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KR500レプリカの部屋
濃いブログやってます。私は自己中心的な考えのかたとは根本的に合いません。礼節と仁は人間交流の要と捉えています。

書庫宮城県南部探検隊

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亘理町に住んでいた2016年1月26日、私は町内バス(さざんか号)に乗って町内東部の荒浜地区を訪ねたことがあった。荒浜には武者家という旧家が存在する。武者家は藩政時代に代々、城米浦役人(福島内陸部でとれた米を江戸の幕府に送る物流を担当した役人)や舟肝入を務めた家である。本日は武者家を中心に話を進めて行きたい。尚、記事を書く上で参考にした著物は井上拓巳氏著:『荒浜湊のにぎわい 東廻り海運と阿武隈川舟運の結節点』である。
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まだ現役だった二年半前、亘理町立荒浜小学校の前で下車した私は一枚の立て札を発見した。残念ながら、城米(幕府領及び譜代大名の城に貯蔵された米穀)を貯蔵した蔵のあった往時の面影は残っていない。時代の変遷と言えばそれまでだが、石巻と同様である。
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以下、荒浜小学校敷地内の立て看板より抜粋
阿武隈川舟運と荒浜
(御城米蔵跡)江戸時代、幕府の直轄領地を天領といったが、阿武隈川上流の福島盆地に天領があった。そこで収穫される米(御城米)を江戸へ運ぶには馬などによる陸送では経費がかかるため、舟運を利用しようとした。

荒浜は阿武隈川舟運の要所となった。御城米を積み替えるための蔵が建ち、浦役人が置かれた。荒浜の浦役人は代々武者家が務め、幕府の代官が検分の際には必ず武者家に宿泊した。御城米のほかにも米沢藩の米や沿岸の薪炭、その他の物資を運んだため荒浜には陣屋や蔵が並び、賑わいを見せた。

御城米の米蔵は13棟あったと記録されている。明治時代になり、御城米の移送がなくなると米蔵もその役割を失い、多くは取り壊された。残った米は明治6年(1875)に開校した第57番小学校(高須賀小学校、現在の荒浜小学校)の校舎と教員住居に転用された。米蔵のあった敷地は周りよりも一段高く、洪水の際にも難を逃れることができるため、学校の敷地には適当な場所であった。
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石巻の北上川河口には及ばないにしろ、阿武隈川河口のこの地は藩政時代に上流から川船で運ばれてきた城米を集積し、海船に積み替えて出荷する拠点として賑わった土地と言える。色つきの部分が幕府直轄領(天領)である。
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武者家が荒浜に居を構えるようになったのは元和年間(1615年〜1624年)と言われる。武者家の初代当主は主計(かずえ)と言った。二代目の惣九郎が亡くなった際、跡継ぎが幼少という理由で相馬領内の釣師浜(現福島県新地町)から養子を向い入れた。この三代目の当主は武者惣右衛門を名乗った。惣右衛門はその後城米浦役人に任命された。

四代目の惣右衛門からは舟肝入を兼任する。武者家には西廻り航路と東廻り航路を開拓した豪商・河村瑞賢も滞在したと言われる。瑞軒は、阿武隈川の水運を中継地点を通して荒浜まで通じ、荒浜から寒風沢(塩竃)に小船で運び、大船に積み替えて房総沖を迂回して相模の三崎、または伊豆の下田に出て、そこから西南風を待って江戸に入るという画期的な航路を開拓したのである。
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瑞賢は1671年(寛文11年)、江戸に至るまでの要所となる港数箇所(中継地点)に、手代を派遣している。瑞賢の指揮による城米輸送は一年限りであったが、翌1672年(寛文12年)からは幕府代官所が城米輸送を行った。三代目当主・武者惣右衛門が城米浦役人に任命されたのはこの時であった。城米浦役人となった武者惣右衛門には幕府から毎年五人扶持が与えられ、苗字帯刀が許されることとなった。

その後、城米浦役人の制度は1844年(天保15年)に廃止されたが、城米輸送は幕末まで行われ、武者家がこれに関わった。城米輸送の船が不足した際は、武者家の当主が寒風沢(塩竃)や石巻まで出向き、城米輸送船を選ぶことが出来た。これは武者家に委託された権限の大きさを知るものである。また、武者家には仙台藩主(伊達の殿様)も出向き、武者家の当主が応対したという記録も残っている。
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横町挨拶
なぜ、この記事を書くに至ったのかを説明しますと、自分のセカンドライフで武者家の子孫と思われるかたと知り合いになったからです。彼の家(亘理町荒浜)は先の震災で甚大な被害を受けましたが、その痛手を跳ね除け、再び郷里の荒浜に戻ってきたのです。私が武者家の功績を始めて知ったのは、確か河村瑞賢のことを描いた伝記的な著物だったと思います。彼が本家筋か分家筋なのか、そんなことは二の次とし、或る日、彼の先祖に偉大な人物が居たのを、そっと教えたのです。そして先日、井上拓巳氏著『荒浜湊のにぎわい 東廻り海運と阿武隈川舟運の結節点』のことを知らせ、彼がこの著に目を通しました。

まだ感想を詳しくは聞いていませんが、恐らく彼は感動しただろうと思っています。彼は自分の先祖を甲斐の戦国大名・武田に仕えた家臣で落ち武者になってこの地に根付いた(もちろん改名した)と述べていましたが、インターネットを調べたところ、これも概ね正しいようです。自分(横町)のルーツが葛西系統の郎党であった際、主君の勢力の衰えを以って伊達に鞍替えし、北上川開削事業に関わったものであったのに対して、武者氏は武田を捨て落ち武者となって阿武隈川の水運と城米輸送に深く関わった。その末裔同士が知り合う。これには不思議な因果さえ感じています。武者氏とは近いうちに是非一献交えたいと考えています。本日も最後までご覧頂きありがとうございました。
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