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ブログ友の皆さま!明けましておめでとうございます!本年も宜しくお願いいたします! ところで、今では少しは知られた戦場!?
東部ニュ−ギニア戦が終了して昭和、平成、そして新元号の時代になろうとしていますね。
東部ニュ−ギニアへの現地慰霊や遺骨収容が今後も、厚生労働省主催、戦友会遺族会等で毎年?行われることを願う一人の日本人です。
あの戦争!(大東亜戦争が大日本帝国の正式名)戦争に負けて太平洋戦争という呼称に変わりました。勝てば官軍!負ければ賊軍!古今東西の歴史上の現実! 日清・日露・日独・日中戦争では官軍!太平洋戦争で賊軍に!そのために、未だに、歴史問題や北方領土問題等!の未解決!新しい元号時代での早期解決を願つています。
前置きは、これぐらいで、1943年Ⅰ月6日第1航空移動修理班=洋第9323部隊(以後、X部隊と略します)は昭南=シンガポ−ルで編成完結をしていました。(パプアはシンガポ−ル訪問済)
略歴の内容は「昭18年Ⅰ月6日」「3航軍単作命甲により編成完結」のみ。
3航軍とは第3航空軍を意味します。単作命甲とは担任する命令甲?洋部隊とは飛行第6師団所属を意味します。
留守名簿で定員は81名と知りました。殆どの方が国を出て故郷に帰れずに親兄弟と会えずに2年経過していたようです。何が楽しみだつたのでしょうか?
Ⅹ部隊の母隊はタイ国・ドムアン飛行場勤務の第19野戦航空修理廠所属の81名というメンバ−でした。X部隊の略歴簿にはドムアンと言う地名は記載されていませんで、身内の個人兵歴簿に記載されていました、が、ドムアン飛行場は当初はバンコク飛行場と感違いして居ました。(パプアは1度バンコク空港に立ち寄りました)。
平成完結時には記念写真はあつたはずですが、パプアは未だに入手できませんし、身内以外の80名の方々の氏名・階級等も知ることも出来ないでいます。
(生還者多数の部隊には羨ましいほどの情報が残されています)
当初、移動修理班はⅩ部隊の他、5個編成されました。其の後、6個班合計12班。
それぞれの過酷な運命が待ちうけていました。
Ⅹ部隊の主任務は重爆撃機の修理、第2、第3、第4、第5、第6もそれぞれの任務を付与されていました。
1943年Ⅰ月6日時頃の東部ニュ−ギニア戦線の戦況は南海支隊のブナ地区守備隊が、ほぼ全滅していましたし、2人の南海支隊長が戦死されていましたし、第18軍指揮下の第51師団の一部がラエやサラモアに進出していました。第20師団や第41師団、其の他、第18軍直轄部隊がウエワクやハンサ等へ部隊移動を命じられていました。
陸軍航空隊も飛行第14戦隊、飛行場第25大隊等がウエワクやラバウルへ移動を命じられていました。
○陸軍航空隊の東部ニュ−ギニア派遣に関する秘話!
大本営陸軍部作戦班長の辻中佐と航空班長の久門中佐が1時間以上の激論を交わしたと言うエピソード。久門中佐は陸軍航空を投入しても無駄だと言う正論でした。
其の後、陸軍航空隊は同地で悪戦苦闘の末、約1年間で敗退していました。
全ての理由は第17軍が、その任務遂行が不可能になり、ガタルカナル島からの撤退や東部ニュ−ギニア戦の南海支隊の戦況悪化、また、善戦敢闘したラバウル航空隊の戦力の弱化等による大本営陸・海軍部の戦況判断に基ずく命令によるものでした。
今、思いますと、この判断は大誤断でした。
ガ島戦=餓島戦の教訓を生かせずに、東部ニュ−ギニアを第2のガ島にしたからです。
秘話!大本営陸軍部作戦部長や課長等は更迭されていました!
服部作戦課長は更迭後、また、再度、同課長に復帰しています。
此の誤判断で東部ニュ−ギニアで12万7千6百名以上の命を失わせても敗戦後、戦犯にもならず、国会議員になつた辻 政信氏という参謀がおられました。
同参謀はノモンハン事変で左遷されても直ぐに大本営作戦部に栄転されていました。服部大佐と同中佐は名コンビ!当時の陸軍を牛耳つたエリ−ト日本人でした。
余談ですが、辻中佐を嫌らつたノモンハン事件時の大本営作戦課長の稲田正純少将が2代目の第6飛行師団長に任命されるとは、ナント因縁深いものを感じます。
細部を知りたい方はネツトに詳しく記載されていますよ!検索してください。
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