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画像… "flickr.com" http://www.flickr.com/ 「おすすめ楽曲」 ■「Superstar」 ■「Yesterday Once More」 ■「Rainy Days And Mondays」 ■「Close To You」 ■「All You Get From Love Is a Love Song」 ■「I Need To Be In Love Video」 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――★ <Wikipediaより引用> カーペンターズ (Carpenters) リチャード・カーペンターとカレン・カーペンターの兄妹からなるミュージック・グループ。 アメリカ合衆国、コネチカット州のニューヘイブンで生まれたリチャード・リン・カーペンター (1946年10月15日 - )と妹のカレン・アン(1950年3月2日 - 1983年2月4日)は、1963年に両親と 共にカリフォルニア州ロサンゼルス近郊のダウニーに移り住んだ。 カーペンターズはこの地にほかにも2つの家を持っており、そのうちひとつは両親と共有し、 後のひとつには彼らだけで住んでいた。リチャードは幼いときから音楽に対する興味を示し、 ピアノの才能を開花させた。 一家のカリフォルニア南部への移住は、彼に芽生えた音楽の才能を育むことを意図したもので あった。一方、ダウニー高校に通っていたときに校内のバンドに加入してドラムに興味を持つまで、 カレンが音楽的な素養を現す事はなかった。彼女はすぐにドラムの叩き方を独学でマスターし、 このころから自らが持つ歌唱の能力にも気付く。 1960年代の中盤から後半にかけて、2人は音楽活動を開始しようと試みたが、60年代の終わりまで レコーディング活動を成功させることはできなかった。1966年5月、カレンはリチャードとともに、 ベース奏者のジョー・オズボーンがLAに持っていたガレージのスタジオで深夜に行われていた セッションに参加する。 歌うことを依頼されて、カレンはソロ・アーティストとしてオズボーンのレーベル、マジック・ ランプと短期のレコーディング契約を結んだ。結果としてリチャードが作曲した「ルッキング・ フォー・ラヴ」とそのカップリング「アイル・ビー・ユアズ」がシングルとして発売されたものの、 レーベルはすぐに閉鎖してしまった。 リリースの際にはわずか500枚しかプレスされなかったこのシングルは現在貴重なコレクターズ アイテムとなり、リチャード・カーペンターはそのうちの5枚をほぼ新品の状態で所有している。 友人のウェス・ヤコブスをベーシストに加えて、リチャードとカレンはジャズ・インストゥル メンタル・グループ、リチャード・カーペンター・トリオを結成した。1966年にハリウッド・ ボウルで行われた「バトル・オブ・ザ・バンド」での優勝によって彼らはRCAと契約を交わした。 しかし、RCAはトリオに商業的な成功を収める能力はないと見込み、すぐに契約を打ち消して しまった。リチャードとカレンは次にロング・ビーチからの4人の学生と共に6人組のバンド、 スペクトラムを結成する。ウィスキー・ア・ゴーゴーなどで行った地道なライブ活動にも かかわらず、スペクトラムにレコード会社と契約を交わす機会はやってこなかった。 だが、このバンドでの活動はリチャードに、のちに作詞者として共作パートナーとなるジョン ・ベティスとの邂逅をもたらした。当時リチャードとベティスはディズニーランドのエント ランスの近くにあるコカコーラのコーナーで演奏する仕事に就いたことがあったが、職場の 監督と折合いが悪かったためにすぐ辞めてしまった。彼らはこの体験をもとにして、のちに カーペンターズのセカンド・アルバムに収録された「ミスター・グーダー」を書いている。 スペクトラム解散後、兄妹はキーボード担当のリチャードとドラム/ヴォーカル担当のカレンに よるデュオとして活動を継続することを決意した。彼らはA&Mレコードの創設者の一人であった ハーブ・アルパートにデモテープを送って、1969年に契約を結んだ。 『オファリング』と名づけられた彼らの最初のLPは、リチャードがスペクトラム時代に書き 溜めていた数多くの楽曲(いくつかは共作を含む)をフィーチャーしている。このアルバムの もっとも重要な作品はビートルズの1965年のヒット曲をバラード調に表現した「涙の乗車券」 であり、このカヴァーはビルボードのHOT100で54位、アダルト・コンテンポラリー・チャート で20位以内に入る小ヒットとなった。 この曲のヒットを受けて、セールスを向上させるために彼らのデビュー作は題名を『涙の乗車券』 に改めて再発売された。この再発売のあと、A&Mは彼らをその年の暮れに行われた映画『チップス 先生さようなら』と『ハロー・ドーリー』の試写会で演奏するように要請した。 1970年にリリースされてビルボードのHOT100で1位を獲得し、ポップ・チャートで4週に渡って 首位をキープしたバート・バカラックとハル・デヴィッドによる楽曲のカヴァー「遥かなる影」 によって、リチャードとカレンはブレイクを果たす。続いて発売されたポール・ウィリアムズと ロジャー・ニコルスの作品「愛のプレリュード」はHOT100で2位をマークし、アダルト・コンテン ポラリーチャートでは首位を7週間獲得。 1970年の秋に、彼らにとっての2番目のメジャーなヒットとなった。これらの楽曲はベストセラー となったアルバム「遥かなる影」に収録され、この作品でリチャードとカレンはその年の最優秀 新人部門をはじめとする2つのグラミー賞を獲得した。 続く1972年のアルバム『トップ・オブ・ザ・ワールド』からは「ハーティング・イーチ・アザー」 「小さな恋の願い」「愛にさよならを」が、オールディーズのような懐古的指向を見せた1973年の 『ナウ・アンド・ゼン』からは「シング」と「イエスタデイ・ワンス・モア」のヒットが生まれた。 これらの一連のヒット曲とアルバムによって、カーペンターズは1970年代前半を通してチャートの 常連となった。 『トップ・オブ・ザ・ワールド』収録曲の「トップ・オブ・ザ・ワールド」がカントリー歌手の リン・アンダーソンによってカバーされ、ビルボードのカントリーチャートで2位を記録すると、 カーペンターズはこの曲を新たに録音しなおし、シングルとして1973年にリリースする。 1970年代前半、カーペンターズの作品はアメリカのトップ40の主要部分を占め、イージー リスニングやアダルト・コンテンポラリーを主とするラジオ局での中心的存在だった。 彼らは、カレンの表現力に富んだアルトのリード・ヴォーカルと、重厚なハーモニーを織り成す ためにオーヴァーダビングされた2人によるバック・コーラスをフィーチャーした独特のサウンド を作り上げた。 ヴォーカリスト、キーボード奏者、編曲家としての役割に加え、多くの楽曲においてリチャード は作曲も務めた。作詞家のジョン・ベティスと共に彼が書いた楽曲のうち、「愛にさよならを」 「イエスタデイ・ワンス・モア」や「トップ・オブ・ザ・ワールド」をはじめとするいくつかの 作品は大ヒットしている。 カーペンターズとしての来日歴は、1972年、1974年、1976年の3回である。 1974年の来日公演では、武道館ではひばり児童合唱団と、京都では地元の合唱団(Richardが 「Kyoto Children's choir」と紹介していた。京都市少年合唱団?)と「Sing」を日本語で歌った。 現在に至るまでその人気は確かなもので、日本でもCM・ドラマの主題歌などさまざまなメディア で耳にする機会は少なくない。また、彼ら自身が1970年代に森永ハイクラウンチョコレートの CMに起用されていた時期がある。 1995年にテレビドラマ『未成年』の主題歌・挿入歌に起用されたこと等をきっかけに一大 リバイバルブームとなり、同年発売された日本独自編集のベストアルバム『青春の輝き〜ザ・ ベスト・オブ・カーペンターズ』は300万枚以上の売り上げを記録した。 現役当時はレッド・ツェッペリンに代表されるハードロック全盛期だったため、音楽評論家から の評価は芳しいものではなかったが、後年の再評価でオルタナティブなアーティストから支持を 得ており、中でもレディオヘッドのトム・ヨークは「最高の女性ボーカリストはカレン・ カーペンター」と発言している。 |

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