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変わりゆく街83
栗山町郷土研究員 中嶋了之
由仁町の移り変わり
夕張川と橋〔その6〕
栗山町の.円山、南角田、さらに奥地の東山の人々が役場などの行くため起伏の多い道を歩いて行くよりも、由仁の東三川に出て三川駅から汽車で栗山に出た方が便利だった。そんな声に、円山渡船場の所に橋を架けてほしいと栗山・由仁両役場を通じて要望した。
一方、栗山町南学田から由仁町岩内に渡る塚田渡船場に橋を架けて欲しいとの要望があったが、結果的に円山渡船場の所に橋を架けることに決まった―と、旧栗山町史(昭和46−1971年発行)に書かれている。
昭和28(1953)年11月、三地区待望の円山橋の工事が始まった。順調な工事の進展の中、昭和29(1954)年9月15日突然襲来した台風15号による豪雨により由仁町側の橋脚が流失してしまった。その後復旧工事を行いながら予算の関係で由仁側の半分は橋梁の上部は木桁に木床板張りとなりその後の腐朽も激しかった。一方、栗山町側の半分はH 鋼に木床板張りで破損も少なかった。このような自然災害と戦いながら夕張川に架かる4番目の橋として誕生し、由仁町側から亀淵丈平3代夫婦と栗山町側から桂長作3代夫婦が渡り初めでお祝いした。
一つの橋が奇妙な姿をしているので通行する人々に不思議がられた。由仁町の南端にある川端地区は、北海道炭鉱鉄道会社の夕張線が開通して川端停車場が出来たのは、明治27(1897)年で、この地域は、火山灰の利用と木材の搬出などで一時にぎわった。旧角田村滝下(明治30−1897年まで旧登川村、現在の夕張市に所属していた)にも開墾のため入植者が増え、日用品や食料品などを求めて川端にやってきた。橋もなく人々は危険と知りながら鉄道の橋『鉄橋』を渡って用足しをしていたが、鉄橋が出来た頃鉄道会社は鉄橋を渡らせないため警備員を常駐させて事故防止に努めていた。
しかし、警備員の目を盗んで鉄橋を渡り痛ましい事故もあった。滝下の住民は、解決の一策として人だけを運ぶ渡船場を作り、大正年代は原田万作を渡し守に滝下、川端の人々を船で運んだ。夕張方面への農産物は、夕張川の渇水期に荷馬車で川を渡ったが、とても不自由だった。
せっかくの渡船場も利用者が少なく自然閉鎖になり相変わらず危険な鉄橋を渡っていた。その後、昭和12(1937)年に由仁土工組合が夕張川堰堤(えんてい)工事のため、工事関係者の往来も多くなり滝下渡船場が再び原田万作の経営で始まった。滝下、川端地区の人々の橋を架けて欲しいとの強い要望で、夕張線が開通した当初複線であったが使われていない橋脚を利用して木造の橋を作ることとなった。
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