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ペニーレーンの住む小坂町川通りには、
この町内ならではの石碑が建っております。
唐松神社の前に建っている石碑でして、大きい部類に入るでしょうね。
↓さて、スラット読めますか?
「セイジュムキョウ」と読むらしいです。
↓正四位 町田忠治・・・とありますね。
↓町田忠治 - Wikipedia
秋田県選出の代議士に於きまして、最も総理大臣の地位に近づいた人でした。
戦争が無ければ・・・・首相になってたかも・・・と言われていた人でした。
↓昭和3年11月起工・・・・とあります。したがって完成はそれ以降・・・・4年春か・・・4年秋ということになります。
昭和天皇の「御大典記念」の記念碑ですが・・・・これだけ大きい石碑は他では見たことがありません。
みなさんのところではいかがですか?
しかしですね。
町内には、この石碑があるほかは資料が全くありませんでした。
したがいまして、
(主に)誰が
(資金などは)どのようにして
町田忠治との仲介者は誰?
などが全くわかりませんでした。
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去年の暮れ(二十三年・12月)ですが、たまたま大館市で〈S〉さん・・・(名前は伏せるほどの事は無いのですが?迷いました。今しばらくは、伏させてください)・・・にお会いした時「あらー!ペニーちゃん(私は親類すじでは、いまだにチャンづけで呼ばれております。Sさんは母方の父の親類にあたります。)あなたに渡したいものがあるのよ!」といわれました。正確に言いますと、Sさんのお父さんの遺品の中から川通り町内会にお返ししたい?お納めしたいものが見つかったというのです。それは・・・・・・
↓なんと、石碑の元の書と完成記念と思われる写真でした。
間違いありませんね。
掛け軸になっているものは、原書を掛け軸に張りなおしたものです。
Sさんのご先祖(お祖父さん)が散逸を懼れて、表具しなおしたものでしょう。
隣りの写真は、さらにビックリ。82年〜83年前の写真です。
右端にはSさんの叔父さんにあたる方が、この原本がなぜS家にあるのか、石碑はどのようにして建てられたのかが書かれておるものが添えられておりました。
↓ちょっと拡大しましょうか
今まで分かっております事は・・・・
昭和の頃、Sさんの家は西渡ノ羽地区の大きな商店でした。
写真の前列左端のかたがSさんのお祖父さん。右端が私の母の養父らしいです。
私のお祖父さんにあたりますね。我家には、お祖父さんがもう少し若い時の写真がありまして、なんとなく似ているな〜と確認できましたが・・・・・・これだけ、古い写真だと難しいですね。誰が〜誰かを確認するのが。
Sさんの叔父さんの文章から想像すると、前列真ん中の方は川通り町内の「仕立て屋さんのS野さん」ということになります。
私が、今推測するにはですね。写真に写っております後列右側の人達は「川通り町内」の人達、左側は「東・西渡ノ羽地区」の社宅の人達(代表者)ではないのか?と思っております。
さらに、Sさんの叔父さんの文章によるとこの記念碑が川通りばかりではなく東渡ノ羽地区、西渡ノ羽地区の寄付とか協力を得て建てられたものと推測されます。このことは、大きな記念碑が建てられた裏づけとして大きいですね。
今の時代にこれだけの石碑を建てるとしたら・・・・・いくら掛かるでしょうね?
それを数町内の寄付で賄ったらしいですから・・・・・当時の「小坂鉱山」の景気といいますか、経済力は凄かったんですね。
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町田忠治との関係ですが、当時小坂町にあった呉服店「仲谷商店」の仲谷久蔵と言う方が、どうも仲介役を担っていたようです。仲谷さんというのは扇田(現・大館市比内町)が出身地であります。しかも、Sさんの家、私の母の生家も扇田出身ですので、仲谷家とは関係が深い間柄にあたります。実際、仲谷久蔵さんは町田忠治の熱心な後援者でした。これで納得がいきますね。
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すみません。
一度UPして
後は、修正で入れてゆきます。
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この写真には、いくつか気になる点があるんですよ。私ども地元の人間が見ますとね。
赤い矢印の所ですが、小坂川の「重兵衛堤(じゅうべえつつみ)」の堰が見事に写っております。
Sさんの叔父さんの文章に書かれておりましたが、「何も無い川原に建っているようだった」そうです。
現在では、小坂川との間に大きな堤防がありますので、その陰になって「重兵衛堤」はこの位置からは見えません。
重兵衛堤自体は、農業・稲作の灌漑のための物でした。上流から綺麗な水を、下流の田圃に給水する必要があったのです。
なお、地元では「堤(つつみ)」を堤防と呼んでおります。「重兵衛堤防」といえば「堤(つつみ)」のことになります。
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この石碑が建った当時は、この後に小さな石積みがあった程度で、小坂川はよく氾濫を起こしていたそうです。
堤防が整備されたのは・・・・10年後?あるいは20年ぐらい(完全にといえば)掛かったのかもしれません。
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もうひとつ、目に付く事はですね。
背後の山、地元では「重兵衛の砂山」と呼びますが、ここにほんとに木が生えていませんね。まさに「砂山」です。これで季節の推定が難しくなっていますね。春なのか?秋なのか判断しづらいですね。現在は、鬱蒼とした森になっておりますので、葉の様子から時期を推定する事は容易かなと思われますが・・・・この写真だと、手がかりがありませんね。
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最初掛け軸を見た時はですね、はたして「書(しょ)」としてどんなものかな?などと畏れ多いことを思ったのですが、↓これを見ていただくと、大変に達筆な方だったとわかります。
この石碑の書き方は、あくまでも多孔質の荒い面の玄武岩に合わせた書き方だったんですね。
筆も特殊なものを使ったのかもしれません。
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この春、町内会の総会や「唐松神社」の春祭の場を利用して、掛け軸や写真を公開いたしました。
そして、
町内会としては、会長、副会長、私のところのパソコンにUSBなどで保存する事として、原本の掛け軸の「書」、写真は小坂町郷土館に保存してもらうことにしております。
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