|
元禄時代から伝わる「のざきまいり」は、人が知らず知らずのうちにお世話になった、有縁無縁すべてのものに感謝をささげる行事です。ご本尊十一面観音(市指定文化財・平安中期作)が開帳され、ご本尊の右手から、参拝者の人たちの手元まで紐でつながれ、直接ご縁を結ぶことができます。JR野崎駅から境内までの参道には、300軒近い露店が並び、多くの参拝客で賑わいます。
所在地:〒574-0015大阪府大東市野崎2-7-1 開催期間:2019年5月1日〜8日9:00〜16:00頃 交通アクセス:JR学研都市線「野崎駅」から東へ徒歩10分 主催:野崎観音 料金:境内参拝自由 問合せ先:野崎観音(慈眼寺)072-876-2324 |
旅行
[ リスト | 詳細 ]
|
高野山は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117ヶ寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。平成16年(2004年)7月7日、高野山町石道と山内の6つの建造物が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界文化遺産に登録された。
地理 地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す(行政上の字名としての「高野山」もおおよそこれと同じ地域である)。8つの峰々に囲まれているその地形は『蓮の花が開いたような』と形容されており、仏教の聖地としては大変良い場所であるとされている。転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山という。なお、高野山という名称の山は無い。 ○主な施設・寺院 ・壇上伽藍(壇場伽藍) 空海が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、高野山の二大聖地の一つである(ほかの一つは奥の院)。金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。ほかに大塔、御影堂、不動堂などが境内に立ち並び、不動堂は世界遺産に登録されている。また、弘法大師伝説のひとつである飛行三鈷杵がかかっていたとされる「三鈷の松」や、高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。 ・奥の院 弘法大師の御廟と灯籠堂がある(世界遺産)。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている。その途上には「みろく石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。 ・金剛峯寺 高野山真言宗の総本山で座主の住寺(世界遺産)。金剛峯寺は元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年(1869年)に2つの寺院が合併したもの。もと青巖寺(剃髪寺)と呼ばれた寺院は文禄2年(1593年)、豊臣秀吉の建立、文久3年(1863年)、再建。歴代天皇の位牌や高野山真言宗管長の位牌をまつっている。大主殿、別殿、新別殿と分かれており、別殿では観光客に湯茶の施しがある。襖に柳鷺図のある柳の間は豊臣秀次の自刃の間。屋根の上に置かれた防火用の水桶は、かつては高野山全域で見られたが今も置かれているのはここのみ。また、金剛峯寺境内にある「蟠龍庭」(2,340m2)は日本最大の石庭。 ・大門 高野山全体の総門。1705年再建。国の重要文化財と世界遺産に指定されている。 ・苅萱堂 苅萱道心と石童丸の哀話の舞台として知られる。 ・徳川家霊台
寛永20年(1643年)、徳川家光の建立。家康と秀忠の霊廟がある。世界遺産に登録されている。 ・女人堂 女人禁制の時代は女性はここまでしか入れなかったとされている。 ・金剛三昧院 建暦元年(1211年)、北条政子の発願による建立。源頼朝と実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝・世界遺産)がある。 ・高野山霊宝館 高野山上にある国宝、重要文化財等の保存・展示が行われており、定期的にテーマを絞った展示会が開催される。なお、現在の日本の国宝の2%は高野山上にある(1073件中、23件)。大正10年(1921年)、開設。 ・根本大塔
|
|
今年の8月9日に高野山に行ってきました。写真を後日UPするので期待していてください。
最近大掃除やデジカメで撮影した写真の整理等でメチャクチャあわただしいです。
|
|
石舞台古墳は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。昭和27年(1952年)3月29日、国特別史跡に指定される。伝承であるが、別称を蘇我馬子桃源墓という。
○概要 古くから、巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。また、石室内部には排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれた。昼間は公開されており、玄室内に入ることが可能である。封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳であるという。蘇我馬子の墓とされてきたことから、封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もある。外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、いずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたっては、その周辺にあった古墳を削平し、土などを移したものと考えられている。1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。1954年(昭和29年)から1959年(昭和33年)にかけて古墳の復元整備事業が行われ、この時には外側の堀を掘るために上を通っていた県道が迂回させられたという逸話がある。被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇三十四年(626年)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。ただし、異説があり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えている。 ○名称
石舞台という以外に地元では「石太屋」「石蓋」などの名前で呼ばれていた。「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としている。 ○所在地 奈良県高市郡明日香村島庄 この写真は平成18年5月(ゴールデンウィーク期間中)に旅行に行ったときの写真です。 |




