霧島連峰
旧石器時代
日本の最古の文化はせいぜい約一万年前に遡るに過ぎないとされていたのは、つい15、16年前までで、今日では無土器時代(まだ弓矢も、磨製石器も土器もない時代)と呼ばれる旧石器時代にも、人間が住んでいたことが確実になった。そしてその最も古いものは大分県の丹生台遺跡と大分県日出町早水台遺跡の二ヶ所から発見された。第二間氷期(40万〜50万年以前)のものと見られる多数の石器である。
これは世界で最も古く文化を持った中国の北京原人の時代に近いものであり、この時代にすでに北九州には人類文化の芽生えがあったのである。
縄文文化時代
九州の押型文土器は他の地方のものとやや趣を異にし、それが独自の姿でほとんど九州全地域に広がっている。けれどもこれと異なる曽畑や櫛目文など外来と思われるものも多く発掘されていて、当時の九州がすでに他の地方と異なった地理的条件による国外の先史的文化と交わりを持っていたのではないかと見られる。
土器が農耕文化の所産であるところから、日本ではすでに縄文時代から栽培農業が始められていたとおもわれる。
何故なら弥生文化を代表する稲の栽培が始められたのは九州においてであり、その技術が相当高度なものであったこと、農耕用と思われる石斧や石皿などが縄文晩期には現われていることなどからである。
また稲作が人工的に栽培される以前に、自生していたものを食っていたことも、縄文中期の貝塚(熊本県古閑原(ごがばる)からモミ粒が発見され、北九州の縄文晩期の土器にモミ痕があったことによって明らかになった。
日本文化に大変革をもたらした米作りは弥生期に入って急速に発展する。従来その弥生文化を持ち込んできたのは、かって縄文文化を作っていた人々ではなく、新しく大陸から渡ってきた人々であるとされているが、すでに北九州には農耕文化ー弥生文化を吸収し展開するだけの文化的な素地も基礎も備わっていたと見るべきであろう。その伝承は、インドや南シナに起こった稲作の技術が、江南地方で発達し、南朝鮮などを経て九州にもたらされもので、紀元前三、四世紀頃であろう。その伝播は著しいものがあり、六、七百年あとには本州北端の津軽地方にまで及んだのである。
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