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日本の統一国家が北九州において成立したとは断定できないが、その様相は濃く、そうなると弥生後期に北九州から移動した勢力が大和に根を張ったことになり、天皇家も九州から移動したことになる。
古墳時代の文化も北九州で最も盛んであった。大和(近畿)地歩の古墳と蜜につながりながらも、特殊な装飾古墳や大陸系の横穴式石室などもとり入れたものが五世紀以後も続いてることはその他自性を物語って興味あるところだ。
日本にとって朝鮮半島は外来文化を伝える通路として重要であったばかりでなく、ようやく統一国家が誕生すると外敵に対する防備上も重大な地域となった。
応神天皇は機嫌369年頃、朝鮮半島の南端の「任那」に植民地経営にのり出した。任那の日本政府は欽明天皇の頃まで続いて滅亡した。これは国内事情によるものだった。
紀元563年に那ノ津の宮家が作られた。これが大宰府の始まりで、その後聖徳太子の失地回復策のため筑紫に大宰府を設けたものが、国防の第一戦となり、後の外国文化への窓となったのである。やがて大宰府は学術文化の中心ともなり、更には遣唐使の渡航港として一種の貿易港の観を呈するに至った。
この頃大宰府の高級役人をした者、私貿易で富をなした者が九州各地に私領を広め、権力を奮うようになったのである。
九州が日本で最も古くから高い文化を受け入れながら、大和、京都などと異なり、より高度なものを育て得なかったのは、政治的中心勢力圏から外れたことばかりでなく、地の利の故に発展したものが、その特殊性ゆえに人々の生活と性格を規制したためであろうか。
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