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栗山の歴史散見
栗山町史編さん推進委員
卜部信臣
明治の栗山駅
栗山駅の駅創設は1893年(明治26)である。それは、室蘭線開通の翌年で、「栗山」という地名が全国区になった時である。2本の鉄路が、東京まで連絡して、全国の列車時刻表に「栗山」の文字が印刷された時である。1911年(明治44)9月5日の栗山駅の写真が役場に所蔵されている。辺りの山から切り出された角材にかこまれるように石炭運搬列車まみえる。その最後尾に客車がちょこんと連結されている。これは、北海道の列車の特徴を雄弁に物語っている。北海道の鉄道は、貨物が主体で、旅客は当初から主体ではなかった。
栗山高校に本州から赴任した先生が言った。「お前たちや、その親がぼうーとしているからいいところは、みんな本州に持っていかれてしまっているのだ。しっかり勉強して独立の気概を持つたなくてはいけない。マッチの軸木の原料は、北海道から大阪へ、マッチの頭になる主成分のイオウも、北海道から大阪へ、そして、製品となったマッチを高いお金をだして買っている。・・・」と。
北海道の鉄道網は、貨物主体で富国強兵策のもとに広がった。それを貨物と旅客に分離して経営するとした出発点に今日の鉄道問題基本がある。
北海道の山は落葉広葉樹と針葉樹の混合林で用材となる保豊富な森林資源に覆われていた。この資源を求めて鉄道は奥地へ、奥地へと伸びた。明治30年代狩勝峠をこえたことは、北海道経済の大きな転機となった。北見、十勝が小樽の経済圏になったからである。現地では、小樽に穀物を発送する仕込み商店が周辺の穀物を集荷して、日用品の販路を拡大した。
空知は、森林の地下に眠る石炭を輸送するのに特異な様相を呈した。
朝夕、石炭列車が走っていた。線路わきに立っている電信柱を通過する車両を小さい時はよく数えていた。たいてい50両から60両であった。夜中に通過する石炭列車は、栗山トンネルを出ると家の窓枠がガタガタ揺れだし、それとわかった。
さて、森林資源を運びだし、石炭を運びだした鉄路。旅客と貨物に分離して、持参金のようにくれたお金も利息で運営でるはずであった利息も0政策。あとは、住民のみなさんの意向でどうぞうとは、国が国民の生活を如何にささえるかを問われている問題ではなろうか。kuri
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