日記

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カランコロン3

カランコロン下駄ばき人生
星野 貞夫
<一>
 (3)高齢の菜菜葉に付ける薬なし 痴呆症チグハグ一記
ボケ防止の一筆 数年前から日本の政財界の不安定な影響か、昨今の日本社会は身の竦(すく)ような凶悪な犯罪事件が続発し、国民の心は不安のおののき揺れている。渡すは日日、身の竦むような報道を見聞きしていますが、高齢の精か一抹の不安が脳裏を掠(かす)め、寂しく思いながら日暮しさせていただいています。
 高齢の精かボケと並行して物忘れが激しく、人様に見せられない恥に自ら赤面している。
 脳の衰えからきたボケの精か一日が短く感じるとともに壱年の過ぎる速さにも驚きながら呆然(ぼうぜん)としている。一年の立つ早さに思案してみたが、全く分からず四季に関連した行事の多い「美しい日本の行事」を簡単に一筆してみました。
 昨今の世は高度な文明社会に恵まれた生活環境も様変わりし、大都市も日本列島の津津津浦浦の地方や寒村にあっても薪(まき)や石炭の生活でなく、ボタンやスイッチ一つで高度な生活が営まれるようになった。
 ボタンやスイッチ一つで日本国内の諸々(もろもろ)の情勢が解る高度な文明社会となりました。
 私は十九歳で新潟村字新潟から一人下駄履きで渡道しました。当時は主戦直後の甚だしい食糧難、そして物資の欠乏時代でした。
 私は今もって自分の人生は「カランコロン下駄ばき人生」と心得て生活しております。長い下駄ばき人生を健康でしかも長い年月、支障もなく商法に専念させていただいてきたことは、両親は無論のこと西川夫妻、そして母校の恩師の薫陶(くんとう)のおかげと友人知人、更にはお得意先の皆様のご厚情、お引き立て恩恵のお陰と日日、感謝して日暮しさせていただいております。
 渡道当時は、薪(まき)や石炭の時代で、今日のような文明社会でありませんでした。当時はテレビがあるわけでもなく、また自動車社会でもありませんでした。交通機関は鉄道とバスだけでした。冬期間は国道,道道と言うけれど除雪は全くされず、道民の足は鉄道が頼りでした。町から離れ住民は馬橇(ばそり)で用意されていました。
 消防団は橇にポンプを乗せ人力で引き消防活動されていました。
 私が自動車の免許を取得した当時は、札幌―旭川に信号が一カ所もありませんでした。
 私が結婚してから薪の生活をしながら現在に至っております。
 昨年の暮れでした。小樽の旧友が遊びに来て、まだ原始的な薪ストーブの生活か、まあまあ、よく薪が続くな◎と話しかけていた。
 その数日後、札幌の若者三人が「親父、元気ですか」と、極寒の凍てつく日にやってきた。若者は寒そうにしているので妻に『「ひとくべ」すれや』と話したら、若者の一人が『「ひとくべ」と言う言葉はどういう意味ですか』と質問してきました。「あのな『ひとくべ』とか「くべれ」という言葉は、ストーブに薪を入れて燃やせという意味なんだ」と教えました。若者は納得したらしく頭を縦に振り頷(うなづ)いた。
 ボタン一つスイッチ一つの高度な社会生活にあって「くべる」「ひとくべ.」なんて言う言葉を日ごろ使用して生活されている家庭がなくなりました。若者にとっては分らんのが当然と理解しています。
 今から数拾年前までは四季を問わず、屋敷周りのゴミなどを燃やしていました。秋ともなれば、隣近所の人達と落ち葉を集め野焼きをして、その野火に尻をあぶりながら世間話などに花を咲かせ人との交流や温もり、更に信頼や互恵が生まれたものでした。
 国や国連が打ち出した自然破壊防止、地球温暖化防止、森林枯渇防止という大義名分の下で野焼きする人も、また薪を使用して暮らす家庭なくなった。
 私達の栗山町の公園やあちこちの山山に栗の木があり秋になると沢山の身を付けているが、今の子供達は野火で栗を焼いて食べることを知らない。可哀想なものだと思います。
 大昔からの伝統である正月の松飾りを燃やすドンドン焼きも彼方此方(あちこち)の地方でなくなり雑ゴミとして廃棄する住民が多くなった。
 ぼけ老人の気儘(きまま)な憶測でありますが古来、何百年も生活に未着してきた「ひとくべ「くべる」「くべる」という言葉は、ここ数年ごは絶滅危惧用語になあるのではなかろうかと一人勝手に憶測している。
 
物忘れとボケ防止の一筆 新年の初売りを二日開店、多忙の一年が始まった。
松の内の暇を利用して読書に耽っているとき、突如であるが何でアッと言う間に一年(二十一年)が過ぎ去ったのか―と、取り留めもない、くだらん重いが脳裏をかすめた。その咄嗟(とっさ)物忘れとボケ防止を思い、昨年の一年を記してみたくなった。
歳を取りたくない、歳を取りたくない―と、去年の暮れ、無性に思い「年越しそば」を食わなかったが、また一つ歳を取った。
時間は人間に差別なく公平であります。大人だ子供だ男女問わず、唯の一日にも二十四時間を与えてくれる。八千七百六十時間を使い切って一年が尽きる。この一年、この一日を笑顔で迎えた人ばかりではなかろうと思います。絶好調の人も、どん底の人でも、ほどなく心機一転の節目が訪れる。
新年早々から人情溢れた温かい大勢(おおぜい)の友人や知人の皆様から身に余る心のこもったご厚誼(こうぎ)をいただいき感謝を申し上げております。また取り引き先の商社や彼方此方(あちこち)の皆様方から身に余る尊いお言葉を頂戴しました。新年早々、壁に掛けたカレンダーを見ながら本年も健康に留意し、堅実な商法に勤(いそ)しみ皆々様方からいただいた尊いお言葉に恥じない活動をしようと心に秘めました。今年の栗山の元日は穏やかな無風の晴天に恵まれ三階の窓を開け、ご来光いただき健康と無災害を祈念させていただきました。
極寒の早朝から除雪に追われるとともに多忙の商売に追われる日日の明け暮れに出逢った。いつの日か何かの切っ掛けで気づいたのは、日照時間が一頃(ひところ)より長くなった―と思ったら桃の節句が到来した。
子供達の笑顔を見ていると心に安らぎが生まれ、穏やかな気分になり笑顔が出ました。子供達のあどけない、無邪気(むじゃき)な喜びを見て穏やかな心情がしみじみと感じるようになった。このようにしみじみと心情が沸くようになったのも高齢の精だろうか。
商売と雑用に追われ、アッという間に想いで深いひな祭りが来た。凍てつく北国の北海道にも弥生(やよい)の訪れか薄氷をお日さんがはじく浅い土堤の猫柳(ねこやなぎ)は、春の陽光を浴びながら蒼をふくらましてきました。
晴れ爽やかな春の伺候が見られる栗山の里であります。
 
こよなく愛す悠久の古里・栗山の詩
 春色の風来たり 斑雪(はがれゆき)残る里山に 咲き競う雪割り草
 花茎の先の小さな草花も とりどりに色冴()えて 季節を詩う栗山の里
 
 日本のひな人形の起源はいつごろか。それは奈良時代より前の飛鳥時代の初期で大化の頃、支那(しな=中国)から伝わった風習だ―と、言い伝えられています。
 「節句」の語源は、昔は「節供」と書いていたという。
節供は季節の変わり目に邪悪なものを追い払う目的で神様や仏様にお供えしたのが始まり―と、伝えられ「三月の上己」「五月の端午」「七月七日の七夕」など近代になってから節句と書くようになった。
ひな人形流しの由来は平安時代からで草や木、そして紙などで人の形をつくった。「ひとがた」即ち人形に厄を託し水に流すようになった―と、その由来を今に伝えられている。
平安時代の貴族の女の子は、神谷布で作った人形を使って「ひな遊び」をしていた。そして「ひとがた」を流す習慣が合わされ「ひな人形」と言われるようになった―と、言う。
商売の雑用に目まぐるしい多忙の高齢の爺にボケが宿っている精か、月日の経つのはアッという間に過ぎ去って行く。昔の諺(ことわざ)に「一月行った」「二月は逃げた」「三月は去った」「四月は四月バカ」と言う言葉が残ています。この諺(ことわざ)通りひな祭りが終わると早や春の彼岸でした。
彼岸は、皆様ご承知のように春と秋の気象は平均して「寒からず」「暑からず」としてねんかんで一番良い季節と思います。仏法は中道と言う意味からご先祖様への報恩感謝のお墓参りやお寺参りの行事となり、また一面、人間修行あるいは宗教的な人格教養を高める習慣として私達は心したいものです。
世は迷いの世界を彼岸と言うのに対し悟りの世界を彼岸と申します。
弥生は温雅な月であると思っています。しかし温雅な月を一皮むいて見ると本性は荒々しい月でもあると思います。弥生の三月は気分屋である。それは、どうしてかと申しますと春の爽やかな南風を吹かし、私達が喜ばしたと思ったら何が気に障ったか知らないが猛烈な北の寒風を吹かし、大雪をもたらして去って行った。こんな気紛れ天気ってあるものか―と、腹が立つのは当然で北国の高齢者は三月を次のように表現されていた。
「手のへら返し月」「春の三日、晴れ間なし」
春の嵐の呼び名は多彩で「春の突風」「春の疾風(はやて)」「彼岸荒れ」と言った言葉があります。春の大嵐のとき大陸では黄砂(おうさ)が舞い上がり、西風乗って日本に飛来している。大陸で舞い上がる黄砂の量は年に二億㌧から三億㌧と聞かされて驚いています。
晩秋間近ともなれば野山の植物は紅葉に染まり、その美しさを堪能(たんのう)してきました。時には夕陽(ゆうひ)に照らされて落葉する風情は、まさに風光明媚(ふうこうめいび)で申し分のない美しさであります。その反面、沈む夕陽を道しるべにして散り行く落葉の美しさを魅了しながらも一抹(いちまつ)の寂しさが脳裏をかすめた。近頃、食欲の衰え、手足の衰え、そして物忘れが激しくボケの到来か―と、思案してみたら、高齢の菜っ葉(78)になった。アーア歳は取りたくない。これからはボケ防止のためバカな一筆を記して行こうかと思っています。
日本では春分の日、秋分の日を中日と称して七日間を彼岸として年間行事の一環として懇(ねんご)ろ法要が行われています。
仏教は私達に「極端な行動や過ぎた考えをしてはいけない中道を守れ」と教えられています。
長かった雪華(せっか)の舞う冬も去り、春分を境にして空も薄く広がる春淡(はるあわ)し。雲と共に雪解風(ゆきげかぜ)が吹き待ち遠しかった春が漸(ようや)く到来し、土手や路肩の片隅(かたすみ)で美しい黄花の一輪を満開し、燦燦(さんさん)とそそぐ春の陽光を浴びているほほえましい野花を見てきたことを今思い出しています。
野山の景色も日1日と新緑に染まり遅い桜花の季節が栗山の里に到来し、人々の心を和ましていた様子が今も目に映り思い出している。
野山の景色も日一日と萌え新緑に染まり、遅い桜花の季節が栗山の里に到来し人びとを和ましていた様子が今も目に映り思い出している。
雪解けとともに豊穣田や小川で春の陽光を浴び、何時北帰郷の旅立ちとも知らず羽を休めているほのぼのとした白鳥の群れが多くみられた。今年も期待しています。
肌寒い不況風が桜花の街で「センベロ酒場」が多くの人を集めていると言う。センベロの語源は「千円でベロベロに酔える」ことを略した言葉であります。誰が考えた不明で、その定義はこの高齢ボケ爺は分らない。
ベロベロとは酔って「ロレツ」が回らない状態をいいますが、酔態の表現にもう一言あるのです。その言葉は「グテングテン」で招待をなくした様子を言うのであります。
酒飲みの人は「センベロ」「グテングテン」もよいが、財布にやさしい「ほろ酔い」の程度が賢明だと言われています。
近年、アルコール依存症患者が増加してし、深刻になっているという。
厳しい不況の桜花時期に笑顔で語らい、労を犒(ねぎら)いながらの一杯は美味(うま)く腹に下り、胃の形が判るほどじわじわと広がる。熱燗(あつかん)と時には冷たいビールは何物にも替え難いものだと笑顔満面にして話していたことが目に映る。
ここ数年、毎年のことだが月日(つきひ)の過ぎ去る速さに驚いています。こんな感覚になるのは恒例の精だろうか。
高齢のボケの精か手間暇かけて書いたと思ったら前文と重複しているような文面になった。笑って読んでください。
美しい四方(よも)の山山の樹林、野原の草木も燦燦(さんさん)と照りそそぐ陽光を浴び春の穏やかな微風(そよかぜ)に揺られながら小枝の新芽から手品のように新葉が現れ新緑を深めている。
青葉の茂る樹木の下で寝そべって新鮮な空気を胸いっぱい吸いながら新緑の青葉が茂る梢(こずえ)から吹き下ろす爽(さわ)やかな微風に吹かれているときは五感に響く癒(いや)しの森で非常に心地よく、まさに命の洗濯とは、このことだと思わされた。
私達に楽しく親しまれてきた古代伝来の美しいの本の行事である。華やかな「ひな祭り「花よりダンゴ」の花見、そして端午の節句などが過ぎ去ったと思ったら途轍(とてつ)もない早さでアッと言う間にお盆近くになった。振り返ってみたら早や半年が過ぎ去っていた。
なんと月日の経つ早さに驚くばかりで静かに我が身を案じてみたら、いよいよボケの精かと呆(あき)れました。
呆れ果て長椅子に凭(もた)れ、静かに目を瞑(つむ)るとフッとですが、私が二十三〜二十四歳ごろ読んだ本が頭に浮かんだ。
幕末から明治の初期であるが、欧米の人が来日して眼鏡とランプ、そして時計など先進技術を日本に伝えた。来日した欧米人が呆れたことは、当時の日本人時間に対して有徴なのに呆れた―と言う。しかし普及した洋品は時計だったという。その時計が日本の鉄道に一役の二役も著しく貢献したと伝えられています。
 鉄道の進歩は明治から続いてきた。スピード化もそろそろ執着かと思いきや、東京と大阪を最短一時間七分で結ぶという超特急で走る新幹線と言う計画が発表された当時の人達は、この計画発表を知るや、まさに夢の超特急で弾丸列車と呼んだのであります。私も弾丸列車であると同感した記憶が残っています。
 笑い話のようですが、その昔、急行列車が」初めて走った時怒った人が彼方此方(あちこち)に大勢いたそうであります。怒ったその理由は「乗っている時間を短くして運賃を高くとるとはけしからん」という理屈で息巻くっていたという、笑い話が残っているのです。
 月日(つきひ)の経つのは早いと思われるこの感覚を、また何回も何回も同じことを記している。これはボケの精だろうか、それとも高齢の精だろうか。
 あ〜あ、夏至(げし)がくる、夏至を境にして日暮れが早くなるし、ストーブの恋しい季節が足音立ててやってくると思ったら一時のゆううつを感じた。
 あと数日経つと、美しい日本の伝統行事の一つである古来伝来の楽しい「七夕(たなばた)」が始まる。「七夕」を「たなばた」と読むのは古くから日本に伝わる「棚機津女(たなばたつめ)」物語からなんです。乙女(おとめ)が神様に機を織っていると神様が迎えに来るという神話や伝説があります。
 昔昔その昔の伝説によると支那(中国)から彦星と織り姫が渡来し、日本古来の話に支那のしわが一緒になり、七夕のお祭りをするようになったと言う。
 この神話と伝説については、何時ころ渡来したかは、このボケ爺は分らない。
 昔の七夕は、願いを込めて棚の上に美しい短冊など飾っていたが、江戸時代の初期ごろになると、神様を招くため笹竹を立て願い事を書いた短冊を吊るす習(なら)わしになったという。
 高齢のボケ爺は、多忙の日日に追われ七夕祭りの過ぎ去ったことも忘れていたら、テレビに東京では盆踊りが始まった―と報道され、「早やお盆が近づいてきた」と、気付いた。
 お盆は精霊会(しょうりょうえ)、盂蘭盆会(うらぼんえ)などと言われています。もともと仏教行事なんです。
 お釈迦様の弟子の目連(もくれん)が死亡された。実の母親を救う方法をお釈迦様に聞いたら「七月十五日に供養しなさい」と言うお話がお盆の由来だ―と、伝えられています。
 ご承知のように七月半ばになると東京では盆踊りが始まりますが、他の地方では8月半ばになると盆踊りが始まります。
 お盆は、お彼岸と同じようにご先祖様の供養と報恩感謝のまことを捧げる行事なんです。また仏様が里帰りなされる―と、言い伝えがあります。
その謂(いわ)れは、お盆が来ると家族全員でお墓参り(お迎え)に行き、家族と一緒に我が家に里帰りなされるのです。
 夕方、日没後のお墓参りするのが常識であり、古来からの仕来(しき)たりでもありました。何故、薄暗くなった時間に行くのかと申しますと仏様は家族の皆さんと一緒に里帰りなされる時は、灯を頼りにして里帰りなされるのです。昔はどこのいえでも徒歩で、そして手に提灯(ちょうちん)をもって墓参りされていた。
 墓地のとおい人、また高齢者や幼児のいらっしゃる家庭の方は、馬車やリヤカーは老人や子供を乗せてお墓参りされていました。
 昨今は車社会で早朝とか真昼間(まっぴるま)、六十から七十㌔のスピードで走っている。仏様は高速の車には、ついて行けず、また頼りの灯がないから里帰りしたくてもできなく、お墓で寂しくお休みされることになる。
 盆踊りは、この世に里帰りされた御先祖様の精霊を供養するために踊ることからはじまった―と、伝えられています。
 
  古来からの美しい行事である中秋の迷月について
 九月十八日前後の満月を十夜と呼び「ダンゴ、果物、野菜」などをお供え物として月見が催される。
 旧暦では八月、九月、十月までが秋で九月を「中秋」と呼んでいました。後後の世から九月の満月を「中秋の名月」と言われるようになり今に継がれているのです。
 中秋の名月を鑑賞する習慣は支那(中国)の唐の時代からと伝えられています。
 日本伝わった時代は、平安時代の中期と聞いていましたが、その詳細については、ボケ爺がすっかり忘れてしまいました。お許しください。
 苫小牧の友人が遊びに来て、秋の美しい風情(ふざい)を部屋で味わうにはススキを飾るのが手っ取り早いと話してくれた。早速、裾野(すその)からススキを何本か採取し三階の居間の窓際に置いた。花瓶に生けたら、なるほど友人が言った通り風情効果は覿面(てきめん)でした。
 当日は、窓越しの夜空の雲間から時たま見せる半月も心なしか澄みわたる中秋の名月に見えた。
 秋の七草の名称を指折り数えてみたが、忘れてしまいました。ボケ爺には無理難題であった。
 江戸時代の俳人は、なんでススキを尾花と呼んだのか―と、思ったらススキの花穂は動物の尻尾(しっぽ)に似ていたからだといいう。またススキの群れは風になびくと「おいでおいで」と見たり「さようなら」に見えたりするという。見送ってくれる人達の手は美しい黄金の稲穂の波と一緒のようで、秋風に吹き立つような美しい余韻(よいん)の様子が何時迄(いつまで)も目に映り、残っているとの一筆を残し今に伝えています。
 皆様もご覧になった事があると存じますが、秋の夕陽があかあかと西の彼方(かなた)に落ちていくとき、目の前に黄金色の花穂を垂らしたススキの群れを照らしながら落ちていく、美しい景色を見て説明抜きの郷愁が呼び覚まされました。
 三階の居間の窓際に置いた花瓶(かびん)に生けたススキは花穂を開いて秋たけなわの風情を見せており、窓の外の綺麗(きれい)な丸いお月様が欲しいところだが、また半月(はんげつ)で、この月が満月になると中秋の名月にススキを組み合わせると、その美しあを観察できるのではなかろうか―と、期待していた。たしか、このボケ爺は商売や雑用に追われ、すっかり忘れて残念ながらチャンスを逃してしまった。
 高齢の精だろうか、それとも脳の衰えからだろうか、ここ数年だが物事の忘れが多くなるとともに、日時や季節の過ぎ去る速さは、なぜかと思案してみながたが、ボケ爺は分らなかった。しかし季節に見合った日本の美しい行事をボケ防止と思い簡単にと一筆書き始めたが、あまりにも行事数の多いのに驚き、途中ですがペンを止めました。
  あの道 この道ど この道 西の光を 道しるべ 佛にすがる うれしさ

ふれあい広場

社会福祉貢献者らを表彰
2018ふれあい広場くりやま.
【栗山】栗山町社会福祉協議会が主催、町、会議所などが講演の2018ふれあい広場くりやまが11日開かれ、平成30年度社会福祉貢献者らを表彰した。
社会福祉功労者
 ▽橋本 敏明さん(錦1
帰宅町内会長として多年にわたり地域住民の自治活動に尽力され、地域福祉増進と明るく住みよいまちづくりに寄与された。
 ▽吉田 礼子さん(中央1)
 栗山駅前ロータリー花壇整備やワークセンター栗の木への労力的、経済的奉仕活動を行っており、地域福祉の推進と障がい者更生援護に寄与した。
 ♢有料施設職員表彰
 ▽有塚 文子(中央1
 ワークセンター栗の木の開設当初から職員として精励、多年にわたり地域と交流しながら障害当事者の社会的自立と地域福祉の推進に寄与された。
 ▽山崎 美恵子(朝日3
 ワークセンター栗の木の開設当初から職員として精励、多年にわたり地域と交流しながら障がい当事者の社会的自立と市域福祉の推進に寄与された。
 ▽倉橋 ひとみ(朝日4
 ワークセンター栗の木の開設当初から職員として精励、多年にわたり地域と交流しながら障がい当事者の社会的自立と市域福祉の推進に寄与された。
 ♢感謝状贈呈者(高額寄付者)
 ▽個人
 周田 利久(角田) 宮川 規夫(湯地) 吉田 礼子(中央3) 谷口 温松(富士)
 ▽団体
 そらち南農協(中央3) ケリーワーク(由仁町本町)
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