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懐旧かわりゆく街 74
アノロ・ウエンベツ原野の入植 その12
渡邊大助が、作った寺小屋式学校を維持するため各戸10銭を出し合い翌明治26(1893)年7月、教師に村田三次氏を迎え本格的な教育内容である読書・算術・習字などを教えていた。しかし、栗山駅が出来た明治26(1893)年以降は市街地を形成していた旧ウエンベツ市街(現桜丘3丁目付近)の人々が、栗山駅近くに移住したため、児童を集めての教育活動は出来なくなった。
渡邊大助は明治25(1892)年、栗沢村戸役場が出来るとそのよく年の明治26(1893)年11月から村内2人の総代の1人をウエンベツ地区を代表して栗沢村総代に選出され栗沢村の発展に寄与した。
空知郡栗沢村の総代でありながら、明治27(1894)年5月ウエンベツ原野のハサンベツ入植者子弟教育に、旧角田村の杉武一郎等と協力して栗山567番地の山本竹蔵の空納屋を借り、当時栗山駅長の弟だった笹森太郎を教師に授業が開始された。
その学校を維持していくために児童20数人の家庭から一戸当たり粟1斗5升(約19㌔)を出してもらい、必要経費に当てた。このことから当時は粟屋学校と呼ばれていた。その後も渡邊大助は、旧角田村の泉麟太郎と連携しながら郡界、村界変更の陳情を行い明治39(1906)年4月、クッタリの分水嶺により南側のウエンベツ原野が旧角田村に編入され。名実共に旧角田村の栗山地区方面の発展にも大いに貢献した。
現在の錦2丁目室蘭本線沿いに居住されている渡邊大助の子孫の渡邊満さんの話によると「…渡邊大助は現在の自動車学校のあたりに住んでいた(現在もその建物の一部が有り小松さんが居住している)とおばあさんから聞かされた。その後、現在地に移転し、今から15〜6年前までそこに住んでいた。何年頃からか分からないが錦一帯は小林酒造の屋敷と工場用地そして農地と杉武一郎と渡邊大助の農場地であったと聞かされている」と話された。
いつごろ錦2丁目のこの地に移住したか分からないが、大正5(1916)年5月11日72歳で亡くなられた渡邊大助の葬儀では、多くの方々がお参りされていた様子の写真があったと子孫の渡邊満さんが語られた。今も広い屋敷に当時を偲ばせる櫟(いちい)の木が4、5本あり樹齢100年以上の歴史の重みを感じる。
空知集人監看手を辞職して42歳で空知郡ウエンベツ原野ハサンベツに入植して開墾に尽力した。栗沢村発足と同時に総代となり栗沢村の発展に力を入れながら、ウエンベツ川を隔てた旧角田村の発展に貢献し、郡村界の変更が明治39(1906)年4月おこなわれ、名実共に旧角田村の村民となった。10年後に村民から惜しまれながら72歳の一生を終えた。台山墓地(湯地の願船寺境内東側)に埋葬され今も栗山町の発展を見続けている。
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