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書庫小説【躁と鬱】

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躁をもって躁を制する

恩讐の彼方になにが残ったのか…
すさまじいばかりの自己肯定の極致、激躁(げきそう)をどうやって乗りきったか?(後編)
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(前号までの粗筋:05年末に転勤をきっかけにうつ病を発症した私は、闘病2年後に病状が躁中心(激躁)に転じた。躁状態でテンションが異常に高くなり、自己過大評価と自信過剰になり、周囲との調和がとれないまま二度目の休職に追い込まれた。休職から復帰した後に待っていたのは激しい躁と自己抑制との戦い(自己葛藤)だった。仕事を遂行するうえでテンションを上げることは必要だが、それをコントロールできなければ周囲との摩擦につながる。そんなジレンマをどうして私は乗り越えたか?)
 
注:前号「躁とは一体何なのか?」へのリンクhttp://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/26228696.html
 
※生涯、躁鬱病に悩まされたゴッホだが、『炎の人』と呼ばれた彼の作品を見ると激動した彼の心境とたぐい稀なる才能を伺い知ることができる。(自画像1889年作)
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 ある人から相撲取りにとって一番の薬は白星(相手に勝つことだ)という話を聞いたことがあった。当然ながら白星は相撲取りにとって最もうれしいことで自信にもつながる。なにげないことだがこれは大きなヒントにもなり、励みになった言葉だった。まず自分に与えられた仕事を着実にこなすことが一番の薬(自信)なのではないのかと私は考えた。
 
 信じられないかも知れないが、激躁のときはエンジン全開状態(レッドゾーンは無限∞)で、この絵のように夜でも明るいと感じることがあるのだ。(ローヌ川の星月夜1888年作)本人にとっては睡眠時間はごくわずかでもなんともないと感じるが、これはある意味非常に危険なことである。
 
何故ならば躁病で気が高ぶって眠れずに過労死した症例があるからだ。肝心なのはその前に精神の高ぶりをなんらかの方法で押さえなければならないのだ。一般的には薬を使うのが手っ取り早いがそれは一時的な症状の抑制であり、根本的な解決とは言えない。
 
 ここで激躁(躁が極めて強いこと)の状態をチューニングカー(改造車)に例えよう。ノーマルとはまったく比べ物にならないほどに、エンジン出力を上げすぎたターボつきのチューニングカーはエンジンブローにつながる危険性が多分にある。それ故タービンやエンジンを保護するためのブーストコントローラー(ブーストを制御する装置)やウエストゲートバルブ(タービンに大きな圧力がかかる前に強制的に排気圧を大気に開放する弁)を装着する必要がある。
 
 これはエンジンだけの問題ではない。チューニングカーで速く走ろうとするには大パワーに負けない足回り(サスペンション、ハイグリップタイヤ、強化ブレーキ)の装着も不可欠となってくるのである。
 
 これを躁に言いかえれば無尽蔵に高まろうとする自己を未然に制御し、かつ過剰なエネルギーを他人に向けないようにする制御的な自己管理(高まる感情を理性で押さえる強い気持ち)が必要なのである。
 
 一見なんの関係もなさそうなチューニングカーと躁の関係が実は酷似しているのは意外でもあり、非常に面白いことである。
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 職場復帰後、私に与えられた仕事ではけして容易なものではなかった。組織人の一員として自我を抑え、いろいろな立場の人間との調和を考えて努力した。しかし決定的な回復への手掛かりは掴めないでいた。
 
 そんなある日、私は自分が生かされているのはけして偶然でなく、先祖が存在した(感謝の気持ち)からだと考えて、こっそりと実家の墓参りに行った。この時、墓に向かって合掌した私はポルトガル国歌の一節の「祖国を勝利に導く偉大なる先祖の声を聞け」という歌詞を思い出していた。
 
注:ポルトガル国歌「砲撃をかいくぐり進め」へのリンクhttp://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/24271039.html
 
※うつの時の私は沈んでいたが、けして下ばかり見ていたわけではない。この下の絵の中央の金髪の男(囚人)のように私もシャバ(うつからの回復)を見ていたのだ。
(刑務所の中庭にて、囚人の運動1890年作)
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 墓参りの後、しばらくして胸のつかえが取れような思いがした。この時から自分の躁を客観的に見ることができるようになった気がした。そしてそのとき気づいたのは躁と鬱との決定的な違いであった。躁は強い理性でコントロール(自己抑制)できても、鬱はできない(自らテンションを上げることは不可能)ということであった。
 
 この時、私は回復に向う大きな手がかりを掴んだ。自分の躁を冷静に見ることが可能になったとき、躁はネガティブなものから一挙にポジティブなものに変貌したのである。毒をもって毒を制するということわざがあるが、あえてこのことを「躁をもって躁を制する」と表現したい。
 
 今、ここに隠さずに告白する。当時私は何度も激情にかられた。しかし自分を客観的に見ることで、少しずつではあるがかすかな復調への兆しを実感し始めたのだ!
※激情にかられた炎の人ゴッホは生涯二度の精神病院への入院を経験している。この絵は耳を切ったあとで療養生活を送った療養所で描いた作品である。明るい色彩と力強い構図に彼の復調の兆しが伺える。(アルル療養院の中庭1889年作)
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 しかしながら、ネガティブなものをポジティブなものに変えることはそんなに生易しいことではなかった。そこには大いなる心の葛藤(過去の自分との決別)があった。
 
 そんな時、私は折しも大正時代の小説家、菊池寛の書いた「恩讐のかなたに」という小説を読んだ。
 
※活動中期のゴッホの作品、後期作品とはあきらかに違うが、19世紀後半の市街地の華やかな雰囲気と躍動感があふれる絵である。
(アニレールのレストラン1887年作)
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 以下、菊池寛小説「恩讐のかなたに」(1919年作)粗筋
 
 封建時代に主人を殺して逃亡を図った男(主人の家来)は各地を逃亡し追剥になって強盗殺人などの非道を働く。その後男は改心して仏門に入り、罪滅ぼしの意味で隧道(トンネル)を掘る。初めのうち、周囲の人間は男を狂人扱いしたが、しだいに何年もひたむきに隧道を掘る男に共感して隧道堀りを手伝い始める。
 
 そこに殺された主人の息子が敵討ちに現れる。男は切ってくれと言ったが周囲は隧道が完成するまで待ってくれと言って敵討は延期になる。息子は男をいつ殺して敵を討つかということだけを考えていたが、男の経文を唱えるその姿を見て自分も手伝う決心をする。
 
 死に物狂いで掘った隧道が完成したのは隧道を掘りはじめてから21年の年月が流れていた。このとき息子とよぼよぼになった男に残ったのは恩讐でなく、一つの物事を成し遂げた人間同志の絆だけであった。
 
 私はこの小説を読んで復讐心からは何も残らないと思った。息子が仇討ちを遂げていればおそらくはこのような隧道は残らなっただろう。この小説は一見このトンネルを掘りあげた男が主人公に思えるが、実は父の仇討ちを思いとどまった息子が主人公だったのだ。息子の過去への恩讐を捨てる気持ちが人様の役に立つ隧道の完成につながったのだ。
 
 これからは生き方を変えよう。主人公である息子を見習い私自身も過去の恩讐を捨てて、後ろを振り返らず前だけを向いて人生を歩みたい。過去の恨み、つらみを捨ててこそ明るい未来が見えてくるのだ!
 
 病気の副産物によるものとして寛解(躁鬱の症状が収まったニュートラルな精神状態に戻ること)に至った私は以前の私と比べて性格がまったく変わった。それはアグレッシブという性格を得たことである。アグレッシブは積極的とも訳されるが一方で攻撃的とも訳される。私は攻撃的と言われないように日々努力している。もっともこのアグレッシブ性が元来持ち合わせた潜在的な性格によることなのか、或いは病的なものなのかの境界は誰にもわからない。知るのは神のみである。
 
※日中の風景を描いた珍しい作品、彼が描こうとした勤労の尊さ、そして豊かな収穫をもたらした農地はこの絵を見る者に生きる希望を与える。
(ラ・クロの収穫1888年作)
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           完(全3編)
天才画家フィンセントファン・ゴッホ
 彼の絵が売れたのは皮肉にも彼の死後だった。それはなぜなのか?
前編を読んでない方はこちらをクリックしてください。
前編「我輩は躁である」へのリンクhttp://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/26198109.html
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 躁の時のゴッホの目つきは非常に攻撃的である。
だが、その強い攻撃性が独創的な絵を描かせるのだ。 
攻撃性のある人間は世間の反感を買いやすく、生前は評価されないことが多い。 
その非凡さが評価されるのは概して死後である。
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 この絵の題名は「糸杉と星の見える道」と言って、フィンセントファン・ゴッホが描いた絵である。月や星が出ているが、夜にしてはやけに明るい絵である。前回気づいたかたもいるだろうが、彼の絵は夜であっても非常に明るいのだ。それと独特の流れるようなタッチ…普通の感覚ではとてもこういう絵は描けないはずだ。
 
  躁病(超ハイテンション感覚)の彼の目から見た夜景は非常に明るく、そして月も星も草木も見るもの全てが踊っていた!
 
 この絵が描かれたのは19世紀後半で、それまでにない強烈なタッチで描かれたゴッホの絵はあまりにも独創的な感覚のために人々に受け入れられるのに時間を要したのだ。
それでは躁とは一体何なのか?
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 うつ病は世間一般に知られる病気だが、躁うつ病(躁病も広義には躁うつ病に含まれる)については数が少なくて、認知度がかなり低くなる。
 
 ゴッホに限らず、多くの芸術家や作家は躁うつ病を患っていたとされる。躁うつ病とされる芸術家と作家の一部をあげるとゴッホの他にもゴーギャン、夏目漱石、北杜夫、ヘミングウェイ…と多くの名前が出てくる。なぜ作家や芸術家に躁うつ病を患った人が多いのか?
                   ゴーギャン
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夏目漱石
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                                           北杜夫
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ヘミングウェイ
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 それは創作意欲や作品に対してのひらめきは躁の大きなエネルギーがもたらすものだからである。しかし、その大きなエネルギーは動物で例えればチーターのごとく、長続きしない。
俊足でもけして長時間走れないのである。言い換えればチーターが獲物に追いつくことなく捕獲に失敗して、追うのをあきらめて、ガックリきた状態が躁鬱病で言う鬱である。
 
 彼らも作品を作り上げた後(もしくは創作活動の節目や途中で)はおそらく虚脱感(うつ)に襲われた違いない。異説もあるようだが、ゴッホもこのような大きな虚脱感に襲われて自分の耳を切ったのかも知れない。
 
 それでは躁になると人は具体的にどうなるのか?私が躁の頂点にあったとき、躁特有の誇大妄想、自己過大評価、極度の自信過剰が現れて、様々な支障をきたし、私は不本意ながら休職に追い込まれた。
 
 続編では私がどうやってこの強い躁状態から脱出してニュートラルに戻ったのか、再発防止策も含めてお伝えする。 

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我輩は躁である!

我輩は躁(そう)である。
(前編)
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 (※注釈:現代の精神医学ではうつ病と双極性の躁うつ病が一般的に知られているが、稀に躁のみの躁病という症状を持つ人が存在する。しかしこの躁病も現在は分類上は躁うつ病の一つと分類される。)
 
 これは有名なゴッホの星月夜という作品である。この絵を見てあなたはどう思うか?激流に渦巻く波のように描かれた月、星、雲、木…人によってはとても正気の沙汰の人間が描いたようには見えない?…狂人の描いたような絵にも受け取れるだろう。この絵をかいた時にゴッホは躁病(超ハイテンション)だった言われている。ハイテンションだったと言われてみると彼から見た町の夜景はこの絵のように映ったのだろう。
 
 フィンセントファン・ゴッホ(1853-1890)は父の意志によって牧師になろうとしたが、元来の奇人(偏屈でかんしゃく持ち)的な性格のためにそれを果たせず絶望していた。しかしながら、彼はそのたぐい稀なる才能を芸術(絵画)に見い出した。
 
 そんなゴッホも常に躁だったわけではない。彼の代表作の一つに耳を切った自画像という作品があるが、この時は逆にうつだった。
 
 では躁病とは一体何なのか?実は私自身もある人から「あなたは躁病ではないか?」と言われたことがある。自分はゴッホとは比べるべくもなくただの凡人であるが、どんないきさつで私が躁病になったのかをお話ししたい。
 うつの時は私もこんなうつろな目をしていたのかも知れない。
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  読者の皆さんに既に紹介している通り、私は以前うつ病を経験した。期間的にはうつ病が05年12月〜08年1月、躁うつ病が08年1月〜08年6月である。(現在は寛解に至る)
 
 うつ病になる前の私を知っている人物のほとんどから「以前(うつ病になる前)と比べて性格が変わった。」と言われた。どう変わったのか?その前に私のうつの状況がどんなものだったのか箇条書きにして説明したい。
 
①全てのことをマイナス思考で考えてしまう。(最悪の結果だけを思い浮かべて物事に対して逃げ腰になる。)
 
②精神的なエネルギーが大幅に不足する。(前にも述べたが、車で言うと排気量が1/10程度になったような状態になる。)
 
③朝早く(2時〜3時)に目が覚めてネガティブなことをずっと考えてそのまま朝を向えてしまう。
 
 以上の状態で私は仕事のパフォーマンスを大きく落とし、周囲からいろいろな誤解(任務の遂行能力、ファイティングスピリットに欠ける…)を受けた。だが、うつの時はそれを面と向かって言われても何も言い返すことができなかった。反発するだけのエネルギーすらないのがうつ病なのだ。
 
 このままでは、会社を辞めるしかないのなも知れない。…しかし、このまま社会の藻屑(もくず)となって消えようとしていた私に一筋の光が差した。それは07年12月末にNHK総合TVで放映された「伊達政宗、ヨーロッパにかけた夢」を見てからだった。
 
 (※:このTVの粗筋:遅れてきた戦国武将(最後の戦国武将)とも言われる伊達政宗は時の権力者、豊臣秀吉、徳川家康と表面上の服従を見せながら、ヨーロッパとの直接貿易を実現するため遣欧使節団を派遣するなど、最後まで天下取りをあきらめず、その後の伊達藩存続の基盤を作った。)
 
 このビデオは繰り返し200回以上見て一字一句違わないほど内容を把握できたが、これは政宗の不屈の精神と私の負けん気が同調した瞬間でもあった。特に秀吉から国替えで領土を召し上げられたあとで、新たな領地で幸運にも金や鉄を大量に手に入れて軍事力を増強して復活した伊達政宗が、カメラに向かって銃口を向けるシーンは私を勇気付け、奮い立たせた。
 
 鬱から躁へスイッチが切り替わる…
 
 しかし、一見うつから脱出したかのような私に待っていたのは、躁うつ病であった。この病気のやっかいなところはうつ病と違って自覚症状がない(自分は正常と認識しているがはたから見ると異常)ということであった。
 
 想像できないことかも知れないが、躁の状態では今までのうつ病のマイナーな精神的要因が全く逆に作用するのだ。一言で言えば天井知らずという表現になる。
 
 夜はほとんど眠らなくても良かった。床につくといろいろなアイディアが次々と泉のように沸いてきた。正直言って世の中の動きが全て自分にとってかったるいと思えるほど、ローテンポに見えた。
 
 わずかな睡眠時間で、深夜2時、3時に起きると私はその有り余るエネルギーを仕事にぶつけた。しかしそれは常人の理解できる範囲を大きく超えていた。ハイテンション、疲れ知らずは仕事を遂行する上では大きなアドバンテージをもたらしたが、周囲が全く見えないため、多くの人との摩擦を産んだ。…続編に続く

4年前の2005年12月、転勤先の東京から九州出張を言い渡された私は、慣れない土地での仕事と家族から離れた寂しさからうつ病を発症しました。周囲からは本当にうつ病なら「自分はうつ病だ」とわかるわけがない。能力がないのでは?やる気がないのでは?などと誤解されました。
状態をわかりやすく言えば、車で言えば排気量が1/10になった感じと言えばわかっていただけるでしょうか?この状態が一時的でなくずっと継続して続くのです。おまけに外見は健常者となんら変わらないのでそういう誤解を周囲から受けやすいのです。

そんな私を理解してくれた人がいました。九州の宿泊先のウイークリーマンションで、深夜目が覚めてよからぬことを考えていた私に救いの神であるその人は「どうにもならなかったら、病院に飛び込め」と言ってくれたのです。仕事場を抜け出して病院に駆け込んだ私は院長から「抑うつ状態、自宅療養を要す」との診断書を書いてもらい、命を取りとめたのです。

その後、3週間ほど休職しましたが(これ以上休んだら自分の席がなくなるのでは…との想いで)不安にかられて、療養先の仙台の病院で「職場復帰を認める」との診断書を書いてもらい、治らないまま無理やり職場復帰しました。それからは、以前の自分とは人が変ったように物事を自分に悪く解釈するようになり、仕事のパフォーマンスも大きく落ち、屈辱を味わいました。会社からは2006年10月に仙台勤務に戻されました。

人生のスランプから抜け出すきっかけとなったのはゴルフとバイクでした。最初は会社の付き合いで始めたゴルフですが、最初のコンペで上司に打たれたドライバーショットを見て、ハンマーで頭をたたかれたような大きな衝撃を受けました。「仕事で頭が上がらない上司にゴルフでも勝てないのでは自分はとりえのない人間になってしまう。なんとしても上司に勝ちたい。勝つまで何度でも挑んでやる!」と考え、翌日から筋トレと退社後の打放し場通いを始めました。上司がドライバーの飛距離を出すために左手の握力を鍛えているとの話を聞いて私は「それなら私は全身を鍛えてやろう」と思いました。筋トレ(高負荷のダンベル、鉄のおもりを入れたリュックサックを背負っての腕立て伏せ、高負荷をかけてのクランチ、チンニング)はこの時以来続けています。

ゴルフを始めてから、しばらく乗っていなかったKRに乗ろうと思いましたが、年齢的なこともあり、KRを降りてシェルパを買って林道ツーリングでもしようと考えを変えました。でも、どうしてもKRをあきらめることができずに2008年の夏からカスタムを始めました。2つの趣味を持った私はいつのまにかうつから立ち直っていました。

これからはこの貴重な経験を現在うつで苦しむ人の役に立てれば…と想い、アドバイスしていきたいと思います。そういう方は遠慮なく相談してください。

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