日本に初めて国家らしいものが成立したのは、二世紀末の九州であったとされている。むろんそれ以前に農耕文化を支えるための集団生活が集落を必要とし、それが部落的共同団体を形成り、原始的な国家らしいものを作ってはいたのであるが、それが政治的な意図による組織を必要とし始めたのは弥生も中期に入ってからで、この頃はまだ各地域の小部落族の寄り集まりであった。そして九州にもそのような小国が数多く群立していたのである。
日本についての最古の記憶とされている、中国の「前漢書」によると、「夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり歳時を似て来たり、献じ見ゆ」とあり、漢の武帝が領土としていた朝鮮の一部楽浪(平壌を中心とした地区)に倭人(日本人)が定期的に通っており、百余国にも分かれていたことがわかるが、これが紀元前後の日本の状態であったわけである。
光武帝が楽浪を支配したが、この時期の歴史を書いた「後漢書」
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝貢す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南界なり、光武賜うに印綬を似てす」とあり、この倭奴国がどこかが問題にされきたが、現在の福岡市の付近に勢力を張っていた王者のいた地域を指すものとされいる。したがって紀元前一世紀には北九州に、すでに対外的にも国家とし扱われるほどの支配者がいたわけであり、さらにこれと対立した形で伊都国(伊島半島)や末盧(まつら)国(東松浦半島)など多数の独立国もあったのである。印綬とは光武帝が自己の勢を広めるために国の内外の諸王候や属国の主たちに章授けた印鑑であり、これが天明四年(1784年)に甚兵衛という農夫が志賀島で発見した
「漢倭奴国王」と刻まれた金の印(一辺2.3センチの純金製)であるとされている。
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