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			<title>雑記帖（読書ノートとか）</title>
			<description>文字数あたりの来客数では最低クラスの不人気ブログですっ！（断言できそうな勢い…）
内容は読書ノート（雑感）、日記（ボヤキ）、仕事のこと、投資のことの順に…

読書傾向は光人社ＮＦ文庫をのぞけばまあまともな部類に入る歴史・教養書中心
（小説も好きなんですが優先順位の関係であと５年は読めないでしょう）
よろしければゲストブックにコメントでも質問でも残してやって下さいな</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>雑記帖（読書ノートとか）</title>
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			<description>文字数あたりの来客数では最低クラスの不人気ブログですっ！（断言できそうな勢い…）
内容は読書ノート（雑感）、日記（ボヤキ）、仕事のこと、投資のことの順に…

読書傾向は光人社ＮＦ文庫をのぞけばまあまともな部類に入る歴史・教養書中心
（小説も好きなんですが優先順位の関係であと５年は読めないでしょう）
よろしければゲストブックにコメントでも質問でも残してやって下さいな</description>
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		<item>
			<title>フリードリヒ･ブルーメ『西洋音楽史２ バロックの音楽』（白水社、1992） その２</title>
			<description>&lt;b&gt;フリードリヒ･ブルーメ『西洋音楽史２　バロックの音楽』（白水社、1992）　その２&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（前回の続き）&lt;br /&gt;
　エミール･マールとのベルニーニ作「聖テレサの法悦」に対する解釈の差が特に目を引く。&lt;br /&gt;
著者は福音（ルター）派なのか反宗教改革を形容する言辞にネガティブなものが大変目立つ。個人的にはプロテスタントである著者の表現がしっくりくるのだが、しかしプロテスタントを支持するかといえばそれとは全く別問題で彼らのカトリック批判はそれなりに正しいと思うだけ。&lt;br /&gt;
　この転換は１５８０年代に急速に行われており、全く同じ芸術家が以前の自分の作品を反省、後悔し教会の権力に協力する事になる。（これは悲惨なドイツ農民戦争のような事が起こってしまったことに対する芸術家なりの自己批判か？個人的には興味があるところ）&lt;br /&gt;
　そうした傾向の中で、音楽は一種の記号言語であり、特定の音の形態が一定の心情の反応を呼び起こしうると信じられてきた為に、芸術の中心的存在となり卓越した地位に立つことになる。この転換の結果、バロックにおいては衝撃的なコントラストを達成する技術が芸術上の主要な課題となり、対照技法が急速に発展した。&lt;br /&gt;
著者はエミール･マールが多分気がついているのに目をつぶった、技法上の発展に伴い肉体的･精神的露出に対する欲求が教化的･教義的目的という名目の下で芸術作品に取り込まれていく傾向を指摘している。この指摘は（カトリックは認めたくないだろうが）正しいと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四章&lt;br /&gt;
　諸芸術における同時性とは、様式上の類似性ではなく時代精神を共有することである。&lt;br /&gt;
　著者は「時代精神」の概念それ自体は説明不能としながらも、時間･空間をともにする人間たちを思考･感情･自己表現の共通の形式に押し込めようとする要因、さらにはある時代の人間が自らを世界（形而下、形而上両方）に関連付ける一定の方法であると説明する。定義として妥当なものと言えるかどうかは疑念が残るが説明としては問題なさそう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そういう意味において同時性があり、音楽史におけるバロックという時代区分は妥当であると主張しているわけだが、バロックの造形美術が理解しやすいのに対し音楽はそうではない理由としてあげている事柄が面白い－「現代の鈍感になってしまった耳は、バロックの音楽言語がルネサンスのそれと比べてまったく異なる種類のものであることを、歴史の学習なしには知覚し得ないのである。」&lt;br /&gt;
要するに絵画や建築物は見ればわかるが、音楽においては様式史的な比較という手段によってのみ知ることができるというわけ。ルネサンスの音楽とバロックの音楽を容易に聞分けることができないというのは自分だけの問題ではないというのは嬉しい発見ですね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第五章&lt;br /&gt;
　様式史における区分方法は二通り考えられる。一方は厳密な音楽的様式によるもので、もうひとつは様式に関する厳密性よりも背景となった時代（というか時代精神）によるもの。前者は音楽専門家以外わからないような専門的なもので他の芸術との関係は無視することになる。後者は様式との対応関係において曖昧さが残るし厳密ではないものの思想史的な面で見ると有益。当然にバロックという区分は後者であり、これも美術史、文学史の分野においてバロックというものの精神的傾向が明確にされた後であるがゆえに音楽史への適用も妥当といえる（バロックという区分を採用することに必然性はない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第六章&lt;br /&gt;
修辞法&lt;br /&gt;
　ルネサンスが自律性に固執しており持久状態を理想とするのに対しバロックは外的なモデルの模写や内的な興奮の表現が要請されることにより外部の語法が適用され、その結果として自律性が阻害され持久状態が破壊される、という図式は単純化しすぎ。&lt;br /&gt;
　ルネサンスにおいて既に文法的･統語法的に正確で意味に即した歌詞の作曲法は確立しており、バロックにおいては言葉と音楽の関係が異種のものとなったのではなく、その関係を再評価したにすぎない。&lt;br /&gt;
　情緒様式（この場合バロックの音楽）の発展の手段となったのは、音楽への修辞法の一貫した適用―要は音楽の構造は話術の構造に、音楽におけるフィグール（モティーフ）は雄弁術におけるフィグールに、それぞれ対応しなくてはならない―という考え方。だから、情緒様式とはいってもパトスは後の古典派やロマン派のように自由な幻想の直観を通じて表現されるのではなく、あくまで芸術規則の正当な適用によって表現されるものであった。&lt;br /&gt;
　こうしたフィグールは１６世紀末に完成したが、１８世紀中ごろを境に急速に忘却される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アカデミズム&lt;br /&gt;
　古代の著述家に密接に依存することによって、大いに称揚されてきた古代ギリシャ音楽の倫理的影響を当代の音楽において再現しようとするフランス中心の運動。詩と音楽の密接な結合を確実なものとし、作品をテクストに従わせる必要から、結局のところイタリアの修辞法とほぼ同様のところに行き着く。あえて差があるとすれば古代の音楽の再現から導入された半音階法の導入くらい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　新しい様式期の到来とともに先行する様式期を特徴付けている一切のものが除去されると考えるのは誤り。如何なる様式も受け継いだ手段をもって開始し、それが変形しても何らかの遺物は存続し続ける（例として15世紀まで存続した儀式用モテット、18世紀末まで存続したオペラ･セリア）。&lt;br /&gt;
この時代の傾向は、作曲家が規定された形式の束縛から解放される方向にではなく、時代の表現意思に適合した諸形式の形成に向かっているので、尚更継承された様式形態が生き残ることも可能であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「意味深い」音楽&lt;br /&gt;
　音楽が発言価値を有しているというのは常識であった。一方、発言をしない音楽というものは例外的に可能性として存在しうるとはされていたものの極端な例として認識されていたに過ぎなかった。啓蒙主義の時代になって、たんに存在することを望むだけであって、何事をも「意味する」ことを望まない器楽があらわれたときゲーテですら理解に困難を感じ、ルソーも当惑した。それほどに音楽とは何事かを「意味する」ものであるということが当然のこととされていた。&lt;br /&gt;
　音楽において表現されうるなにかについては西洋音楽史の千年を越える経過の中で極めて多様な要求が、そのための手段についても多様な見解が示されてきた。これらを一言で「音楽的象徴法」と呼んでいるが、これは実際には多種多様な「記号言語」が分かちがたい形で入り混じった複合体である（研究も不十分な分野である）－中世の意味論、象徴、アレゴリー、模倣、調性（記号としての）など…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対位法（ポリフォニー作曲法）&lt;br /&gt;
　諸声部の完全な対等関係、音体系の完全かつ均等な徹底的利用、全音階的旋法性、通模倣の原理、旋律線と和音との間の平衡関係&lt;br /&gt;
　こうした対位法の特徴はルネサンスの遺産としてバロックの音楽に継承されたがその継承方法は４つに分かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１：同化による習得　４～６声の書法の基準は、主題的には「意味深い」語彙、和声的･調的には反音階法･エンハーモニックとともに受け継がれた。その際重心は線的な方向から和声的な方向へ移った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２：完全な拒否　フィレンツェ楽派の急進派による純理論的人文主義を論拠とした否定。音楽は完全にテキストに従属し如何なる固有の価値も主張すべきではないという考え方で、ソロ･マドリガーレ、「アリア」や初期オペラにおけるモノディの萌芽となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３：トレント公会議による宗教音楽と世俗音楽の様式分裂の始まりと両様式間の相互作用&lt;br /&gt;
バロックにおいてはパレストリーナ様式（第一作法、古様式、荘重様式ともいう）と第二作法（現代様式、情緒様式ともいう）の間で、意識的に運用される両様式間の緊張関係が存在した為、極端にバロック的な特色が示されるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４：継続　ポリフォニー書法が器楽において（特にクラヴィーアとオルガン）絶えず変形しながらも流れ続けた。この成り行きの中で定旋律書法も維持された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
様式意識と慣用語法&lt;br /&gt;
　上述の成り行きの中には明確に「様式意識」の存在があらわれている（要するに人は計画的に、熟慮の上で、一定の様式の上で作曲していたということ）。ジャンル･目的別にそれぞれ特有の様式が備わっており、１７世紀中葉から「教会音楽」「室内楽」「劇場音楽」の３つのカテゴリーへの分類が行われるが様式とジャンルの対応関係は確固としたものだったわけではない。ただ、これ以降ルネサンスにおける様式上の統一も、以前はひとつの作品を歌唱用もしくは様々な楽器での演奏用と規定しえた理由も理解できなくなった。&lt;br /&gt;
　バロックにおいて、声楽様式は器楽様式と区別され、さらに声楽様式は実際的役割により、器楽様式は楽器による音響特性と技術により細分化され、色彩法が確立されルネサンスにおける音色的統一は解消される。&lt;br /&gt;
様式と音響の意識の結果、独唱声部がヴィルトゥオーソ的装飾法として固有の特色を獲得し、即興法の装飾指示、ベル･カント理論、コロラトゥーラと発展する。&lt;br /&gt;
演奏･音響技術的な専門化と慣用語的なものの分化はこの時期に急激に進み、職業的ヴィルトゥオーソの出現をもたらした。これは１９、２０世紀にも継続しており、その後改良や誇張はあっても原則的な変化はなかった。&lt;br /&gt;
オルガン･クラヴィーア用の楽曲の分化もこの時期に進んだものである。（つづく）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/45700666.html</link>
			<pubDate>Sun, 25 Mar 2007 02:09:09 +0900</pubDate>
			<category>読書</category>
		</item>
		<item>
			<title>スイス政府編 原書房編集部訳『民間防衛』（原書房,1995）</title>
			<description>&lt;b&gt;&lt;font&gt;スイス政府編　原書房編集部訳『民間防衛』（原書房,1995）&lt;/font&gt;　&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;総合評価　★★★★&lt;/b&gt;☆&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（スイス政府が全国民に配布したという小冊子。現代において予想される戦争について国民に政府の見解、基礎的な知識、対応方法を教えるという目的でつくられたものです。とかく「永世中立国」としてイメージだけで語られることの多いスイスという国が、実のところ普通の日本人の基準から考えるとかなり偏執狂的といってもいいような重武装中立主義を採用していた事がわかります。周囲を圧倒的に大きな国に囲まれて中立を主張する以上当然といえば当然なのですが…）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;本書の概要&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　とりあえず、今回私が読んだのは１９９５年に出版されたもので２００３年の新装版ではありません。その点ご承知置きください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この本は阪神大震災の折に大きく取り上げられたからか、私が読む本としては珍しく有名で広く読まれておりあちこちでレヴューを見かけるのですが、この『民間防衛』は古い（本書の底本は１９６９年版です）、冷戦時代を前提にしているが当のスイスでは既にそうした危機がなくなったので大幅に改訂されているという批判的意見を時折目にします。&lt;br /&gt;
　確かに事実問題として捉えれば本書の底本は古く、しかも新しい版が存在しているのは事実であり、スイスの現状を知りたいというのであればそのとおりなのですが、しかしスイスと異なり日本の周囲には中共、北朝鮮のような全体主義国家が現在に至るも存在しており、そうした国からは明らかにマスメディアへの工作が行われており、またそうした全体主義国家から政治資金の供与を受けていた社民党のような政党も一応存続している（たとえ党首の座を中核派シンパに奪われたとは言っても…）のですから、その点を考えれば、そうした全体主義国家の宣伝工作やスパイ活動、謀略について大きく取り上げているが故に、むしろこちらの版の方が日本の現状に適していると考えるべきではないかと思います（あくまでスイスに興味があり日本の問題を考えるために読むのではないという奇特な人は別ですが）。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　さて、本書は新書サイズで２センチ近い厚さがあるのですがページ数は３１９ページ。見た目ほどページ数が多くないのは紙質のためです。しかも冒頭を除けば中身に文章は少なく、本というより小冊子とでも言うべき程度の文章量しかありません。読書が苦手という人でも苦になるような量ではないでしょう。さらに言えば文字ではあるのですが、例えば非常時に備えて備蓄すべき物品のリストのような読み飛ばしてもあまり支障が無いような文字も多いですね逆にいえば活字中毒者にとっては冒頭と後半の一部以外に詠むところが無いので物足りないでしょう。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　次に本書の構成なのですが、まず冒頭の２０ページほどは非常にあたりまえでつまらないのですが自由主義、そしてとかく日本では戦後悪役とされてきた国家主義（共同体の自由があって初めて各個人の自由がある、として国民の権利を他の国家から守れるものは国家しかないというあたりまえのことを言っているだけですが…）を掲げ、同時に全体主義を受容できないものとして斥けるとともに、自由と平和を維持するために努力する義務がありそのひとつとして軍事的防衛の準備があるとしています。&lt;br /&gt;
　ちなみにここでは、平和を望んでいるからといって戦争に備える義務から解放されていると感じている人は誰一人としていないとか言い切られていますが、そういう頭のおかしい人間は日本の市民団体とか平和団体とかには一杯いるのですよねもしかするとスイスの基準では既に人じゃないのかも知れませんね。&lt;br /&gt;
　で、その後に民間防衛組織や個人で行うべき備えなどのこまごまとした実務的な事柄が説明されているのですが、この辺は防災マニュアルみたいなものです。同じようなものを読んだことが無いなら一度読んでおいて損は無いでしょうね。およそ１００ページくらいです。&lt;br /&gt;
　そして後半は、実際に戦争に至る過程がどのようなものであるか、その過程で敵国からどのような宣伝や工作が行われるのか、戦争に一度敗れ国土が占領されたらどうすべきかということに充てられています。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　実際に、読む人の問題意識によってこのうちのどこに価値を見出すのかは異なってくるのですが、あまり国家とは何かというようなことを深く考えたことの無い人には冒頭、左翼人士にはなんとなく不信感を感じるのだがそれを明確に表現できないというような人には最後の部分が印象的なのでしょうね。&lt;br /&gt;
　本書の特徴として、非常に短い無駄のほとんど無い文章で重要なことを的確に伝えている点があると思います。特に秀逸な部分を引用しますと…&lt;br /&gt;
　（以下「」内引用）&lt;br /&gt;
「国を内部から崩壊させるための活動は、スパイと新秩序のイデオロギーを信奉する者の秘密地下組織をつくることから始まる。この地下組織は、最も活動的で、かつ、危険なメンバーを、国の政治上層部に潜り込ませようとするのである。彼らの餌食となって利用される「革新者」や「進歩主義者」なるものは、新しいものを待つ構えだけはあるが社会生活の具体的問題の解決には不慣れな知識階級の中から、目をつけられて引き入れられることが、よくあるものだということを忘れてはならない。&lt;br /&gt;
　数多くの組織が、巧みに偽装して、社会的進歩とか、正義、すべての人の福祉の追求、平和というような口実のもとに、いわゆる「新秩序」の思想を少しずつ宣伝していく。この「新秩序」は、すべての社会的不平等に終止符を打つとか、世界を地上の楽園に変えるとか、文化的な仕事を重んじるとか、知識階級の耳に入りやすい美辞麗句を用いて･･････。&lt;br /&gt;
　不満な者、欺かれた者、弱い者、理解されない者、落伍した者、こういう人たちは、すべて、このような美しいことばが気に入るに違いない。ジャーナリスト、作家、教授たちを引き入れることは、秘密組織にとって重要なことである。彼らの言動は、せっかちに黄金時代を夢みる青年たちに対して、特に効果的であり、影響力が強いから。&lt;br /&gt;
　また、これらのインテリたちは、ほんとうに非合法な激しい活動はすべて避けるから、ますます多くの同調者を引き付けるに違いない。彼らの活動は、“表現の自由”の名のもとに行われるのだ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　無駄の少ない、それでいて必要なことはきちんと盛り込まれている、簡潔でいい記述だと思います。ほとんど同内容の文章をどこかで見かけた事があるのですがどこだったか思い出せないのですが、多分元ネタはこの本なのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また、後述しますが占領を戦争の終結とはみなしていないというのも特筆すべきことだと思います。本来あたりまえのことなのですがね…&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　しかし、私見ですが本書にも疑わしい個所はいくつかあります。その最たるものは占領からの解放闘争についての部分での国際法遵守に関する記述です。これは政府としては戦時国際法を遵守しようとしたという事後的な言い訳に利用するために書かれているように思えます。ちいさな中立国というのは（第二次世界大戦中のスイスや北欧諸国のように）奇麗事だけでは生きていけないのですから仕方ない部分なのでしょうが、しかしレジスタンスなどというものが実際には情報収集以外ではほとんど役に立たないということを明白に主張しているのは正しいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;雑感（というか私見）&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　総力戦というのは敵国が再度戦争を遂行することが出来ないようにすることを目的としています。これってあたりまえのようですが、日本においては歴史学でも法曹界でもまったく理解されていません（というか意図的にこの問題を避けています）。&lt;br /&gt;
　１９４５年８月１５日は停戦受諾であって戦争は終っておらず（そもそも「終戦」って言う言葉自体が国際法上何の根拠も無い造語です）、サンフランシスコ講和条約締結までの間の占領統治こそ米国による総力戦の最終段階であり、日本の軍事的伝統、文化的伝統その他米国にとって将来競合者となりうる要素を徹底的に破壊する為のものだったと考えるのが本来妥当です。&lt;br /&gt;
　そして、地位の保全や出世のためにそうした占領統治に嬉々として従ったのが岸信介のような革新官僚、８月１５日革命説などという荒唐無稽な珍説を主張して今に至る東大法学部の一部（内閣法制局に居座り憲法解釈の権限を有すると主張して憲法の解釈権を何の法的根拠も無く独占しています）、そして戦後突然マルクス主義史観を主張し始めた学者といった、本来社会の上層にいて敗戦の責を負うべき人たちでした。&lt;br /&gt;
　この国は、兵卒や庶民の生命と努力によって何とか勝ち得た停戦という成果を、こうした自称知的エリート達の、控えめにいえば総力戦に対する理解の不足、厳しく言えば保身や出世のための利敵行為によりまったく活用することが出来なかったと言うことが出来ると思います。多くの英霊は死んでいった時点で無駄死にであったのではなく、停戦後のこうした行いによって無駄死にとなってしまったと言うべきでしょうね。&lt;br /&gt;
　この本でも、きちんとそうした占領政策への対応が書いてあります。独立を回復した後、調印した講和条約に従う義務はありますが、占領政策と一貫性がある政策を採用する義務はありませんし、ましてや占領政策を礼賛する義務など全くありません。さらに言えばそれ以外の事実認識や価値基準について相手側の主張を受容する必要など全く無いのですがね…</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/13918148.html</link>
			<pubDate>Thu, 20 Oct 2005 00:46:17 +0900</pubDate>
			<category>読書</category>
		</item>
		<item>
			<title>ぼちぼち更新再開します</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;楽天広場に移転して久しいのですが、こちらにも記事の転記をして行こうと思います&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;重いのであまり頻繁には見にきませんので　よろしければ見ていって下さい&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/13813292.html</link>
			<pubDate>Tue, 18 Oct 2005 23:31:52 +0900</pubDate>
			<category>読書</category>
		</item>
		<item>
			<title>移転のお知らせです</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;どうにもＹＡＨＯＯ！ＢＬＯＧＳはベータ版から正式サービスになりそうもないし、不安定で遅いという状況も一向に改善されそうにないので移転することにしました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;候補としてはライブドアとＦＣ２を考えていたのですが、ライブドアは最近急激に遅く不安定になったらしく、ＦＣ２は運営会社が正体不明につき、いろいろ比較してみたところ楽天広場に決めました。&lt;br /&gt;
昔はいろいろ問題もあったようですがかなり改善されて使い勝手も良くなっているようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;以後はこちらには更新を行いませんのでご了承ください。&lt;br /&gt;
尚、こちらの記事のうち読書記録は少しずつ転記していく予定です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;今後ともどうぞよろしくお願いいたします。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;移転先はこちらです↓&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://plaza.rakuten.co.jp/billaudvarenne/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://plaza.rakuten.co.jp/billaudvarenne/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/9805361.html</link>
			<pubDate>Tue, 30 Aug 2005 01:27:27 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>フリードリヒ・ブルーメ『西洋音楽史２ バロックの音楽』（白水社、1992） その１</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h3&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;フリードリヒ・ブルーメ『西洋音楽史２　バロックの音楽』（白水社、1992）　その１&lt;/h3&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt; 総合評価　★★★&lt;/b&gt;☆☆&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt; （音楽辞典ＭＧＧに掲載する為に書かれたものを単行本化したもの。私のような素人でもちょっと努力すれば何とか理解できるようにできているのですが、記述の中心はバロックという時代区分の正当性の論証や区分の歴史的経緯の説明となっています。音楽史上のひとつの時代（区分）は、以前の時代が用意した様式や表現方法（手段）をもって新しい目的に取り組むところからはじまり、その目的の為に様式や手段が変化していくもの、という考え方のようです。） &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt; 本書の概要 &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　後書きによると、本書は著者が音楽辞典ＭＧＧの「バロック」の項目のために執筆した論文だそうで１９７４年に書かれた物のようです。そういうわけで分量も新書で１５０ページ前後と非常にコンパクトで、記述も簡潔になっています。多分興味がなかったからでしょうが、かなり前にこの本を買ったときに第一巻『ルネサンスの音楽』だけ購入していなかったようで著者の経歴などについてはこの本の中には何も触れられていないので正直よくわかりません。で、1冊飛ばして読んで問題ないのか気になるところでしょうが、実際最初のうちに何点か参照している部分があるのですが大筋には影響ないものなので、私程度の知識しかない人間でも特に支障はなかったです。&lt;br /&gt;
　むしろ、私も本書ではじめて知りましたが「バロック」という概念を音楽史において用いること自体に長い間異論が唱えられていたらしく、その結果、本書はまず第一章で「バロック」という言葉の音楽への適用について、ついで第２章において「バロック」という言葉の音楽史記述への導入について、それぞれその妥当性と妥当な範囲を説明するところから始まり、そのあとに「バロック」という言葉の意味の説明と、分量は少ないものの非常に丁寧に論を進めており音楽史における時代（様式期）区分というものの意味や妥当性が良く理解できるようにできているので、むしろ最初にこちらを読んだほうがよいような気もします。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt; 内容メモ（本当に覚書です） &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;第一章&lt;br /&gt;
「バロック」という言葉は３つの用法で用いられてきた。&lt;br /&gt;
　１　芸術における様式　あるいは様式期&lt;br /&gt;
　２　一人の芸術家もしくはその作品の特定の個性的な特徴を表示（形容？）する為の恣意的な適用&lt;br /&gt;
　３　人類史における周期的な現象（停滞もしくは退潮期にある民族や時代の特徴を示す）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;歴史的にみると「バロック」という言葉は特定の心情的・精神的態度の意味を表してきた。&lt;br /&gt;
一般的な慣用において、異常なもの、風変わりなもの、誇張されたものという意味で用いられ、侮蔑的な含みも持っていた。そういうわけで、元々「バロック」という言葉に様式概念の意味はない。&lt;br /&gt;
これが、「バロック」という言葉の音楽への恣意的な適用が行われてきたことの原因。&lt;br /&gt;
この本では１番目の様式史におけるひとつの概念として「バロック」を扱う。&lt;br /&gt;
個人的に３番目の定義は興味深いと思うが、著者は音楽史は過去せいぜい１千年間の西欧文化しか比較の対象と為しえない以上意味なしとして切り捨てる（至極真っ当…）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;第二章&lt;br /&gt;
音楽史において様式期の呼称として「バロック」が一般に認められたのはようやく１９２０年代。&lt;br /&gt;
クルト・ザックスが造形芸術における用語法と考察方法を音楽史に適用し、ドイツ音楽史の記述に導入したのが決定的な契機となった（もともと美術史、そしてその影響を受けた文学史の影響による）。&lt;br /&gt;
イタリアの音楽史家がこれについては最も強く反対したらしい。&lt;br /&gt;
こうした反対論の背景には２重の問題があり、１つはバロックという言葉が各国の言語において様々な意味と副次的な意味を持っていることから生じる言語上の問題、もうひとつは諸芸術の同時性についての見解から生じる歴史上の問題（要は他の芸術との間に同時性があるのかという問題）。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;第三章　美術史論としてよくまとまっており非常に興味深い一章&lt;br /&gt;
ひとつの芸術様式を表す名称としてはディドロ『百科全書』（1750）で「バロック的」という形容詞として建築術に適用されているのが最初。その際、既に上述３の意味の軽蔑的なニュアンスが含まれており、これは１９世紀を通じて造形美術と文学に利用されてきたが音楽には無縁であった。&lt;br /&gt;
まあ、全共闘の皆さんが「保守反動」とか「ファッショ」とか言うのと同じようなレッテルとして使われてきたようなものなのでしょうね…（『百科全書』のこの部分を書いたのはあのろくでなしの狂人（ジャン･ジャック・ルソー）とのこと。電波文書と不幸の手紙以外は書けないと思っていたが稀にそこそこまともなものも書くのだな…と妙に感心する）。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;さらにその後バロックという言葉が明確な芸術上の業績と様式を表すものになって後、バロックを反宗教改革（イエズス会）の芸術と位置づけるという回り道をして音楽史にも適用されうる環境が整った。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ルネサンスの芸術からバロック芸術への移行は、内容もモティーフもルネサンスの物を継承して始まった。変わったのは価値感である。&lt;br /&gt;
ルネサンスの中庸を得た思慮深さ「エトス」に対し、「パトス」過度にわたる狂信的熱意、快楽的苦行、暴力的自己訓練、神秘主義的自己放棄がとって変わった。この根底には知覚しうる世界の描写から魂の解釈に向かう芸術の方向性の転換がある（表示し、教示し、説教し、回心させ、説得する芸術へ）。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/9755528.html</link>
			<pubDate>Mon, 29 Aug 2005 12:11:21 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>エミール・マール『ヨーロッパのキリスト教美術―12世紀から18世紀まで〈上・下〉』（その２）</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h3&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;エミール・マール『ヨーロッパのキリスト教美術―12世紀から18世紀まで〈上・下〉』（岩波文庫,1995）（その２）&lt;/h3&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;前回の続き　個人的な備忘録にするものです&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;しかし、著者が異様にカトリック（しかも最低なことにジュズイット…）に入れ込んでるのでなんかカトリックに厳しいコメントが多くなります。&lt;br /&gt;
教義論争ではどう見ても歩が悪いから仕方ないけど。&lt;br /&gt;
しかし、教義がより論理的に筋道とおってるからといって、それに比例して信徒の行いがまともになるとはまったく限らんのは新教徒の行状見れば嫌になるほどよくわかるのだが…特にカルヴァン（長老）派とか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt; メモ（本当に覚書です） &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　中世末期の美術は、キリスト、聖母、諸聖人を賛美し、ついで人間に向かいその運命にかかわる全ての事柄―悪徳、美徳、死、苦痛、報い―を呈示し、その果すべき努めを説く。中でも死が特徴的である。&lt;br /&gt;
　１３世紀においては死は題材として取り上げられること自体少なかった上、清純で甘美なものとして描かれていた。１４世紀末、シャルル６世の時代に急激な変化が起き、屍を彫刻として表現する上でリアリズムが現れてくる。その後写本にも影響があらわれる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　死の舞踏（ダンス・マカブル）。一人の死者と一人の生者よりなる彫刻だが現存せず版画で推測するのみ。死神でも死の寓意でもなく死者、これから生者がなろうとするものである。死者は骸骨ではなくミイラのような姿をしている。死者の台詞は辛辣な風刺であり、教化のための説教に風刺にとって替わった。特に聖職者に対する厳しい批判を含む。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;・トレント公会議以後&lt;br /&gt;
　反宗教改革の芸術を学ぶときには新教徒のことを考える必要がある。新教徒の攻撃にさらされたが故にその教義を擁護する必要がある（正しいかどうかはまったく関係ないらしい…本当に救いようが無いなぁ）&lt;br /&gt;
　聖母崇拝もつまるところ新教徒が激しく非難したが故に異様な情熱を以って擁護されたわけで、著者自身も「未だ教義とは呼べないものであったが…」とその無茶苦茶な妄想をあえてロジカルに説明しようとはしていない…聖母崇拝の擁護のために作られた芸術作品が素晴らしいから結果的に正しいというような主張とも受け取れる（これもこれで倒錯しているとしか思えないが…）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　著者曰く「カトリック教会にとって、反宗教改革の時代とは殉教者の時代であった…」。新教徒にとってもまったく同様だったと思うのだがそれはどうでもいい事らしい（異端は人じゃないのだろう…）。で、殉教を描いた絵画の目的は修道士（基本的にイエズス会かドミニク会）の模範とする為―「責め苦の画像は殉教への第一歩」。要はこれらの殉教の絵画や彫刻は共産圏の戦意高揚プロパガンダのポスターと同類ということ。違うのは、美術品としての出来と、前者を賛美しても画集を持っていても実生活上の害は無いが、後者を賛美したりそうしたポスターを集めていると間違いなく危険人物視されて実生活上支障がある事くらいか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この時代に聖人のイメージは大きく変化している。かつては慈悲の業を実践しつつ救いの時を辛抱強く待つ年老いた聖職者が代表的で、奇蹟を行った（という事にされた…というのがより正確だが）。反宗教改革における聖人は奇蹟を行うのではなく存在自体が奇蹟であり、幻視の業に長け法悦の輝きを有している―「神との直接の対話を終えて、別世界の旅から戻ってきた探検者のよう…」―ことで同時代人を驚嘆させ後に賛嘆の的となった。&lt;br /&gt;
　要は電波系ってことだろう。どいつもこいつも目がやばい。図６０スルバラン「アッシージの聖フランチェスコの法悦」がエスパー伊東にそっくりに見えるのは単に私がエスパー伊東のファンだからか？&lt;br /&gt;
　ところで幻視と妄想の差って何？異端・異教徒や無神論者を納得させることの出来る説明は無いのでは？&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この時代において、法悦は斬新な主題。宗教文学への神秘主義の乱入に対応するもの。&lt;br /&gt;
　１７世紀の美術が１５.１６世紀と異なるのは一種の内的な熱狂―神への熱情、熾烈な熱意、自己喪失に至るほどの狂おしい希求、すなわち神による魂の奪取―をあらわしている事による。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　死のイメージの変化。ミイラ化した死体から骸骨への移行が見られる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　守護天使の信心は１６世紀に広がり、１７世紀には一般化した。これも他と同様、新教徒が非難すればするほど熱心に…（疲れる、もうどうでもいい）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　「イタリヤにおいて、１７･１８世紀の芸術家は寓意人物像や擬人化された抽象観念を絶えず表現している。」―チェーザレ・リーパ『イコノロギヤ』（1603）という寓意に関する挿絵入りの辞典がその寓意表現の典拠であり、ベルニーニやその弟子たちのみならずフランスにも大きな影響を与えている。この本が芸術家によるアレゴリーの典拠となるのをやめたのは１９世紀になってから。しかし、それとともにアレゴリー自体が消滅したわけではなく、聖化された記号体系であったものが、近代美術においては一個の精神が創造するものとなっただけのこと。　&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この部の結論として著者曰く「キリスト教会の一部が離脱してゆくのを、教皇たちが空しく見送るという悲劇の時代を経た後に創造された美術は、もはや中世のように、信仰における安息を表現することは出来なかった。この美術は戦い、主張し、論破しなければならなかった。」&lt;br /&gt;
　前段はいいと思うんですけどね、でもどう見ても新教徒を論破は出来てません。むしろ私には聖母崇拝とかの教義上の痛いところ突かれて論破されて逆上して妄想に突っ走っているようにしか思えないのですが…。論戦ではどう見ても歩が悪いので視覚・聴覚などに訴えかけて何とかしようとした、ゆえに芸術にあんなふうになったという説明のほうが正しいのではないでしょうかね～&lt;br /&gt;
　個人的に負けが込んでいる勢力が作る宣伝物っていうのは独特な魅力があると思う。ボロ負けしてるときのソ連のプロパガンダポスターとか、１９４４年以降のドイツのニュース映画とかとこの時代のカトリック美術はおなじ魅力を持っているように思える…&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/9292377.html</link>
			<pubDate>Mon, 22 Aug 2005 12:16:30 +0900</pubDate>
			<category>その他芸術、アート</category>
		</item>
		<item>
			<title>久々に近況など</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h3&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;読書記録の更新が止まっていました&lt;/h3&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;さて、近況報告です&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;このところ読書のペースが落ちています。原因はいくつかあるのですが&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;１）自作パソコンの改造&lt;br /&gt;
２）ネット開通と夏の暑さにより自宅で本を読まなくなった&lt;br /&gt;
３）お盆でお金がかかるので喫茶店で本を読んでない&lt;br /&gt;
４）ＰＳ２のゲーム｢絢爛舞踏祭」を買ってしまった…&lt;br /&gt;
５）不慣れな美術史関係の本なので読むのが大変&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;まあ、こんなところでしょうか&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　昨日、エミール・マールの『ヨーロッパのキリスト教美術〈上・下〉』（岩波文庫,1995）の読書記録を久々に掲載しましたが、一度通して読んでからいくつか調べ物をし、フリードリヒ・ブルーメ『西洋音楽史２　バロックの音楽』（白水社,1992）を通して読み終えてから、もう一度確認のために読み返しながら覚書を作っているので異様に時間がかかります。後者のほうの記録も途中までは作成しているのですがまだ来週になりそうな感じです。&lt;br /&gt;
　これだけ時間をかけてこの程度の理解しか出来ていないのかと笑われるかもしれませんが、私は歴史も美術史もきちんと大学とかで教育を受けたことはないのでまあ勘弁してやってください。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さて、今年はわずかに４日しかなかったお盆休みの内１日を使って「絢爛舞踏際」をようやく遊んでみました。&lt;br /&gt;
　確かにガンパレより進化しているのですが戦闘メインの人間としては暇な時間が多すぎるような気がします。これは私の特殊事情なのですが「百事皆戦闘を以って基準とすべし」（歩兵操典　綱領第一）な人間なもんでしてＲＢパイロットだと第二戦闘配置でもハンガーでずっと待機してたいんですねぇ…&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ちなみに初回プレイでは魚雷の節約のためにタキガワを配置からはずしてＲＢ１機で光国兵３体も簡単に倒して余裕かましていたのですが敵にＲＢ３、戦闘艦艇４が出てきた途端に母艦を沈められてゲームオーバー…ＲＢ２機と魚雷も数発叩き落したのですが残る一機のシールドアタックで即沈没。やはりシールドアタックって強烈ですねぇ。どういうわけか母艦がまったく回避運動しないで止まっているのだから守りようもありません。&lt;br /&gt;
　戦闘のバランスはそこそこタイトですし、「魚雷を惜しんで白兵攻撃」とか「糧は敵中に」なんて感じでとっても貧乏くさくて帝国陸軍みたいなところは大好きなんですけど、セーブしてプレイ再開するまでの時間に応じてゲーム内時間が進むというのは勤め人には辛いところでしばらくお蔵入りですね。&lt;br /&gt;
　あと、陸軍好きとしては物足りないし（陸戦隊もそんなに仕事無い…）、戦争らしさがあまりないし、なんか悲壮感もなくってね…いまのところ感情移入はガンパレの方が高い&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ガンパレみたいに玉砕戦やるの難しそうだし…（昔、茜で１１人戦死―イベントによる死亡は１件もなし―っていうのをやったんですけどね）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/9132065.html</link>
			<pubDate>Fri, 19 Aug 2005 22:31:40 +0900</pubDate>
			<category>読書</category>
		</item>
		<item>
			<title>エミール・マール『ヨーロッパのキリスト教美術―12世紀から18世紀まで〈上・下〉』（岩波文庫,1995）（その１）</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h3&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;エミール・マール『ヨーロッパのキリスト教美術―12世紀から18世紀まで〈上・下〉』（岩波文庫,1995）（その１）&lt;/h3&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt; 総合評価 ★★★★&lt;/b&gt;☆&lt;br /&gt;
&lt;b&gt; （１２世紀から１７世紀の彫刻と絵画を中心に西洋キリスト教宗教美術（といってもカトリック中心、もちろん東方教会は含まれない）の目的や根底にある価値観・世界観・芸術の位置づけといったものを説明した本です。「ヨーロッパの」という題名ですが基本的にほとんどがフランス、イタリアが若干という感じです…） &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt; 概要 &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　著者の本としては国書刊行会から『ゴシックの図像学〈上・下〉』などが訳書として出版されており西洋図像学の大家として有名な人物なのだそうですが、私は他の著作はまだ読んでおらず（というか値段が高いので手が出せない…）、そういう美術に関する教育を受けたこともないもので、今回は基礎知識を得る為にためしに読んでみたというのが正直なところです。&lt;br /&gt;
　後書きによればどうやら著名な４つの著作から抜粋した物を一部書き下ろした文章で継ぎ足したものが本書の原著であるらしく、各部を見る限り記述も一貫しているとは言いがたく短い文章の寄せ集めのようにも見えます。特に冒頭の12世紀に関する部分はその傾向が強く、その次の13世紀に関する部分の６章、歴史のところからようやくまとまった記述が見られるようになり読みやすくなってきます。&lt;br /&gt;
　文庫版でもあるので、もっとわかりやすい解説書のような物を期待していたのですが、そんなわけで実際のところ結構読むのは大変です。図版もかなり多く字も大きく読みやすいのですが、内容はかなり多くの彫刻等の実例を参照しており、図版は本文中で言及されているものの半分にも及ばないのではないかと思います。&lt;br /&gt;
　そういうわけで読み物としてのまとまりには若干欠ける嫌いがあり、専門書の抜粋中心ということで前提となる知識がいろいろ必要（とくに初期キリスト教に関する知識がないと結構つらいでしょう）と万人向けの本であるとはお世辞にもいえません。しかしその一方で後述のように勉強になる部分も多く含まれています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt; 雑感など &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　難癖をつけるとすれば「ヨーロッパの」というタイトルにもかかわらず視点が偏っており、まずフランス中心というかほとんどフランス（ブルゴーニュ公国もまあフランスでしょう。フランドルとかも扱っているけど、イタリアやドイツはフランスとの関係において最低限触れているだけ）、おまけに「キリスト教美術」とあるけどカトリックべったりでおまけにイエズス会大好きでしょうがないらしくマリア崇拝に対して異様に肯定的。私のようにイグナティウス・デ・ロヨラの『霊操』を少し読んで噴出しそうになり必死に笑いをこらえた経験の持ち主としては、今風に言えば｢マリアたん萌え」の妄想家の一人となるでしょうか…&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　しかし、原題を見てみると単に「１２～１８世紀の宗教美術」となっているわけで邦題のつけ方に問題があるようにも思えます。確かにフランスだけではなく多少はイタリアへの言及もありますし、カトリック以外は有象無象の異端どもだから「カトリックだけがキリスト教」ってヘルシング（って漫画の題名です　大好きなんですけどね…）のヴァチカンの皆さんのような強弁も出来ないこともありませんけど…翻訳者がそこまでカトリックを理解してこういうタイトルに故意にしているのならそれはそれでたいしたものだと思うのですがどうなのでしょうね？&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt; メモ（本当に覚書です） &lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;・１２世紀&lt;br /&gt;
美術は修道院の美術であった。&lt;br /&gt;
挿絵入り写本が彫刻に大きな影響を与えている&lt;br /&gt;
図像体系を豊かにしたもの　典礼劇、聖人崇拝、巡礼&lt;br /&gt;
続く１３世紀のための素材の準備&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;余談：コンスタンティヌスだと勘違いしてキリスト教を迷信として一言で片付けた(私の尊敬する）マルクス・アウレリウス像を崇めていた敬虔なキリスト教徒ども！痛快ですなぁ&lt;br /&gt;
　　&lt;br /&gt;
・１３世紀&lt;br /&gt;
極めて象徴的で精神的&lt;br /&gt;
この時代の芸術品を研究するためにはしかるべき方法による必要がある&lt;br /&gt;
　＝ボーヴェのヴィンケンティウスの『鏡』の説くような当時の世界の把握の仕方を知る必要がある　&lt;br /&gt;
　４つの「鏡」―自然、学問、道徳、歴史―があるが主題は歴史。ただし、この場合の歴史とは聖人が織り成す歴史のこと。&lt;br /&gt;
「自然の鏡」　思索するものにとって世界は象徴である。自然を理解すること＝被造物の中に神が篭めた教えを理解すること&lt;br /&gt;
「学問の鏡」　要点不明&lt;br /&gt;
「道徳の鏡」　善は擬人的に（本質として）表現、悪は行為によって表現される（ともに寓意ではある）。ロマネスクの戦闘的・攻撃的な道徳とは異なり、平和と神の内の安息を徳の目的としている。&lt;br /&gt;
「歴史の鏡」　当時、聖書は歴史であり象徴でもある（歴史的、寓意的、譬喩的、神秘的の４つの意味で解釈することが出来る）と考えられていたらしい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;教会の彫像、ステンドグラス、典礼劇は目に映るものしか心に留めない大衆のための、見る百科全書であり聖書であった。大聖堂は無知なる者のための石の書物（のち印刷本の普及により無用になっていく）。&lt;br /&gt;
但し大聖堂によって主題が若干異なる&lt;br /&gt;
　シャルトル：もっとも百科全書的&lt;br /&gt;
　アミアン：預言者的（歴史的）&lt;br /&gt;
　ラン：学問&lt;br /&gt;
　ランス：国&lt;br /&gt;
ヴィクトール・ユゴーの言葉。「中世には、人間がおよそ重要だと思ったことで石で書き綴らなかった物は何もない。」「ゴシックの太陽は、マインツの巨大な印刷機の背後に沈んでゆく…」&lt;br /&gt;
（日本の文豪と呼ばれている人たちとの歴史・人文科学に関する教養の幅と深さの差を痛感する。ついでに、多くの人が書籍を読むよりもテーマパーク、万博、海外旅行に行くことを好むのか若干理解できたような気もする。感覚的理解は信仰にはつながるかも知れないが批判的精神や教養、思考能力にはまったくといっていいほどつながらないのではないかとも思うが…）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;・中世末期（具体的には１４・１５世紀）&lt;br /&gt;
（１３世紀）晴朗な美術⇔（１４･１５世紀）情熱的で悲痛な美術。&lt;br /&gt;
これはフランチェスコ修道会の影響によるもの。典型的なものが『イエスキリストの生涯についての瞑想録』―知性ではなく感情に訴える、自分の時代を基準に勝手に福音書を妄想で膨らましたようなシロモノ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;宗教劇も『瞑想録』の影響を受けている。１３８０年代から写本挿絵における天使の服装が急激に変化し、特定の時代を示さない白い長衣から侍祭の祭服になる。これは当時の聖史劇での役者の服装であり、この時代の絵画やステンドグラスは聖史劇を書き写したものに他ならない。聖史劇自体には文学的価値もなく大衆向けの感情的な見世物に過ぎないが、それが絵画や彫刻などの宗教芸術全般に与えた影響は大きい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;取り扱う題材自体は変化していないが、芸術の目的が変化している。１３世紀にはキリスト教の光り輝く面を表現することが芸術の主題であったが、１５世紀においては（受難や殉教における）死と苦しみを描き出すことが中心的な目的となる。これは知性に向けて教義を教えることから、感情に働きかける激情的な効果を目的とした為（著者はこのような変化に対しては否定的―不思議なのはフランチェスコ修道会に対しては否定的でイエズス会には肯定的なところ…）。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;この時代において聖人崇拝は非常に盛んであり、それに伴い芸術の分野においても聖人も多く取り上げられている。１５世紀の初頭に聖人の外観に大きな変化があり、服装は当時の流行に合った物に変わり、印象も神々しさから親しみやすさに、そして顔つきも一般的なフランス人風にと変貌を遂げる。この時代に諸聖人は非常に親しみやすい存在となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;これらの傾向を生み出した原因として著者はペストの流行をあげている。ペストが死と苦痛をまざまざと見せつける前では、知性に訴えかけ教化を図るような芸術がもたらす知恵は無力であり、大衆は死と苦痛は救世主も受けたという説明による安心（どうしてそうなるのかはアンチクリストの私にはまったくわからないが…）と、疫病や突然の死から守ってくれると信じることができ縋る事の出来る存在としての聖人を身近に必要としたことによる（聖ロックはその典型、聖女バルバラなんかも同じように火薬の発達がもたらした突然の死の可能性の増大に対する同様の反応）　　　　（つづく）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/9065620.html</link>
			<pubDate>Thu, 18 Aug 2005 22:11:49 +0900</pubDate>
			<category>その他芸術、アート</category>
		</item>
		<item>
			<title>ＧｅｏｄｅＮＸ１７５０＋ＥＣＳ７４１ＧＸ－Ｍ動作報告（３）</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h3&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;ＧｅｏｄｅＮＸ１７５０＋ＥＣＳ７４１ＧＸ－Ｍ動作報告（３）&lt;/h3&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　結局、コア電圧は１．３９Ｖから下がらなかったのでやむなくＬ１１のブリッジ加工に手をつけてしまいました…手先の器用さには自信がないので避けていたのですがこうなってはやむを得ません。&lt;br /&gt;
　とりあえず、現状１．４２５Ｖとなるべきところが１．３９Ｖなのでブリッジを２箇所オープンして１，２７５Ｖになるようにすれば丁度１．２５Ｖ付近になるだろうと考えて、１番と２番のブリッジをルーペ片手にカッターで加工してみました。&lt;br /&gt;
　ちなみに参考にしたのはこちらのサイトです↓&lt;br /&gt;
&lt;a href=&quot;http://jpctips.no-ip.com/parts/CPU/bridgeopen.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://jpctips.no-ip.com/parts/CPU/bridgeopen.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ブリッジの切断というと配線に対して垂直方向に切るものだと思っていたのですが同方向に削るほうがいいのですね…非常に助かりました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　とりあえず、加工は無事に成功。早速ＰＣに戻して起動を試みますが多分ＦＳＢ１６７ＭＨｚとなっていた為でしょうか起動せず、早速ＣＭＯＳクリアしてみると今度はきちんと起動します。&lt;br /&gt;
　ＢＩＯＳ上のコア電圧は１．２４Ｖ。ＦＳＢは１３４ＭＨｚ、メモリクロックは１６７ＭＨｚ（４：５）に設定してみるとWindowsもきちんと起動しました。Ｅｖｅｒｅｓｔで見てみるとコア電圧は１．２５Ｖ、メモリクロックも１６７ＭＨｚとなっています。しかしどういうわけかｓｕｐｅｒπの３３５５万桁は完走できません…かならずエラーが生じて途中で止まってしまいます。ＯＳのフリーズとか落ちるとかいうことは一切ないのですがどういうわけでしょうか？ＣｒｙｓｔａｌＣＰＵＩＤのＭｕｌｔｉｐｌｉｅｒＭａｎａｇｅｍｅｎｔの動作は１０．５倍：８倍：６倍で問題なく行われているようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ちなみにおまけでついてきたＢＩＯＳを入れるとＦＳＢの１ＭＨｚ単位での設定が可能になるようですのであまり意味はありませんがどこまで起動可能か調べてみました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　１６７ＭＨｚ　起動せず&lt;br /&gt;
　１６０ＭＨｚ　起動せず&lt;br /&gt;
　１５５ＭＨｚ　Windows起動途中でフリーズ&lt;br /&gt;
　１５０ＭＨｚ　Windowsも起動　特に問題なく１０．５倍で動作&lt;br /&gt;
　　　　　　　　ただしＳｕｐｅｒπは完走せず（１３４ＭＨｚでも完走せず…これは別な原因でしょう）　&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　これを見ているとさらに倍率変更部分のブリッジを改造したらＦＳＢ１３４ＭＨｚ×１２倍くらいまではいけるのではないかとも思えますね。ブリッジクローズの練習にやってみるかな…&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ちなみに冷房なし、室温３０℃超、扇風機なしの環境でＦＳＢ１３４ＭＨｚ、１０．５倍（約１．４ＧＨｚ）動作を５時間ほど続けてもＣＰＵ温度はＢＩＯＳ上で５３℃くらいでした。充分実用可能だと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　しかし問題は電源です。はっきりいってＣＰＵより電源とＨＤＤの発熱のほうが圧倒的に大きいようでそれらが収まっているケースの上部だけに熱がこもってしまいます。原因の大半は電源で、エアフローが絶対的に少ない上に、ケース背面方向についている小型の排気用ファンがほとんど機能しておらず、電源の中を通過した熱風のほとんどがそちらではなく電源の反対側（ケース前面側）の穴から出てＨＤＤに吹きつけているような状況です。ケースファンを使用しているとこの辺の発熱も全く気にならなかったのですが、８ｃｍ×２というこのサイズにしては強力なケースファンの性能に依存している構造になっているというのがよくわかりました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そういうわけで最近はケース上面のふたを開けて電源・ＨＤＤ丸見えの状況で使用していることが多くなっています。いちおうマザーボードを格納しているスペースとの間は鉄板一枚で仕切られているので多少のホコリよけにはなるのですが、近いうちに手を打つ必要があるようです。&lt;br /&gt;
　やはりもう少し大きくなってもＡＴＸ電源を搭載可能なケースにして電源の１２センチ以上の大型ファンでエアフローを確保するという方法のほうがよかったようです。ケース買い換えるかなぁ&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/8760977.html</link>
			<pubDate>Sat, 13 Aug 2005 22:37:36 +0900</pubDate>
			<category>パソコン</category>
		</item>
		<item>
			<title>ＧｅｏｄｅＮＸ１７５０＋ＥＣＳ７４１ＧＸ-Ｍ動作報告（２）</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h3&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;ＧｅｏｄｅＮＸ１７５０＋ＥＣＳ７４１ＧＸ-Ｍ動作報告（２）&lt;/h3&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;さて、先日ＴＷＯＴＯＰで購入したＧｅｏｄｅ対応ＢＩＯＳ付ＥＣＳ７４１ＧＸ-ＭとＧｅｏｄｅＮＸ１７５０での動作状況の報告です。システム構成に変化はありません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;・ＦＳＢについて&lt;br /&gt;
　ＢＩＯＳの設定を１６６ＭＨｚではなく１６７ＭＨｚにしたらＣｒｙｓｔａｌＣＰＵＩＤでは３３４.１１ＭＨｚと表示されています。&lt;br /&gt;
　さらに欲張って２００ＭＨｚと設定してみると起動しなくなります…&lt;br /&gt;
　ＣＭＯＳクリアして再起動しました&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;・コア電圧の下限について&lt;br /&gt;
　価格ＣＯＭのＥＣＳ７４１ＧＸ－Ｍの口コミをみて試してみました&lt;br /&gt;
　ＣｒｙｓｔａｌＣＰＵＩＤで起動時１.２５Ｖになるのですが手動で１.１Ｖとか設定できます。&lt;br /&gt;
　で、設定変更も反映されているようでちゃんとＫ６／Ｋ７／Ｋ８ＭｕｌｔｉｐｌｉｅｒでＣｕｒｒｅｎｔの表示は１.１Ｖになってます。店員は１.２４Ｖまでしか下がらないといっていたのですが…まあ良いことなので文句はありませんけどね。&lt;br /&gt;
　で、この辺の低電圧耐性については詳細はまだ試験しておりません。今後も予定無いので誰か興味がある人お願いします。&lt;br /&gt;
　いやー高価なＴｙａｎ製マザー買わなくて済みそう…&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;・負荷試験とか&lt;br /&gt;
　前回の構成でＣＰＵファンなしケースファンあり、１６７ＭＨｚ×１０.５倍でＳｕｐｅｒπ３３５５万桁は１時間３分１８秒で完走しました。&lt;br /&gt;
　この程度のヒートシンクで充分ＣＰＵのファンレス駆動は可能と考えます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;・さらにチャレンジ&lt;br /&gt;
　現在ケースファンもはずしてしまいました&lt;br /&gt;
　一応安全のためにＢＩＯＳで６５度を超えたらシャットダウンするように設定していますが１０.５倍を維持していても５６度前後までしか温度は上がらないようですからケースファンも不要なようです。&lt;br /&gt;
　ちなみに私の部屋には冷房も扇風機も置いていません…&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;というわけでいまのところ全て予想以上に順調&lt;br /&gt;
このＢＩＯＳのことを「Ｇｅｏｄｅって表示されるだけ…」って言っていたのは多分過小評価でしょう。&lt;br /&gt;
電子工作とかやらずに手軽にここまで出来ればまあ数千円の割増の価値はあったように思います。まあもう少し検証は必要でしょうがね。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;さて、今度は電源の発熱とＨＤＤの動作音が気になり始めました&lt;br /&gt;
ＳＥＡＧＡＴＥは良くないのかな？&lt;br /&gt;
それともいっそノート用ＨＤＤに変更するか&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;あとＳＦＸで200Ｗ位で高効率で発熱が少ないファンレス電源ってなんかないかなぁ…&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h3&gt;&lt;a name=&#039;section-2&#039;&gt;&lt;/a&gt;2005.08.05 追記&lt;/h3&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ご指摘を受け仕事から帰宅後Everestでコア電圧を確認してみたところ１.３９ｖのまま…&lt;br /&gt;
一応１.２５Vまで下がるはずなのですが、どうもマザーボード側で対応していないようです&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ＢＩＯＳの更新ももう一度やり直してみましたがやはり変化なし&lt;br /&gt;
というわけで、ＭｕｌｔｉｐｌｉｅｒＭａｎａｇｅｍｅｎｔでクロックを変更できるようになった以外は特にメリットないみたいですね…&lt;br /&gt;
お騒がせして申し訳ありません&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/billaud_varenne/8201697.html</link>
			<pubDate>Thu, 04 Aug 2005 23:59:31 +0900</pubDate>
			<category>パソコン</category>
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