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変わりゆく街82
栗山町郷土史研究員 中嶋 了之
由仁町の移り変わり
夕張川と橋 〔その5〕
由仁の古川部落史(昭和61―1986年発行)の年表によると橋が完成した2年後の昭和23(1948)年の豪雨により夕張川増水でその橋が流された―との記録があった。荷馬車からオート三輪へと車社会への変容が見られ始め、夕張川の増水に耐えうる橋、また橋上を相互に通行できる橋への要望が高まりで、コンクリ−トの永久橋にと昭和34(1959)年11月4日永久橋に生まれ変わった。その時の完成を祝っての渡り初め式には、栗山町側から阿野呂の石田茂平3代3夫婦と由仁町側から亀淵丈平3代3夫婦が初渡りし橋の完成を祝った。
その後、継立に抜ける道路も開通し道道3号線(札夕線)として札幌―夕張間や岩見沢から苫小牧までの国道234号線の大動脈として大きな働きをしている。旧角田村三日月と由仁村古川を結んでいた旧夕張橋も37年間の役目を終え、旧夕張橋があった三日月側は道路跡を由仁町古川の国道であった旧夕張橋から鷹田地先までの旧国道は古川北線として利用されている。
栗山町と由仁町を結ぶ2番目の橋として円山橋が架けられた。ここにも橋が出来る前まで「円山渡船場」があった。明治30(1897)年代になって築別に入った人々は、由仁側の東三川から夕張川を丸木舟で渡り、すでに北海道炭鉱鉄道の室蘭本線や夕張線が開通して三川停車場や川端停車場があったのでこの地に入植した人々は、日用品や生活物資の調達に欠かせない渡船場だった。
明治37(1904)年、由仁村東三川に簡易教育所(後に廃校になった由仁町立東三川小学校の前身)が設立され、南角田や円山に入植した人々の子供たちが、この簡易教育所に通学のため渡船場を利用した。丸木舟では多くの人が運べず危険であるので南角田・円山・滝下の3部落共同で御料林(当時皇室の財産としてあった林)の払い下げを受け本格的な船を作り、3部落橋共同経営の渡船場を開設し、固定給の渡し守を置き3部落の人々は無料、それ以外は有料とし渡し守の収入とした。その渡し守を永年務めた菅原三郎・石川寅一に由仁町側の人々も大変お世話になった。農産物などを運ぶにも船では運ぶ量が限られ橋を架けて欲しいとの住民の要望が由仁村・旧角田村に出されたが、戦争中でも有り実現には困難を極めた。昭和20(1945)年、東京都から食料増産のため疎開を兼ねた集団移住があり、旧角田村円山の山側に入植(現在の東山地区)し人々の往来にも、ぜひ橋を…との願いが高まった(東山開拓についてのご苦労した様子は後日述べたい)。終戦から10年たったころ国でもこの場所に橋を架けることの検討が始まった。
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