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変わりゆく街80
栗山町郷土研究員 中嶋 了之
由仁町の移り変わり
夕張川と橋 〔その3〕
夕張橋が開通した後もその橋から川上に渡船場があり、由仁と旧角田村の阿野呂―南学田の人々が利用していた。
角田市街にある広済寺の月輪照雄前住職は「…その渡船場は今の橋が出来るまで利用されていたよ。私も川向の檀家で水野さんにはこの船に乗っていったものです。ある年の角田神社祭典の日は、由仁で写真館をやっていた鹿内さんが、写真機の道具箱を持って渡船場から船に乗り角田に渡ろうとした時船がひっくり返り命拾いをしたということがあった。話は変わるけど終戦の次の年だと思うが、中里部落の今村さんの田圃(たんぼ)に米軍の戦闘機『グラマン』が墜落し黒山のように人々が集まって来た。その時に角田市街にいた会澤さんが通訳したと聞いていたが…」と60年前の事を話された。
その会澤さんは、会澤輝寿といい当時の空知農業高等学校(通称・空農)の先生で青年教師だった。先生は、由仁、南幌高等学校長を歴任し故郷である角田市街に住まわれている。お元気でおられ早速、当時の事を聞いた。
「…米軍機の墜落のことだったら今もその様子が目に焼きついている。この日はちょうど日曜日だったか家に居りまして、何の気なしに午後だと思うが栗山の方を見ていると米軍の戦闘機編隊が轟音(ごうおん)を響かして飛んできましたね。そうしている内に1機がきりもみ状に墜落し、それが中里付近だと思いました。
仲間の戦闘機から占領軍の駐屯基地がある千歳に墜落した事故報告を受けたアメリカ軍は、すぐさまジープ何台かで角田の市街にやってきた。事故現場が分からずうろうろしていたところに『事故現場は分かるか』聞かれ案内しろと命令された。先頭ジープに乗せられ角田村役場の横を通り事故現場であった夕鉄線路の栗山側にあった今村さんの田圃まで案内した。現場を見て驚きましたよ。戦闘機なんか何にもなく大きな擂鉢(すりばち)状の穴だけが残っているだけだった。すぐその場所は立ち入り禁止になりその後どうなったかわからない…」と話された。
また 共和で農業をされている斎藤義雄さん(当時15、6歳の少年)の話によると「その日の午後だと思うが田圃に出て除草機押しをしていたら、2機の戦闘機が飛んできて一機が白い煙を吹き上げ、きりもみしながら墜落した。すぐ田圃から飛び出し夕鉄線路に向かって走って行った時、近くのおばさんが『…はだしじゃ危ないからこの地下足袋(ちかたび)履(は)いて行きなさい』と貸してくれたよ。そこに着いて驚いたね。大きな穴だけはあるが飛行機は見当たらず時々バンバンと何かが破裂する音が土の中から聞こえとても恐ろしかった…」。
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