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カランコロン下駄ばき人生
星野 貞夫
(1)心の安らぎ鎮守様「栗山天満宮」
古代先人の清浄な信仰心を継承し、清澄(せいちょう)の地・桜丘に恭(うやうや)しく遷宮(せんぐう)奉(たてまつ)り広く地域住民から崇敬(すうけい)の念を今に伝え、これからも未来永劫(みらいえいごう)語り継がれていくことでしょう。
栗山天満宮の由来と昔の南空知地方の荒荒しい大自然大自然の様子をアイヌ人の口碑が今に語り継がれてきた。
昔は現在の石狩と空知管内を「石狩の国」と呼び、南空知地方を市来知地帯と呼んでいた。
市来知地帯は、「昼はあっても昼はなし」と言うくらい樹海と高草に閉ざされた無人地帯で、しかも万年湿潤(しつじゅん)の地であった。冬は寒風が吹き荒れ、多雪と酷寒の荒れ狂う大自然の原野であったと伝えられている。
明治の初期、ときの明治政府は蝦夷地(えぞち)を農地開拓と鉱物資源採掘の二つを基本重要事項として政策を推し進めてきた。
鉱物資源採掘のため幌内煤田(炭鉱)の開鉱を推し進めることになった。
しかし、この広大な山野は人も寄りつかせない暗い樹海を高草に覆われ、更に多雪と酷寒の厳しいこの地は無人地帯であった。
シャモ(日本人)の高官・黒田開拓長官は、工夫不足に幾多の壁に悩まされながらアイヌ人の投入をケチしたのであります。
アイヌヲ宗谷ニ置クヲ許サズ
未開蒙昧(もうまい)の民ナレバ
石狩ノ炭山ニ入ルルに若カズ…と
号令し無謀にも幌内煤田へ強制移住を命じた。
その時、月形書記官は、「ほほうアイヌ人を炭鉱に投ずるとはね。アイヌは元来、海上に出て海獣をおって海猟を営み、また山中に分け入っては熊や鹿などを捕獲し、更に鳥を捕獲して生活している流浪の民族である。このアイヌヲ炭山の地中深く潜らすことは全く反対の生活を強いるものであり、軌道に乗るような適宜な政策でない」と批判していた。
人情半官で知られる松本十郎は「アイヌ達ヲ構内作業ニ駆使するは懲役同様ノ酷使デ惨忍ノ至リナリ」と強く反対した。
しかし開拓使は「既定方針は覆す訳にはいかない」と強制移住を命じた。
怯えるアイヌたちを有無を言わさず無理矢理(むりやり)、根こそぎ強制連行し乗船させた。連行されたアイヌには行方は全く告げられず恐怖と不安の船に揺られ揺られて上陸したのが厚田や小樽であった。
暗い樹海と高草に閉ざされた人類未踏といっても過言でないこの万年湿潤の地を川や沼などを避けながら高草を切り倒し、また小枝を払いながら獣が通るくらいの道を造り幌内煤田に向かった。
先導者は厚田から幌内に着くまで方向確認のため高い木に何回も何回も登り、方向を核にしながら数拾日もかかってアイヌの集団を誘導し幌内煤田に着いたという。
アイヌは、強制された地下の採炭夫を恐れ、またタコ部屋の宿舎に怯え逃亡者が続出した。結局アイヌ人による石炭採掘は出来ない相談になったという。秘かに妻子を連れて集団脱走したアイヌ達は脱走途中、ある者は北へ、ある者は南へと再会と幸運を誓いながら離散していった。
逃げる途中、焚火をたいて暖をとったり、獣を焼いて食したりしていた。しかし焚火の煙が看守に見つかり捕らわれの身になった者もいたという。
南の山裾にいた妻子連れの数家族のアイヌ達はキヨマップのクッタリ山の山麓に着いた。
クッタリ山の山裾(やますそ)附近は、清流及び漁猟豊かな川(夕張川と雨煙別川の合流河川)が流れ、さらに狩猟豊かな山があり狩猟民族にとっては恰好(かっこう)の所で、この地を安住の永地と決断し土着したのであります。
幌内煤田は、アイヌの相次ぐ脱走で労働力不足が深刻になった。その労働力不足は数年間も続いたという。
明治15年、樺戸監獄の分監として幌内煤田近くに空知集治監が施設された。習字間の囚人は、本州から護送されて来た犯罪者であり、罪の償いとしてアイヌ人に代わって採炭夫として投入されたのであります。
幌内炭山は、囚人だけでは採炭人夫は全く足りず、悲鳴度が益益深刻になった。当時の社会は、暗刻な闇世にあって人身売買が横行し、本州の北陸法眼の働き盛りの人が人攫(さら)いに遭遇し、有無を言わせず鞭(むち)をもって強制乗船させられ蝦夷の幌内煤田に送られた。
時の為政者たちにとって、蝦夷地の辺境地を開拓するため労働力として囚人こそもっとも容易に調達でき、しかも低賃金、たとえどのような劣悪な労働環境と過酷な労役を彼らに強制したとしても、為政者から罪を持って報いられることのない格好の労働力供給源であった。集治監とは名ばかりでタコ部屋であった。
空知集治監は陸の孤島であり二度と人里に帰られぬ孤島と呼ばれ、最も恐れられた集治監であった。
幌内炭山は、囚人だけでは採炭夫が全く足りず、悲鳴度が益益深刻になった。当時は暗黒な闇夜であって人身売買が横行し、北陸、越後、東北方面の働き盛りの人が人攫(さら)いに遭遇し、有無を言わせず鞭(むち)を持って強制乗船させられ蝦夷の幌内煤田送られて来た。
鞭うつ重労働に疲れ切った体を横たえて寝ても妻や子供、そして懐かしの故郷が瞼(まぶた)に浮かび安眠につくことのない日日が続いた。
そよそよと心地よく吹く風に静かに揺れるかすかな葉の音を聞きながら月夜星空を眺(なが)めよきふる里を染み染みと想い出して妻や子供の達者を祈願しつつ妻子と惜別の別れに堪(た)え難(がた)く忍び泣きに暮れていた。
日日の寂しさ、そしてタコ部屋の鞭と残虐(ざんぎゃく)極(きわ)まる仕打を眼にした彼らは脱走の意気を奮い起こし数人が一団となって必死に脱走した。
飲む水に妻子の影映り 心身惜別の情に堪(た)え難く 我れ脱走の意を決す
脱走経路は定かではないが、クッタリ山の山頂に辿(たど)りついたとき眼科は樹海と高草の原野であった。そして驚いたことは真下の樹海から微(かす)かな煙がたちのぼっているのが見えた。恐る恐る下山したらアイヌの数家族と出逢(であ)った。
出逢ったアイヌの人達は、幸い人情豊かな人達で互いに煤田の苦労話で意気投合した。アイヌは、「この山には煤田の追い手もこない」と教えてくれたので安堵(あんど)し、アイヌの人達と共に農耕や狩猟をしながら暫(しばら)く居住するようになった。
しかし生活習慣の違う資料生活に慣れず、また高草と樹海に閉ざされた万年湿潤に悩まされていた。
過酷な労役と鞭に怯えた恐怖の錯覚から風に揺れる草木の音が追い手の足音聞こえ、また熊(くま)の強襲の足音にも聞こえ安閑としておれなかった。
風そよぐ栗の葉 音ぞ身にぞ沁む 名も恐し熊の里
昔は雨煙別を境にして山手はキヨマップ(栗沢)で、片方はユニ(由仁)でありました。
昔、住民の皆さんは今のお大師山をクッタリ山と呼んだ。小高く美しい静寂な山裾に寺院が建立(こんりゅう)されると、地域住民の皆様は信仰心とともに心の安らかさのお大師山として馴染(なじ)み、敬愛され今に至っている。
戦後、栗山中学校は静かな山裾に設立され、優秀な人材が育成されてきたが、社会の近代化とともに国道造成の関係から中学校は湯地に設立して開坑した。
昔昔、クッタリ山頂から今の栗山市街を見下(みおろ)した時は見渡す限り樹海と高草の原野であった。この荒荒しい原野をアノロ原野と呼んでいた。
数年後に入植してこられた渡辺大助氏、杉武一郎氏の他数人の開拓者を専従のアイヌの数人がシャモ(日本人)が信仰していた大樹の祠(ほこら)に案内しシャモ達が日日神様に敬虔(けいけん)していた様子を克明に伝えた。
開拓者は、この尊いお話を聞き敬意をもって継承されてきたのが栗山神社の由緒であり謂(いわ)れであります。
このアイヌの伝言がアイヌの口碑(くちひ)と言われ、歴史の1ページにして今に伝えられています。
明治二十四年には鉄道の布施(ふせ)事業が始まり、明治二十六年に栗山停車場(ていしゃば)が開設されたのであります。
前文で記述したが、旧神社附近また栗山駅周辺、そして市街地は昔はウエンベツブトと呼ばれていました。北海道の開発が進むにつれてこの地域もそのころから栗山と呼ばれるようになったという。
人家三十余戸と急速に増えだした。丁度(ちょうど)その頃であります。酒喜久左衛門氏、山崎俊吉氏、村田三次氏らの有志が首唱(しゅしょう)し、明治二十四年に大樹の祠(ほこら)を栗山神社として祭祀(さいし)されてきたが、有志のご奉仕で小社殿が建立された。
社殿の建立を機に太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)のご分霊を奉祀(ほうし)し、菅原道真(すがわらみちざね)公をご祭神として崇敬(すうけい)してきたのが当初のきっかけと言われています。
その後、拝殿の造営は、社務所の建設がおこなわれてきた。
大正十四年、市街の戸数が二百五十戸に増えた頃、街の有志の総意で社殿が拝殿が新たに建立されることになった。寄附の筆頭に村上太作氏の五百円という大金を始めとし合計四千七百六円六十銭が集まった。
当時は敬神(けいしん)の念絶対的な時代で栗山市街の人びとが挙げて醵金(きょきん)された結果、立派な社殿と拝殿が建立されたのであります。
この時建立されたお社(やしろ)が昭和四十四年まで旧栗山神社であります。
当時の御輿の渡御は総勢百三十数名にのぼつた配置で昭和二十五年頃まで肩に担いで各町内を練り歩いた―と、伝えられています。
昭和四年には村社「栗山神社」として昇格、道長官より神◎幣◎料を共進する神社に指定され、昭和二十七年に至って宗教法人法に基づき栗山天満宮と改称されました。
第二次世界大戦即ち太平洋戦争後、特に社殿の腐朽(ふちく)が目立ちだし、新造営の気運が上がるが造営の位置や予算など時いたらずにして徒(いたずら)に遅延を繰り返してきた。
昭和四十一年に至って新たに栗山天満宮造営協賛会が発足し、新造営が決議され敷地の狭隘(きょうあい)等将来の見通しに立って清澄(せいちょう)の地・桜丘に遷宮を決定されたのであります。
昭和四十三年の開道百年と時を同じくして社殿、拝殿、職舎の造営に着手された。全町民からの尊い献費約一千八百万円の浄財を当て昭和四十四年に完成し、同年九月四日盛大に恭(うやうや)しく遷宮祭が挙行されたのであります。
その後、内外の整備を終えて広く人びとの氏神様として敬迎され、今日を迎えてききました。
造営されて早や三十年が経過遷都するが、数年前から社殿、社務所の老朽化が目立ち始めていた。
平成七年二月上旬の豪雪で手水舎(てみずしゃ)が崩壊、更に社務所も雪害を受けた。
社殿の高欄、職舎の床、社務所の土台などの腐蝕がすすみ、改修工事の提案があった。しかし予算等の関係で話し合いは遅延していた。
清澄の地・桜丘に恭(うやうや)しく遷宮されて三十年という意義深い有縁(うえん)の年が平成十年であって広く町民が記念事業の気運がもちあがり平成九年、町民有志、そして総代、役員の諸氏を以って改築協賛会が結成されたのであります。
意義深い記念事業に氏子の尊い献費を浄財として平成十年、大々的に復元改修、補修の工事が行われ、立派に完成を見たのであります。
未来永劫、私達地域住民の栄光の氏神様として敬迎されています。
冬の間中,凍傷の心配は常に付きまとい、吐く息が眉毛についてしもとなり、耳はもちろん鼻先まで霜焼になるという厳しい酷寒にさらされ、更に春夏秋冬ともなれば時かまわずして熊の出没に兢兢(きょうきょう)と恐怖に怯える日日が続いた。
彼らはこの地になかなか馴染めなかったという。
シャモ(和人)は、大樹の根元の空洞を祠(ほこら)にして八百萬(やおよろず)の神を恭(うやうや)しく祭祀(さいし)、今日ある健身は神様のご加護(かご)と崇拝(すうはい)していた。
自らの拙(つたな)さから、ふる里へ二度と帰れない陸の孤島で忍び泣き、樹海の隙間(すきま)から僅(わず)かに射し込むご来光(らいこう)を仰(あお)ぎ奉(たてまつ)り、ふる里の妻や子供の健康を祈願していた。
栗山天満宮も菅原道真(すがわらみちざね)公を恭(うやうや)しく祭神祭祀(さいじんさいし)申しています。
菅原道真公は幼少のころから学才にたけ、日夜勉学に励まれ十八歳にして早くも文章生に補せられ、その後は文章博士讃岐守等を経て御年(おんとし)五十五歳にして右大臣に任ぜられました。しかし延喜元年に右大臣の藤原時平によって太宰府へ左遷されたのであります。
菅原道真公は、この地で五十九歳の生涯を閉じられました。
延喜五年、お墓の上に聖廟(せいびょう)を建立したのが太宰府天満宮の始まりであります。
京都の北野天満宮は京都に疫病が蔓延(まんえん)したとき、人々の口から菅原道真公の祟(たた)りであると騒ぎになり、時の天皇が道真公の御霊(おんれい)を弔(とむら)わんと死後四十五年の天歴元年(九百四十七年)に建立したもので、その後二度も戦火にあったが慶長十二年(一千六百七年)豊臣秀次片桐且元を奉行として建立させ、これが現在の北野天満宮であります。
栗山天満宮の神殿内にある御霊は明治二十四年太宰府天満宮より分けいただいたのであります。京都の北野天満宮については、昔から栗山天満宮の氏子たちが回を重ね北野天満宮へ参拝に赴くなど非常に意義深い関係にあります。
太宰府天満宮との縁(えにし)は、その後さらに濃いものとなり昭和四十四年、栗山天満宮遷宮の折り、太宰府の桜門前の鳥居を描写した同寸法の御影石(みかげいし)造りの大鳥居を小笠原治郎氏より寄進を承りました。
小笠原治郎氏の寄進にかかわる伝文を大宰府の菅神尊影第三十八代高辻信定宮司に揮毫(きごう)していただき、更に遷宮の折にわざわざ太宰府よりご参列していただくなど、こうしたご縁で太宰府天満宮とのつながりは、ますます深まりました。
菅原道真公は、いまも全国民の崇敬篤く、真の神、学問の祖神、広く文化の祖神として敬迎されております。
歴代宮司
初代 江波 節
二代 久保 愛三 昭和二十一年
三代 林 理作 昭和二十一年十一月 昭和三十七年二月
四代 林 一路 昭和三十七年三月 平成十七年六月
五代 山形 秀晴 平成十七年七月一日
歴代総代長
初 代 村田 三次 大正 二年 大正 九年
二 代 森 啓蔵 大正 十年 昭和 三年
三 代 村上 太作(初代) 昭和 四年 昭和十一年
四 代 堀井惚太郎 昭和 十一年 昭和二十三年
五 代 島田 与吉 昭和二十二年 昭和二十六年
六 代 松原 武吉 昭和二十六年 昭和二十八年
七 代 古野幸太郎 昭和二十八年 昭和三十一年
八 代 山谷 利平 昭和三十一年 昭和三十六年
九 代 高山 金作 昭和三十七年 昭和四十七年
十 代 村上 太作(二代) 昭和四十八年 昭和五十七年
十一代 中井 範男 昭和五十八年 昭和五十九年
十二代 砂田 静夫 昭和五十九年 昭和六十二年
十三代 名古屋 茂 昭和六十三年 平成 元年
十四代 石田 利光 平成 二年 平成二十四年
十五代 湯地 定暁 平成二十五年
栗山天満宮の沿革
口碑 明治初期アイヌ人数家族が夕張川沿いに居住
後にシャモ(和人即ち日本人)も居住
シャモは、大樹の根元の空洞を祠(ほこら)にして八百万(やおよろず)の神を祭祀していた。
明治二十一年 渡辺大助氏、杉武一郎氏の入植、開拓がはじまる。
明治二十四年 居住三十四戸となる。鉄道敷設事業始まる
酒義壽ヱ門氏、山崎俊吉氏、村田三次氏達は、小社殿を増築された。栗山神社と称し太宰府天満宮の御分霊を奉祀する。
明治二十六年 栗山停車場開設。
明治三十一年 住居壱百六十余戸となり、社殿を改築、社地は石井パレアーノより松川浅次郎に譲渡、更に谷田清次郎氏に帰す。谷田清次郎氏六百坪余りを改めて社地として寄附、その後は拝殿十四坪造営、戸数も五百戸に至る。
社格昇進要望高まり、五百七十五円の篤志寄附あり。
明治四十五年 六月二十五日 公認神社「無格社」許可を得る。
大 正 七年 社務十三坪五合建設、醵金五百円
大 正十四年 社殿(間口一間四尺、奥行き一間二尺)拝殿(間口五間、奥行き三間三尺)
十七坪五合を造営、その他は幣殿六坪、社◎所二坪、奉楽所二坪、造営醵金壱千壱百円
大 正十五年 御輿殿十坪造営三千四百円。
御神輿渡御用調装寄附五千円余。
昭 和 三年 桜丘御大師山村有地八町一反六畝二十歩を譲り受け、私有地とする。
基本金壱千四百円余で造成し、村社昇格を請願。
昭 和 四年 八月二十三日村社許可。
九月八日同長官より神◎幣◎科供進神社に指定される。村社昇格を祝い中越懇話会(富山県大会)が主唱し獅子舞渡行。
昭和二十四年 造営奉賛会設立するも時いたらず実現せず。
昭和二十七年 三月二十五日、宗教法人法に基づき「宗教法人・栗山天満宮」と改称。
昭和四十一年 新たに栗山天満宮造営協賛会(高山金作会長)を設立。新造営を決議。
社地都市計画で道路となるため売却、旧帝国繊維事務所跡附近に移設が決まる。
昭和四十二年 社地弐千壱百坪を買収、桜丘社地、栗山公園用地として売却。
昭和四十三年 新殿完成、九月四日に遷宮祭を挙行。
小笠原治郎氏が御影石の大鳥居を寄進。
小林米三郎氏、松原武吉氏、社号板寄進。
昭和五十四年 遷宮十周年祭挙行。総代長に村上太作氏。
栗山天満宮秋季大祭
菅原道真公は、太宰府において五十九歳の生涯を閉じられました。
太宰府天満宮では二十五年に一度、大祭を挙行しておられます。
この二十五年の意義は、道真公ゆかりの日でつまり生誕が平安時代の前期である承和十二年(八百四十五年)六月二十五日であります。
左大臣・藤原時平に左遷された日も平安時代の中期である延喜元年(九百一年)二月二十五日であります。
菅原道真公がご薨去(きょうきょ)された日が平安時代の中期である延喜三年(九百三年)二月二十五日であります。このように二十五日と言う日は大きな意味を持っています。
京都の北野天満宮の縁日も二十五日で門前には露店が八百余店とにぎやかに軒を並べる。栗山天満宮も九月二十五日を大祭と定め、その様相は北野天満宮の縁日にも負けず劣らずの賑やかさでございます。
これからも栗山天満宮へのご参詣を仰ぎ、更に菅原道真公の御遺徳の昂揚を通して人びとの心の安らぎの広場として未来永劫(みらいえいごう)、敬迎されますことを期待しています。
美しや 虹の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある
東風(こち)吹かば 匂いおこせ 梅の花 あるじなしとも 春を忘るな
父祖代々、優れた学者の血脈を承け道真公は幼年のころから庭の紅梅を眺めて詠じ、人々を驚嘆させた。
天満宮と言えば菅原道真公をご祭神とした福岡県の太宰府天満宮と京都の北野天満宮、そして栗山天満宮も地元住民、近郷の住民から広く知られ敬迎されています。
天神さまのお社は日本全国津々浦々にあります。
その数はおよそ一万一千数百社があり、たいへんな数です。
須川道真公と天満宮
天満宮と言えば菅原道真公をご祭神とした福岡県の太宰府天満宮と京都の北野天満宮、そして栗山天満宮も地元住民、近郷の住民から広く知られ敬迎されています。
天神さまのお社は日本全国津々浦々にあります。
その数はおよそ一万一千数百社があり、たいへんな数です。
わらべの唄
何方様にも懐かしく思い出されるのがわらべの唄ではなかろうか
通りゃんせ 通りゃんせ
此処ははどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
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