|
ものには色々な見方がある。
見る人によって、見る位置によって見え方が違って来る場合もある。
例えば歴史認識。
「従軍慰安婦」にしろ「南京大虐殺」にしろ、真実は一つであるはずなのに様々な解釈がなされ肯定派と否定派は平行線を辿っている。
地球温暖化とかレジ袋有料化とか、昨今、ヒステリックなまでにメディアを賑わせている環境保護への取り組みもその一つだろう。
「地球に優しい」とか言う言葉はまことに耳障りが良く、
協力することは善で、それを否定することは非常識な野蛮人の如く蔑まれる傾向がある。
僕自身、レジ袋には多少の疑問があったものの、ゴミはちゃんと分別するし、温暖化にも少なからず協力を惜しまない気持ちはある。
国が推進し、メディアが挙って報道することを信じているからである。
だが、最近少し見方が変わってきた。
そうしたブームに警鐘を鳴らす本を数冊読んだからだ。
特に武田邦彦著「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」と、
池田清彦著「環境問題のウソ」は衝撃的だった。
もちろん、彼らの論が100%正しいとは思わない。
環境保護を訴える人たちの論が100%正しいとは思わないように。
3月に読んだ時は本屋の片隅で埋もれていた武田教授の本が、今はどの本屋でも目立つ場所に積まれている。
よみうりテレビの「たかじんのそこまで言って委員会」で紹介されたお陰で25万部も売れたらしい。
なのにメディアは相変わらず国の政策をフォローするばかりで、何故、疑問を取材しないのかと不満を感じていたら、当の「たかじんのそこまで言って委員会」が、武田邦彦教授と推進派の細田衛士教授を真っ向対決させてくれた。
ペットボトルのリサイクルだけに終始し消化不良だし、リサイクル率の数字にしたって出される数字が違うからどちらが正しいかなんて判断しようがない。
違う主張が平行線を辿るばかりだから、不毛と言えば不毛だ。
ではあるが、メディアとしてはひとつの役割は果たしたと思う。
つまり、物事には異なった見方もあるという至極当たり前のことを提示することだ。
国がやることが「全て善」であるなら、この国に不幸な人はいるはずがない。
年金にしろ、談合にしろ、国の「いい加減さ」は皆分かっているはずなのに、こと環境問題になると、仰向けでバンザイする猫のように全てを受け入れてしまう。
「地球に優しい」とか「地球を守ろう」とか、耳障りの良い言葉にコロッとやられてしまうのだ。
「良いこと」のためには協力を惜しまない人が多い、本当に良い国民性だと思う。
大臣たちが似合わない「かりゆしウエア」を嬉しそうに着ていても揶揄することもない、真に良い国民なのである。
だから、番組の出演者たちも結局は、環境保護を推進する論調に賛同することになる。
当たり前のことである。
これまで健気にやってきた「ゴミの分別」が無意味だと言われても、ペットボトルは「ほとんどリサイクルされていない」なんて言われても、俄に信じられないし信じたくないのが素直な感情だろう。
「ゴミの分別」なんてすっかり習慣化されているから、今更、生ゴミも缶も一緒に棄てる方が不自然で落ち着かない。
大切なことは、「疑問をもつこと」だと思う。
この世に起こっていることに、国が進めていることに、疑問を持つことなのだ。
お上がやることが全て正しいとは限らない。
それに気づくことなのだ。
分別するためにゴミの収集回数が増え、その分人件費も燃料費も増えている。それこそ税金と資源の無駄遣いだ。
レジ袋なんて、石油の滓で作っているのだから寧ろ資源の有効利用だ。エコバッグと称して新たに作ることこそ資源の無駄遣いだ。
70年代には、CO2の排出が増えているにも関わらず気温は下がり「地球寒冷化」が懸念されていた。地球の気温を左右するのはCO2ではなく太陽の活動の変化だ。
一体、何が正しくて間違っているのか・・・
政策あるところに利権あり。
それが耳障りの良い言葉で隠されてはいないだろうか・・・
誰もが反対しにくい「環境保護」の美名の下に、薄汚い利権が隠されてはいないか・・・
メディアの力が試されている。
ニーチェは、こう言った。
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけだ・・・」
解釈は、それぞれに委ねられている。
|