六国の大乱」によって、一時的ではあるがシナは5つの異民族によって16国もの国を建てられた。
其の現象と少し似た事が今後も起きる可能性が危惧されます。また、今回の西洋の没落は欧州地域だけでなく米国という爆薬が存在していますから事は大問題です。
しかし、徒歩が主体だった昔と比べて、今度の欧州人の離散は乗り物の発展によって民族移動の影響は世界各地に及ぶでしょう。
其の結果として、日本も次第に難民受け入れを余儀なくされていくことが予想され、徐々に多民族化が進行してしまう可能性もあります。 出来れば其の現象は最小限に留めて欲しいところです。また、近年に発行され読者人気の高い小説やマンガでも外国人との共同生活が描かれており、大衆の一部が其の多民族化へ良いイメージも持っていることがわかります。
以前、TPPの問題について記事を書いたときに、20代前後と思しき人から頂いたコメントで、「TPPによって欧米化が今より進展すれば、白人が仕事で日本に来ることが増えて知り合うチャンスもでき、結婚してハーフの子をもうけて其の子を芸能人にしたい」と。
現在では白人とのハーフが希少だから人気者になるのであり、ハーフが増えれば其れだけ価値が下がりますので、そう簡単には目論見通りにはいかないでしょう。
そういう考えの人も若者層を中心に実際にいるわけですから、彼らの思考の方が進んでいるのか、それとも日本が向かう社会について彼らは何も考えていないのか、最近は日本人の思考が更に2極分化に向かっているようにも感じます。
話を戻します。共産党政権である現在の中国は秦と似ていると思います。秦の始皇帝は繁栄した春秋時代の学問を勉強した学者や儒教学者たちを逮捕して生き埋めにして処刑したり、春秋時代の思想書の多くを焼き払いました。 国土が広かったことから運よく難を逃れた諸子百家も書物も残り、其れが現在まで受け継がれています。一方の毛沢東は、プロレタリア文化大革命という破壊行為です。
これは既存勢力の大規模な粛清や旧態の思想を葬り去りました。始皇帝は言論の弾圧や封殺を徹底し、王朝に都合の良い法律万能の独裁政治を行いました。毛沢東は共産主義思想万能で他は認めず言論統制を敷いています。
始皇帝の亡き後には「陳勝呉広の乱」という農民の反乱や一揆が各地で発生しましたが、恐慌的な言論弾圧によって押さえ込みました。
現代の中国では公害問題の深刻化で農民や地方民が地方政府へ陳情や苦情を言っても何の改善もされないので、村の代表者が北京の中央政府にまで行くようになっています。
また、WEBの発達によって、海外情報や海外文化の流入による国民思考の激変、其れに伴って国民が素直に従わなくなりつつある。 そこで、中央政府は文化大革命の当時の思想を再び国民に植え付けようとしています。特に子供たちへの教育は徹底するようになりました。これは一種の退化だとも思えます。そうでもしないと国が纏まらなくないのでしょう。
現在、西洋地域の支配層による略奪行為は地球を1周しました。地球上の様々な至る地域が直接的もしくは間接的に西洋の支配下となりました。資源国ではイラクやリビアも略奪され今度はイランとシリアです。 其の中東の隣接地域は東欧ですから、略奪戦争は地球を1周したことになります。しかし、欧米の財政難から来る資金不足というタイムオーバーが近づいているようです。
今や東の文明としての胎動が日本を先頭にして急速に勃興しており、東西の大逆転が成功するために其の文化基盤の発展と拡大が進んでいます。 しかし、其の中国では急速に進む大転換期に伴う混乱が増大していて、ありとあらゆる組織的犯罪の横行や深刻な公害が起きています。
日本企業はイケイケとばかりに進出していますが、大陸とは基本的にゼロか100かの価値観が大勢を占めていることから、もしも第2の「五胡十六国の大乱」のような異民族の流入による戦乱が起きて幾つかの地域の分割されるような事態が起きたのなら、莫大な投資をした日本企業は工場やビルを其のまま置いてこなくてはなりません。 嘗て日本は明治時代の末期から大正時代と昭和初期にかけて積極的に朝鮮を日本と同程度まで近代化させるたの莫大な投資や、中国への巨額投資を行ってきました。
しかし、「出る杭は打たれる」のごとく、欧米勢力の謀略もあって其の投資した分の回収もできずに撤退を余儀なくされました。
其れと似た事が今後も起きる可能性も有りえます。今度は欧米による日本排除ではなく、欧州諸国の体制瓦解によって地続きのユーラシア全域に波及するほどの民族大移動による影響かもしれません。
嘗ての文明交代期ではシナ地域が一時的に分割するような時代が訪れています。島国の日本ではハズレのクジでも何か貰えますし残念賞もあります。しかし、大陸はハズレはゼロに限りなく近いのです。
最近は徐々に日本的になってきていますが、「大陸への進出こそが商機」とばかりに謳っている。確かにアジアの時代が到来するのですが、先々の事まで考慮して中国などの大陸への投資をすべきだと思います。
政治家を始めとして経団連の人たちでさえ、其の可能性を全く知らないように思います。たとえ知っても中国への積極的な投資と技術移転は止めないのでしょう。
結局のところ、日本企業の大陸進出は技術移転や日本文化拡散に近い形となる可能性があります。西洋文明を東洋文明および島国である日本で独自に培われた日本文明を、アジア大陸へと伝達する使命もあると思われます。
日本を先頭にアジア諸国が日本国民を犠牲にしてまで欧米救済に尽力していますが、其れは単に延命策に過ぎません。
しかし、別の視点で見れば、欧米地域の諸国が自己破産して身軽になって「やり直し」をされるよりも、中途半端な支援を継続していた方が内部のダメージが蓄積していくのです。
ダウ平均が少し回復したとか、表向きには終息したかのように思われるかもしれませんが、欧米諸国の内部には煮えたぎった大衆の憤怒が次第に溜まり続けているのです。
一方で、東洋文明におけるルネッサンスの成功は、島国の日本思想が大陸思想を少しずつ変えて行くという重要な鍵を握っていると思います。 これが中国を含めて大陸の日本化こそがアジアルネッサンスの成否を左右すると思うのです。島国には大陸では希薄な和合の精神があります。
アジア文明の復活に際して、中国を抜きにしては語れないからこそ目が離せない地域なのだともいえます。確かに現在の中国共産党による支配は秦の時代に似ています。
意外と短命で終わった王朝の秦の後に幾つかの王朝に分割されシナ地域の覇権を争う次代になり、やがて南北朝の時代を経て本格的な興隆期である隋へ。其れと少し似た経緯を辿るかもしれません。人間社会でも、ご近所の言動に常に影響されますから。
歴史とは様々な文明が興亡を繰り返していることを知る学問であると思います。この興亡に特定の法則性や周期を見出すことが文明法則史学(東西文明800年周期説)であるといえます。 歴史とは常に変遷していくもので、必ずしも一定のまま推移するものではなりません。何も代わらなければ実際問題として進歩もありません。この時代の変遷を波動と考えることで見えてくるものがあるのです。
そもそも「世の中」という言葉の中にも時代は変遷するものだという考えが感じられます。世(よ)というのは大和言葉では、「移り行くもの」を表現しており、「代」や「寄」と「夜」の意味も含まれると思います。
また「よちよち」や「よろよろ」という不安定な表現も含まれているとも思いますから、「よ」の意味は変遷していくという意味もあると考えられ、私たちが暮らす「世の中」とは、常に「移り変わる」ものだということを暗示しているのかもしれません。
歴史を良く見れば、其の事が理解できるようになります。この「世の中」では興亡しない文明や国家は存在しないのです。世界最長の単一王朝が継続している日本だけは例外だとは必ずしも言い切れません。
前々回の文明交代期(西洋の没落→東洋の勃興)だったと予想される約1600年以上前の文献が極めて少ない現状からすれば、大陸勢力によって支配され歴史が葬り去られた可能性も大きいと考えます。
前回の文明交代期(東洋の没落→西洋の勃興)に伴う文明交代期の終盤において、モンゴル帝国がユーラシア大陸を蹂躙しました。
そして元寇という国家の危機が到来しました。鎌倉幕府8代執権だった若き北条時宗の時代に幕府の体制を根底から揺るがしました。
不思議な事に、鎌倉・室町・江戸、といいった歴代の幕府が体制衰退に向う契機は必ず8代目で起きているという点です。
鎌倉幕府は8代執権の時代に2度も元寇に教われましたが、其の防衛費に巨額を投じたために財政が逼迫。1274年の1度目を文永の役、1281年の2度目を弘安の役といいますが、1度目は主に「元」の属国と化した高麗の軍勢でしたが、2度目は同様に朝鮮の高麗軍(東路軍)とシナからの江南軍でした。
ただし、江南軍の兵士の大半は、南宋が完全に「元」の支配下となってモンゴル人の入植によって財産を奪われた南宋人たちで構成された一種の棄民でしたので、武器は主に農具であったとされています。 運良く季節はずれの台風によって元寇の艦船は壊滅し、一応は勝ち戦とされていますが、敵の領地を取ったわけではないので、元寇襲来で活躍した武士に恩賞を与えることが出来ずに御家人の不満が募り、其れが幕府の権威が衰える要因になりました。
室町幕府の8代将軍だった義政の頃から歴代将軍の贅沢のために費やした費用も含めて財政逼迫し、世は乱れ再び戦乱期へと向かいました。
また、江戸幕府も徳川吉宗の頃、歴代の将軍家の贅沢にツケが来て財政が逼迫し、吉宗の倹約政策の景況で何とか体制維持を保ちましたが、其の後は幕府の権威は次第に衰えていきました。
鎌倉・室町・江戸、ともども15代で終わっています。其の半分の地点である8代目のときに其の後に支配体制の運命を左右する出来事が発生したり露呈しています。
続く…
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