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画像上… "flickr.com" http://www.flickr.com/ 画像中… (C) 街の灯 (1931) 〜City lights〜 画像下… (C) ライムライト (1952) 〜Lime Light 〜 ■「街の灯 (1931) 〜City lights〜 / 予告編」(海外版)…【Click】 ■「ライムライト (1952) 〜Lime Light〜 / 予告編」(海外版)…【Click】 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――★ <allcinemaより引用> ■『街の灯 (1931)』(City lights) 世の中は極端に不景気。小男で風彩もあがらず、服装もみすぼらしく、職もなく住むところもない チャーリーは、職にありつけそうもなく、毎日あちこちさすらい歩いてフーテン暮らしをしていた。 そんな彼が一人の娘に恋をした。 街角で花を売っている、盲目の貧しい娘だ。彼は彼女の目を治す為に、金を稼ごうと一大決心をする が…。1931年、押し寄せるトーキー化の波に逆らって作られたこの作品は、ひとりの浮浪者と 盲目の娘との愛のやりとりを、パントマイムと僅かな字幕で表現している。 これは、彼特有の可笑しさに満ちながらも、はかなく哀しい愛を描いた、映画史に残る傑作であり、 卓越したチャップリンの演出や心理描写の巧さに思わず唸ってしまう、彼の数多い映画の中でも ベスト3には入る名作である。 街角に咲く一輪のバラがともした恋の灯!笑いとペーソスに描くチャップリン名作! あのチャップリンがやさしい《愛のこころ》を謳いました! 笑わせて笑わせて、そして感動の涙であなたの心を洗います! ────────────────────────────────────────────★ ■『ライムライト (1952)』(Limelight) 1952年製作のアメリカ映画。チャールズ・チャップリン監督。上映時間137分。 素顔を出した作品で、同時にアメリカでの最後の作品となった(本作のロンドンでのプレミアの ためにイギリスに向かう最中に、アメリカの法務長官から事実上の国外追放命令が出たためである。 詳細はチャールズ・チャップリンの項を参照のこと)。 これは、当時、キートンが経済的に困窮していることを伝え聞いたチャップリンが、 何らかの助けになればと起用したと言われている。 なお、「チャップリンがキートンの出演場面を大幅にカットした」との話があるが、 それはまったく事実ではなく、キートンに注目を集めたかった彼の伝記作家が冗談で語ったこと。 名声の代名詞でもある。 落ち目の道化師と美しいバレリーナとのひめたる恋、懐かしい舞台に返り咲き喝采を浴びながら 熱演の果ての彼の死など、さながらチャップリン自身の心境を語るかの様な印象が強い、晩年の傑作。 ≪ストーリー≫ かつてイギリス一と言われた道化師のカルヴェロ。いまや中年を過ぎすっかり落ちぶれ酒浸りの 日々を送っていた。 テリーは姉が娼婦となって自分のレッスン代を払ってくれていたことを知ってから足がマヒして しまった。すっかり失望して生きる気力を無くしていた彼女をカルヴェロは献身的に介抱し、 もう一度バレエを踊らせる。 第一ダンサーに抜擢される。一方のカルヴェロはカムバックに失敗し、逆にテリーに励まされる 始末だった。 テリーはカルヴェロに結婚しようと言い出す。カルヴェロは年齢差や自らの境遇とテリーの 順風満帆の現在を比べ、結婚話をばかげていると一蹴してしまう。カルヴェロは彼女の元を 離れ辻音楽師へと落ちぶれてゆく。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――★ <Wikipediaより引用> ■Charlie Chaplin チャールズ・チャップリン 1889年4月16日〜1977年12月25日 出身/イギリス ロンドン 本名/Charles Spencer Chaplin。 両親はともにミュージックホールのエンターテイナーという家庭に生まれる。 彼が2歳の時に両親が離婚。母親に引き取られた彼は5歳で初めて舞台に立つ。 極貧生活が続き、母は彼が7歳の時に精神異常となり、チャールズと兄シドニーは孤児院送りとなる。 8歳の頃にミュージカル劇団に入団し巡業に参加。17歳でヴォードヴィル劇団フレッド・カルノ一座 で本格的な俳優業を始め、やがて一座の看板役者となる。その後、巡業先のアメリカでキーストン社の マック・セネットの目に留まり、同社と契約、ハリウッドへ渡る。 1914年、チャールズ25歳のとき、「成功争ひ」で最初の映画出演を果たし、この年だけで30本以上の 作品に出演した。ほとんどが1巻もののコメディで、早くも後のトレードマークとなるだぶだぶズボン にドタ靴、山高帽、チョビ髭、そしてステッキという姿で登場して人気者となる。 その後、エッサネイ社、ミューチュアル社と移籍を重ね、その都度契約金は跳ね上がり、大スターへの 階段を一気に駆け上っていく。 19年には、ダグラス・フェバンクス、メアリー・ピックフォード、D・W・グリフィスとともに ユナイテッド・アーティスツ社を設立する。21年には初の長編作品「キッド」を製作。 31年、トーキーの波が押し寄せる中製作されたサイレント作品「街の灯」は、盲目の少女との恋を 悲しくも暖かに描き世界中で大ヒットとなる。 その後世界一周旅行に出たチャプリンは32年5月に日本にも立ち寄り大歓迎を受ける。 続く「モダン・タイムス」ではエスカレートする資本主義社会を、「チャップリンの独裁者」では ヒトラーを痛烈に皮肉り、映画史に残る傑作を生み出す。「独裁者」はついにチャプリン初のトーキー 映画となった。一方、このころより非米活動委員会のチャップリンに対する圧力が強まっていった。 47年に製作された「チャップリンの殺人狂時代」では連続保険金殺人犯を描きながら戦争による大量 殺戮を断罪してみせるが、前年に起きた父権認知裁判騒動も相まって反共を掲げる世論の冷たい仕打ち を受けることになってしまう。 「ライムライト」完成後、長い船旅に出たチャップリンだったが、途中で非米活動委員会から召喚状が 届いたため、アメリカへ帰国することなくそのままスイスへと移住。61年には2度目の来日を果たす。 71年になってアメリカでもようやくチャップリン復権の動きが出て、「ライムライト」が改めて正式に アメリカで公開された。翌72年にはアカデミー音楽賞と特別賞贈呈のためニューヨークとハリウッドに 招かれ、アメリカとの和解が実現した。1977年のクリスマスの日、スイスの地で永眠。享年88歳。 |

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