亀じゃ!

オジ〜の生きざまを綴ります。

こころ

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全17ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

法名を賜る

私は今月25日で64歳になります。

自分の終活を考えて、これしかないと決めました。

30年前に『内観』、『念仏禅』の修行をさせていただいた、

三重県の多度にある専光坊でお願いしました。
イメージ 1

イメージ 2
                                  館長 霊雲軒釋秀慧老師


当日は、毎月の第2日曜会の日で多くの信者さんが集まります。

私ともう一人20代の方が佛教名を授与されました。

越天楽の流れる厳かな雰囲気の中で行われました。 

私が頂いた法名は『釋 堅正』(しゃく けんしょう)です。

説明文には、

『釋』は、釋迦佛の一族、即ち佛教徒の意

『堅』とは、信仰心の堅固なることの意なり

『正』とは、正しいこと、本物であることの意なり

即ち、信仰心が堅固で、本物である故ついには極楽へ到ること。

名は体を表すなれば、専ら修行に励み佛に守られて日々を過ごし、

ついには西方浄土にむかえらるるなり

と記されていました。

大変に重い法名を賜ったと思っていますが、

それ以上に有り難い気持ちで一杯です。

どこまで行っても、煩悩のごみ屋敷のような心は綺麗になりません。

懺悔すればするほど、世の中のすべての人が救われても、

私は一人、地獄に行かねばならない事が身に沁みます。

念仏にすがるより他に方法が見当たりません。

明けても、暮れても『南無阿弥陀仏』を唱え生きていきます。

 

利用者さんの死を悼む

イメージ 1

担当してわずかな時間しか接することは出来なかったのですが、同じ施設内では以前からの顔見知りでした。

暮れから調子を崩して入院していたので、先月も顔を見に行きましたが、元気になったなと見えたので、突然の死に言葉を失いました。

何も出来なかった事に悔いが残ります。病棟で彼と話した事を思い返すと、顔は薄く笑って話していましたが、辛かったのだろうと思います。

それでも、入院中はドクターや看護師が付いていますから安心していたのですが、残念です。

病院で働いていると、少なからず人の死に接します。なかなかその事実を受け入れることができません。

まして、自分が担当としてかかわったりすると、その患者さんに対する思い入れが強くなるのは仕方のない事です。

それだけに、亡くなるとショックです。

私は弱い人間なので宗教的な信心にすがっていないと自分が壊れそうに感じます。

そんな事もあり、辛い事があるたびに信仰心が強くなっていくようです。

今は送る立場ですが、いずれは逝く身です。

今ここを生きることは生きる死ぬを超える事と云われますが、なかなかそうはいきません。

体調が悪くなるだけで、死ぬのではないかと思ったりします。

そんな時、生きる事に執着している自分に気づかされます。

阿弥陀仏はそんな人間の弱さを当たり前に分かったうえで、弱い、煩悩だらけのままにすくい取ると云われるのです。

なんと、おおらかな、有り難い仏様ですね。

 
人の死を悼む。

逝かれた人は私の心の中で今も生きています。

共に生きています。

以前に亡くなった、我が母も父も叔父や叔母も友たちも皆、生きています。

きっと、私が逝く時、皆一緒に浄土に逝くのだと思っております。


法話

お久しぶりです。桜も散り葉桜となりましたね。
今回は、佐賀県にある長善寺のホームページから法話をいただきました。私が大好きなお話です。仏教の理解に役立てていただきたいと思います。
周利槃特(シュリハンドク)の修行

 シュリハンドクとは、『 仏説阿弥陀経』に、お釈迦様の弟子たちの名の七番目に周利槃陀伽(しゅりはんだか)と出てくる人のことである。十大弟子の一人に数えられる方であるが、この人はいわゆる勉強のできない人であった。
 できないどころか、自分の名前も書けない。名前を呼ばれても周りの人から言われて自分のことだとやっとわかるほど。だから、お釈迦様の教えを聞いても理解できない。すぐに忘れてしまう。でも、悟りを求める心は人一倍あった。そして、わからなくてもお釈迦様の話をぼんやりと聞いているだけで彼は幸せであった。
 周梨槃特(シュリハンドク)は兄に誘われてお釈迦様の弟子となった。この兄は聡明であったが、彼は一つの句さえも記憶できなかった。修行の作法や方法も覚える事ができなかった。何年も修行を続けるのだが、彼は自分の才能の無さに絶望し、教団を去ろうとする。しかし、お釈迦様の「自らの愚を知る者は真の知恵者である」という言葉を聞いて思いとどまる。
 でも、彼にはどの修行も無理であった。そこで、お釈迦様が彼に与えた修行は、掃除であった。一本の箒を与え、「 垢を流し、塵を除く」と唱えさせ、精舎を掃除させた。彼は一心に掃除をした。
 何年もたったある日、シュリハンドクはお釈迦様に「 どうでしょうかきれいになったでしょうか?」と尋ねた。お釈迦様は「 駄目だ。」と言われる。どれだけ隅から隅まできれいにしてもまだ駄目だといわれる。シュリハンドクはそれでも黙々と掃除を続けた。
 ある時、子どもたちが遊んでいてせっかくきれいに掃除をした所を汚してしまった。シュリハンドクは思わず箒を振り上げ怒鳴った。「 こら!どうして汚すんだ。」
 その瞬間、彼は本当に汚れている所に気がついた。
 それ以来、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされる。そして、お釈迦様はシュリハンドクが一生懸命に掃除をしている姿をいつも手を合わせて拝んだという。

心はきれいになるか

 シュリハンドクはどのようにして心の掃除をしたのだろうか。次々と生じてくる心の塵や垢(煩悩)をどのように掃除したのだろうか。
 まず思い至ることは、自分の心はきれいにしたと思ってもまた汚れることである。でも、これは掃除と全く同じなのだ。
 私たちが掃除をするのは、汚すことを前提にしている。でも、どうせまた汚れるからといってほったらかしにはしない。それはなぜだろうか。
 次に使う人のためとか自分の続ける意志を高めるためではない。掃除を続けることそのことが大事なことなのだ。心の垢を流し、心の塵を除くことをし続けること。これがシュリハンドクの行ってきたことなのだ。
 修行とはそのようなものではないのだろうか。何かだんだんと上を目指して階段を上がるような修行を考える人もいるのかもしれない。しかし、シュリハンドクのように、汚れたらまた掃除をするということは、私たちの生きる姿を表わしてはいないだろうか。
 法然上人は「 愚癡に還って極楽に生まれる」といわれた。
 親鸞さんは

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
 まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがほは
 おほそらごとのかたちなり
          正像末和讃

と言われた。

 シュリハンドクの話は、人間の「 知恵」は悟りを得るためには逆に妨げになるということを示している。


イメージ 1

宗教心について

現世利益の為に神に祈る如きはいうに及ばず、徒らに往生を目的として念仏するのも真の宗教

心ではない。されば歎異抄にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になす

なり」といっている。

「分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる。反省は深き統一に達する

途である。」

(善人なほ往生す、いかにいはんや悪人をや)

他力

イメージ 1

ちくりんよお、他力を教えてくれんかのう。

はいはい、自力も他力もありませんですな。

あるのは、『なむあみだぶ』の6音があるだけですなあ。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


                                          

全17ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事