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弁証法をとは何かと言えばそれは「発展と連関」であると言える。
自然にも社会にも、又人間の思考力にも発展と言う事実があり、又全ての要素はそれだけでバラバラに孤立しているのではなく、お互い複雑に密接に関係しあっています。
これら全ての発展と連関に共通な、一般法則を研究する学問、それが弁証法です。
物事には常に正反相反するものが潜んでいるということ、人間も子供の時の自分と大人になった自分とでは考え方や嗜好などが全く違うことがある。
だからと言って自分自身が無い人と言うことではなく、むしろそれは成長として考えられるだろう。
おたまじゃくしも蛙になり、ハマチも鰤になるというように物事に完全に永久にそのままと言うものは無い。
従って、人間の考えも昨日の意見と今日、明日の意見が変わっても不思議でもないしむしろその方が自然な弁証法的な考えであると言える。
物事には通常、何にせよ矛盾を抱えているものである、その矛盾を乗り越えられるから発展と言うものがあるのであろう。
物事に矛盾が無ければ進歩する動機が生まれない、しかし、物事には矛盾があるから進歩しようとする自然法則があるので、人間の思考もこれに逆らうべきではない。
そして、その物事には物事ごとに連関する関係を持っていると言うことです。例えば、経済の問題で経済が成長すればインフレが起こる、インフレを抑えようとすると金利を上げると言うような何か一つでも処方すれば済むような問題でもないということを見れば分かるであろう。
弁証法と反対の考え方を形而上学と言うが、これは物事を単にバラバラの物として捉え、羅列として理解し、発展、自然も社会も思考も、その歴史は個別の物事の繰り返しだと言う考え方である。
日本の保守派の拠り所の古典「古事記」「日本書紀」で日本が天孫降臨の際に8つ島を作ったというのも形而上学的な考えであろう。
また、例えば、キリスト教は、旧約聖書の中で、世界は神によって6日間で作られたと説いて、生物の進化も認めないという形而上学的な考え方である。
さらに仏教は「諸行無常」などと言って、この世は常在不変ではなく、常に変化している、と言う考えですから形而上学には反対だと言えるが、その変化は、末法思想といって次第に悪くなると言う考えですから、これは発展を認めないと言う点で、弁証法的とは言えない。
だからと言って、宗教そのものを否定するのではなくて、宗教にはそれぞれ人々の心の気持ちを癒すと言う大事な役割があり、また救われている人も多いので宗教のすべてを否定するような議論には賛成できない。
ヘーゲルは世界を、「古」から「新」への発展の過程と捉え、その際新しく達成される現実は、古いものの中にあった一切の積極的な要素を踏まえつつ、新しいものの中に吸収し豊かになってゆく。世界の姿、又人間の精神とはそう言うものだと説いた。
しかし、今も創造論を固く信じ、学校教育にも取り入れるべきだ、と主張している人たちがアメリカに多数いて議会に圧力をかけているのは驚くべきことだ。
アメリカが現在のような超大国になったのは宗教と一線を画した政教分離の原則、すなわち世俗主義があったためだが、政教一致の体制になるとアメリカの衰退は間違いないであろう。
世界は常に発展、そして連関で成り立っている。どんなことでも何一つ、単独で存在しているものは有りえない、それが弁証法である。
弁証法的な立場に立たずに、自然科学や社会科学などを理解することは出来ないのである。
また、オーム真理教(現在のアーレフ)の上裕氏などは早稲田大学の大学院で人工知能、情報技術などを専攻していたにも拘らず、麻原代表の「空中浮遊」などを信じて数々の事件に関与していったのは弁証法的認識が無く、科学的知識を生かせずに観念論に負けてしまった例であろう。
単純な二者択一的な論法が見受けられる日本で、物事を科学的、弁証法的な観点で考えられる人間を作ると言うのは大変難しいが、少しでもこの素晴らしい教養を身につけて次世代に受け継いで欲しいものである。
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