九州 史跡・秘境を訪ねて

「世の中はむなしきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり」 大伴旅人 万葉歌集

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

青洞門

イメージ 1

英彦山に源を発する山国川が溶岩団地を浸蝕してつくりあげた渓谷で、頼山陽がその奇勝をたたえてから全国に知られ、観光地としての歴史は古い。
総面積1000平方キロ以上もあり、本、羅漢寺、奥、東、津民、深、麓谷、裏、南、椎屋のいわゆる耶馬十渓にだいべつされる。
頼山陽が愛でたのは本耶馬渓でアユ返り、仏坂、青洞門、競秀峰などの景勝地がある。
青洞門は菊池寛の「恩讐の彼方に」で有名であるが、270年ほど前、僧禅海が30年近い年月をかけて彫った。

北九州

日本の統一国家が北九州において成立したとは断定できないが、その様相は濃く、そうなると弥生後期に北九州から移動した勢力が大和に根を張ったことになり、天皇家も九州から移動したことになる。
古墳時代の文化も北九州で最も盛んであった。大和(近畿)地歩の古墳と蜜につながりながらも、特殊な装飾古墳や大陸系の横穴式石室などもとり入れたものが五世紀以後も続いてることはその他自性を物語って興味あるところだ。
日本にとって朝鮮半島は外来文化を伝える通路として重要であったばかりでなく、ようやく統一国家が誕生すると外敵に対する防備上も重大な地域となった。
応神天皇は機嫌369年頃、朝鮮半島の南端の「任那」に植民地経営にのり出した。任那の日本政府は欽明天皇の頃まで続いて滅亡した。これは国内事情によるものだった。
紀元563年に那ノ津の宮家が作られた。これが大宰府の始まりで、その後聖徳太子の失地回復策のため筑紫に大宰府を設けたものが、国防の第一戦となり、後の外国文化への窓となったのである。やがて大宰府は学術文化の中心ともなり、更には遣唐使の渡航港として一種の貿易港の観を呈するに至った。
この頃大宰府の高級役人をした者、私貿易で富をなした者が九州各地に私領を広め、権力を奮うようになったのである。
九州が日本で最も古くから高い文化を受け入れながら、大和、京都などと異なり、より高度なものを育て得なかったのは、政治的中心勢力圏から外れたことばかりでなく、地の利の故に発展したものが、その特殊性ゆえに人々の生活と性格を規制したためであろうか。

朝鮮半島

イメージ 1

イメージ 1

百済の里 西の正倉院

朝鮮半島を通じて滔々とと流れ込んでくる大陸文化はまず北九州に停まり、本州、四国へと進展して行ったのである。
二世紀の初期に至っても北九州にも、南九州、さらに大和地方、出雲地方にも勢力を誇る部族国家がひしめいていたのが、中期に至ってようやく、倭国の乱以後対外的、政治的不安から近隣の国々の邪馬台を中心とした連合の機運が生じたのであった。そしてその邪馬台が九州にあったのが、また大和にあったのか、いまだに決定的な論証はされていないが、筑後山門郡から肥後北半に勢力を張っていたという説が有力視されている。
邪馬台国の統率者が卑弥呼という女王であり、その支配した国が約30に及んでいたことはよく知られているが、三世紀当時頃のそれらの国々の生活状況などを記した中国の史書「議事倭人伝」には、男も女もはだしで、男は布を腰に巻きつけた半裸、髪を結い、布ではち巻きをしていたし、女は布に穴をうがってそこから頭を出したものを着て、髪は編まずに頭の上で束ねていた。食事は高杯に盛って手ずかみでとり、魚介は当然だが、シカなどの肉も喪に服す時以外は食べていたし、酒をたしなむ風習もすでにあった。船に乗って交易を行ったり、漁業にも優れ、海洋性も具えていたようで、もちろん水稲栽培を行なっていた。そしてクワを植え、カイコを飼い、絹をつむいでいて、それに次ぐ古い開拓者であるわけだ。
すでに社会的な法規も整い、「大人」「下戸」など階級制度もできていたのである。
「大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦、婦人は淫せず、妬忌せず」とあり、一夫多妻の風習があったようだ。

邪馬台国・古墳・墓

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 2

日本に初めて国家らしいものが成立したのは、二世紀末の九州であったとされている。むろんそれ以前に農耕文化を支えるための集団生活が集落を必要とし、それが部落的共同団体を形成り、原始的な国家らしいものを作ってはいたのであるが、それが政治的な意図による組織を必要とし始めたのは弥生も中期に入ってからで、この頃はまだ各地域の小部落族の寄り集まりであった。そして九州にもそのような小国が数多く群立していたのである。
日本についての最古の記憶とされている、中国の「前漢書」によると、「夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり歳時を似て来たり、献じ見ゆ」とあり、漢の武帝が領土としていた朝鮮の一部楽浪(平壌を中心とした地区)に倭人(日本人)が定期的に通っており、百余国にも分かれていたことがわかるが、これが紀元前後の日本の状態であったわけである。

光武帝が楽浪を支配したが、この時期の歴史を書いた「後漢書」
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝貢す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南界なり、光武賜うに印綬を似てす」とあり、この倭奴国がどこかが問題にされきたが、現在の福岡市の付近に勢力を張っていた王者のいた地域を指すものとされいる。したがって紀元前一世紀には北九州に、すでに対外的にも国家とし扱われるほどの支配者がいたわけであり、さらにこれと対立した形で伊都国(伊島半島)や末盧(まつら)国(東松浦半島)など多数の独立国もあったのである。印綬とは光武帝が自己の勢を広めるために国の内外の諸王候や属国の主たちに章授けた印鑑であり、これが天明四年(1784年)に甚兵衛という農夫が志賀島で発見した
「漢倭奴国王」と刻まれた金の印(一辺2.3センチの純金製)であるとされている。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.
bih*r*1950
bih*r*1950
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事