九州 史跡・秘境を訪ねて

「世の中はむなしきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり」 大伴旅人 万葉歌集

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朝鮮半島

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百済の里 西の正倉院

朝鮮半島を通じて滔々とと流れ込んでくる大陸文化はまず北九州に停まり、本州、四国へと進展して行ったのである。
二世紀の初期に至っても北九州にも、南九州、さらに大和地方、出雲地方にも勢力を誇る部族国家がひしめいていたのが、中期に至ってようやく、倭国の乱以後対外的、政治的不安から近隣の国々の邪馬台を中心とした連合の機運が生じたのであった。そしてその邪馬台が九州にあったのが、また大和にあったのか、いまだに決定的な論証はされていないが、筑後山門郡から肥後北半に勢力を張っていたという説が有力視されている。
邪馬台国の統率者が卑弥呼という女王であり、その支配した国が約30に及んでいたことはよく知られているが、三世紀当時頃のそれらの国々の生活状況などを記した中国の史書「議事倭人伝」には、男も女もはだしで、男は布を腰に巻きつけた半裸、髪を結い、布ではち巻きをしていたし、女は布に穴をうがってそこから頭を出したものを着て、髪は編まずに頭の上で束ねていた。食事は高杯に盛って手ずかみでとり、魚介は当然だが、シカなどの肉も喪に服す時以外は食べていたし、酒をたしなむ風習もすでにあった。船に乗って交易を行ったり、漁業にも優れ、海洋性も具えていたようで、もちろん水稲栽培を行なっていた。そしてクワを植え、カイコを飼い、絹をつむいでいて、それに次ぐ古い開拓者であるわけだ。
すでに社会的な法規も整い、「大人」「下戸」など階級制度もできていたのである。
「大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦、婦人は淫せず、妬忌せず」とあり、一夫多妻の風習があったようだ。


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