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変わりゆく街81

変わりゆく街81
栗山町郷土研究員 中嶋 了之
由仁町の移り変わり
 夕張川と橋 〔その4〕
夕張橋が開通した後もその橋から川上に渡船場があり、由仁と旧角田村の阿野呂―南学田の人々が利用していた。
角田市街にある広済寺の月輪照雄前住職は「…その渡船場は今の橋が出来るまで利用されていたよ。私も川向の檀家で水野さんにはこの船に乗っていったものです。ある年の角田神社祭典の日は、由仁で写真館をやっていた鹿内さんが、写真機の道具箱を持って渡船場から船に乗り角田に渡ろうとした時船がひっくり返り命拾いをしたということがあった。話は変わるけど終戦の次の年だと思うが、中里部落の今村さんの田圃(たんぼ)に米軍の戦闘機『グラマン』が墜落し黒山のように人々が集まって来た。その時に角田市街にいた会澤さんが通訳したと聞いていたが…」と60年前の事を話された。
その会澤さんは、会澤輝寿といい当時の空知農業高等学校(通称・空農)の先生で青年教師だった。先生は、由仁、南幌高等学校長を歴任し故郷である角田市街に住まわれている。お元気でおられ早速、当時の事を聞いた。
「…米軍機の墜落のことだったら今もその様子が目に焼きついている。この日はちょうど日曜日だったか家に居りまして、何の気なしに午後だと思うが栗山の方を見ていると米軍の戦闘機編隊が轟音(ごうおん)を響かして飛んできましたね。そうしている内に1機がきりもみ状に墜落し、それが中里付近だと思いました。
仲間の戦闘機から占領軍の駐屯基地がある千歳に墜落した事故報告を受けたアメリカ軍は、すぐさまジープ何台かで角田の市街にやってきた。事故現場が分からずうろうろしていたところに『事故現場は分かるか』聞かれ、案内しろと命令された。先頭ジープに乗せられ角田村役場の横を通り事故現場であった夕鉄線路の栗山側にあった今村さんの田圃まで案内した。現場を見て驚きましたよ。戦闘機なんか何にもなく大きな擂鉢(すりばち)状の穴だけが残っているだけだった。すぐその場所は立ち入り禁止になりその後どうなったかわからない…」と話された。
また 共和で農業をされている斎藤義雄さん(当時156歳の少年)の話によると「その日の午後だと思うが田圃に出て除草機押しをしていたら、2機の戦闘機が飛んできて一機が白い煙を吹き上げ、きりもみしながら墜落した。すぐ田圃から飛び出し夕鉄線路に向かって走って行った時、近くのおばさんが『…はだしじゃ危ないからこの地下足袋(ちかたび)履(は)いて行きなさい』と貸してくれたよ。そこに着いて驚いたね。大きな穴だけはあるが飛行機は見当たらず時々バンバンと何かが破裂する音が土の中から聞こえ、とても恐ろしかった…」。

軟式テニス

軟式テニス ▼第11回空知高等学校春季大会(41421日・栗沢スポーツ公園)
▽男子シングルス ①木澤和也(岩見沢東)②真所秀伍(同)③篠原壮汰(岩見沢西)③石坂勇次(新農)▽ベスト8 武田理良(岩見沢東)安田晴智(緑陵)坂口心(同)山口泰輝(岩見沢西)
▽男子ダブルス ①木村茉生・三浦剛司(深川西)②安田晴智・坂口心(緑陵)③真所秀伍・木澤和也(岩見沢東)③古野元一・朝倉天晴(岩見沢東)▽ベスト8 江口友哉・松浦尚哉(深川西) 山口泰輝・篠原壮汰(岩見沢西) 遠藤成旺・村上磨央(同) 原田賢人・荒瀬祐太(深川西)
▽女子シングルス ①小谷茉衣(岩見沢西)②小野寺春菜(岩見沢東)③田村朋美(深川西)③堀佑実(岩見沢東)▽ベスト8 中村来実(深川西)佐藤英里(緑陵)南坂玲奈(同)野田真椰(深川西)
▽女子ダブルス ①南坂玲奈・佐藤英里(緑陵)②堂前那奈・田村朋美(深川西)③小谷茉衣・水戸奈津美(岩見沢西)③中村来未・長原楓夏(深川西)▽ベスト8 関野陽日・藤田優希(緑陵) 板橋聖里香・廣田紗希(新農) 長谷川梨々花・竹内萌衣(緑陵) 小野寺春菜・堀佑美(岩見沢東)

北の民話散歩-1

北の民話散歩
「人馬一体」を味わう
     栗山町史編さん推進員
阿 部 敏 夫
長沼町に「子連れ馬」という民話(『北長沼昔噺(むかしばなし)』)が伝えられている。
 農作業も忙しくなる春のある日、常次郎さんは良い馬をさがしに栗沢に出かけた。前日、うわさに聞いた堀田さんの馬を見るためだった。堀田さんの家に着くと早速、馬の話が始まった。やっぱりうわさ通りの五カ月の子連れ馬だった。常次郎さんはその馬を見て、ますます手に入れたくなった。その熱心さに打たれた堀田さんは、親馬だけを手放すことにした。そして、親馬が「猿(さる)ぐつわ」をかけられ、外に連れ出されるとき、仔馬は離れまいとするのだった。だが、すぐに小屋のなかに連れ戻された。なかでは親馬を呼ぶ仔馬の声がいつまでも続いていた。親馬も何度も何度も振り返った。
家に着いた常次郎さんのところでは、今日買ってきた馬の話でもちきりであった。やがて始まった夕食のときも、自然と馬の話になるのであった。
 夜中になって、馬小屋の方で大きな音がした。常次郎さんは急いで行って見ると小屋から飛び出した馬は、栗沢の方に向かって一目散に駆けていた。そして、夕張川のほとりに出た馬は、川に飛び込み激流を泳ぎ始めるのが見えた。その激しさを川岸で見ていた常次郎さんは、ただあっけにとられるのであった。同時に、「母馬の仔馬を思う心がそうさせたのだ」と思うようになった。
 その夜、まんじりともしないで夜を明かした常次郎さんは、翌朝早く堀田さんの家を訪ねるとそこには仔馬に寄り添う母馬の姿を見た。その後、常次郎さんは親馬を仔馬のそばに、しばらく置くように相談して、家に帰ったという。
親が子どもを思う愛情は、人間世界にも通じるものがある。
「馬」は、北海道開拓の担い手として農業、漁業、林業、交通、炭坑内の運搬作業などで重要な役割を果たして来た。それ故に、人びとは馬への願い、尊敬と感謝の気持ちを込めて「絵馬」や「馬頭観世音菩薩(ばとうかんぜおんぼさつ)」として祈願、慰霊の祭祀(さいし)が各町村で行われて来た。
馬は四千年もの昔から人間と付き合ってきた。その間、馬はひたすらに人間に献身的に奉仕して来た。その馬を評して「馬が合う」「馬を殺すと七代祟(たた)る」「馬を水辺に導くことはできるが、馬にその気が無ければ水を飲ませることは出来ない」「馬の耳に念仏」「馬車馬のように働く」「馬齢を重ねる」「名馬に癖あり」「老馬の智」などと人びとはことわざとしても語り伝えている。
「人馬一体」ということばがあるように人間と馬の交流が説話や信仰、ことわざなどを生み出して、現在まで語り伝えられている。

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