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椿原町長引退表明へ

椿原町長 引退表明へ
後継は佐々木副町長を指名か
【栗山】来年4月11日で3期目の任期を満了する栗山町の椿原紀昭町長(70)は、今季で引退する意向を固め、12日から開かれる定例議会で明らかにする。
 椿原町長は、拓殖大政経学部経済学科を卒業、昭和44年役場入り、教育委員会社教主事、企画課主幹、商工課長、農業委員会事務局長、教委社会教育課長、教委社会教育課長、教育委員会次長、教育委員会教育課長、教育委員会教育次長、教育委員会社会教育部長などを経て平成18年町長に就任した。
後継者については、「すでに立派な能力のある人材が控えている」と話し「彼なら大丈夫」と、自ら指名した佐々木学副町長(54)を後継者として指名する意向のようだ。
佐々木副町長は、昭和56年道立三笠高卒業、同4月役場入り、住民課、農業委員会、総務課、平成6年住民課年金係長、総務課財政係長、財政係長、行政改善係長、同19年経営企画課主幹、同20年経営企画課長、同25年まちづくり総括兼経営企画課長事務取扱、同27年建設総括兼建設水道課長、同29年副町長に就任。tubakihara
懐旧わりゆく街 74
アノロ・ウエンベツ原野の入植 その12
渡邊大助が、作った寺小屋式学校を維持するため各戸10銭を出し合い翌明治26(1893)7月、教師に村田三次氏を迎え本格的な教育内容である読書・算術・習字などを教えていた。しかし、栗山駅が出来た明治26(1893)年以降は市街地を形成していた旧ウエンベツ市街(現桜丘3丁目付近)の人々が、栗山駅近くに移住したため、児童を集めての教育活動は出来なくなった。
渡邊大助は明治25(1892)年、栗沢村戸役場が出来るとそのよく年の明治26(1893)11月から村内2人の総代の1人をウエンベツ地区を代表して栗沢村総代に選出され栗沢村の発展に寄与した。
空知郡栗沢村の総代でありながら、明治27(1894)年5月ウエンベツ原野のハサンベツ入植者子弟教育に、旧角田村の杉武一郎等と協力して栗山567番地の山本竹蔵の空納屋を借り、当時栗山駅長の弟だった笹森太郎を教師に授業が開始された。
その学校を維持していくために児童20数人の家庭から一戸当たり粟1斗5升(約19㌔)を出してもらい、必要経費に当てた。このことから当時は粟屋学校と呼ばれていた。その後も渡邊大助は、旧角田村の泉麟太郎と連携しながら郡界、村界変更の陳情を行い明治39(1906)年4月、クッタリの分水嶺により南側のウエンベツ原野が旧角田村に編入され。名実共に旧角田村の栗山地区方面の発展にも大いに貢献した。
現在の錦2丁目室蘭本線沿いに居住されている渡邊大助の子孫の渡邊満さんの話によると「…渡邊大助は現在の自動車学校のあたりに住んでいた(現在もその建物の一部が有り小松さんが居住している)とおばあさんから聞かされた。その後、現在地に移転し、今から15〜6年前までそこに住んでいた。何年頃からか分からないが錦一帯は小林酒造の屋敷と工場用地そして農地と杉武一郎と渡邊大助の農場地であったと聞かされている」と話された。
いつごろ錦2丁目のこの地に移住したか分からないが、大正5(1916)年5月11日72歳で亡くなられた渡邊大助の葬儀では、多くの方々がお参りされていた様子の写真があったと子孫の渡邊満さんが語られた。今も広い屋敷に当時を偲ばせる櫟(いちい)の木が4、5本あり樹齢100年以上の歴史の重みを感じる。
空知集人監看手を辞職して42歳で空知郡ウエンベツ原野ハサンベツに入植して開墾に尽力した。栗沢村発足と同時に総代となり栗沢村の発展に力を入れながら、ウエンベツ川を隔てた旧角田村の発展に貢献し、郡村界の変更が明治39(1906)年4月おこなわれ、名実共に旧角田村の村民となった。10年後に村民から惜しまれながら72歳の一生を終えた。台山墓地(湯地の願船寺境内東側)に埋葬され今も栗山町の発展を見続けている。

新嘗祭と勤労感謝の日

新嘗祭と勤労感謝の日
 1123日は勤労感謝の日。この日は太陽暦が採用された1873年(明治6)に新嘗祭を祝う祭日となり、1948年施行の国民祝日法で勤労感謝の日とされた。新嘗祭とは天皇陛下がその年の新穀を神前に供えて五穀豊穣に感謝する飛鳥時代に始まったと伝えられている重要な祭祀です。宮中で厳かに行われ、献上米は全国各地から選ばれた農家が栽培します。
新嘗祭は収穫された新米を神にささあげて感謝を表す秋祭りとして、宮中だけでなく全国各地で行われます。新嘗祭の「嘗」という字を分解すると「尚」と「旨」のくみあわせとなる。尚は舌の上にのせる。味見をする。うまい。五穀豊穣を神に感謝する。この行事は、宮中だけでなく、各地の神社でも行われました。各地の神社の代表として、特別に献納する米を春先に宮中から農家が指定され、田植え、草取り、穂抜き、収穫と一農家の仕事ではなく、村全体の仕事ととらえて、村役人がそろって田仕事を見守りました。
角田村には、それを伝える一枚の写真が残っています。共和地区の青年団の田んぼの穂抜きの写真です。穂抜きとは、収穫直前の田んぼの稲がどのくらいの収量があるかを調べる作業です。昭和13920日のことです。
谷田製菓の「大嘗飴」
 谷田製菓は、世相の変化を見極めて売り出す商品名をきめている。「大嘗飴」もその一つである。明治天皇が亡くなられて、宮中の喪が明けるのが3年、大正41110日京都 御所で大正天皇の即位礼を挙行。
 即位の礼の一つに新嘗祭の儀式がある。
共和青年団穂抜き 昭和13年9月20日
大正天皇の即位を記念して大正4年「大甞飴」が発売された。
国民が慕う「明治天皇」のお墓は、京都伏見になり、東京は関連のものが残らなくなった。何か記念になるものを残そうと大正451日明治神宮造営局管制公布。明治天皇を祀る神社を中核にして、全国 都道府県から代表する樹木を献木してもらい、計画的に植樹をして、荒地を百年後に理想的な森とする計画であった。
また、その作業は全国の青年団、少年団に期待した。その外側には、文化、教育施設を設ける。「先憂後楽」の四字熟語から「後楽園」が誕生する。明治神宮の造営、1923年(大正12)関東大震災、帝都復興で東京へ人・物の大きな流れが世相にあらわれた。大正12年「日本一のきぎだんご」が発売された。

わつぃの夢 9

私 の 夢(9
栗山町史編さん推進委員
阿部 敏夫
   犬に関する物語2
 毎朝、私の家の前を犬と散歩している人達がいます。改めて犬の種類や衣装に驚かされています。中学時代に新聞配達をしていて、犬に追いかけられた経験がある私には、ある種のトラウマがあります。アイヌ民話を紹介しましょう。
 
犬は むかし口がきけた
 おおむかし 犬は ほうそう神のめしつかいで 人間の国に何かできごとがあるとすぐしらせていた。あの悪いおそろしいほうそうをはやらせる神に何でも つげ口をするのが犬だとわかったので とうとう はいをくわされてしまい その時から口がきけなくなったのです。そうして 今でも犬が声をたててあくびをするとおそろしがって口の中に入れてやります。
 また、次のようなことも言われています。
 オキクルミが天国をぬけ出して人間の国へ来る時に
「下界には さかなやけものがたくさんいても 穀物はないだろう。」
と心配して 天上に育ったヒエの種を一つかみぬすみとり だれにも知られないようにと 自分のすねの肉をさいてその中にかくしてきた。たれかに見つかっては大変なので 大急ぎで天国の門を出ようとすると 戸口にいた犬が大声で、
「やあ たいへんだ。オキクルミがヒエのたねをぬすんで すねの肉の中に入れてにげ出すところだ。」
とさわぎたてた。オキクルミは はらをたてて
「うるさいやつだ。」
と言うと はいをつかんで口へ投げ入れて
「これからお前はものが言えないぞ。下界におりてもシカでも追いかける手伝いでもするがいい。」
としかった。その時から口がきけなくなった犬は ただワンワンとほえるだけで アイヌ達の狩のお供をして手伝いようになった。
 またアイヌが今でもヒエを犬にやらないのも こうした話があるからです。
(児童図書研究会編『北海道のむかし話』みやま書房、1956) 
 
時田昌瑞『岩波ことわざ辞典』には、「飼い犬に手を嚙まれる」(日頃目にかけ面倒をみてやっていた人や部下に思いかけず裏切られ、害を加えられることのたとえ。主人が忠実そのものの飼い犬から逆に危害を加えられるとしたら、忠誠心の強い犬の性質から見て、相当なことと言えよう。)「飢えた犬は棒を恐れず」「犬も歩けば棒に当る」「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ」「犬が西向きゃ尾は東」等などと言い伝えられています。 栗山町史編さん推進員 阿部敏夫
 毎朝、私の家の前を犬と散歩している人達がいます。改めて犬の種類や衣装に驚かされています。中学時代新聞配達をしていて、犬に追いかけられた経験がある私にはある種のトラウマがあります。アイヌ民話を紹介いたしましょう。

変わりゆく街74

変わりゆく街 74
アノロ・ウエンベツ原野の入植 その12
渡邊大助が、作った寺小屋式学校を維持するため各戸10銭出し合い翌明治26(1893)7月 教師に村田三次様を迎え本格的な教育内容である読書・算術・習字等教えていた。しかし 栗山駅が出来た明治26(1893)年以降市街地を形成していた旧ウエンベツ市街(現桜丘3丁目辺り)の人々が、栗山駅付近に移住したため、児童を集めての教育活動は出来なくなった。渡邊大助は、明治25(1892)年栗沢村戸役場が出来るとそのよく年の明治26(1893)11月から村内2名の総代の1人としてウエンベツ地区を代表して栗沢村総代に選出され栗沢村の発展に寄与した。空知郡栗沢村の総代でありながら、ウエンベツ原野のハサンベツ入植者子弟教育に、明治27(1894)5月 旧角田村の杉武一郎等と協力して栗山567番地の山本竹蔵の空納屋を借り、当時栗山駅長の弟だった笹森太郎を教師に授業が開始された。その学校を維持していくために児童20数人の家庭から一戸当たり粟1斗5升(19kg)を出して貰い必要経費に当て、このことから当時粟屋学校と呼ばれていた。その後も渡邊大助は、旧角田村の泉麟太郎と連携しながら郡界・村界変更の陳情を行い明治39(1906)4月、クッタリの分水嶺により南側のウエンベツ原野が旧角田村に編入され。名実共に旧角田村の栗山地区方面の発展にも大いに貢献した。現在錦2丁目室蘭本線沿いに居住されている渡邊大助の子孫渡邊満様のお話によると「…渡邊大助は現在の自動車学校のあたりに住んでいた(現在もその建物の一部が有り小松様が居住している)とおばあさんから聞かされ、その後 現在地に移転して住宅を建て、今から156年前までそこに住んでいた。何年頃からか分からないが錦一帯は小林酒造の屋敷と工場用地そして農地と杉武一郎と渡邊大助の農場地であったと聞かされている」と話された。いつ頃錦2丁目のこの地に移住したか分からないが、大正5(1916)51172歳で亡くなられた渡邊大助の葬儀では、多くの方々がお参りされていた様子の写真があったと子孫の渡邊満様が語られていた。今も広い屋敷に当時を偲ばせるイチイの木四、五本あり樹齢100年以上の歴史の重みを感じた。空知集人監看手を辞職した42歳で空知郡ウエンベツ原野ハサンベツに入植開墾に尽力した。栗沢村発足と同時に総代となり栗沢村の発展に力を入れながら、ウエンベツ川を隔てた旧角田村の発展に貢献し、郡村界の変更が明治39(1906)4月おこなわれ名実共に旧角田村々民となって10年後村民に惜しまれながら72歳の一生を終え台山墓地(湯地の願船寺境内東側)に埋葬され今も栗山町の発展を見続けている。                
つづく

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