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馬づくり五十年

札幌が日本出版界をリード
その見本「馬づくり五十年」村上 政吉著
 
 札幌が日本の出版業界をリードした見本がある。『馬つくり五十』である。奥付には著者吉田十四雄、発行者 村上政吉、印刷者 角榮一、発行者 札幌講談社となっている。北海道の農地で「もくもくと働き続ける馬 日本釧路種を生み出すのに生涯をかけた神 八三郎」の物語である。畜耕手刈という北海道独特の農法を全国に発信した。昭和22年戦後の混乱の中で印刷インキ、用紙が確保できて、印刷体制があった富貴堂書店が
北海道の独自の文化を発信していた姿である。その中核となった村上政吉は、栗山小学校を卒業して、苦学して早稲田大学を卒業して、子供向けの読み物から農業専門者など幅広い印刷を札幌講談社で展開する。
村上政吉の消息を尋ねる
 村上政吉は 明治36112日生まれ。大正4年栗山小学校を卒業している。その後上京して書生など苦学して早稲田大学を卒業して講談社に入社。昭和202月から5月にかけての東京大空襲によって、東京の出版社は出版事業が出来なくなった。講談社は、いち早く、札幌の富貴堂に支社を出した。その時の責任者が村上政吉である。講談社に続いて創元社、筑摩社、霞ケ関書房、青磁社など11社が札幌進出して、200点前後の書籍を刊行した。雑誌は8種類が札幌発となった。昭和24年までは、札幌が出版の中心となった。村上政吉は、土地勘を活かして、地方で地道に研究・執筆をしている人を掘り起こして、出版事業を続けたので、北海道出版事業を通して、北海道文化の向上に果たした業績は大きい。しかし、地元栗山では村上政吉は知らていない。講談社退社後は、印刷業に携わったと記録にあるけれども具体的なことは不明です。どなたかご存知の方教えてください。
 村上政吉が出版関係を志したことについては、次のことが語られている。
 栗山小学校の時、巌谷 ( いわや )小波 ( さざなみ )が子どもたちに童話を話して聞かせるために来校した。巌谷小波は「富士山」という童謡の歌詞で有名である。「頭を雲の上にだし、四方をの山を見下ろして、雷様を下に聞く、富士は日本一の山」。巌谷小波を迎えるにあたって、児童代表が口演童話をしようと村上政吉がその代表に選ばれた。当日、政吉は、巌谷小波の前で熱演した。終了後巌谷小波は「わたしは、全国をまわっているが、こんな立派な童話をきいたのは、今日が初めてだ」と称えたという。このことが上京の動機ではないかと語り継がれている。(栗山町史編さん推進委員 卜部信臣)
 
1     明治36112日生まれ
2     大正43月栗山尋常小学校卒
3     上京して書生となり、苦学して早稲田大学卒
4     講談社に入社。
5     戦後 札幌富貴堂に講談社の出張所が設置されるとそこの責任者として勤務
 
懐旧変わりゆく街73
 
アノロ・ウエンベツ原野の入植 〔その11
栗山町開拓記念館広報第48号の「開拓功労の人たち 渡邊大助氏」特集の中で貸付を受けた土地は、今の栗山市街より12(1.3㌔㍍)岩見沢に8(31㌔㍍)、今のハサンベツ林道(桜丘森林道)のところである−とある。
また、移住者成績調査にある『同地方に於ける水田開発の嚆矢(こうし)なり』とあるように水田作りに必要な水確保の為(ため)の溜池(ためいけ)2面の後が今もハサンベツの奥で見ることができる。このことから現在の栗山町における水田作りの発祥は、ハサンベツの地と言える。渡邊大助氏は貸下げを受けた土地の開墾(かいこん)に専念する傍(かたわ)らいろいろな事柄(ことがら)にも手がけた。
前号でも触れたように入植地は、空知郡ウエンベツ原野のハサンベツなので、いろいろな手続きするにも市来知(現三笠市)にあった空知郡役所や栗沢村戸長役場設置までは、岩見沢戸長役場に行くためにも道路を作らねばならなかった。北海道庁の方針により空知集治監で服役中の囚人を道路作りにつかせ、明治23(1890)年工事が始まり、工事現場で囚人を収容する飯場1号棟が清真布(現栗沢市街地)、2号棟は渡邊大助氏の地先(J℞栗丘トンネル付近)、3号棟は角田(現角田小学校の敷地の向かい側)3個所に設けられた。
各棟とも5060人の囚人と看守や飯場で賄(まかな)いをする人など多くの人が道路完成まで滞在し、それぞれの地にいろいろな商いをする人が店を構えた。道路作りの土方(どかた)をする囚人は、赤い作業服、赤い股引(またひき)、赤足袋(あかたび)、赤帽子など赤一色で統一され、逃亡しても目立つようにしていた。
時々道路工事のそばを歩く男の人に「たばこ」をせがみ自分が持っている赤足袋(あかたび)と交換していた囚人もいて、囚人が履(は)いていた赤足袋は、何枚も重ねて縫ったとても丈夫な足袋で開拓民にとっても重宝なものだった。また、夕張炭鉱や幌内炭鉱の石炭を港のある室蘭に輸送するため北海道炭鉱鉄道会社を起業者に、岩見沢―室蘭間の鉄道敷設工事を明治241891)年に始まった。栗丘トンネル工事には、クッタリ(現岩見沢市栗丘)とハサンベツ(現栗山町桜丘4丁目付近)に労務者の飯場や資材置き場、そして飲食店や雑貨店、宿屋などができ両地区に市街地が形成され、渡邊大助氏もこの大工事にいろいろかかわっていた。
明治25(1892)年、入植者の子ども達のために現在の桜丘74番地(現在の火薬庫入り口)の富岡長三郎氏の一部屋を借りて8〜9人の児童の教育を開始した。教師は、辻某という人で旧栗沢村やの栗山地区の「教育発祥の地」ともいえる。

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